|女娘、玉匣を取りて嶼子に授けて謂ひけらく、
|「君、終に賤妾を遺れずして、眷尋ねむとならば、堅く匣を握りて、慎、な開き見たま
|ひそ」
| といひき。即て相分れて船に乘る。仍ちヘへて目を眠らしめき。忽に本土の筒川の
|郷に到りき。即ち村邑を瞻眺るに、人と物と遷り易りて、更に由るところなし。爰に、
|郷人に問ひけらく、
|「水の江の浦嶼の子の家人は、今何處にかある」
| ととふに、郷人答へけらく、
|「君は何處の人なればか、舊遠の人を問ふぞ。吾が聞きつらくは、古老等の相傅へて
|曰へらく、先世に水の江の浦嶼の子といふものありき。獨蒼海に遊びて、復還り來ず。
|今、三百餘歳を經つといへり。何ぞ忽に此を問ふや」
| といひき。即ち棄てし心をいだきて郷里を廻れども一の親しきものにも會はずし
|て、既に旬日を逕ぎき。乃ち、玉匣を開きければ、即ち瞻ざる間に、芳蘭しき体、風雲
|に率ひて蒼天に翩飛けりき。嶼子、即ち期要に乖違ひて、還、復び會ひ難きことを知
|り、首を廻らして踟み、涙に咽びて徘徊りき。ここに、涙を拭ひて哥ひしく、

| 常世べに雲たちわたる水の江の浦嶋の子が言持ちわたる

|~女、遙に芳しき音を飛ばして、哥ひしく、

| 大和べに風吹きあげて雲放れ退き居りともよ吾を忘らすな

|嶼子、更、戀望に勝へずして哥ひしく、

| 子らに戀ひ朝戸を開き吾が居れば常世の濱の浪の音聞こゆ

|後の時の人、追ひ加へて哥ひしく、

| 水の江の浦嶋の子が玉匣開けずありせばまたも會はましを

| 常世べに雲立ちわたるたゆまくもはつかまどひし我ぞ悲しき
                  「丹後風土記逸文 浦嶼子(釋日本紀 卷12)」


 これはすなわち、遠い遠い処へゆけば老いてしまう、ということを知っていたからこその伝説となります。そして、その時間の壁を超える力として神仙思想なり、何なりがあった、と。...ここが現代ならば科学という名に摩り替わるわけですけれど、わたしたち現代人の方が、時間の壁を日常的にあまりにも楽々超えてしまっている所為で、気づきづらくなってしまっているのではないか。そう感じてしまったんですね。
 果たして、文明は、科学は、わたしたちを進化させてくれているのでしょうか。それとも退化させているのでしょうか。半年前、野洲市立歴史民俗博物館で、感じたこともそうです。

|まだまだ火が貴重であった時代。なのにその火を操って銅を溶かし、鋳型に流して
|鋳造する...。そんなこと、現代の私たちだって数人の個人や数十人の個人の集団で
|できるでしょうか。きっと、設備がない、あれがない、何がない、といって最初から諦
|めてしまうように思うんですね。でも、そんな設備なんてなくとも実際に平然とや
|っていた人たちが2000年前に存在しています。
| ...それでは、現代の便利さを手に入れることで何かを失ったわたしたちは、当時
|の彼らより弱体化している、とも言えてしまうのではないでしょうか。いや、明確に
|そう思います。本当の豊かさって一体、何なのでしょうね。
                         遼川るか「さゝなみのしがゆ」


 本当に、こうなってくると古史古伝ではないですが、古代に存在した超文明、なんてものも信じたい気持ちになってしまいそうです。いや、少なくとも同じように思い、それをさらに信じた人々がいたことの証。それが古史古伝でもあるのかもしれませんね。
 いやはや、脱線が随分と冗長になってしまいました。今わたしがいるのは小野妹子の墓所であって、他の地ではありません。これでは妹子にも失礼です。早々に移動しましょう。

 石段を降りながら、もう一度、振り返って祠に1礼しました。半年前といい、今回といい、つくづくわたしは妹子に対して無礼なことをやっているわけで、せめてもの謝罪です。それと、あの時代に何度となく距離の壁、つまりは境界と同じくあの時代ならではの時間の壁=境界を越え続けた越境の先人への敬意もまた込めて、です。

                

 海境は玉鉾のみち越ゆるものなり
 人の子は稲筵とき越ゆるものなり  遼川るか
 (於:小野妹子公園)


 引用中に地文と一緒に登場した風土記歌謡を再引用しておきます。

| 常世べに雲たちわたる水の江の浦嶋の子が言持ちわたる
       水の江の浦嶼の子「丹後風土記逸文 浦嶼子(釋日本紀 卷12)」再引用
| 大和べに風吹きあげて雲放れ退き居りともよ吾を忘らすな
             ~女「丹後風土記逸文 浦嶼子(釋日本紀 卷12)」再引用
| 子らに戀ひ朝戸を開き吾が居れば常世の濱の浪の音聞こゆ
       水の江の浦嶼の子「丹後風土記逸文 浦嶼子(釋日本紀 卷12)」再引用
| 水の江の浦嶋の子が玉匣開けずありせばまたも會はましを
           作者未詳「丹後風土記逸文 浦嶼子(釋日本紀 卷12)」再引用
| 常世べに雲立ちわたるたゆまくもはつかまどひし我ぞ悲しき
           作者未詳「丹後風土記逸文 浦嶼子(釋日本紀 卷12)」再引用


        −・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−

 湖西側から見た三上山。奇しくもこのタイミングで眺めてしまった景色に、否が応でも次の訪問地に対する期待と、不安が湧き起こります。そう、対岸側から眺める景色とそれによって喚起されるもの。やはりその最たるものは島、なのでしょうしそういう意味では琵琶湖内最大の島・沖島はいかがなものか、と。
 「さゝなみのしがゆ」でわたしはこんな風に記述しています。

| 一昨日、自身が見ていた光景を目を閉じて思い出していました。なるほど、遠い将
|来、とは謡いつつもとんでもなく遠い未来のことではない、それなりに実感ある未
|来。その時間的感覚と、湖西方面から眺めた沖島の大きさはとてもリアルに繋がり
|ます。喩えるならば、友達以上だけど恋人以下、というくらいのじれったさ、とでも
|言いましょうか。
| これが本当に遠い、海の沖合いに浮かぶ小島では、まるでアイドルに恋焦がれて
|いる熱烈なファン心理のように感じられてしまいますし、かといって近江八幡側か
|ら見た沖島では、ステディな関係にある相手が落ち着かない、というような嫉妬だ
|らけの歌に感じられてしまいますね。
                         遼川るか「さゝなみのしがゆ」


 はい、つまりは湖東側からだと、あまりにも近すぎてもはや眺めても島、という実感が湧かない沖島も、反対の湖西側から眺めれば文字通り、沖に浮かぶ島となるわけでその距離感が万葉歌に謡われた恋の関係性を表していて面白い、ということなんですが。

|近江の海沖つ島山奥まけて我が思ふ妹が言の繁けく
              作者未詳「万葉集 巻11-2439」柿本人麻呂歌集より撰
|近江の海沖つ島山奥まへて我が思ふ妹が言の繁けく
                        作者未詳「万葉集 巻11-2728」


 ただ、この湖西側から眺めた沖島。痛恨だったのは、その島影を写真に収めていなかった点です。それと、日が経つにつれ募りだしたのは、あの時わたしが沖島だ、と思った島影が本当に沖島だったんだろうか、という猜疑。地図上の位置からすれば間違いないのですが、先程の三上山ではないですけれど、湖西側から沖島を眺めれば当然、大して距離の差がない琵琶湖東岸一帯の稜線だって、同じ視界におさまってしまいますからそれらのうちの何処が沖島で、何処が琵琶湖東岸なのか、と。
 距離感はさほど変わらないでしょうから、半年前に感じた距離感=恋の関係性、という考察は今なお疑っていないんですけれどね。でも、その細部は一体どうなのでしょう。

 そんな自らに対する疑念から、敢えて訪問地に加えたのがちょうど沖島の対岸辺り。比良の大わだ界隈です。小野妹子公園を出発し、びわこローズタウンを抜けます。そのまま湖岸に沿ってさらに北上。近江舞子駅近くまで進み、そこからは湖岸まで徒歩で、と。
 途中、半年前もきっとあったのでしょうが存在に気づいていなかった湖西道路だか、志賀バイパスだか、にもひと区間だけ乗ってみました。...なんで半年前は気づかなかったんでしょうね。それとも今回が2度目だからこそ、周囲まで気を配る余裕がある、ということになるでしょうか。ともあれ、自動車専用道路を降り、目的区域付近にあったコンビニエンスストアに車を止めます。車を降りると、すでに対岸側の連なる影が視界に広がっていました。

 流石に気が引けるので、まずはペットボトルを1本購入。そして、そのまま店員さんに見えている光景のどの部分が沖島なのか、と尋ねました。すると、
「厳密にはよく判らんけど、あの左側に少し途切れて見えるあれのはず」
 とのお答え。これには驚いてしまい、もう一度訊きました。
「...あの、沖島ってあれなんですか。あっちの濃い影の陸地ではなくて、ですか」
「ああ、あの影は対岸の近江八幡の一帯のはずだねえ」
 ここまで聞いて思い出したのが、やはり半年前に訪ねた水茎の岡。かつては湿地帯だった故に岡と詠まれましたが、現代では確か岡山という名のれっきとした山であること。それから大嶋奥津嶋神社から沖島を見ようとして、視界を阻まれた界隈の小さな山々。地図で見るともう少しだけ南にある長命寺山辺りから始まって、ずっと続く丘陵地と森と...。

 「わたし、間違えちゃったのかな...」
 湖岸までぽっくらぽっくら歩きながら思っていました。上空には鳶が飛び交い、長閑な鳴き声を響かせています。アウトドアのイベント出張から始まって、その足で再び走り回る近江国。どうも、少しばかり疲れてしまったようです。
 湖岸までやってくると、たくさんのグループやご家族がバーベキューをしたり、水遊びをしたり、と周囲が一気に観光地然としてきます。琵琶湖湖上ではジェットスキーやウィンドサーフィンを楽しむ人々。湖南側を眺めれば三上山がほんの小さく霞んで見えて...。

 近江の海沖つ島山奥まけて
 あれの思ひしはいかなるか
 あれ見しもののいかなるか
 問はばゆかむやゆくを欲り
 問へばこに来しけふに来し
 いにしへとほし
 いにしへが大宮人のけふになし
 たれ謡ひしか
 いにしへの歌あるゆゑに
 とひとひて
 とはば知れるか知らゆるか
 とへば知りけり
 とほきてふ
 うら
 道
 時のとほきてふ
 歌とほきてふ
 あれ知れり
 さてもな言ひそちさきてふ
 さてもな問ひそかれてふを
 島
 島にして
 島ならず
 陸処
 海処に
 淡海とて
 来ぬればゆかむ
 なほゆかむ
 知らるを知りて
 なほし知らむや

 沖つ島影とほけれどなほ近しときはにいませ道を賜はむ  遼川るか
 (於:北比良水泳場付近の湖畔)


  

 どうやら半年前、わたしは少し間違えてしまったようです。といって、元々答えなどないのですから間違うも何もない、と言ってしまえばそれまでなんですけれどね。
 つまり、前回わたしが沖島だと思っていたのは琵琶湖東岸であり、本当の沖島は、実はその左側に薄く浮かぶ影。距離感としては大差ないのですが、周囲との比較による存在感という意味では如何なものか、ということです。...淡いんですよ、存在感が。このへんの感覚論は人によってまちまちでしょうが、少なくともわたしには
「友達以上だけど恋人以下、というくらいのじれったさ」
 に喩えられる範疇ではないんじゃないか、と。

|近江の海沖つ島山奥まけて我が思ふ妹が言の繁けく
          作者未詳「万葉集 巻11-2439」柿本人麻呂歌集より撰 再引用
|近江の海沖つ島山奥まへて我が思ふ妹が言の繁けく
                     作者未詳「万葉集 巻11-2728」再引用


 「琵琶湖の沖の島山ではないが、将来かけて、とわたしが思っているあの子に何かと噂が多いことよ」
 今、この目の前に見える沖島の影を頼りに、改めて件の万葉歌を思います。そして感じるのは琵琶湖東岸に比べて薄く浮かぶ、存在感の淡い沖島に、噂が多くてあの子の思いがきちんと手繰れない不安。そんな感覚が惹起されてしまうのはわたしだけでしょうか。半年前にわたしが感じていた距離感だけではなくて、加えてもう1つ、そこにある存在感。そんなものまでも併せて詠まれた歌だとしたならば...。
 いいえ、いいえ。そうであるならばむしろ、今こうして再訪している意味があった、ということ。つまりは報われている、ということなのでしょう。

 逆に、
「そもそも序詞なんて、ただその音を引き出すためのきっかけだよ。考えすぎだし、こじつけなんじゃないの」
 と思われる方もきっと多いことでしょう。第一、大前提として作者も判っていません。仮に人麻呂が詠んだのであれば、彼は確かに比良の大わだ界隈まで来ていますから、実際に見た島影から詠んだ可能性も高くなります。
 ですが、人麻呂歌集にあるからといって必ずしも人麻呂の歌とは断言できず、もし別人の手による歌ならば、そもそも沖島の影を見たことすらなく、ただただ人伝の噂から詠まれた歌、となってしまうかもしれませんし。...要するに歌枕、です。 

 

 もちろん、答えなんて判りません。存在もしません。ただ、わたし自身の納得だけを鍵に再訪した琵琶湖西岸。海水ではない真水はひと際、透明で湖畔の砂も目に眩しいくらいに白く...。哀しいのでしょうか、悔しいのでしょうか、さもなくば情けないのでしょうか。
 残念ながら、それすらもよく判りません。何故なら落胆しつつも同時に、嬉しく感じている自分もいるからです。「さゝなみのしがゆ」でも書きましたが、ずっと感じている
「いつかわたしは、過去の自分の書いたものを否定する日が来るし、そうしなければいつかきっと、わたしはわたしの書いたものに殺される」
 という意味不明の直感が、また1つ小さなしゃぼん玉のような輪郭を有して、ふわふわとわたしの中から湧き立ち、わたしを抜け出して中空に浮かび、消えてゆきます。そしてわたしの中の何かが確かに死に、でもそれによって何かが解放されてゆくこの感覚は一体なんなのでしょうか。

 在る、ということ。在るがゆえに負う無くなることへの恐怖。在るゆえに負う在るという苦しみ。無い、ということ。無いがゆえに負う在ることへの切望。無いゆえに負う無いという絶望。すべて同じです。すべて違わずに不幸で、幸福です。
 ですが、現実としてわたしはここにいます。確かに存在し、在るわけで、それゆえ負った恐怖と苦しみならば、それは負い続けるよりほかにありません。ただ、その過程で昇華できるものがあるならば1つ、また1つ、と世界へ返して、帰して、孵してゆけばいい。そう思っています。だからこそ、のほんのささいな解放が1つ、いまこの瞬間にだけ、この手の中に。

 在るてふかなしび生れば天なほしあを
 在るてふうれしび生りてみづなほし沁む

 いかへらば生るゆいにしへしにゆかゆるか
 いかへればけふに在れどもあしたな問ひそ

 けだしあした世は無きてふをあれ知らば知れ
 あした世に無きは世なるかあれなるものか

 世は世なれど世の何なるかみなひと知らじ
 知りゐるは賜りしものしがほかなくに

 知りしのち知るさきにゐしあれのいづくや
 過ぎしあれ世がいづへにぞ在り得ざるもの

 会へざるはあまたなるあれ過ぎしあれゆゑ
 会はゆるはあまたなるあれ来るあれなむ

 来るてふは過ぐるてふまた過ぐるは行くてふ
 行くてふはすなはちかへるいかへることなり

 へにしたにおもてにうらに波ゆきかへり
 それゆゑに世のはじまりは波のかぎりと

 はじまれば生るるは終のかぎりか天よ
 終ひたれば生らゆるくしび魂集ふ地

 魂在ればかなしびはあり霊は鳴るもの
 魂在りてうれしびもあり無きゆ生るゆゑ    遼川るか
 (於:北比良水泳場付近の湖畔)


 湖畔を離れ、車を止めたコンビニエンスストアへまたぽっくらぽっくら戻ります。書くということ、書き続けるということ。謡うということ、謡い続けるということ。怖いくせに止めようともせず、その恐怖を1つ超えるごとに解き放てるものと、なお負う恐怖。これもまた1つの幸せの形ではありますが、こんなに長閑な景色の中にいると、ふと書く恐怖も、謡う恐怖も知らずにただ書けること、謡えることが嬉しかった遠い日が思い出されます。
 いつの間にこんなところに来てしまっていたのでしょうね。そうしようとも、そうしたいとも思わず、ただ気づいたら来ていたここに、今日という日の解答が1つ。

              

 比叡の山々は、針葉樹の濃い緑と、まだまだ若葉であろう広葉樹の黄緑とが入り混じり、何だか愉快で可愛らしく映ります。でも、あと1月もすれば、山はただただ深緑に染まるのでしょう。半年前に眺めていたように、です。
 車に乗り込み時計を確認しました。レンタカーを岐阜羽島で返却するまでの時間と、そこまでの移動時間、そしてこれから向かう最後の訪問地への移動時間と、そこで過ごせる時間と。...どうやら、そうのんびりもしていられそうにありません。小野妹子公園から眺めた三上山。比良の大わだから眺めた三上山。半年前の近江古歌紀行。その宿題を果たして回る本日最後の訪問地・御上神社へ。少し南下した場所から架かる琵琶湖大橋で、一気に湖東へ渡ります。

        −・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−

|野洲郡 九座 大二座 小七座
|    御上神社 名神大 月次新嘗
                           「延喜式 巻10 神祇10」


 延喜式にこうある御上神社に関して、記述している最古のものはおそらく古事記ではないか、と思います。

|また近つ淡海の御上の祝がもち拝く、天之御影神の女、息長水依比売を娶して、生め
|る子は、丹波比古多多須美知能宇斯王。
                           「古事記 中巻 開化天皇」


 そして、それを補完するようにして存在する御上神社自体の社記曰く

|当神社の社旗によると天之御影神は今から二千二百余年前の孝霊天皇の六年六月十
|八日三上山に御光臨になったので神孫の御上祝等は三上山を神体山として鎮祭申上
|げた。降って養老二年勅命によって現在の社殿を造営して還祀された。爾来朝野の崇
|拝あつく清和天皇の御代に正一位、後醍醐天皇の御代に明神大社、次に圓融天皇の御
|代には勅願所と定められ四海太平の祈願を行われた。
                        「御上神社境内の看板より抜粋」








BEFORE  BACK  NEXT