龍田の神奈備。塩田の森の看板にそうありました。磐瀬の杜探しは、すなわち神奈備探しでもあって、その神奈備は龍田の神奈備である、と。...はい、この地にはとても重要な大社がありますし、それこそが龍田の神奈備。しかも摂社にはその名の通り神奈備神社までがあります。
 龍田大社。...恐らくはこれが、龍田の神奈備の中心であり、当時その周囲に広がっていた森が、神奈備の磐瀬の杜でしょう。

 三郷駅前の磐瀬の杜、とされている広場から徒歩でもほんの数分。途中には、まず見逃すことはないだろう、というくらいに大きな看板もあって、いやはや。不謹慎ながら、
「本当に大社なんだなあ」
 と暢気に思ってしまいました。どうも奇異な感覚が満ちてしまっていて、なかなか自身の気持ちを引き上げられないでいた、と言いますか...。

 神奈備。前作でも、本作でも書きましたが、そもそも大和国で重要な神奈備は、三輪・葛城・雲梯・明日香、と。もちろん、これら以外にも神奈備はありますし、ここまで訪ねてきた数々の神社さんの中には、神奈備ではなかった場所も多くあります。
 だから、そのこと自体はさほど問題ではない、と思うのですけれど、磐瀬の杜を探していた時のような熱が自身の中から湧かないんですね。

 前述しているように、わたしの中では龍田という地名と直結してしまうのが上代ではないわけで、ではこの時代格差がお前にとってはどうだと言うのか、と問われたならば
「古代ではない」
 というのが最も的を得ているのかもしれません。もっと別の喩えをするのなら、山奥の寒村と人里でもいいでしょうし、原石と磨き上げられて装飾も施された宝石、などでも雰囲気は近いと思います。
 要するに人為。ひと言で表すのならば、そういうことになるでしょうね。

 いきなり脱線しつつも、核心的なお話なのですが、美しさを何に感じるのか、ということだと思うんですね。ファッションショーでモードに身を包みキャットウォークをしているスーパーモデルも美しいですし、農園で日に灼け砂埃にまみれては、土を耕して大らかに笑うおっかさんも美しいですけれど、わたし個人に限定するならば後者をより美しく感じてしまうわけで。
 だからこそ「万葉集」であり、上代歌謡だった、ということにも繋がります。また、そんなわたしがしている万葉巡りですから、自然と求めてしまうのはやはり土の匂い、なのでしょう。

 ですが、例えば十三峠のように伊勢物語なら伊勢物語だけ、というシチュエーションならばそれなりの愉しみ方ができるものの、龍田の地はどうしても「嵐吹くみむろの山の〜」の印象が克明であることと、にも関わらず風の森神社同様に五穀豊穣を祈念した風神信仰の地という印象とが、相容れないまま並存してしまっていまして。
 それがどうも消化不良を起こしているらしく、何となくテンションが上がらないのでしょうね。

 そもそも龍田に大社が据えられた経緯には、当時の複雑な政治情勢が絡んでいたのではないか、としている推論を何度か目にしています。

| 十日、小紫美濃王・小錦下佐伯連広足を遣わして、風神を竜田の立野に祭らせた。小
|錦中間人連大蓋・大山中曽禰連韓犬を遣わして、大忌神を広瀬の河原に祭らせた。
                     「日本書紀 巻29 天武4年(676年)4月10」


 上記引用に登場する広瀬神社については後述する予定ですが、この壬申の乱が治まってまだ間もない、というタイミングで天武が祀らせた、龍田と広瀬。地図上で位置を確認すると判りやすいのですが、龍田は大和盆地の出入口部分。広瀬はその大和盆地の中を様々に流れる複数の河川が合流する、まさしく水運の要衝なんですね。

 朝鮮半島で三国鼎立していた高句麗・新羅・百済。このうちの百済が唐・新羅連合軍に滅ぼされ、百済と友好関係にあった倭国には、現代で言うところの難民に等しい人々がたくさん移住してきていました。
 そして百済再興の助けとして、倭国は参戦。後に言う白村江の戦いに至るわけですけれど、ご存知の通り倭国は歴史的大敗を喫します。そして白村江の勝者であった唐と新羅は当然ですが、倭国にとっては脅威となってしまい...。
 だからこそ、防人制度なども始まったわけですね。

 そんな緊迫する国際情勢の中、国内、それも狭い畿内で古代史上最大の戦いであった壬申の乱が起きて...、もとい。起こしてしまったのですから、もはや国内外情勢はボロボロだった、としてしまって過言ではないと思います。
 壬申の乱を起こし、勝ち残った天武がしなければならなかったこと。そして兄・中大兄皇子が白村江で敗れたがゆえに、同じく天武がしなければならなかったこと。

 答えは簡単です。外敵の畿内侵入を未然に防ぎ、同時に国内をきちんと束ねて1枚岩となる。...これが天武朝に於ける最初にして最大の使命だったように、個人的には思えてなりません。
 大陸からの敵襲があるとすれば、朝鮮半島より海路で瀬戸内海を伝い、大阪湾から大和川を遡上して大和盆地内へ。
「青垣 山隠れる」
 と詠まれたように周囲を天然の要塞である山に囲まれた大和盆地にとっては、このルートを採られてしまうと、即チェックメイトです。
 また、天然の要塞に囲まれている立地というのは、外敵に対しては有利であっても内乱に対してはとてもとても不利です。背後を突かれても退路が確保できないのですから。
 そんな半ば密閉空間とも言える大和盆地。その入口に程近い龍田の地に龍田大社を。そして大和川、飛鳥川、寺川、曽我川など実に9つの河川が合流する広瀬にも広瀬神社を。
 即位してたったの4年で、天武が行った「まつりごと」、なのかも知れません。何分、政教一致の時代のことです。

 ただ、ここまでにお話したのはあくまでも日本書紀の記述をベースにしたならば、という条件が付きます。そう、日本書紀ではないものをベースにすれば、上述のことなどすべて空論となってしまうんですね。
 龍田大社に関してベースにできるもう1つの資料。それは延喜式です。

|   龍田風神祭
| 龍田に称辞竟へ奉る皇神の前に白さく、
| 志貴嶋に大八嶋国知しめしし皇御孫命の、遠御膳の長御膳と、赤丹の穂に聞食す五
|穀物を始めて、天下の公民の作る物を、草の片葉に至るまで成さざること、一年二年に
|在らず、歳真尼久傷へるが故に、百の物知人等の卜事に出でむ神の御心は、此の神と白
|せと負せ賜ひき。
| 此を物知人等の卜事を以て卜へども、出づる神の御心も無しと白すと聞看して、皇
|御孫命の詔りたまはく、神等をば天社国社と忘るる事無く、遺つる事無く、称辞竟へ奉
|ると思ほし行はすを、誰の神ぞ、天下の公民の作りと作る物を成さず傷へる神等は、我
|が御心ぞと悟し奉れと宇気比賜ひき。
| 是を以て皇御孫命の大御夢に悟し奉らく、天下の公民の作りと作る物を、悪しき風・
|荒き水に相はせつつ、成さず傷へるは、我が御名は天乃御柱乃命・国乃御柱乃命と、御
|名は悟し奉りて、吾が前に奉らむ幣帛は、御服は明妙・照妙・和妙・荒妙・五色物、楯・戈、
|御馬に御鞍具へて、品品の幣帛備へて、吾が官は朝日の日向ふ処、夕日の日隠る処の龍
|田の立野の小野に、吾が宮は定め奉りて、吾が前を称辞竟へ奉らば、天下の公民の作り
|と作る物は、五穀を始めて、草の片葉に至るまで、成し幸へ奉らむと悟し奉りき。
| 是を以て皇神の辞教へ悟し奉りし処に、宮柱定め奉りて、此の皇神の前に称辞竟へ
|奉りに、皇御孫命の宇豆の幣帛を捧げ持たしめて、王臣等を使と為て、称辞竟へ奉らく
|と、皇神の前に白し賜ふ事を、神主・祝部等諸聞食せと宣る。
| 奉る宇豆の幣帛は、比古神に御服は明妙・照妙・和妙・荒妙・五色物、楯・戈、御馬に御
|鞍具へて、品品の幣帛献り、比売神に御服備へ、金の麻笥・金のたたり(*)・金のかせひ
|(**)、明妙・照妙・和妙・荒妙・五色物、御馬に御鞍具へて、雑の幣帛奉りて、御酒はみか
|(***)閉高知り、みか(***)腹満て雙べて、和稲・荒稲に、山に住む物は、毛の和物・毛の
|荒物、大野原に生ふる物は、甘菜・辛菜、青海原に住む物は、鰭の広物・鰭の狭物、奥都藻
|菜・辺都藻菜に至るまでに、横山の如く打積み置きて、奉る此の宇豆の幣帛を、安幣帛
|の足幣帛と、皇神の御心に平けく聞食して、天下の公民の作りと作る物を、悪しき風・
|荒き水に相はせ賜はず、皇神の成し幸へ賜はば、初穂は・閉高知り、みか(***)腹満て雙
|べて、汁にも穎にも、八百稲・千稲に引居ゑ置きて、秋祭に奉らむと、王卿等、百官人等、
|倭国の六県の刀禰、男女に至るまでに、今年の四月〔七月には今年の七月と云へ〕諸
|参集はりて、皇神の前に宇事物頚根築き抜きて、今日の朝日の豊逆登に、称辞竟へ奉る
|皇御孫命の宇豆の幣帛を神主・祝部等被け賜りて、惰る事無く奉れと宣りたまふ命を、
|諸聞食せと宣る。
                        「延喜式 巻8 祝詞 龍田風神祭」
       ※(*)は喘の口偏を木偏にした表記、(**)は峠の山偏を木偏にした表記、
                         (***)は「瓦長」という表記です。


 かなり長い引用で恐縮ですが、要は第10代祟神天皇の時代、凶作が何年も続いたうえに疫病まで流行したことに心を痛めた祟神が、自ら天神地祇を祀って祈願すると天御柱命・国御柱命の2柱が夢枕に立った、と。そして
「龍田山に祀れ」
 と宣託をしたことから創建されたのだ、とか。...一応、日本書紀にもそれに何とか呼応しているのかも知れないな、という記述もありますが。

|大田田根子を、大物主大神を祀る祭主とした。また長尾市を倭の大国魂神を祀る祭主
|とした。それから他神を祀ろうと占うと吉と出た。そこで別に八十万の群神を祀った。
|よって天社・国つ者・神地・神戸をきめた。
             「日本書紀 巻5 崇神7年(紀元前23年)11月13日」 一部再引用


 ...はい、つまり前述している鴨氏の意富多々泥古(大田田根子)を三輪山の祭主とした際に、他の神様たちもそれぞれに祀って、神社も建てた、ということでしょうか。

 私見では、実質的に創建したのはやはり天武だと思っています。祟神云々というのは、それこそもう正統性の後付けと言いますか、何と言いますか...。
 祟神。それは、葛城王朝でも、欠史8代でもない、まさしく三輪王朝(大和王朝)の開祖とも言えるべき存在とされているわけで、その祟神が三輪山を祀り、この国の八百万神を祀り、それぞれの神社を整えた、という流れはいくら何でもでき過ぎでしょう。

 ただし、祝詞というものは、そもそもが
「聖寿の万歳とお米の豊作を祈る」
 ということを前提としている性質である以上、龍田風神祭の祝詞の正統性なり、正当性なりが云々ということではなくて、あくまでも解釈の問題だと感じます。...繰り返しますが、政教一致が前提の時代だったのです。

 余談になりますけれど、伊勢の枕詞である「神風の」などはかつての政教一致ゆえに、本来の意味とは全く別のものに成り代わってしまった代表格でしょうね。あまつさえそれが外来語として海外の辞書にまで“kamikaze”と載ってしまっている始末。
 本来は、五穀を育む風は神からの賜りもの、というシンプルなものだったはずなんですけれども。

 同様に龍田大社や広瀬神社もまた、政治的にどうこうは別として、一般的にはこう称されていますね。
「龍田の風神、広瀬の水神」
 と。

 雷丘や風の森神社に関連して書きましたが、国が栄えるためには、人々が健勝でなくてはならないですし、人々が健勝であるためには、何はさておき食べられなければ始まりません。そして食べてゆくのに欠かせないものは、日と水と風。それゆえの水神信仰ですし、風神信仰でもありますし。
 風神を祀る大社を龍田の地に創建した祟神、あるいは天武。その真意を確定的に語ることなどできないでしょうけれど、それでもすべての根底にあるのは生きてゆく、ということに違いはありません。


 どうも、初歩的な処でボタンの掛け違えをしている気がしていました。というのは、鏡が他界したのは天武12年(683年)の7月5日。天武4年に龍田大社が創建されたとした場合、肝心のあの歌を詠むには少々時間的に窮屈なように思い始めていまして。...というよりも、龍田大社と鏡が詠んだ神奈備が=ではなかったのではないか、と。むしろ龍田の神奈備自体は龍田大社よりもずっと先に存在していて、その地に後から龍田大社が創建されたのではないか、と。
 そんな疑念を微かに抱きながら緩やかな坂を登ってゆくと、龍田大社の手前に小さな祠がありました。どうやら龍田大社の摂社・神奈備神社のようです。看板も立っていましたので目を通したのですが少々ぐったりしてしまいまして。
 要点を掻い摘みます。
「龍田の神奈備は明日香の神奈備とならんで有名で、万葉集には30首近く詠まれている。磐瀬の杜は三郷駅前にある」

 事前の知識では、龍田の神奈備は三輪山の神奈備の分身を祀ったものだ、と。そして、そうであるならば、前述の祟神が云々という日本書紀の記述とはそこそこ一致してはいるわけですが正直、龍田の神奈備の三輪山分身説に納得はしていませんでした。
 けれども、だからといって三輪山の存在を無視することもまた、如何なものかと思いますし、どうにもよくある
「俺が本家だ」
「こっちが元祖だ」
 というような主張のし合いとも近く思ってしまったわたしは、やはり不謹慎極まりないのでしょう。同時に磐瀬の杜にしても、塩田の森の看板とこの神奈備神社の看板と...。

 いや、他人事ではありません。他の誰でもない、わたし自身も何も違わないでしょう。何故なら、わたしもまた神奈備探しも、磐瀬の杜探しも、しようとしていましたし、その為に龍田に来ているのですから。すなわち、どれが正統で、どれが異端だ、と決めたがっていたのだ、と。
 ...やっと気持ちが定まった気がしていました。わたしが1番やりたいこと。それはそう、壊したいのです。

 正統性も、正当性もひと度、主張すればそれは表裏一体の現実として他者の異端性なり、不当性なりを論うことになってしまうのが、世界の条理なのだとしたならば、それでも貫きたいことは、自身の中で貫くしかないわけで。
 磐瀬の杜。それはこの龍田から斑鳩にかけての一帯にあった森。さらには龍田の神奈備はその大きな森の深閑とした様から、人々が畏敬の念を抱くようになったゆえのもの。
 ...衾道と同じです。これが、わたしの辿り着いた答えです。


 うつそみはちさくもおほき葉をな見そひとつ葉な見そ森をし見ませ  遼川るか

 いをならば海処を知るや鳥ならば陸処を知るやひとなればいかに  遼川るか
 (於:神奈備神社、のち再詠)


 神奈備神社で簡単な参拝をして、さらに坂道を登ります。そして現れたのが龍田大社です。色々と神社を訪ねていますが、かなり近代的といいますか、立っている幟の文字などは、奈良の神社ではあまり見ない雰囲気です。
 いや、そういえば1ヵ所だけ似た雰囲気の神社を訪ねていました。...春日大社です。きっと参拝者の多いお社なのでしょう。

 龍田の風神。前述している通り、大元は五穀豊穣の為に祀られた風は、けれども同時に大和と難波の国境に近いことから、別れを惜しむ歌にも詠まれました。

|白雲の 龍田の山の
|瀧の上の 小椋の嶺に
|咲きををる 桜の花は
|山高み 風しやまねば
|春雨の 継ぎてし降れば
|ほつ枝は 散り過ぎにけり
|下枝に 残れる花は
|しましくは 散りな乱ひそ
|草枕 旅行く君が
|帰り来るまで
               高橋蟲麻呂「万葉集 巻9-1747」 高橋蟲麻呂歌集より撰
|我が行きは七日は過ぎじ龍田彦ゆめこの花を風にな散らし
               高橋蟲麻呂「万葉集 巻9-1748」 高橋蟲麻呂歌集より撰
|白雲の 龍田の山を
|夕暮れに うち越え行けば
|瀧の上の 桜の花は
|咲きたるは 散り過ぎにけり
|ふふめるは 咲き継ぎぬべし
|こちごちの 花の盛りに
|あらずとも 君がみ行きは
|今にしあるべし
               高橋蟲麻呂「万葉集 巻9-1749」 高橋蟲麻呂歌集より撰
|暇あらばなづさひ渡り向つ峰の桜の花も折らましものを
               高橋蟲麻呂「万葉集 巻9-1750」 高橋蟲麻呂歌集より撰
|島山を い行き廻れる
|川沿ひの 岡辺の道ゆ
|昨日こそ 我が越え来しか
|一夜のみ 寝たりしからに
|峰の上の 桜の花は
|瀧の瀬ゆ 散らひて流る
|君が見む その日までには
|山おろしの 風な吹きそと
|うち越えて 名に負へる杜に
|風祭せな
               高橋蟲麻呂「万葉集 巻9-1751」 高橋蟲麻呂歌集より撰
|い行き逢ひの坂のふもとに咲きををる桜の花を見せむ子もがも
               高橋蟲麻呂「万葉集 巻9-1752」 高橋蟲麻呂歌集より撰


 大和と難波の国境は、竜田山越えはもちろん、大和川を下ったとしても亀の瀬峡谷を通過するためにやはり、強風に見舞われるのだといいます。一連の蟲麻呂のお歌の中に、滝とか瀬、とあるのはそのためでしょう。
 そして、その風の神が龍田彦。恐らくは龍田大社の祭神・志那都彦神のことだと思います。

 余談になりますけれど、もう1柱の祭神・志那都比売神が龍田姫でしょう、きっと。なので当然、龍田=紅葉の名所となりますし平安以降の和歌では、もう不動の組み合わせです。
 もちろん、万葉歌にも龍田の秋を詠んだものは複数あります。

|雁がねの来鳴きしなへに韓衣龍田の山はもみちそめたり
                          作者不詳「万葉集 巻10-2194」
|妹が紐解くと結びて龍田山今こそもみちそめてありけれ
                          作者不詳「万葉集 巻10-2211」
|夕されば雁の越え行く龍田山しぐれに競ひ色づきにけり
                          作者不詳「万葉集 巻10-2214」


 ですが龍田+風を背景にすると、途端に詠まれだすのが桜なんですね。

|龍田山見つつ越え来し桜花散りか過ぎなむ我が帰るとに
                          大伴家持「万葉集 巻20-4395」


 当時の桜はソメイヨシノではなくて山桜だったはずですから、龍田の山に多く咲いても不思議はないでしょう。そして、風に祈りたくなってしまう散り様の花、と言えばやはり桜になるのでしょうか。
 恐らくは(龍田+風)+桜、というよりも、(風+桜)+龍田、ということなのかも知れませんね。

 大神神社や春日大社のような広すぎるお社ではなく、想像していたよりはずっとこじんまりしていた龍田大社はこの日。朝から嵐だったというのに、境内にいる間はどういうわけか、風が殆どありませんでした。境内に並ぶ幟も、参拝に来ている女性たちのスカートも、神職の方が手にしていた御幣も、みな殆どそよぎません。
 これを悪しき風から守ってくれる龍田彦のご加護だ、と捉えるべきなのか。それともご加護を受けられなかった、と捉えるべきなのか。...いや。何せかなり不謹慎なことまで考えていましたから、少々バチ当りではないかな、と。


 風、それは太古、人の子たちが崇め、祀ったもの。けれども同時に、畏れもしたもの。浮田の杜・荒木神社のことを思い出していました。この現代ですら木造の建築物を破壊しうる風です。当時の稲などひとたまりもなかったことでしょう。
 けれども、そんな脆弱な稲に一族全員の生命と未来を託していた太古の人々と、この現代社会に生きる人々と。

 わたしたち人間は一体、何処へゆこうとしているのでしょうね。何処へ行きたがっているのでしょうか。

 いづへなればたれもやすきと覚ゆるものか
 けだしくもみづは流れの果てを知らまじ    遼川るか
 
 真楫榜ぎゆくはかへすと違はざるとて
 風やめばみづもしやめばゆくもかへすも    遼川るか
 (於:龍田大社、のち再詠)








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