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|即ち素戔鳴尊に千座置戸の解除を科せて、手の爪を以ては吉爪棄物とし、足の爪を |以ては凶爪棄物とす。乃ち天児屋命をして其の解除の太諄辞を掌りて宣らしむ。世 |人、慎みて己が爪を収むるは、此其の縁なり。既にして諸の神、素戔鳴尊を嘖めて曰 |はく、 |「汝が所行甚だ無頼し。故、天上に住むべからず。亦葦原中国にも居るべからず。急に |底根の国に適ね」 | といひて、乃ち共に逐降ひ去りき。 | 時に、霖ふる。素戔鳴尊、青草を結束ひて、笠蓑として、宿を衆神に乞ふ。衆神の曰 |はく、 |「汝は是躬の行濁悪しくして、逐ひ謫めらるる者なり。如何にぞ宿を我に乞ふ」 | といひて、遂に同に距く。是を以て、風雨甚だふきふると雖も、留り休むこと得ず |して、辛苦みつつ降りき。爾より以来、世、笠蓑を著て、他人の屋の内に入ることを諱 |む。又束草を負ひて、他人の家の内に入ること諱む。此を犯すこと有る者をば、必ず |解除を債す。此、太古の遣法なり。 「日本書紀 巻1 神代上 第7段」 ...ごめんなさい、どうもこの日本書紀の「時に、霖ふる〜」以降の件、わたしは何度読んでも自然と涙が浮かんでしまうんです。とにかく高天原を追われた素戔鳴。そんな彼が行き着いたのが出雲です。 出雲、そう根の国ですね。いづも、という音も「出ず喪」から来ている、という説さえも目にしたことがありますが、これが流罪あるいは所払い、というものの本質なのでしょう。つまり、生物としての命はあれど、社会生活を送っている存在としての死が与えられてしまうのだ、と。 個人的には葛城王朝説を採っているので、天つ神の国・高天原も、国つ神の国・葦原中国もすべては畿内、もっと言ってしまえば奈良盆地内で起こったことの寓話化なのではないか、と考えています。けれども、記紀が編纂された天平期に於いて、それを当時の国内地図に照らし合わせて様々な地名として置き換えることは十二分に可能でしょう。 あくまでも私見に過ぎないことを明記させていただいた上で、元々は奈良盆地内の出来事を、天平期の概念の基盤となっていた畿内。その中と外に置き換えるとするならば、西は現在の姫路辺りまでが畿内であって、それ以西はまさしく辺境の地としての認識が持たれていたわけです。 日本書紀や続日本紀に登場する配流の地はみな、この畿内の外。人麻呂が流されたとされる石見も、美豆良麿の隠岐も、そして素戔鳴の出雲も。しかも隠岐は、畿内はおろか倭国の外にも肉迫するような立地です。 記紀にある記述をあれこれと見てゆくと、根の国というのはとても遠くの地であることや、大地に根付く地面に近い場所であるような印象を受けるのですが、同時に拭えないのが海中の国、という印象です。 当時の死生観としてあった常世の国にしてもそうですが、沖縄のニライカナイ伝説同様に、海の向こうに彼岸がある、ということですね。ですが、常世の国にまで行ってしまうのでは完全なる死となってしまいますけれど、そうではなく復活もありうる一時的な死に際する場所。それが根の国であるとするならば、その場所はやはり海底、あるいは海中ではないか、と。 例えば、国譲りによって出雲=“出ず喪”の地を最後に一旦、記紀から記述がなくなる大国主はのちに伊豆=“出ず”の地に祀られています。海幸山幸神話の山幸こと、火遠理命も一時的に海中にて暮らします。そう言えば彼もまた、罪を償っている最中に海中に辿り着いていますね。...さらには竜宮から戻り、玉手箱を開けた途端に老いてしまった、すなわち一般社会とは異なる時間軸を過ごしていた浦島太郎。 どうでしょうか。こうやって並べてみると、海の底、あるいは海の中、というのはまさしく隠棲する、あるいは隔離された場所として、上古に認識されていたであろうことが推測できますし、けれどもそれは、あくまでも復活することを前提とする隠棲なり、隔離です。 ならば隠岐とは沖。もちろん地理上でのことは言うまでもありませんが、それならば佐渡や壱岐や対馬とて同じわけで何故、隠岐だけが奇しくも沖=OKIという音を負っているのか、という意味にも繋がるやも知れません。...第一、隠岐とは「隠もる/こもる」と「岐/ふなど」をその名に冠している地。境界の向こうに隠れる、と。これではまさしく再生の手前にある死の在り処、すなわち根の国です。 そんなことを実際に隠岐へ来る前から考えていました。しかし、現地に伝わる伝承によればただ隠岐=沖、というだけではないらしいのです。 「御木」 これが由来だ、ともされているんですね。曰く、伊弉諾・伊弉冉による国生みで生まれた隠岐。その地を眺めた天照大神は、高さ40余丈もある、とても美しい木が生えているのを見つけたのだといいます。そして 「美しい御木の島」 から隠岐、となったのだ、と。 この伝承の出典、あるいは収録したとされる最初の文献は、残念ながら確認できていません。前述している穏座抜記にしても、そして後述する伊未自由来記にしても、わたしに辿れたのはその記述を引いている文献なり、Webページだけでして、これ以上は何とも。 ただ、この島に上陸してから目に映る様々な景色は、確かにそんな巨木なり名木なりがあったとしても不思議ではない、と感じさせます。 ですが、それでもやはりわたし自身の中で拭い去れないのは辺境、すなわち境界の外としての隠岐であり、同時に境界線上の地としての隠岐です。そしてそれを後押しするように、こんな説も目にしました。 曰く、島前の3島よりもさらに沖にある島後。沖の島=隠岐の主島であり、それが後に隠岐となって島前の3島も習合したのだ、と。...案外、これくらいシンプルなのかも知れませんね。 ただ、この説ですんなり納得できてしまったのが、実は記紀に残る 「隠岐の三子嶋」 という記述なんですね。何せ3つ子、ですから。島は4つあるにも関わらず、です。この三子嶋をどう解釈するのかについても、 1) 島後は昔、父ヶ島だとか「於母の島/おものしま」とも呼ばれた母ヶ島であり、す なわち島後は親、一方の島前3島を子どもと見なして、隠岐の三子嶋=3つ子と親の 島を表す(島前・島後の主要4島すべてを含む説)。 2) 島前の中ノ島と西ノ島、そして島後(東の島、という見立てでしょうか)で3つ子 とし、残る知夫里島は「道触りの島/みちぶりのしま」、つまり道標の島とする。 3) 辺の島、中の島、沖の島、という3つ子。辺は都から見て1番手前の知夫里島、中は 中ノ島、沖は島後(隠岐の島)。西ノ島については注釈なし。 などなどを目にしましたけれど、個人的な感覚論では、島後を含まない島前3島で3つ子、というのがシンプルで、しかも地形からしてもしっくりする気が、もとよりしていました。 ですが、そうすると島後はどうなるのか、ということになってしまいますけれど、少なくとも1)ならば、とても明快にして、後に習合されたという説にも繋がると感じます。 また、確かに古事記は隠伎の三子嶋、と記していますが一方の日本書紀では、 |億岐と佐渡とを双生む 「日本書紀 巻1 神代上 第4段」 という記述を主に、異伝として三子嶋しているものと、佐渡との双子としているものとが、それぞれ複数あるわけで。 またしても個人の感覚論で恐縮ですが、佐渡との双子なのはどちらかと言えば島後の方だとも感じますし、おそらくはそんな全てを含めて、何となく見え隠れしているのは、先ずは倭国が国土として主張していた大八嶋国があって、けれども実質的には8つの島で国土を主張することの困難さ、と言いますか隠岐という地の取り扱いの厄介さのように思えます。 恐らくは、大陸側とも倭国側とも、言い切れない土地だったのではないか、と。...現代の情勢とさして変わらずに、です。そしてそんな風に思わせてくれたのが、実はこの地の開闢伝説でした。 古史古伝。こう呼ばれている文献類があることをご存知でしょうか。平たく言ってしまえば、史書でありながら学会から現時点では認められていない所謂、偽書として括られているものたちのことです。 記紀や風土記、風土記逸文、そして古語拾遺などは古史古伝ではなく学会で認められている史書。一方、わたしが古歌紀行文の中で比較的多く引用させて戴いているものの中では先代旧事本紀や、有名なものでは竹内文書、九鬼文書、秀真伝、そしてわたしが今から纏わることを書こうとしている伊未自由来記などなどが、古史古伝として分類されます。 ...そう、伊未自由来記です。お恥ずかしながら、わたしはこの文献の存在を隠岐に来る以前は知りませんでした。古史古伝については、先代旧事本紀を筆頭に、有名なものはそこそこ眼を通していますし、その先代旧事本紀に関しては序文こそは完全に偽書だとも思うものの、本文については遅くとも平安末期には別文献に引用されている事実があることからしても、学会で認められている古語拾遺とほぼ同じくらいの信憑性はあるのではないか。そんな風に捉えています。 他にも史書としてはともかく、文芸作品として面白く感じている秀真伝や九鬼文書、前記といったものもあって、わたし個人の立ち位置としてはひと括りに 「古史古伝は偽書ではあれど、偽書ゆえに一切の汲むべき価値もない、などとは思わない」 としています。ですが同時に、 「冷静にきちんと自分自身で取捨選択しながら読まなければならない文献群」 とも思っているのですが。 ともあれ、隠岐伝説も綴られている、という伊未自由来記。何でも原文そのものは失われていて、あるのは穏座抜記同様、その原文が語り言葉として口訳されてものを聞き書きしたもののみ、とのことですが、その聞書きすらもわたしは入手できませんでして。あったのは、こちらも穏座抜記同様に、別文献へ引用されているものと、Web.上に公開されていた本文だけ。 それによると、隠岐に最初に住み着いたのは木の葉比等と呼ばれる小柄な民だったのだ、といいます。髪も髭も切らずに伸ばし、獣の皮を着た上に、木の葉を塩水に漬けて乾かしたものを着ていたらしく、島後に男女2人の1組が来て定住。続いて2組の夫婦が渡来し、元いた者たちと合流します。 その後、今度は男1と女2人の乗る舟が島前に着いたらしく早速、元いた者たちは島前に出向いてみました。けれども、どうしても3人を見つけられなかったことから、西ノ島の一番高い山に登って、火を焚きます。 一方、後から来た3人は渡来したものの火がなくて困り果てていたところ、山の上に焚かれた火に気づいて。そして、ようやく双方が合流。以後、同種の人々は次々と渡来し、人も増え、やがて4つの島のあちこちに住み広がっていったのだ、といいます。余談になりますが、この伝承に登場する山。こちらは現在もその名の通り焼火山(たくひさん)と呼ばれていますね。 木の葉比等の次には出雲から海人たちがやって来ます。大柄で全身に刺青をしたその姿に、木の葉比等たちは最初こそ恐れもしましたが、海人たちはとても温厚で、すぐに木の葉比等たちと混住・混交してゆくようになったのだそうです。 ...隠岐の開闢、あるいは創生神話はこの後も続きますが、取り敢えずここまでだけで明らかになっているのは、最初に渡来した、つまり隠岐最古の民は小柄な木の葉比等であって、海人は後からやってきている、ということでしょう。そしてこうも書かれているようですね。 |これら木の葉比等は、西方千里加羅斯呂から来たというが、また韓之除羅国から来 |たともいう。 金坂亮「伊未自由来記聞書」 ※焼火山公式ホームページよりの孫引きです。 もうお判りでしょう、わたしが何を言いたいのかが。はい、つまり少なくとも本州の歴史としては先に海人などの南方系縄文人が渡来し、続いて大陸渡来の弥生人が来た、となっているのに対し、隠岐はそれが逆だった、ということです。 いや、もちろんこの伝承の真偽など気にしているのではありません。そんなことを言ったら日本神話も世界神話も、全ては偽。確認のしようもなければ、ありえないことばかりになってしまいます。 ただ、そういうことではなくて、もはやわたしにとっては古代を考えるベースともなっている 「最初に縄文、後に弥生。縄文と弥生は混交するもあくまでも文化・政治ともに主導権は弥生系にあり、その弥生が到達しなかった琉球・北海道は縄文たち主導のもと歴史と文化を積み上げてきた」 という大筋中の大筋とは隠岐が異なる、ということです。...これは正直、わたしにとってかなりの衝撃でした。大和でもない、琉球でもない、アイヌでもない、隠岐。 なるほど。これならば上古の時代、隠岐とひと口に呼びはすれども、何とも地理的に解せない、説話が幾つも幾つも登場するわけです。現代でこそ島前と島後の4島で隠岐、とできるものの当時の隠岐、とは一体何処から何処までを隠岐としていたと言うのでしょう。 上古よりも時代を下った平安中期。931年から938年までに編纂された和名類聚抄には、隠岐は島後北部の穏地郡、島後南部の周吉郡、島前は中ノ島全域の海部郡、そして西ノ島と知夫里島を束ねた知夫郡の4郡からなっていた、とされています。..現代同様、4島全てが含まれていますね。 ですが、それでは上古はどうだったのか。...愕然とさせられるのは、これすらも明確ではないということなんですね。 天平期、各地で編纂された風土記は当然、隠岐国にもあったと思うのですが、こちらは逸文も含めて現在、全く見つかっていません。失われてしまったのでしょう。つまり、隠岐の古代に関しては続日本紀に幾つかの記述と、出土している木簡の類から限られた範囲の内容しか判ってない、ということになります。もちろん、裏打ちがないだけで、可能性としては4島全てがすでに隠岐だった、とは思いますけれどね。 ですが、この日本という国の成り立ちにしても、隠岐国の成り立ちにしても。「さゝなみのしがゆ」でも書きましたが、そもそも先にあったのは人々の暮らしであって、国境なり何なりの境界は、人々の暮らしより後から来たものです。けれども、その後から来たものに人々の暮らしは護られ、そして阻害されます。 現在もなお不透明な国境線を臨む島・隠岐。けれども同時に、遠流・辺境の地として1つの境界の外にありながら、別の境界の内でもあった隠岐。常に、隠岐としてのみ在り続けてきた島。 ...参りました。どうやらわたしは、とんでもない処へやって来てしまったようです。大小様々な島陰や岩陰と押し寄せる白波と。 白島崎展望台の駐車場で、しばし呆けたように動けなくなってしまって、ただハンドルに額を載せて目を閉じていました。もう完全に、隠岐という土地に呑まれてしまったのでしょう。心を射抜かれてしまったのです。 いづへともいつとも知らにあれの来し人の世の来し天地の来し 遼川るか (於:白島崎展望台) −・−・−・−・−・−・−・−・−・−・− 4月まであと少し。そんな時期ではあっても、やはり日が翳ると肌寒くなります。上陸してすぐまでは綺麗に晴れていたのですが、少しずつ、少しずつ、増えてゆく雲に急かされて、道を急ぎます。 海岸部を離れ、今度は島の東西の真ん中辺りを、南下。目指すのは隠岐国一ノ宮・水若酢神社です。一ノ宮というくらいですから、もちろん式内社ですね。 実は、隠岐へ来る前から不思議に思っていたことの1つに、この水若酢神社の祭神がありました。幾つのかのWeb.ページで確認していたのですが、水若酢神社の祭神はそのまま水若酢命なんですね。けれども、寡聞にしてこの水若酢命とやらがわたしにはさっぱり判らなかったんです。...記紀でも見かけたことがありません。 もちろん、各地にもその土地ならではの神様はいますし、記紀に登場していない例も多数あります。ですが、それでも何らかの片鱗はちょっと調べれば手繰れるわけで、あるいは記紀に登場する神々と、何らかの形で縁続きだったり、と。なのに、水若酢命については、もうさっぱり...。 それだけに、かすな期待もしていました。実際に訪ねれば、案外 「なあんだ、そうだったのか」 ということになるのではないか、と。...が、結論から先に言ってしまえばそんな考えは甘かった、としか言いようがありません。それどころか一層の混沌、一層の迷走に陥ってしまったようなものです。 国道485号を淡々と進みます。周囲の風景はまだまだ季節を迎える前の水田と、幾つかの川と道の両側に続く山並みと。信号機は相変わらずなく、時折走ってくる対向車の存在に、軽く安堵してしまうほど静かで、すべてが止まっているかのような時間。 道案内の看板に従って左折し、狭い路地を進むと社殿と鳥居と、そしておそらくは土俵なのだと思いますが、ともあれそういったものたちが見えました。 水若酢神社。各地の一ノ宮に比べると、かなりこじんまりとしているお社のようですね。ともあれ、一の鳥居、二の鳥居、と潜ります。社殿近くまでやって来て、まずは由緒書きに目を通しました。 曰く、祭神・水若酢命は海中から出現し、山を越えてこの地に鎮座。国土開発・北方防衛の役割を担った神なのだ、といいます。一方、お社そのものは仁徳期、あるいは崇神期の創建となっているようではありますが。 ...流石に、仁徳や崇神の時代に、などとは思いませんけれども。 ただ、この神社で何よりも引っかかるのが前述している通り、隠岐の歴史を物語る伝承集・穏座抜記が水若酢神社に伝わっていた古記を抜書きしたものだ、ということで、ではそのソースたる古記を記していたのは誰なのか、と言えば社家の忌部氏、と。 いやはや、まさかこの地で忌部氏が関わってくるとは。忌部氏、つまりは古代に於いて中臣氏と勢力を二分し、朝廷の祭祀を担っていた一族。けれどもその後、権勢を握った中臣氏に押されて、徐々に排斥されていった一族。 ...言ってしまえば中央に対して恨み言の1つや2つ抱え込んでいたって、至極当然の氏族です。古語拾遺を残した斎部広成も、忌部=斎部ということでこの氏族出身です。 |蓋し聞けらく、 |「上古の世に、未だ文字有らざるときに、貴きも賎しきも老いたるも少きも、口口に |相伝へ、前言往行、存して忘れず」 | ときけり。書契ありてより以来、古を談ることを好まず。浮きたる華競ひ興りて、 |還りて旧老を嗤ふ。遂に人をして世を歴へ弥新たに、事をして代を遂ひて変へ改め |しむ。顧みて故実を問ふに、根源を識ると靡し。国史・家牒、其の由を載すと雖も、一 |つ二つの委曲は、猶遺りたる有り。愚かなる臣言さずは、恐るらくは絶えて伝ふるこ |と無からむ。幸ひに召問を蒙りて、蓄へきたる憤りをべまく欲りす。故、旧説ども |を録して、敢へて上聞る、と云爾。 斎部宿禰広成「古語拾遺 序」 古語拾遺の序文にも、すでにこの氏族の鬱憤が明記されていますね。 「蓄へきたる憤りをべまく欲りす」 と。...厳密には現時点で、隠岐の忌部氏が日本史に名を残している忌部氏と同族であることは明言しきれないようではあります。が、流刑地にはあまりにぴったりの、ともすれば出来過ぎな、とすら感じる流れにしばし唖然、です。 しかもこの隠岐忌部氏、室町時代には隠岐を統治していた隠岐氏と対立したこともあれば、幕末に起きた隠岐騒動でも、水若酢神社宮司・忌部正弘が総代として松江藩、ひいては江戸幕府に対抗しているわけで、どうやら隠岐という地に刻まれた中央拒否、あるいは隠岐はただ隠岐としてのみ在ろうとした歴史の、まるで象徴のような氏族にしてお社、と言えそうです。 ...であるならば、水若酢命が記紀には見えないのもとても納得がゆきます。隠岐独自の神を祀っていてこそ、でしょう。そもそもがそういう独自の神を祀っていたからこそ醸成された独立風土なのか、それとも独立風土だったからこそ独自の神を生み出し、そして祀ったのか、はともかくとしても、です。 いずれにせよ、何はともあれ隠岐に伝わる独自の創生の歴史をきちんと追いかけなければならないでしょう。そう、すでに少しご紹介している伊未自由来記の続きを、です。 隠岐に最初にやってきた木の葉比等、続いてやってきた海人。双方は次第に混住・混交してゆきましたが、海人たちは出雲から続々と渡来します。そして、絶対的な人数が上回る海人の風習や言語が隠岐を遍いていったのだ、といいます。 この頃、隠岐は小さな島の集まりという意味から、小之凝呂島(おのころしま)と呼ばれ、海人の長が統治していました。その在所が奈岐。現在の島後は西郷港のすぐ東辺りですか。以後、ここは小之凝呂島(隠岐)の中心地的存在として、現在に至ります。 |
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