例えば、お見舞いとは言えども病床の方のお写真を撮るのは、とてもデリケートなことではないかな、と思うんですね。人によっては、そういう姿を記録に残すことも、人に見られることも、忌避するでしょうから。
 それと同じです。わたしがしていること、わたしがしようとしていること。それは、隠岐国分寺を島のシンボルとして大切に思ってきた、島の人々に対する不敬にあたらないのか、と。そんな思いが、わたしの中でずっと凝っていました。もちろん、だからといってお金で贖罪する。これもどうか、とは思います。でも、それでも何もしないよりはましではないか、と。
 ポケットに入れていた拝観料300円。それを握り締めて、ご住職が玄関先まで来てくださるのを、ほんのわずかな間、待ちました。

 「あの、拝観料を...」
 深々と額ずかれたのち、顔をあげられたご住職に向けて、わたしは最後まで言葉を続けられませんでした。静かで、張り詰めた、でも何処かやわらかな緊張感が漂う玄関先で、早くも上擦ってしまった声と、滲みだす視界。
「...贖罪のつもりが泣くなんて」
 そう、自分自身に頭の中で言い聞かせようとしたのですが、だめでして。そして気づけば、ご住職もまた、泣いていらっしゃいました。

 拝観料を払わせて欲しい、と言うわたしの申し出に、ご住職はただ手と首を振るのみ。
「でも、こんな時に呑気に観光に来るなんて、無神経だと思っています」
 それでもご住職は何も仰らずに、ただ両手を合わされて首を振り続けます。そのまま無言の押し問答のような間が過ぎて、結局わたしが引き下がりました。
「...ありがとうございます」
 通常時に拝観料をもらうことさえ“不本意”と思われていらっしゃるのですから、ご住職もまた譲れないのだろう、と伝わりましたよし。...そして同時に、わたしが申し訳なく思っていることもまた、ご住職には伝わったように感じていましたから。
「島の方にお加減があまり宜しくいらっしゃらない、と伺いました。どうぞお大事になさってください」
 あとはもう、こう言うのが精一杯で、ご住職もわたしも声も出さずに泣くばかりでした。

 まだ溢れる涙を拭いながら、隠岐国分寺の境内を後にします。聖武は、崩壊してゆく天平をどんな気持ちで見ていたのでしょうか。打ち捨てられるだけだった紫香楽宮を、どんな風に思っていたのでしょう。ただ、不都合が起きたから、別の地に執心してしまったから、と簡単に割り切れ、そして忘れてしまえたのか、と。
 かなり感傷的な捉え方だな、と自分でも思うのですが泣いておられた隠岐国分寺のご住職の姿は、何故だかわたしの中の聖武と重なってしまうものでした。そして同時に無力にして、しなやかな強さを持つ人間そのものの姿でした。

 隠岐再訪。いつかきっと、その日は来てくれるでしょうし、そうしてみせます。そしてその時、この地にまた蓮華舞と本堂、ご住職と島の方々の笑顔が戻られますように。
 山門を潜るとき、今はなき本堂に向かって手を合わせ、祈りました。いつか、必ず。

 言挙げす 海いかへらば春あるごとくに  遼川るか
 (於:隠岐国分寺境内)


        −・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−

 車に戻ってしばらく、膝を抱えて縮こまってしまったわたしがいました。理由はよく判りません。上陸してからずっと感じている“旅という恐怖”がかなり膨れ上がっていたこともあります。また、国分寺で感じてしまった独り、という現実もそうです。そして、知るという痛みと、知らないという罪と。
「...ああ、本当に呑まれしまっているのだな、隠岐に」
 ぽつん、と独り言が洩れました。この日、訪ねたいポイントはあと2つ。
「最後までもって欲しいな...」
 怖いものは怖いのだから仕方ありません。何とも弱気ではありますが、これが率直な思いでした。

 車はどんどん最初に上陸した西郷港方面へと走ります。夕方近くなって、ようやく少し雲が切れ始め、わずかに射し込む春の西日。道幅も広くなり、見通しが良くなった視界に、鳥居とこんもりとした木々の陰が迫ってきました。
 隠岐国。この一ノ宮はすでに訪ねた水若酢神社であることはすでに書きました。けれども、他の多くの国と同様に隠岐には、一ノ宮とは別に、総社も存在しています。

 総社。わたし自身、どこまで明瞭に理解し切れているのか、はかなり疑問なのですが、とにかくかつて日本の中に定められていたそれぞれの国。例えば武蔵国であり、大和国であり、山城国であり。そういった各国に、総社と一ノ宮はほぼ存在していました。
 一ノ宮は一、というのですから当然、一ではない宮もあったわけで、通常は一ノ宮から六ノ宮、多いところでは九ノ宮まであったようです。但し、これらはすべて朝廷による律令なり、何なりによって公的に認定されていたものではなく、あくまでも諸国内で神社の格付けをしていた結果です。

 そもそも、平安期最初の天皇である桓武の時代には、すでに伊勢神宮を始めとした、各地の特定神宮・神社にその年の豊作を祈願して幣帛、...簡単に言ってしまえばお供え物を奉じる習慣があったようです。そして、その対象となる神宮・神社を正式に制度としたのが十六社制。...醍醐天皇の時代のことです。
 やがて、この十六社がさらに増え、二十二社制となったのが一条朝でのこと。...源氏物語が書かれた時代、と言えばイメージしやすいでしょうか。そして、その頃には諸国もそれを真似て、自国内の神社・神宮を格付けしたのが一ノ宮から六ノ宮(九ノ宮)、ということですね。ですから、朝廷より正式に認定されていた制度ではない、風習だったのだ、と。

 ただ、少々ややこしいのが時代をほぼ同じくして、朝廷により編纂されたのが延喜式。この中の延喜式神名帳は、全国の官社を一覧にしたものでした。因みに官社とは色々と詳細がありますけれど、大筋で語ってしまうならば当時の朝廷から重要視された神社・神宮。そう考えてしまってもいいと個人的には思っていますが、ともあれその一覧。各神社を社格によって4分類していまして。官幣大社、国幣大社、官幣小社、国幣小社、と。
 大小に加えて官=中央に対し、国=諸国を意味します。現代で言ったら政府と都道府県レベルの自治体の違い、といったところでしょう。
 いずれにしても、判ることは当時、中央も諸国もとにかく神社・神宮を様々に格付けしていたということで、個人見解ではこれも神仏習合の結果のひとつなのかな、などと愚考していますけれども。諸国の一ノ宮の殆どは延喜式神名帳に記載されていますし、社格も多くが大社とされていますね。

 その一方で、やはり諸国に存在している総社。惣社とも書きますが、こちらは一体どういう存在なのかと言いますと、中央から派遣されて諸国に赴任した国司が、本来ならば一ノ宮から六ノ宮(九ノ宮)を詣でなければならない処、ぶっちゃけてしまえばその手間を省いて赴任した国に存在しているすべての神社・神宮を詣でたことと同義・同等とできるお社。そういう意味合いで建立されたのが総社です。なので、総社は得てして国府の近くに建てられた、というわけですね。
 いやはや、個人的感想を差し挟んで恐縮ですが、そもそも神様を格付けする、というのもいまひとつ判ったような、判らないような感覚ですし、ましてや
「この神社に参拝すれば、すべての神社を参拝したことにできる」
 などというジョーカー。そう、まさしくジョーカーが存在してしまう感覚も、わたしにはとんと判りません。それともう1つ。格付けすれば大と小、高と低、などの格差が当然ですけれど発生します。しかもその格付けの仕方が様々だったとなればその後に起こりそうなことは推して知るべし。想像に難くはないでしょう。

 

 車を降りて鳥居を潜ります。先に訪ねた水若酢神社もそうでしたが、とても神社らしい、
そう。本当に古式ゆかしきお社らしい、お社が視線の先に見えています。お社の名前は玉若酢命神社。この隠岐国の総社、です。
 境内には、樹齢千数百年と謂われる八百杉が堂々と鎮座し、また裏手には古墳群まであります。伊未自由来記に登場する海人ではないですが、位置的にも恐らくは出雲側からこの島に到達した人々が、古墳文化を持ち込んだのかもしれませんね。

 そう思ってしまった理由は、八百杉です。国指定の天然記念物に定められているこの杉。実際に両腕を広げて抱きしめようとしましたが、もちろん無理です。幹の直径が20mにものぼるというまさしく巨木。しかもこんな伝説に彩られていました。
 1つは若狭湾周辺の各地に点在している八百比丘尼伝説に因んだもので、曰くこの樹の苗を植えたのが彼女だった、と。
「八百年経ったらこの樹を見に来るから」
 そう言い残してこの地を去ったとされる比丘尼のその後は、隠岐の伝説で語られてはいないようですね。

 

 余談になりますが、この八百比丘尼。八百杉の伝説とは直接的には無関係なのでしょうが、隠岐に伝わる別の説話では、あの美豆良麿と恋仲だった、比等那公娘こそがその人である、というものがあります。本筋からは離れてしまいますが、興味深いので概略だけ。
 すなわち、美豆良麿の他界後、比等那公娘は髪を下ろして出家。せめて美豆良麿の母親に遺骨を、と大和へ旅立ちます。隠岐から若狭に渡り、一路大和へ。一方、大和には人麻呂がいたようには語られていませんが、人麻呂の妻がいました。...はい、覚えておいででしょうか。すでに引用している万葉歌から、美豆良麿の生母は彼がまだまだ乳飲み子のうちに病死してしまっていることが推測できますよし、ここで言う母とは彼を育てた人麻呂の別の妻、ということになるでしょう。

 夫の母と会った後、隠岐へ帰ろうとした比等那公娘は結局、若狭に留まり続けることになってしまいます。それは、彼女の徳の高さがすでに広く知れ渡り始めたためで、若狭にて多くの尼僧を育てながらも、隠岐へはついで戻ることがなかった、と。
 どうなんでしょうね。大和出発前に、八百杉を彼女が植えたとしたならば繋がるお話ではあります。...もっとも、このあたりはもう歴史が云々というよりも寓話にしてロマンの世界ですから、ご紹介するだけに留めますが。

 ごめんなさい、脱線していたお話を八百杉に戻します。この巨木に纏わる伝説のうち、注目したいのはもう1つの方でしょう。曰く、八百杉がまだ若木の頃、大蛇が根元で眠っていたところ、杉が生長して大蛇を幹の中に閉じ込めてしまった、というもの。だから、今でも幹に耳を当てると大蛇の大いびきが聞こえるのだ、と。
 ...杉の神木と大蛇。この取り合わせには既視感があります。いや、もっとはっきり言ってしまうと既視感どころではなく、明確にあるものを髣髴とさせてしまっています。そう、大和国は大神神社の神杉です。

 大神神社のご神体・三輪山と、その守り神たる大物主神の化身とされる大蛇を祀った巳の神杉。恐らくは水神信仰の流れを汲んだものであろう、と推測できるということは「あきづしまやまとゆ」「あきづしまやまとゆ・弐」で書きました。また、その神は出雲から鎮座したものであることも、です。
 たまたま隠岐へ来る前に立ち寄った出雲で、地元の学芸員の方が
「八俣のおろちは斐伊川のことだった、とされているんですよ」
 と仰っていたのを聞いて、随分とびっくりしたものです。だって、それなら筋が通ってしまいますから。

 つまり、おろちを退治した素盞嗚尊とは治水を果たした者、ということになりますし、その素盞嗚尊の息子である大国主の和魂が大物主にして、大和国で最も神聖なる地のご神体ともなっている、と。...お判りでしょうか。これら全てに通じるものは水神信仰そのものですし、逆を言えばこういったより自然信仰に近いものほどより古代の土着信仰に根差していることは、容易に推測できます。
 一方、ここ隠岐の八百杉伝説はどうやら水神信仰とは直接的に結びついていないようです。むしろ別の地の伝説が、伝播・浸透・定着の後に結果として焼き直されたもの、として見るのが穏当だと感じます。恐らくは八百比丘尼に関わるものも同様でしょう。ただ、そうであったならば、それは確実に本土側からの影響を受けていることにほかなりませんよし。

 そろそろ、頭の中が混乱し始めていました。いや、何にどう混乱した、ということではないのですけれども。ともあれ、参拝を済ませます。拝殿までゆき手を合わせます。拝殿に掛けられた太く立派な注連縄。
 隠岐という群島に、最初に興味惹かれたのは前述している通り、記紀の国生みがきっかけです。そして、あの時に生まれた隠岐は、こう名付けらています。

|御合して生みし子は、淡路之穂之狹別島。次に伊豫之二名島を生みき。この島は身一
|つにして面四つあり。面毎に名あり。かれ、伊豫国を愛比売と謂ひ、讃岐国を飯依比
|古と謂ひ、粟国を大宜都比売と謂ひ、土左国を建依別と謂ふ。次に隠伎之三子島を生
|みき。亦の名は天之忍許呂別。
         「古事記 上巻 伊邪那岐命と伊邪那美命 2 二神の国生み」再引用


 はい、「天之忍許呂別/あめのおしころわけ」と。現代の辞書にも記載しているものがありますけれど、別と書いてわけ、と読むのは、古代の姓を表しているんですね。皇族出身者が地方官として下って、その土地の名を冠していた、ということ。なので、天之忍許呂が隠岐を表し、別が現代の言葉ならば臣籍降下とか、皇籍離脱者であることを表している、ということです。
 記紀にもこんな記述があります。

|夫れ天皇の男女前後并せて八十の子まします。然るに、日本武尊と稚足彦天皇と五
|百城入彦皇子とを除きての外、七十余の子は、皆国郡に封させて、各其の国に如かし
|む。故、今の時に当たりて、諸国の別と謂へるは、即ち其の別王の苗裔なり。
                「日本書紀 巻7 景行天皇 景行4年(74年)年2月」

|凡そこの大帯日子天皇の御子等、録せるは廿一王、入れ記さざるは五十九王、并せて
|八十王の中に、若帯日子命と倭建命と、また五百木の入日子命、この三王は太子の
|名を負ひたまひ、それより余の七十七王は、悉に国々の国造、また和気、また稲置・県
|主に別けたひき。
                    「古事記 中巻 景行天皇 1 后妃皇子女」


 さて、すでに水若酢神社について書きました。そしてそこで触れた伊未自由記にこう記されているのだそうです。

|美豆別之主之命。又の名小之凝呂別命・水別酢命・瑞別主命
                          金坂亮「伊未自由来記聞書」
                 ※焼火山公式ホームページよりの孫引きです。


 お判りでしょうか。つまりこの記述を信じるならば水若酢神社の“若”は“別”と同義となります。そして、水若酢神社がそうならば当然、ここ・玉若酢命神社もそうのでしょう。前述している“天之忍許呂”も「天の小之凝呂」とするならば、...と。まあ、大前提として伊未自由の記述であることを忘れない範囲で、ですけれども。
 いずれにせよ、とりあえず今、手元にある状況証拠を並べるに水若酢神社の祭神・水若酢命も玉若酢命神社の祭神・玉若酢命にしても、天つ神が中央からこの地に天降りしてなる国つ神ですよ、と言っているのだと思います。そして水とは“瑞”、玉はそのまま玉ですから美称の接頭語たちともなりますか。いやはや八百杉に纏わる大蛇と比丘尼と、そしてそもそもの祭神と。すべては本土側から齎されたもの、といったところでしょう。

 ただ、判らないのはそういう本土から齎されたものが何故、この至近距離に2つ。1つは一ノ宮として、もう1つは総社として存在しているのか、と。考えるまでもなく、そういう状態は後に必ずと言っていいほど禍根、あるいは火種となり得ます。そして、ここ・隠岐の主島でもやはり火種から火事のようなものも起こったんですね。
 以下、勝手気ままな思いつきでしかありませんが、前述しているように水若酢命(別名・小之凝呂別命)を天之忍許呂別と関わりがあると想定したとします。一方、玉若酢命の由来もまたさっぱり手繰れませんが、少なくとも玉若酢命神社の社家である億岐家は累代続く、隠岐国造の家です。

           

|意岐国造
|軽嶋豊明朝の御代に、観松彦伊呂止命の五世孫・十揆彦命を国造に定め賜ふ。
                    「先代旧事本紀 巻10 国造本紀」再引用


 先代旧事本紀にこう書かれる家系そのもの、ということで国造から今日まで、連綿と家系が継がれてきているのは、全国でも紀伊国造、出雲国造、そして隠岐のみ、とのこと。ただ、ここで注目したいのが観松彦伊呂止命という存在です。
 手元の古代豪族系図集覧に拠れば、観松彦伊呂止命の父は、天八現津彦命。そして、その天八現津彦命の父、つまり観松彦伊呂止命の祖父は味鋤高彦根命、となってしまっていまして。

 覚えていらっしゃいますでしょうか。そう、伊未自由記にも奈賀の命の父親の名として阿遅鍬高彦根命(味鋤高彦根命)が登場していますし、とするならば水若酢神社の祭神の1座にして、美豆別之主の神(水若酢命)と交代して隠岐を治めた奈賀の命、別名・中言神とは天八現津彦命を指すのではないか、という推測が成立します。そして、その子・観松彦伊呂止命の5世孫が十揆の命として、水若酢命の血筋の伊未自姫を娶って隠岐国造となった...。
 枝葉末節を切り捨てて、客観的に見るならば、流れとしては綺麗だと感じるのを禁じえません。

 水若酢命と玉若酢命。そもそもこの呼称からしても本土渡来のものであることは動かし難いのでしょうが、どんな名前で後に呼ばれるようになったのかは別としても、少なくとも古代のこの地に、自然信仰にも近い土着の神が存在し、けれどもそれらは時代とともに本土から齎される史観の中に取り込まれていった、という考えるのが順当でしょう。
 前述している通り、水若酢神社の宮司家は忌部の流れを汲み、玉若酢命神社の宮司家は国造の家系でもあったわけで、ここに政教の狭間のようなものを垣間見るのはわたしだけでしょうか。

 より神職に近かったのであろう水若酢神社と宮司の忌部家。社家でありながら同時に、隠岐という国を司っていた玉若酢命神社と億岐家。前者は制度としては非公認でありながらも、高い社格とされ、もう後者は時代が下るほど力を蓄え、制度として公認されている総社ともなります。しかも、伊未自姫、という水若酢命の系譜。もっとはっきり言ってしまえば政教の“教”までも、早い段階で取り込んだ系譜として、です。
 古代ほど政教は一致し、時代が下るほど政教は分離します。その決定的な分岐点は、やはり武家社会の到来でしょう。もちろん、それ以前にも神仏習合などなど、土着の自然信仰はそのままではいられ続けない流れに、絶えず晒されていたとも考えられます。

 水若酢命は隠岐近くの海中より出現し、北部の山を超えて飛来した鳥神でした。一方の玉若酢命は竜馬に乗って島後東海岸よりやってきた神、とされているようです。...武家社会の影響が感じられますし、あえて書き記すならば、中央からの派兵そのもの、ともとれます。詳細まではついぞ調べ切れませんでしたが隠岐の主島では、武家が台頭した中世、隠州不慮の錯乱と呼ばれる武装蜂起や隠岐合戦なる武力衝突もあったようで、大勢に対して反旗を翻した人々の首魁として、担ぎ上げられたのは、その時々の水若酢神社宮司だったようです。一方、そういった反乱軍を迎え撃ったのが玉若酢命神社宮司家たる億岐家や、隠岐守護であった佐々木家。
 そしてこの最後の衝突とも言えるものが起きたのは、今からまだたったの100年ほど前。幕末から明治元年にかけての隠岐騒動です。この時の首領も水若酢神社の宮司だった忌部正弘、とのこと。

 土着のものと、渡来するもの。日本という国のどの土地を訪ねても、必ず辿り着いてしまう輪郭です。天孫降臨の立場を逆にしたもの、とも言えますし、かつて訪ねた甲斐でも、上総でも、それは同じでした。
 統合は分裂を生み、分裂は統合を育む。隠岐、いや日本はおろか、この世界全体が繰り返す摂理に従ってきただけなのでしょう。だからそういう世界の摂理そのものに、人の子の分際で哀しみだとか、痛みだとか、嘆きなど、感じてしまうのは人間という生き物が負う、ある種の罰なのかも知れません。あるいは、それすらも自然の摂理なのでしょうか。
 太い太い玉若酢命神社の注連縄。それを成している1本々々の藁たちは何を思うのでしょうね。架け替えられれば、また1本の藁としてのみ在るしかない身と、それでも今はこの隠岐の総社に架けられた注連縄として在る身と。



 簡単に参拝を済ませ、また八百杉の根元に戻ります。急いではいるものの、少しだけ気持ちを整理したくなっていました。それは、人類が残してきた神話なり伝説というものについてです。すでに何度も書いていますが、この国の神話である古事記は、それでも寓話化された実際にあったことを編んだものであって、それ以上でも以下でもありません。もちろん、編まれた当時の風俗や信仰、習慣などを知る学術資料としては別ですが、少なくとも字面に現れているものは、寓話化された出来事でしかなし。
 何故ならば、神なんて存在していませんから。いや、いるかも知れない可能性を絶対の否定なんで誰にもできませんけれど、少なくとも現代まで、誰も見つけられてはいませんよし。そして、天皇氏の正統性を高めるがために編まれた古事記然り、日本書紀然り。

 伊未自由記と穏座抜記。これらの底本となったものを成したのは時代の中で、中央から勢力を少しずつ殺がれ、けれども相変わらずに地元民衆からは崇拝されていた、水若酢神社の宮司・忌部家です。正直、隠岐の創生伝説を読めば読むほど、明らかに感じ取れたのは記紀の影響でした。半島もある、大陸もある、本土もある、そしてそのどこにも“まつろはぬ”隠岐がある。そういう意思と訴えが底流しているように感じられてならない伝説も、哀しいかなやはり古事記の影響下からは抜け出せてはいないのでしょう。...まるで、孫悟空がお釈迦様の指に斉天大聖、と書いたかのようです。
 忌部はこの隠岐に於ける自らの正統性を伝えたかったのでしょうね。現代では古史古伝とされ、あまつさえ偽書とさえされているこの2つの書物。







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