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今回の万葉巡りで、特に思ったことがこれでした。高丘宮跡も高天原も、あくまでも伝承地でしかなかったですし、引手の山も、毛無の岡も、そして磐余の池や因可の池も。 確かな学術的裏打ちがされていたり、半ば定説になっている、というある種の既成事実がなければ何故、いけないように感じてしまうのでしょうね。 例えば、登山で言うと頂上という“1番高いところ”を目指して登っていたとするならば、頂上には頂上としての裏打ちや、客観性が不可欠となるでしょう。ですが、それは何を求めてやって来たのか、という前提があってこそ成立する条理にすぎません。 では、ここでわたしは自らに問わなくてはならないでしょう。 「何故」 と。何故、わたしはこうして万葉の地を巡っているのでしょうか。亡母との約束はもうすでに叶っているというのに、です。同時に 「何を」 と。...ここまでにしてきた実感だけを頼みに語ると、この点さえ明確であるならば、判らないものを判らない、とすることも。さらにはないものが確かにここにはない、とすることも、怖くなんてないんですね。 いや、それどころか自身が1つ自由になれたような、不思議な感覚が身体の中にゆっくりと満ち、込み上げてくることを、わたしはもう衾道で経験してしまっているのです。 余談になりますが、引用歌の中に登場している莫越の山。こちらもやはり場所が定かではありませんね。奈良盆地の巨勢方面にある、という説はよく目にします。けれども、そうかと思えば、はるか遠い東国は安房国。現在の千葉県ですが、その房総半島の先端へ程近い地に莫越山ではないか、といわれる山と、莫越山神社が存在しているのだ、といいます。 春の嵐は気まぐれで、少し晴れ間が差し込んできました。法隆寺界隈を後にして、少し西に進むと周囲には恐らく梨、でしょうか。比較的背の低い果樹が増えてきています。 稲葉車瀬。斑鳩町の西部の地区に、磐瀬の杜ではないかと言われている候補地の1つがあります。 そもそも磐瀬の杜の候補地、とされているのは 1) 斑鳩の稲葉車瀬にあった森 2) 斑鳩の三室山近くの森 3) 三郷町の三郷駅近くにある森 の3ヶ所。もっとも個人的には、三室山の東側は、地図上だとそのまま稲葉車瀬になることもあって、3候補地というよりは事実上、2候補地くらいなんじゃないかしら、と大雑把に考えてしまっていますけれども。 ただ、たとえそれが3ヶ所であろうが、2ヶ所であろうが、大切なことは神奈備。そう、磐瀬の杜がどこであろうとも、それは神の坐ます地でなければ推理は成立しません。 どうやら磐瀬の杜探しは、同時に神奈備探しとなりそうです。 急激に気温が上がっているのでしょう。かなり蒸してきました。稲葉車瀬界隈は、斑鳩とはいえ純粋に住宅地であり、同時に農地らしく徐行している車の中からは特段、目立つ森や茂みは見つけられません。神社さんも探しましたけれど、それらしい位置には1ヵ所だけでした。 ...白山神社、とあります。 白山神社。神奈川帰還後に調べましたが、どうやら式内社ではないようです。ただ、斑鳩という土地そのものが歴史も古く、元々聖徳太子と縁が深いですから、神社の内外に関わらず、謂れのあるものはあちこち点在しているわけで。結果として歴史的には後から建てられた神社境内に、それら謂れあるものが据えられている、ということもあるのでしょう。 はい、境内には聖徳太子がひと休みした、という腰掛石と馬をつないだらしき、駒つなぎの柳が祀られていました。 わたしたちが暮らし、日々踏みしめている地表は、けれども複数の時代の人々と共有しているものでもあります。...このことを鮮明に認識させてくれたのは、明日香の地でした。様々な時期の宮跡が、重なり合うようにして発掘されていたのを目の当たりにして、しみじみ思ったものです。 「違う時空同士が、1つの土地を共有している...」 と。そして同じような感慨を、この斑鳩でも覚えていました。 腰掛石や駒つなぎの柳そのものの信憑性はこの際、度外視したとしても、先にそういう石や柳があったことから寓話が生まれ、その土地のうえに、たまたま後からお社が建てられたにしろ、あるいは先に寓話があって、たまたまちょうどいい石と柳があったことから同一視され、そこへ後からたまたまお社が建てられたのにしろ...。 その順序がどう入れ違っていようとも、それでもわたしが立っているのはこの地表でしかありません。...どうも複雑になりすぎたようで、少し疲れてしまいました。 極みをし知らに生くるは 空蝉のひとの子なれば 幸はふか 空しきことか ひとなれば山はし高し ひとなれば綿津見おほき ひとなれば日は遠白し ひとなれば土は尊し ひとなればえざるものとも 叶はざるものも ふさあり 賜ふことを奇とし得む 神奈備の磐瀬の杜に神あらば こをし伝ふをすべなるか あれの極みを 知らぬと見しか 天つ日を受くるたなうな こを遠く沁むれば地の上にしありをり 遼川るか (於:白山神社、のち再詠) いずれにしても最初にあるものはいつだって人間の思いですし、えてして人間が、その思いを寄せる為の象徴のような物体を据えたがるのは、宗教然り、史跡も然り、観光・景勝地もまた然り。 ですがそんな思いから生まれたはずの象徴が、今度は人に別の思いの発生を促します。神代の寓話も、歌枕も、信仰の対象も。 そうやって廻り続ける人々の思い。もはや最初に思いを抱いたひと、すなわち主から乖離して、その思いだけが単体で輪廻転生を繰り返しているのかも知れませんし、輪廻の輪を繋いでいるものこそが歴史の舞台、というひとつの地表かもしれないといいますか...。 いやはや、改めて思わずにいられませんでした。 「...どうしてわたしたち人間は、具象を求めてしまうのか」 と。あれこれ考えると、必ずここに辿り着いてしまうわたしがいます。 ささやかな木立を背に建つ白山神社は、住宅地の中のエアポケットのように涼しげな木陰が広がっていて、少しほっとしていました。具象を求めてしまうのが人間の習性なのだとしても、ならばせめて観光的な要素は希薄であればいいのにな、とつい願ってしまうからなんですが。 ...といって、わたしの思いとてまた、言ってしまえばささやかなエゴイズムであることは、当たり前ですけれど弁えているつもりです。 在るがままを受け入れる、というのは言葉で表すのは簡単ですけれど、では在るがままとはどういうことなのか、ということに至るとさっぱり判らなくなります。ここが本当に難しいですね。 物体である以上、1300年もの時が流れれば滅び、失われることは先ず避けられません。なので滅ぶものは滅ぶに任せるのが在るがまま、とも言えるでしょう。ですが同時に時代の潮流としてそれら史跡を観光地化することで何らかの営利や、保全が企図されるのだとしたならば、それに抗わないのもまた、在るがままと言えることでしょう。 在るがままのはずなのに、それぞれの着地点はもはや正反対ですね。 この世界に絶えず吹く風も、絶えず流れる水も、すべてその1つひとつがある者にとっては後押しとなり、でも同時にまたある者にとっては妨げとなります。要するに、何処にどう立った処で、思いがある以上、越えるべき壁は本質的にみな同じ。 それでは、思いを薄めて傍観者になればいいのでしょうか。 それもまた、違うと思いますね。ならば、自らの思いは思いとして納得ゆくまで貫いて、けれどもその後の結果についてはすべて甘受する。...これが人間という小動物に生まれた者の限界なのだと感じています。そして、だからこそ 「判らない」 これが、今のわたしにとっては最高の答えとして、放熱することもできるのでしょう。 白山神社を後にして、ほんの少しゆくと背の低い果樹畑の中に看板がぽつん、と。曰く岩瀬の森、と書かれていました。どうやらここが2番目の磐瀬の杜候補地なのでしょう。 看板に書かれていることを引用します。 | 当地の地名を「岩瀬」(古くは磐瀬)といいます。このあたりは龍田川の川底一帯に |岩が多く、急な流れであることから「岩瀬」と名付けられたようです。 | 岩瀬の地には「岩瀬の森」が広がり、森の中には祓戸神社という神社がありました。 |昔は祓戸の神へ< >り、付近を流れている龍田川で身を清める風習があったそうです |が、明治維新の時、この神社は白山神社(現在地より北東へ約200m)へ移されました。 |また、岩瀬の森は万葉集などに歌われている「神奈備の磐瀬の杜」であるといわれて |います。 | (中略) | この森は龍田川の左岸にあり、川向かいには三室山が見えます。歌中の「神奈備」は |三室山を中心とする龍田の神奈備(神の居場所)のことでしょう。「磐瀬の杜」は歌枕 |の一つとなり、後世の歌人たちはこの地を訪れることなく、龍田川付近を想定し歌作 |したであろうといわれています。 | 現在、岩瀬の森はそのほとんどを失い、「岩瀬」の地名とこの小さな森(土地では「塩 |田の森」と呼ばれている)が残っています。 岩瀬の森の看板掲載文より引用 < >は読み取れない文字。 ...いやはや、かなり参ってしまいました。ここにあった祓戸神社が、白山神社と合祀されていたなんて初耳でしたし、そもそも祓戸神社があったことすら知りませんでしたよし。 ですが、これで神奈備自体は固定できたことになるでしょう。そう、川向こうの三室山です。そして、その三室山との位置関係と、前述している毛無の岡があったであろう場所からの距離感と。これらを元に、3つの候補地からわたしなりの選択をすることが、ようやくできるような気がしてきました。 ならば、その三室山と最後の候補地へと、先を急ぎましょう。 たなすゑのなにしかまとふ 触るれば淀み触れなくば澄みゆくみづはあれに問ひかく 遼川るか 逃水やゆくほど風の強く吹く 遼川るか (於:塩田の森) 龍田川を渡った橋には岩瀬橋、とありました。そして眼前には小高い丘がひとつ。近くまでゆくとみむろ山との表示です。 |あらし吹くみ室の山のもみぢばは竜田の川の錦なりけり 能因法師「後拾遺和歌集 巻5 秋下 336」 はい、百人一首で有名なあの三室山ですね。そして、ここが龍田の神奈備ということになるのでしょう。 みむろ山。三室山とも御室山とも表記するらしいですが、大元は三輪山の尊称で御室、つまりまさしく神が降り給う処の山、という意味でした。やがてそれが広義に捉えられて、同義の神奈備も、みむろ山と呼ばれていったのでしょう。 ですが、「万葉集」に詠まれたみむろ山は、まだまだ龍田ではなく、三輪山のことでしょうけれどね。 |玉櫛笥みむろの山のさな葛さ寝ずはつひに有りかつましじ 藤原鎌足「万葉集 巻2-0094」 |我が衣色取り染めむ味酒三室の山は黄葉しにけり 作者不詳「万葉集 巻7-1094」柿本人麻呂歌集より撰 |見わたしの三室の山の巌菅ねもころ我れは片思ぞする 作者不詳「万葉集 巻11-2472」柿本人麻呂歌集より撰 ですが、こういうすっきりとした線引きは、時代が下るほど、どんどん曖昧になってゆきました。神奈備=みむろ山ということから、斑鳩にあった標高82mほどの小高い丘は、本来は三輪山を指していた尊称と混同され、そして定着。また、さらにはその神奈備という意味すらも、時代と共に形骸化されてゆき、専ら竜田川との1セットの紅葉の名所として、古典和歌に詠まれるように成り代わってしまったのでしょうね。 |立田川しがらみかけて神なびのみむろの山のもみぢをぞみる 俊頼「金葉和歌集 巻4 冬 284」 |立田河みむろの山の近ければ紅葉を波にそめぬ日ぞなき 教実「新勅撰和歌集 巻5 秋下 355」 |竜田河汀の浪も立そひぬみむろの山の五月雨の比 道家「続千載和歌集 巻3 夏 293」 |神なびの三室の山に雲晴て立田河原にすめる月影 範兼「続後拾遺和歌集 巻5 秋下 339」 |神無月三室の山の山颪にくれなゐくだる立田河浪 式子内親王「新千載和歌集 巻6 617」 |竜田川みむろの岸の古柳いかに残りて春をしるらん 家長「新続古今和歌集 巻1 春上 92」 ...流石に幼少期の刷り込みは強固なようで、珍しくもここみむろ山では、神奈備だという感慨がなかなか込み上げてきません。それにはもちろん、みむろ山自体がすっかり公園のようになってしまっていて、わたしの感覚ではあまりにもあっけらかん、としすぎていたことも、理由の1つだとは思います。 思いますけれど、そこはやはりわたしにとってみむろ山と神奈備では、みむろ山の方が先だった、ということなのでしょうね。 ...ましてすぐ傍を流れているのは龍田川です。 |ちはやぶる神代もきかず立田川から紅に水くゝるとは 業平「古今和歌集 巻5 秋歌下 294」再引用 こちらまで思い浮かんでしまっていまして...。どうやらわたしは、みむろ山を上代文学の舞台というより、中古文学の舞台として捉え続けたいようです。 しかし、どうにも手繰れそうで手繰れないのは、龍田の神奈備と磐瀬の杜です。それでは、磐瀬の杜の最後の候補地へ向いましょう。 こはこにてこにはあらざり いにしへはいついにしへとなりにしものか、いつにならむか 遼川るか いにしへにいにしへありてなほしいまもいにしへとなむ 遼川るか いまとふ水泡、けふとふかげろふ (於:三室山、のち再詠) 斑鳩から龍田川にかけては、それでも長閑な雰囲気だったのですが、JR関西線の三郷駅周辺まで来ると、やはり賑やかです。ここまでは、自身の周囲に人は殆どいない状態でしたが、急に人も増えました。 何かで事前に読んでいたのことに、JR関西線はこの駅を最後に大阪府へと続いている、とのこと。なるほど、つまりは今、眼前に聳えている一帯が、すなわち大阪との県境・竜田山ということになるのでしょう。 こざっぱりしているロータリーを出ると、線路際にちょっとした広場のような空間がありました。真後ろは柵1つ隔ててすぐに線路。そんな少し呆気にとられてしまいそうな場所の入り口に、文字が彫られた石が建っています。曰く 「磐瀬の杜」 さらに広場の奥には大きな歌碑があって「神なびの岩瀬の〜」が彫られていました。 ...また具象です。改めて歌碑の力はすごいな、と思うべきなのか。あるいは、具象に安心してしまう自身にすこし内省するべきなのか。ともあれ、塩田の森で 「磐瀬の杜はここだったのかも知れない」 と思っていたにも関わらず、この三郷駅前の磐瀬の杜で、歌碑を見てしまったら途端に、 「いや、やっぱりこっちが磐瀬の杜なんじゃないかな」 と思いそうになっている始末。 もちろん、ロジックでは塩田の森で納得しつつあります。また逆に、こちらの歌碑や広場入口の表示などは、どちらかに分ければ観光を意識していない、とは言えないことも事実なのでしょうけれどね。 磐瀬の杜を詠んだ万葉歌をもう1首、ご紹介します。 |もののふの石瀬の社の霍公鳥今も鳴かぬか山の常蔭に 刀理宣令「万葉集 巻8-1470」 「もののふの」は磐瀬を導く枕詞。 「磐瀬の杜のホトトギスよ、今ここで鳴かないか。山の陰で」 鏡と志貴と刀理宣令。それぞれの生きた時代などから考えると、詠まれたのは恐らく鏡のものが1番古く、続いて志貴、その後に刀理宣令となると思います。ただ、少し混乱したのがこの刀理宣令のお歌。底本の違いによるのか、万葉仮名の解読の違いによるのか、こんな風な訓読万葉にされているものも、そこそこ見かけるんですね。 |もののふの磐瀬の森の霍公鳥今しも鳴きぬ山の常陰に 刀理宣令「万葉集 巻8-1470」 「磐瀬の杜のホトトギスが今鳴いたことよ。山の陰で」 「万葉集」そのものに例えば“或本曰はく”と別記されていたり、“一に云ふ、今しも鳴きぬ”と異伝として扱われているわけでもありません。あくまでも、後世の人々が記し、解釈しているものに、この2つがあるわけでして。...多分に、底本の違いなのでしょうね。 ですが、これでは歌意がまったく逆になってしまうわけで、どうにも悩ましいことこのうえなし。ただ、いずれにしても刀理宣令が歌を詠んだ時に立っていた場所はやはり、磐瀬の杜とは少し距離がある印象ですし、そこから磐瀬の杜方面を眺めようとすると、山陰に遮られてしまうような立地だったのかも知れませんね。 どうも、だんだん重箱の隅をほじくり返しているような、窮屈な気持ちになっていました。 「判らないことを判らない、とすることは恐くなんてない」 という思いはちゃんとある一方で、それでも磐瀬の杜という長年の憧憬の対象が何処なのか自分なりに納得したい、という半ば願いにも似たエゴと言いますか、傲慢さもあって。 突き詰めてしまえば、わたし自身が磐瀬の杜に関して、どうしたいかが定まっていないのでしょうね。憧れがある分、視覚的にそれっぽい判りやすさに惹かれもしてしまいますし、そんな自身の身勝手な憧れよりも、そもそもの鏡や志貴たちが磐瀬の杜に寄せた思いをきちんと手繰りたい、という意思もあるわけで、ここが相反してしまっているのかも知れません。 例えば、長年憧れ追い続けた野生動物がいたとします。そして、いざその動物と遭遇できたならば、似たような思いに囚われても不思議ではないでしょう。つまり、捕獲していつでも自身が見て、触れられる状態でいたいという欲と、そうではなくてそのまま野生であり続けて欲しい、という願いと。 例示としては判りづらいかも知れませんが、わたしを悩ませる二律背反の本質は、たぶんにこの例と遠くないと思います。 ですが、ここまでに何度も書いてきていますが、わたしが最も重視・尊重したいと願う、万葉歌人たちの意思。1300年前の思いの断片である歌ですら、信憑性という側面には懐疑的にならざるを得ません。いや、それどころか、仮にそこに絶対的な信憑性があったとしても、わたしは鏡ではないのです。志貴でもないのです。 送り手と受け手のギャップの狭間で、次第に醸成される思い込みと思い入れと...。それらにどれほどの、正確性なり客観性があるというのでしょうか。 ...唯一、この磐瀬の杜に対して、わたしが 「したい」 と明確に思えるものがあるとするならば、そういう自身の内外に築かれてしまった先入観なり、固定観念なりを壊すことなのかも知れません。 いや、壊してしまいたいと、改めて。 ものゝふの磐瀬の杜に鳴く鳥の音なしまたも苦しや、愛しや 遼川るか 目に見ては影あることの常陰なむ 欲り欲るなへに離かるうつそみ 遼川るか (於:磐瀬の杜、のち再詠) すっかり晴れてきた空に向って、大きく伸びをしました。凡そ丸1日ぶりの太陽でしょうか。とはいえ、雲の流れを見ている限り、この晴れ間が長持ちするのは、ちょっと難しいでしょうね。だからこそ大きく、大きく伸びをしたくて...。 狭まってしまった視野ならば、一旦閉じてしまえばいいのですから。 |
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