...もちろん、ここで既成事実とは書きましたけれど、人麻呂の子息・美豆良麿の存在をわたし自身が確かなもの、として受け止めたわけではありません。それ以前に、人麻呂そのものが未だ実在が明確ではありませんから、その点は言うまでもなし。
 ですが同時に、まったく何も無い処に、こういう伝承が残っているのもまた首肯し難く、伝承のすべてが事実とは思わないまでも、断片的には何かがあったのだろう。...そうわたしは考えています。ともあれ、何はさておき隠岐に伝わる美豆良麿の伝説です。

 曰く、美豆良麿は父・人麻呂を凌ぐほどの神童だったらしく、同じく才長ける存在であった大津皇子との親交が深かったのだといいます。けれども、その大津はご存知の通り、謀反のかどで自害。美豆良麿もまた、これに連座する形で隠岐への遠流、その父・人麻呂も別の地に遠流に処されたのだ、と。

 流罪となった美豆良麿は、隠岐は主島の中心部よりやや西よりに位置する配所・横山寺にて生活を始めます。流罪当初こそ、半ば茫然として過ごしていた美豆良麿も、やがては島の人々とも言葉を交わすようになり、地元豪族の娘と恋仲に。
 引用の歌は、相手の娘が島前へ出掛けて留守にしている間に、娘を恋しがって美豆良麿が謡ったものとされています。主栖の浜、というのは現在の重栖湾のことらしく、ここ・白島崎よりも南西、主島の北部西岸になりますか。白島崎と重栖湾では、直線距離にしてもゆうに7〜8kmは離れていますから、そんな遠くの波音が聞こえるような気がするほど、島は静かだったのでしょうね。ちょうど、この今のように、です。

  

 白島崎からは逸れてしまいますが、もう少し美豆良麿の歌と逸話を続けます。

|葛尾山に 月は出でたり
|主栖潟 霧に水面の
|白鷺や 山びこ返す
|釣り舟も 千々に光を
|細小波 夢の山の緒
|雁鳴き渡る
                   柿本美豆良麿「穏座抜記聞書/金坂亮・著」
           ※大西俊輝「柿本人麻呂とその子躬都良」よりの孫引きです。


 同じく重栖の地から、娘を想った長歌となりますが、これらに対する娘からの返しです。

|岩立の甲羅尾の月も更けにけり寝なましものを松風の音
                    比等那公娘「穏座抜記聞書/金坂亮・著」
           ※大西俊輝「柿本人麻呂とその子躬都良」よりの孫引きです。
|言はましの契りを潮に啼く千鳥声は悲しも主栖浦波
                    比等那公娘「穏座抜記聞書/金坂亮・著」
           ※大西俊輝「柿本人麻呂とその子躬都良」よりの孫引きです。


 ですが、美豆良麿は隠岐に流されて2年目の冬に病の床に伏し、そのまま他界。23歳だったとのことですけれど、事切れる際、都の母親を偲び、空をゆく雁の音に思いを添えて詠んだ、とされる歌も残っていますね。辞世の歌です。

|あふことも身はいたつきに沖つ島さらばと告げよ渡る雁が音
                   柿本美豆良麿「穏座抜記聞書/金坂亮・著」
           ※大西俊輝「柿本人麻呂とその子躬都良」よりの孫引きです。


    

 ...如何でしょうか。正直、この柿本美豆良麿という存在についてわたし自身、かなり懐疑的ではありますし、一連の引用歌も、つづらを・山の尾・いたつき・さらば、と上古のものとするには少々厳しいかな、と感じられる言葉遣いも多く、また歌風もかなり古今調以降の印象を拭えないのが現実です。
 半ば口伝に近い現地の伝承ではなく、文献と言えるものに彼が登場するのは、知る限りで1件のみでしょうか。

| 石見の国の風土記に曰はく、天武三年八月、人丸、石見の守に任ぜられ、同九月三
|日、左京大夫正四位上行に任ぜられ、次の年三月九日、正三位兼播磨の守に任ぜらる
|云々。爾來、持統・文武・元明・元正・聖武・孝謙の御宇に至り、七代の朝に仕へ奉りし
|者か。ここに、持統の御宇、四国の地に配流せられ、文武の御宇、東海の畔に左遷せら
|る。子息の躬都良は隠岐の嶋に流され、謫所に死去にき。云々。
                  「石見国風土記逸文 人丸(詞林采葉抄 第9)」


 一般的に、人麻呂終焉の地とされている石見国。その風土記逸文が、確かに美豆良麿の存在を書き留めていますね。ですが、石見国風土記逸文そのものはさておき、少なくともこの人丸という逸文に限定するならば、かなり信憑性に欠けていると言えるでしょう。
 その理由を以下に列挙します。

 1) 隠岐が遠流の地と定められたのは、現存している最古の記述によると神亀元年
   (724年)。これは聖武即位の年で、大津謀反との時代的整合性がかなり低い。

 2) 風土記編纂を命じたのは元明天皇(713年に詔)。各国風土記は完成までに約30
   年前後を要しているが、それよりも後の孝謙期の記述がある。

 3) 風土記編纂時期の公文書であるならば、天皇の名を記載する形式がおかしい。

 4) 文中に登場する左京大夫という職は、天武朝には存在しなかった。

 上記の1)と3)について補足します。先ずは1)ですが、日本書紀や続日本紀を通読する限り、隠岐が配流の地と定められたのは上述している通り、神亀元年のこと。

|庚申、諸の流配の遠近の程を定む。伊豆・安房・常陸・佐渡・隠岐・土左の六国を遠とし、
|諏訪、伊豫を中とし、越前・安藝を近とす。
                「続日本紀 巻9 聖武天皇 神亀元年(724年3月1日)」
           ※この日付は現在、6月3日の誤りではないか、とされています。


 確かに、石見国風土記逸文には、ただ流された、とあるだけで配流の遠中近については明記されていません。なので、もしかしたならこれ以前から隠岐が、流刑地であった可能性は充分に考えられるでしょう。
 また、石見国風土記逸文自体には、美豆良麿配流の原因についても明記していませんから、定説とされている大津謀反への連座とは別の理由があった、とするならば整合性は成り立ちます。...といいますのも、大津の事件は朱鳥元年(686年)のことで、どうにもこうにも計算が合いません。仮に後から罪状を追求されたのだとしても23歳で隠岐で病死した、とされている美豆良麿には不可能ですから。

| 冬十月の戊辰の朔己巳に、皇子大津、謀反けむとして発覚れぬ。皇子大津を逮捕め
|て、并て皇子大津が為に誤かれたる直広肆八口朝臣音橿・小山下壱伎連博徳と、大
|舍人中臣朝臣臣麻呂・巨勢朝臣多益須・新羅沙門行心、及び帳内礪杵道作等、三十余
|人を捕む。庚午に、皇子大津を訳語田の舍に賜死む。時に年二十四なり。
                「日本書紀 巻30 持統天皇 朱鳥元年(686年)10月」


 ...ごめんなさい、これでは石見国風土記逸文に対する反論ではなくて、美豆良麿伝説そのものに対する反論になってしまっていますね。判りづらくて申し訳ないです。
 実際、別の美豆良麿伝説では朱鳥3年(688年頃)に隠岐にて21歳で客死、というものもあります。これならば大津謀反の年と美豆良麿が隠岐滞在2年目の冬に他界した、としている伝説とが計算上合致します。それと、隠岐への流罪第1号が彼だった、ということも考え併せれば、後年制定された内容とも、そう遠くはないようにも感じますが。

 続いて3)についてですが、要するに当時の天皇に対する表記というのは

|飛鳥の浄御原の宮に御宇しし天皇の御世〜
                          「出雲風土記 意宇郡 郷」
|難波の長柄の豊前の大宮に臨軒しめしし天皇の世
                             「常陸風土記 総記」
|志我高穴穂宮御宇天皇の御世〜
                            「播磨風土記 印南郡」


 諡号ではなく、皇宮地とその地で天下を治めた天皇、として記載していたということですね。号での記載は漢風とされ、少し時代が後になってからのものです。

 ともあれ、1)〜4)の全てが指し示しているのは、人丸という逸文が後の時代に書かれたものであろう、ということ。この石見国風土記逸文の人丸は、詞林采葉抄という書物に引用されています。
 お話は若干、前後してしまいますがそもそも風土記は天平期に編纂された風土記と、のちにそれが散逸してしまったことから再編纂されたものとがあります。そして、その再編纂とは
「風土記にこう記されている」
 と他の文献に引用されていた部分を編んだものです。つまり、逆を言えば大本のオリジナルがなくなっている以上、
「そう書かれていたのだ」
 と引用文まで書き添えられていても、何も確認できないんですね。

 問題の人丸に関する件を“引用”している詞林采葉抄は南北朝期の1366年に万葉学者の僧・由阿が著したものですが、天平期とは6世紀もの時間差があることになります。...その間に、美豆良麿の伝承が、伝播・定着・浸透し、あたかもそれこそが定説にして覆しがたいものにまで成長していたのならば、と。この先を敢えて言葉にする気はありませんが、あり得ないお話ではないでしょう。

 そして、そうであれば美豆良麿という存在も、逸文が書かれた頃にこそ定着していた逸話ではあれど、実在していたのかについては確たることが言えないのではないか、と。なので、わたしも美豆良麿の存在には、とても懐疑的な次第。
 ...繰り返しになりますが、そもそも、その父親である人麻呂すらも正史には全く登場しない、半ば伝説のような存在です。当然、その子息の実在がほぼ立証できるなんて、土台無理なお話です。
 一般的によく囁かれているのは、美豆良麿という名前も、36歌仙の凡河内躬恒と紀貫之の名前をそれぞれ捩ってみつね+つらゆき=みつら、としたのではないか、と。...わたし自身、流石に貫之こそ即座に想起しませんでしたが、凡河内躬恒はすぐに思い浮かんで、奇妙な違和感を覚えたこと、否定しませんよし。

 ですが、少なくとも隠岐という地に人麻呂絡みの伝説が今なお残っていることは、紛れもない事実です。そして多分、伝説というものは全くもって何もない場所には生まれないのも、人の世の摂理。
 これはやはり、石見と隠岐という地理的関係の影響でしょうか。「万葉集」には人麻呂の石見国に因んだ歌が複数、採られています。

|題詞:柿本朝臣人麻呂、石見国より妻に別れて上り来る時の歌二首[短歌を并せたり]
|石見の海 角の浦廻を
|浦なしと 人こそ見らめ
|潟なしと 人こそ見らめ
|よしゑやし 浦はなくとも
|よしゑやし 潟はなくとも
|鯨魚取り 海辺を指して
|柔田津の 荒礒の上に
|か青なる 玉藻沖つ藻
|朝羽振る 風こそ寄せめ
|夕羽振る 波こそ来寄れ
|波のむた か寄りかく寄り
|玉藻なす 寄り寝し妹を
|露霜の 置きてし来れば
|この道の 八十隈ごとに
|万たび かへり見すれど
|いや遠に 里は離りぬ
|いや高に 山も越え来ぬ
|夏草の 思ひ萎へて
|偲ふらむ 妹が門見む
|靡けこの山
                        柿本人麻呂「万葉集 巻2-0131」
|石見のや高角山の木の間より我が振る袖を妹見つらむか
                        柿本人麻呂「万葉集 巻2-0132」
|反歌二首
|笹の葉はみ山もさやにさやげども我れは妹思ふ別れ来ぬれば
                        柿本人麻呂「万葉集 巻2-0133」
|石見なる高角山の木の間ゆも我が袖振るを妹見けむかも
                        柿本人麻呂「万葉集 巻2-0134」
|つのさはふ 石見の海の
|言さへく 唐の崎なる
|海石にぞ 深海松生ふる
|荒礒にぞ 玉藻は生ふる
|玉藻なす 靡き寝し子を
|深海松の 深めて思へど
|さ寝し夜は 幾だもあらず
|延ふ蔦の 別れし来れば
|肝向ふ 心を痛み
|思ひつつ かへり見すれど
|大船の 渡の山の
|黄葉の 散りの乱ひに
|妹が袖 さやにも見えず
|妻ごもる 屋上の山の
|雲間より 渡らふ月の
|惜しけども 隠らひ来れば
|天伝ふ 入日さしぬれ
|大夫と 思へる我れも
|敷栲の 衣の袖は
|通りて濡れぬ
                        柿本人麻呂「万葉集 巻2-0135」
|反歌二首
|青駒が足掻きを速み雲居にぞ妹があたりを過ぎて来にける
                        柿本人麻呂「万葉集 巻2-0136」
|秋山に落つる黄葉しましくはな散り乱ひそ妹があたり見む
                        柿本人麻呂「万葉集 巻2-0137」
|題詞:(柿本朝臣人麻呂、石見国より妻に別れて上り来る時の歌二首)
|    或本の歌一首[短歌を并せたり]
|石見の海 津の浦をなみ
|浦なしと 人こそ見らめ
|潟なしと 人こそ見らめ
|よしゑやし 浦はなくとも
|よしゑやし 潟はなくとも
|鯨魚取り 海辺を指して
|柔田津の 荒礒の上に
|か青なる 玉藻沖つ藻
|明け来れば 波こそ来寄れ
|夕されば 風こそ来寄れ
|波のむた か寄りかく寄り
|玉藻なす 靡き我が寝し
|敷栲の 妹が手本を
|露霜の 置きてし来れば
|この道の 八十隈ごとに
|万たび かへり見すれど
|いや遠に 里離り来ぬ
|いや高に 山も越え来ぬ
|はしきやし 我が妻の子が
|夏草の 思ひ萎えて
|嘆くらむ 角の里見む
|靡けこの山
                        柿本人麻呂「万葉集 巻2-0138」
|反歌一首
|石見の海打歌の山の木の間より我が振る袖を妹見つらむか
|左注:右、歌体同じといへども句々相替れり。因りてここに重ねて載す
                        柿本人麻呂「万葉集 巻2-0139」
|題詞:柿本朝臣人麻呂、石見国に在りて臨死らむとする時、自らを傷みて作る歌一首
|鴨山の岩根しまける我れをかも知らにと妹が待ちつつあるらむ
                        柿本人麻呂「万葉集 巻2-0223」


 人麻呂と石見国については、詳しく追いかけ始めるととんでもないことになりますし、何よりもそれは、わたしが石見国へ出向いてから、考えたいことでもあります。なのでここでは、「万葉集」に採られた人麻呂の石見国に関わる歌を引用させて戴くに留めます。
 但し、美豆良麿に関してはもちろん別です。政治犯としての遠流とその地での客死。きっと流刑地・隠岐ではこういった悲劇が何度も、何度も繰り返されていたのでしょうし、だからこそ、そんな悲劇を見つめ続けていた島の人々の間から自然と伝説は生まれ、広がったのだと感じずにいられません。
 ...遠く離れた都。中央への遠回しな批判です。面と向かっては何もできない力なき民たちが、それでも募る思いに任せて語った逸話と、訴えるために謡った歌と。まさしく“うつたう”ですね。謡う、とはうつたう、つまりは訴えると語源を同じくする、という折口信夫氏の説の通りでしょう。

 歌謡ひ
 うつたふもののふさなるも
 ひとつなるゆゑ
 歌謡ふ
 ひと祈ひ祷むもふさなるも
 ひとつなるよし
 歌は歌
 歌は歌ゆゑ
 歌は歌にあること知らに
 歌はえ謡はじ

 あれ問はむあれ謡ひゐるゆゑよしをひと謡ひ来ししがゆゑよしを

 弥遠に来たればこそに遇はるれとけふなほしまた遇ひ初むる歌   遼川るか
 (於:白島崎展望台)

 
 静かに、けれども絶え間なく響く波と風の音。常に片側にしか立てない人間というもの。そして、正解と誤謬と...。正しさとは何なのでしょうか。そして正しさの価値とは何なのでしょうね。
 海は海でしかなく、陸は陸でしかなく。たったそれだけのことです。ただ、それだけでいいのに、と自身のしていることへの矛盾も含めて思っていました。

 いずれにせよ、美豆良麿はもとよりこの群島に刻まれた流人たちの思いと、それを見つめ続けた島民たちの思い。これらについては4つの島を訪ねきらないと、きっと見えてこないものがあるように感じます。
 ...ならば、ゆくのみですね。

    

 展望台を後にして、駐車場へと戻る途中、立て札を見つけました。
「ウラジオストク 803km」
「釜山 406km」
「金沢 295km」
「竹島 166km」
 この4つの札が、それぞれの地の方角を差しています。半島と大陸と本土と別の島。そして感じたのは、たまたまわたしが生まれた日本、倭国の成り立ちでした。

 すでに伊弉諾・伊弉冉の国生みについては述べましたが、もう少し書きます。隠岐に伝わる様々な伝説・伝承たち。その中には当然ですけれど、この地の開闢に纏わるものも複数あるんですね。
 そもそも、隠岐という名前。わたしの勝手な直感では沖から来ているのだとばかり思っていたんです。例えば記紀それぞれが伝える日本神話。そしてそこに記されたこの国最初の流人と言えば、はい。素戔嗚です。

 とてもよく知られている説話なので、詳細は割愛しますが、彼の様々な振る舞いから姉の天照は困り果てて天の岩戸に篭り、世界は闇に包まれます。仕方なく高天原の神々が知恵を絞って天照をもう一度、外へと誘い出しますが、もはや高天原の神たちは素戔嗚を赦すことはなく、高天原から彼を放逐。

|ここに八百万の神共に議りて、速須佐之男命に千位の置戸を負せ、また鬚を切り、手
|足の爪も抜かしめて、神逐らい逐らひき。
               「古事記 上巻 天照大神と須佐之男命 4 天の岩戸」








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