さゝなみのしがゆ

 すべては夢。過ぎてしまえば、世界は全て夢であり、同時に夢の揺り籠なのだ、といにしえの草叢に吹いていたかもしれない風を、全身に受けながら思わずにはいられませんでした。そしてだからこそ、この束の間は永遠にも等しい、と。
 悲観ではありません。ましてや否定でもありません。むしろこれは、何ものにも変え難い肯定。...世界をこんな風に肯定できる日が来ていることが、とてもとても不思議でもありました。

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 どういう訳なのか、ここ数年、晩夏から初秋にかけての時期に、必ず訪ねている土地があります。近江国。一昨年の竹生島への小旅行は「
わぎもこにあふみゆ〜竹生島」として紀行文にまとめましたが、昨年はその竹生島へ、たまたま仕事で近くまで出向いた為に再訪しています。...台風が接近している、という悪条件のなか連絡船内でも、竹生島でも、来訪者はわたし独り、という状態で。
 そして今年。たまたま夏期休暇をまだとっていなかったことと、湖東方面への私用ができたこともあって三度、初秋の近江国へ。

 けれども今回は竹生島だけ、という小旅行ではありません。時間と地理の関係で、ちょうど滋賀県の南半分。湖東と、湖南と、湖西を。公的機関を頼ると、近江での移動がとても厳しいことから、神奈川からマイカーで現地入りします。
 9月半ば。まだ明け初める気配のない闇のなかで、車にエンジンを掛けました。昨年同様に今回も、九州方面へ台風が接近している、というニュースが聞こえてはいましたが、その時はその時。それでもわたしは近江国へゆきたいのですから。

 いざ、これから近江国へ。...このシチュエーションです。やはり思い出していたのはもちろん、この万葉歌たち。

| 題詞:額田王、近江国に下りし時作る歌、井戸王のすなわち和する歌
|味酒 三輪の山
|あをによし 奈良の山の
|山の際に い隠るまで
|道の隈 い積もるまでに
|つばらにも 見つつ行かむを
|しばしばも 見放けむ山を
|心なく 雲の
|隠さふべしや
                          額田王「万葉集 巻1-0017」
|三輪山をしかも隠すか雲だにも心あらなも隠さふべしや
                          額田王「万葉集 巻1-0018」
|綜麻形の林のさきのさ野榛の衣に付くなす目につく吾が背
                          井戸王「万葉集 巻1-0019」


 天智6年(667年)3月19日。時の天皇・天智が、それまでの明日香の後岡本宮より、近江国の大津宮へ遷都する際に詠まれた、とされている歌群です。

|右二首の歌、山上憶良大夫の類聚歌林に曰はく、都を近江国に遷す時に三輪山を御
|覧す御歌なり。日本書紀に曰はく、六年丙寅春三月辛酉朔己卯、都を近江に遷すとい
|へり。
                        「万葉集 巻1-0017,0018」左注

|3月の辛酉の朔己卯に、都を近江へ遷す。
              「日本書紀 巻27 天智天皇 天智6年(667年)3月19日」

 といって、わたしは額田のように後にする地を振り返りつつ、という風情ではありません。向うべき近江の方を、その方角だけを、見詰めて出発します。

 いはゞしるあふみたれをか呼び越すかしかも呼び越し賜ふかあれを 遼川るか
 (於:さねさしさがむの自宅駐車場)


 東名の厚木インターで、そろそろ空の端が薄明るくなり始めました。足柄のサービスエリアを通過する頃には、もう夜は明けていました。浜名湖と養老のサービスエリアで少しずつ休憩し、そして越えた関が原。近江国入りです。
 神奈川からは約400km、時間にして4時間、予想していたことでしたが、やはり雨がぽつりぽつりとフロントガラスを叩き出します。どうもわたしの古歌紀行は比較的、雨に遇うことが多いのですが、台風の影響を意識しながら、というのは初めてになりそうです。...何とか無事に旅を終えられるといいんですけれどね。
 この日は東近江市内に用事があったので、八日市インターで高速を降りました。

 近江国。学生時代、滋賀県出身の後輩がいました。そして彼が、最初の自己紹介でこんなことを言ったのが何故だかとても鮮烈で、今でもよく覚えています。曰く
「僕の出身地・滋賀県は歴史上、天下分け目とも言える事件の舞台になって来ました。古代の壬申の乱、戦国時代の関が原の戦い、そして現代ではグリコ森永事件の犯人とニアミスした土地なんです」
 最後の現代については所謂、3段オチの3段目ですから別としても、この
「滋賀県=天下分け目の舞台」
 という公式は、20代前半からずっと、わたしの中に残ってきました。そして今回、近江の古歌紀行に出向くに当たって斜め読みした様々な資料で、この公式が一層強くなったのは間違いありません。特に壬申の乱以前の、まだまだ流動的だった大和王朝期。近江の地は何度となく古代に於ける“事件”に見舞われ、同時にそういった事件を起こし、事件に翻弄される、人間の在り様を静かに見つめ続けていたのだと思います。
 そんな古代に於ける騒乱の1つの跡が、近鉄八日市線の市辺駅近くにあります。

 改めて書くまでもありませんが、この日本という国の古代史は、記紀万葉風土記といった上代文学の記述を基本としています。けれどもこれらが編纂・成立されたのは天平期のことで、ではその天平期のまつりごとの中心を為していたのは、というと言うまでもなく大和王朝です。
 また大和王朝、すなわち天皇氏による中央集権制によって編まれた記紀は当然ですけれど、天皇氏を中心として、この国の歴史を記述しました。あくまでも、天皇氏を肯定することを前提に、です。

 もちろん、そのすべてが捏造と、歪曲と、正当化によるもの、とは思っていません。ですが、ある程度の律令なり、憲法や冠位なりが制定される以前。天皇氏自体もまだまだ、いち豪族にすぎなかった群雄割拠の時代の記述について、記紀を鵜呑みにすることは正直、難しい部分が多いと断言できます。
 そもそも天皇、として正式に即位したのは天武天皇が歴史上最初になります。何せ、天皇制というシステムをつくったのも彼なのです。それ以前の天皇は天皇ではなく、単なる豪族の大王だったということになります。また、冠位12階や17条の憲法が制定されたのも推古朝です。この時期に、天皇氏と他の豪族たちとの違いをルールで明確にすることができましたが、それとて蘇我氏の後ろ盾があったからこそ。まして、それよりも古い時代に至っては、他の豪族たちに脅かされて、かなり勢力的に弱ってしまっていたのが天皇氏の実態です。

 「あきづしまやまとゆ・弐」で書いた和邇氏と葛城氏や、前述の蘇我氏と物部氏など、天皇氏は時代々々の豪族同士の勢力争いの狭間にあって、担いだ者勝ちの御神輿のような存在であったり、そうかと思えば平群氏のような、お飾りに近い天皇氏を無視した大豪族の専横を許してしまっていたり。
 ...現存する資料が記紀ですから、確たることは言い切れません。ですが、そんな記紀からだけでも何故、天皇氏の勢力が、そこまで弱体化してしまったのか、は何となく手繰れます。
 古今東西、いつでも、何処でも。得てして一族の弱体化の原因は継承権争い、と相場は決まっています。後世、美談化されて記紀に記述されたもの。記紀に記述されずに闇に葬られたものなど、今上に至るまでの125代に渡る皇統は古代、まさしく血で血を洗った果てに継承されていた、として過言はないでしょう。

  

 まだ午前の比較的早い時間の近江の街。台風特有の時折ばらばらと強く降る雨の向こうに浮かび上がったのは、四方を囲む山々の稜線でした。...近江、というとどうしても琵琶湖の印象が強いために失念していましたが、そう、この国もまた
「青垣 山隠れる」
 土地。お隣の大和盆地も、そしてかつて訪ねた甲府盆地も太古は湿地帯で、人々は山の中腹に暮らしていた、という歴史が脳裏をよぎりました。寡聞にして地質学的なことは知りませんけれど、もしかしたら琵琶湖はかつての湿原の名残かしら、と。

 もっとも琵琶湖そのものは世界でも有数の古代湖で、しかもその水深から考えるに、単なる湿地帯の名残、などという代物ではまずないんですけれどね。
 ただ、そこは古来より水に恵まれた土地だけあって、視界に映るものの多くは、ちょうど稔りの時期を迎えている稲と田圃。山と水と稲穂に囲まれて、この土地でもまた懐かしくて懐かしくて堪らない気持にすでになり始めていました。

 天武や推古よりずっと昔。「万葉集」巻1の冒頭に据えられている歌を詠んだのは、大泊瀬幼武天皇、すなわち第21代雄略天皇です。そしてその彼は允恭天皇の第5皇子だったのですが、どうも記紀を眺める限り、当時の天皇氏一族はまだまだ落ち着いてはいなかったようです。允恭天皇の父親は履中天皇で、祖父は仁徳天皇となりますが、その仁徳期にあったであろうあれこれについては、「あきづしまやまとゆ・弐」で書きました。また、仁徳の親と言えば応神天皇で、彼は長いこと高位が空白だった期間に即位せずにまつりごとをし続けた神功皇后の皇子です(父親は仲哀天皇)。
 皇位が交代する度に、兄弟間で譲り合って空位ン年あった、あるいは兄弟間でいがみ合って誰それが討たれた、皇子がいなくて云々などなど、後世に皇統と言われるようになった血筋の継承は、中々に物議や騒乱の根源でもあったわけです。
 そして雄略がまだ皇太子だった頃に起こした、ある出来事について記紀はこう記しています。


|冬十月の癸未の朔に、天皇、穴穂天皇の、曾、市辺押磐皇子を以て、国を伝へて遥かに
|後事を付嘱けむと欲ししを恨みて、乃ち人を市辺押磐皇子のもとに使りて、陽りて
|校猟せむと期りて、遊郊野せむと勧めて曰はく、
|「近江の狭狭城山君韓、言さく、『今近江の来田綿の蚊屋野に、猪鹿、多に有り。其
|の戴げたる角、枯樹の末に似たり。其の聚へたる脚、弱木株の如し。呼吸く気息、朝霧
|に似たり』とまうす。願はくは、皇子と、孟冬の作陰しき月、寒風の粛殺なる晨に、将
|に郊野に逍遥びて、聊かに情を娯びしめて騁せ射む」
| とのたまふ。市辺押磐皇子、乃ち随ひて馳猟す。是に、大泊瀬天皇、弓を彎ひ馬を驟
|せて、陽り呼して、
|「猪有り」
| と曰ひて、即ち市辺押磐皇子を射殺したまふ。皇子の張内佐伯部売輪、更の名は仲
|手子。屍を抱きて駭けてて、所由を解らず。反側び呼ひ号びて頭脚に往還ふ。天皇、
|尚誅したまひつ。
           「日本書紀 巻14 雄略天皇 即位前紀 履中3年(402年)10月」

|これより以後、淡海の佐佐紀の山君の祖、名は韓白ししく、
|「淡海の久多綿の蚊屋野は、多に猪鹿あり。その立てる足は荻原の如く、指擧げたる
|角は枯樹の如し」
| とまをしき。この時市邊の忍歯王を相率て、淡海に幸行でまして、その野に到りま
|せば、各異に假宮を作りて宿りましき。ここに明くる旦、未だ日出ざりし時、忍歯王、
|平しき心もちて、御馬に乗りし随に、大長谷王子の御伴人に詔りたまひしく、
|「未だ寤めまさざるか。早く白すべし。夜は既に曙けぬ。庭に幸でますべし」
| とのりたまひて、すなわち馬を進めて行きたまひき。ここにその大長谷王の御所
|に侍ふ人等白ししく、
|「うたて物云ふ王子ぞ。故、慎しみたまふべし。また御身を堅めたまふべし」
| とまをしき。すなはち衣の中に甲を服し、弓矢を取り佩かして、馬に乗りて出で行
|きたまひて、忽の間に、馬より往き雙びて、矢を抜きてその忍歯王を射落として、
|すなはちまたその身を切りて、馬稲に入れて土と等しく埋みたまひき。ここに市邊
|王の王子等、意祁王、袁祁王、この乱を聞きて逃げ去りたまひき。故、山代の苅羽井に
|到りて、御粮食す時、面黥ける老人来て、その粮を奪ひき。ここにその二はしらの王
|言りたまひしく
|「粮を惜しまず。然れど汝は誰人ぞ」
| とのりたまへば、答へて曰ひしく、
|「我は山代の猪甘ぞ」
| といひき。故、玖須婆の河を逃げ渡りて、針間國に至り、その國人、名は志自牟の家
|に入りて、身を隠したまひて、馬甘牛甘に役はえたまひき。
                  「古事記 下巻 安康天皇 市邊の忍歯王の難」


 当時、即位していたのは雄略の兄である第20代安康天皇。そして雄略や安康は第19代允恭天皇の息子となりますが、その允恭天皇の兄に第17代履中天皇がいたんですね。また、上記引用に登場する市邊忍歯王とは履中天皇の皇子。はい、市邊忍歯王は安康・雄略からすればちょうど従兄弟の関係になる人物だったわけです。
 記紀それぞれが語っている詳細によれば、日本書紀では安康天皇が皇位を市辺押磐皇子に譲ろうとしたから、となっていて一方の古事記では雄略に対する物言いが感じ悪かったから、とのことですが、ともあれ要は雄略が自ら皇位を継承するために、従兄弟の市邊忍歯王を狩に連れ出して、暗殺してしまった、と。


 近江国入りして、わたしが最初に訪ねたのが、この市邊忍歯王の御陵です。恐らく、地名のとして、また駅名でもある「市部/いちのべ」は暗殺されてしまった皇子の名前に由来するものなのでしょう。
 近鉄八日市線の線路を渡ります。そしてそのまま道なりに軽く進むと、…きっと距離自体は1kmもなかったでしょうか。右手に御陵特有の宮内庁看板が見えてきます。周囲はごくごく普通の民家で、奈良県内各地で見た半ば壮大とも言える御陵の数々と比べると、随分と慎ましやかです。

 ここが大和国ではないからなのか。はたまた暗殺されたとは言え、皇統を継ぐことなく果てた皇子の御陵だからなのか。...理由はきっと後者の方でしょうね。
 ともあれ、あまりにもささやかな御陵は奥行きの狭い、小さな敷地の右と左にこれまたささやかな円墳が1つずつ、少し離れて造られていました。

 畿内はもちろん、東国も古墳はそれなりの数を見てきています。中には円墳とも、方墳とも、前方後円墳とも思えない不思議な形のものもありましたし、過ぎる時代の中であっちを削られ、こっちを削られしてすっかり形の変わってしまった古墳もありました。
 ですが、少なくとも2つの円墳を内包している御陵というのもまた、初めてだと思います。事前にこの市邊忍歯王に関わる記紀の記述を知っていたので、すぐに事情を察しましたが、何も知らずに来ていたらきっと、さぞかしきょとんとしてしまったのではないかな、とつい思ってしまいましたね。
 この市邊忍歯王暗殺事件の後日談...、と言ってしまうには経った時間が長すぎる気もしますけれど、ともあれ事件のその後です。

 安康の崩御後、雄略は即位。そして彼の息子であった「白髪武広国押稚日本根子天皇/しらかたけひろくにおしわかやまとねこのすめらみこと」が、後に清寧という諡で第22代天皇となるのですが、その清寧、どういうわけか皇子に恵まれませんでした(古事記のみ、皇后もいなかったと記述)。だからなのでしょうか、記紀共に伝える記述によれば、彼は自身の名前である白髪という名の土地を定めていますね。...後世に自身が生き、即位した軌跡を残したかったのかも知れません。
 そんな中、亡き市邊忍歯王の遺児たちが播磨国で発見されます(古事記では清寧崩御後に発見)。日本書紀の清寧紀と顕宗天皇紀に、それぞれ記されている件です。

|冬十一月に、大嘗供奉る料に依りて、播磨間にに遣はせる司、山部連の先祖伊予来目
|部小楯、赤石郡の縮見屯蔵首忍海造細目が新室にして、市辺押磐皇子の子億計・弘計
|を見でつ畏敬兼抱りて、君と奉養らむと思ふ。奉養ること甚だ謹みて、私を以て供給
|る。便ち柴の宮を起てて、権に安置せ奉す。乗駅して馳せて奉す。天皇、愕然き驚歎き
|たまひて、良しく愴懐して曰はく、
|「懿きかな、悦しきかな、天、溥きなる愛を垂れて、賜ふに両の児を以てせり」
| とのたまふ。
                 「日本書紀 巻15 清寧天皇 清寧2年(481年)11月」

|白髪天皇の二年の冬十一月に、播磨国司山部連の先祖伊予来目部小楯、赤石郡にし
|て、親ら新嘗の供物を弁ふ。一に云はく、郡県を巡り行きて、田租を収斂むといふ。適
|縮見屯倉首、新室に縦賞して、夜を以て昼に継げるに会ひぬ。爾して乃ち、天皇、兄億
|計王に謂りて曰はく、
|「乱を斯に避りて、年数紀踰りぬ。名を顕し貴を著さむこと、方に今宵に属れり」
| とのたまふ。億計王、惻然み歎きて曰はく、
|「其れ自らい揚げげて害されむと、身を全くして厄を免れむと孰か」
| とのたまふ。天皇の曰はく、
|「吾は、是去来穂別手官能の孫なり。而るを人に困み事へ、牛馬を飼牧ふ。豈名を顕し
|て害されむに若かむや」
| とのたまふ。遂に億計王と、相抱きて涕泣く。自ら禁ふること能はず。億計王の曰
|はく、
|「然らば弟に非ずして、誰か能く大節を激揚げて、顕著すべけむ」
| とのたまふ。天皇、固く乱びて曰はく、
|「僕、不才し。豈敢へて徳業を宣揚げむ」
| とのたまふ。億計王の曰はく
|「弟、英才く賢徳しくまします。爰に過ぐるひと無し」
| とのたまふ。如是相譲りたまへること、再三。而して果たして天皇をして、自ら称
|述げむと許さしめて、倶に室の外に就きて、下風に居します。屯倉首、命せて竃傍に
|居ゑて、左右に秉燭さしむ。夜深い酒酣にして、次第ひ訖る。屯倉首、小楯に謂りて
|曰はく
|「僕、此の秉燭せる者を見れば、人を貴びて己を賤しくし、人を先にして己を後にせ
|り。恭しみ敬ひて節にく。退き譲りて礼を明にす。君子と謂ふべし」
| といふ。是に小楯、絃撫きて,秉燭せる者に命じて曰はく、
|「起ちてへ」
| といふ。是に、兄弟相譲りて、久に起たず。小楯、嘖めて曰はく
|「何為れを太だ遅き。速に起ちてへ」
| といふ。億計王、起ちてひたまふことすでに了りぬ。天皇、次に起ちて、自ら衣帯
|を整ひて、室寿して曰はく
|  築き立つる 稚室葛根、
|  築き立つる 柱は、
|  此の家長の 御心の鎮なり。
|  取り置ける 棟梁は、
|  此の家長の 御心の林なり。
|  取り置ける 椽は、
|  此の家長の 御心の斉なり。
|  取り置ける 蘆は、
|  此の家長の 御心の平なるなり。
|  取り結へる 繩葛は、
|  此の家長の 御子と武器の堅なり。
|  取り葺ける 草葉は、
|  此の家長の 御富の余りなり。
|  出雲は 新墾、
|  新墾の 十握稻を
|  淺甕に 釀める酒
|  美にを 飲喫ふるかわ。
|  脚日木の 此の傍山に、
|  牡鹿の角 挙げて
|  吾がすれば、 旨酒
|  餌香の市に 直以て買はぬ。
|  手掌も亮に 拍ち上げ賜ひつ、
|  吾が常世など
|寿き畢りて、乃ち節に赴せて歌して曰はく、

| 稲筵 川副楊 水行けば 靡き起き立ち その根は失せず

|小楯、謂りて曰はく、
|「可玲し。願はくは復聞かむ」
| といふ。天皇、遂に殊作たまふ。誥びて曰はく、
|  倭は そそ茅原 浅茅原 弟日、僕らま。
|小楯、是に由りて、深く奇異ぶ。更に唱はしむ。天皇、誥びて曰はく、
|  石の上 振の神榲。
|  本伐り 末截ひ
|  市辺宮に 天下治しし
|  天万国万押磐尊の御裔、僕らま。
|小楯、大きに驚き手、席を離れて、悵然みて再拝みまつる。承事り。供給はりて、属を
|率ゐて欽伏る。是に悉く郡の民を発して宮を造る。不日して権に安置せ奉る。乃ち京
|都に詣でて、二の王を迎へむことを求む。白髪天皇、聞こしめし憙び咨歎きて曰はく
|「朕、子無し。以て嗣とせむ」
| とのたまひて、大臣・大連と、策を禁中に定む。仍りて播磨国司來目部小楯をして、
|節を持ちて、左右の舎人を将て、赤石に至りて迎へ奉らしむ。
           「日本書紀 巻15 顕宗天皇 即位前紀(清寧2年(481年)11月)」

 随分と長い引用で恐縮ですが、ともあれこうして市邊忍歯王の遺児たちは朝廷の知るところとなり、弟の弘計王(のちの第23代顕宗天皇)と、兄の億計王(のちの第24代仁賢天皇)が朝廷へと召されたわけです。







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