洲崎神社そのもの創建は、洲宮神社の社家を長く勤めていたという、小野氏が伝える斎部宿禰本系帳なる家系図によると、養老元年(717年)の春。勝ヶ崎の洲宮という地に神戸を定めたこと。さらには養老4年(720年)に、その勝ヶ崎洲宮へ天比理乃当スを祀った仮宮を設け、洲崎神社と名づけたこと、などが書かれている、といいます。
 ですが、ごめんなさい。わたし自身はその斎部宿禰本系帳の本文を自身で確認出来ていませんので、そういう記述があるらしい、という旨のみ書き添えておくに留めさせてください。

 式内大社・后神天比理乃当ス神社。果たして、それが洲崎神社だったのか、あるいは洲宮神社だったのか。今でも諸説様々にあるようですが、わたし自身が感じたものとは別に、
「ああ、こうであったらいいな」
 と思ってしまったのが、こちら洲崎神社が拝殿で、洲宮神社が奥宮である、というもの。徳川家康の時代にものされた金丸家累代鑑という史料に残る、といいます。

 けれども、江戸中期にはここが安房国一ノ宮にまでなっていることなどを考え合わせると、それとて何処まで信じていいのかは定かではありません。それぞれへの評価は時代の中で様々に移ろうもの。
 現代ではすっかり鄙びしてしまっている洲宮神社と、その一方でこうも人為の匂いを放つ洲崎神社が、元正期である養老年間とでは一体、どれほどに変わってしまっているのか、などもはやわたしには手繰れそうもありませんので。


 それでも、どちらが正で、どちらが誤で、という線引きはやはりしたくはありませんし、事実出来ないからこそ、の論社でもあります。解らないものは、ただ解らないままに。けれども、確かに自身が感じてしまったものは、ただ感じてしまったものとして。
 そう接してゆければそれでいい。そう思うだけで、何故か不思議なほどすっきりと、納得できてしまった胸のまま、まだ150段近い石段を降ります。

        −・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−

 雲が多くて、早くも日が暮れかけているのか、それとも翳っているだけなのかは、判断できません。できませんが、それでももうあまり時間はない、ということだけは確かなわけで、とにかく急ぎます。目指すべき浮島は、すでに館山市ではなく、その北側にある鋸南町。洲崎からの移動距離も20km近くなりそうです。
 浮島。鋸南町勝山の沖約1kmに浮かぶ小さな島なのですが、私有地のため、基本的には上陸できない、とのこと。なので、とにかくできる限り浮島に近づける対岸の場所。恐らくは勝山漁港界隈になるのではないか、と考えているのですけれど、果たしてこちらの目的に適うポイントを探し出せるでしょうか。...ちょっと自信がないんですけれどね。

 房総フラワーラインから国道127号へと進み、ただただ北上します。日没までの時間を、窓の外をちらちら確かめてから推測して、目的地周辺までの距離を思い、少なからずジリジリと。...上陸できない以上、少しでもしっかり眺めたいですし、画像だって押さえたいです。けれども完全に日没してしまったら、もうそれらは叶いませんよし。
 時折、視界がひらけては見える海は、もうすっかり内房のそれです。何故なんでしょうね。わたしには古歌紀行を始めるよりもずっとずっと前から、外房の海と内房の海は、かすかに違う色をしているように見えます。外房の海は色が少しだけ淡く、逆に内房の海は濃く感じる、と言いますか。それと、匂い。潮の香りもやはり、違うんですね。内房のそれは、もう自身が住んでいる神奈川の海と変わらずに、重たいですし、逆に外房の海の香りは、軽い。あるいは浅い、と言うべきなのかもしれません。

 前述している通り、浮島界隈を訪ねる目的は浮島の行宮にあるわけなのですが、そもそもの浮島の行宮。これについて語るには、先ずは倭建の東征からご説明しなければなりません。ご存知の通り、第12代景行天皇の皇子・倭建こと、小碓王が東国各地を平定。けれども大和へと帰参する途上で、帰らぬ人となったわけですが、それを受けて父・景行が言ったんですね。
「わたしの愛しい息子を思い偲ぶことは、いつになったら止まるのだろうか。彼が平定した国々を巡幸したい」
 と。

| 五十三年の秋八月の丁卯の朔に、天皇、群卿に詔して曰く
|「朕愛みし子を顧ぶこと、何の日にか止まむ。冀はくは、小碓王の平けし国を巡狩む
|と欲ふ」
| とのたまふ。
| 是の月に、乘輿、伊勢に幸して、転りて東海に入りたまふ。
| 冬十月に、上総国に至りて、海路より淡水門を渡りたまふ。
                 「日本書紀 巻7 景行天皇53年(123年)8〜10月」


 日本の書記のこの記述に準拠するならば、8月に大和を発ち、伊勢を経由。古東海道を輿に揺られてやってきて10月、上総に到着。...余談ですが、恐らくは走水の海を渡るルートだったのでしょう。そして、そこからまた海路で淡=安房の水門へと渡った、ということですね。なので、木更津界隈から、海路を南下して安房へゆく途上の行宮の地が浮島、という解釈が成立するわけです。
 そもそも、日本書紀と古事記では、倭建の東征ルートが結構、異なっていまして。特に走水の海を越えてからの行程は

 古事記:〜走水〜上総(木更津界隈)から陸路を北上。下総を経由して常陸着。
     帰路は陸路で常陸〜武蔵〜相模〜足柄峠〜甲斐〜(以下略)

 日本書紀:〜馳水〜上総(木更津界隈)から海路を南下。房総半島を迂回して常陸〜
      陸奥着。帰路は陸路で陸奥〜常陸〜武蔵〜上野〜碓氷峠〜信濃〜(以下略)

 陸路で常陸入りしたのか、海路で常陸入りしたのかが、最大の相違点。その後の最終目的地が常陸までだったのか、遠く陸奥まで進んだのかは、話題が逸れるのでここでは擱きますが、上記引用の景行の巡幸は日本書紀のものですから、とりあえず整合はしていることになります。...古事記の景行期、率直に言って景行のことなんて殆ど記載されていませんので、はい。
 ともあれ、上述のルートから見ても、少なくとも景行が安房界隈を通過したことは、疑わなくてもよい、と考えられるでしょう。...が、日本書紀には肝心の浮島宮、という記述が存在しません。

|是の時に、覚賀鳥の声聞ゆ。其の鳥の形を見さむと欲して、尋ねて海の中に出でます。
|仍りて白蛤を得たまふ。是に、膳臣の遠祖、名は磐鹿六鴈、蒲を以て手繦にして、白蛤
|を膾に為りて進る。故、六鴈臣の功を美めて、膳大伴部を賜ふ。
| 十二月に、東国より還りて、伊勢に居します。
                 「日本書紀 巻7 景行天皇53年(123年)10〜12月」


 これは“淡水門を渡りたまふ”に続く日本書紀の記述です。つまり、淡水門でのあれこれの記述の後は、もう伊勢に戻った、という内容ですから、行程から鑑みるに浮島宮なるものが、安房にあったのか、それとも常陸、はたまた陸奥か、なども理屈としては成立してしまうわけでして。
 一方、浮島宮と少なくとも字面にきちんと記している文献は、2つ。高橋氏文と常陸国風土記です。それぞれを引きます。

|挂けまくも畏き巻向日代宮に御宇ひし大足彦忍代別天皇五十三年癸亥八月に、群の
|卿たちに詔りたまひて曰りたまひしく、
|「朕、愛しき子を顧ふこと、何の日にか止む。小碓王[又の名は倭武王そ]の所平し国
|を巡狩む」
| とのりたまひき。是の月に、伊勢に行幸したまひ、転りて東国に入りたまひき。冬
|十月、上総国の安房の浮島宮に到りたまひき。
                      「『本朝月令』所引 高橋氏文逸文」

| 郡の北十里に碓井あり。古老の曰へらく、大足日子の天皇、浮嶋の帳宮に幸ししに、
|水の供御無かりき。即ち、卜者をして占訪はしめて、所々穿らしめき。今も雄栗の村
|存れり。
                           「常陸国風土記 信太郡」


 はい、高橋氏文が安房の浮島宮、と明記しているのに対し、常陸国風土記もまた、浮嶋の帳宮、と明記。場所は当時の常陸国信太郡。現在の茨城県稲敷市浮島、つまり霞ヶ浦の中にある島なのか、あるいはその沿岸部なのか、といったところでしょうか。言うまでもなく、いずれも景行巡幸の際の行宮のこと。
 さてさて、悩ましいことこのうえないですね。一見して、どちらにも破綻は見受けられませんから、安房か、常陸か。...ですが、この答えは常陸の浮島を訪ねた時にきっと、出るのだと思っています。それよりも今は、この安房の浮島へ。日が完全に沈みきってしまう前に、少しでも早く。

 夕されば何しかさはくたれに鳥こもりてのこるけふそをしかる  遼川るか
 (於:国道127号途上)


 鋸南町に入り、下佐久間のT時路を越えた辺りから、自然と意識は自分の左側に集中します。少しでも海の近くへ、車で入れるぎりぎりの所まで。それに適いそうな路地を探して、車のスピードも、そうは思わずとも次第にゆっくりと。勝山の信号や県道248号も過ぎ、あとはもう本当に地元の方の生活道路や私道を何度も曲がり、ようやく見えた堤防と、日没直後のまだまだ明るさの残る空と。
 ...間に合いました。間に合えました。あとはこの限られた時間の中で、どれだけ。どれだけ、浮島に肉迫できるのか...。


 慌てて車を降ります。ここからはもう自分の足で、一番浮島が、それと映るポイントを探すしかありません。堤防まで走ります。勢い込んで登ると目の前には、思っていた以上に近く感じる島影。...浮島です。
 漁港を囲うように設えられた、向こう側の堤防と、係留されている漁船たちが、浮島の下半分を隠しているのがもどかしく、ならば、とさらに堤防の上を走ります。
「漁港の端までゆけば、向こう側の堤防はきっとなくなる。そうすればきっと、もっとちゃんと浮島が...」


 早くも息が上がり始めます。背中でリュックが右へ、左へと躍っています。帽子がずれて脱げてしまいそうで、思わず脱いで、左で握り締めました。
 そして途切れた堤防の傍、すぐ側に並ぶテトラポットと、打ち寄せる波たちの先にようやっと全身を現してくれた浮島。左側に連なるのは大ボッケ、小ボッケと呼ばれる岩礁。大ボッケには、浸食で穿たれた空洞があって、そこから垣間見えるのは、小さく切り取られた海と空。

 千葉県安房郡鋸南町浮島。個人所有の完全なる私有地につき、基本的に上陸は不可。島の頂上部には、浮島神社というお社があり、祭神は景行、倭建、弟橘姫、磐鹿六雁、とまでは聞き及んでいます。ですが何分、上陸できるのは年に1回、浮島神社の大祭の時だけ、とのことで詳細なデータは確認できていません。神社本庁編纂のデータベースにすら、ないくらいですから。
 これは帰宅後に気づいたのですが、その浮島神社の大祭。ほんの数日前だったはずです。そう言えば。惜しいことをしてしまいました。

 まだ息も切れたまま、それでもまるで吸い寄せられて、目が逸らせないくらいの引力で惹きつけられてしまっていました。慌てていたので喘息の吸入薬もなくて呼吸はとても苦しく、なのにどうしても。どうしても、視線が外せない...。魅入られた、というのはきっとこういう状態のことを言うのだ、と思います。
 泣いたら、余計に息が苦しくなるのは解っています。それでも、これを泣かずにいろ、という方があまりにも無体です。


 高橋氏文が伝える、安房の浮島宮を舞台とした故事を意訳してみます。

|時に、磐鹿六◆命、従駕に仕へ奉りき。天皇、葛餝の野に行幸したまひ、御◆したまひ
|き。大后八坂媛は借宮に御坐し、磐鹿六◆命も亦留守り侍ひき。此の時、大后、磐鹿六
|◆命に詔りたまひしく、
|「此の浦に異しき鳥の音聞ゆ。其れ駕久我久と鳴けり。其の形を見むと欲ふ」
| とのりたまふ。即ち、磐鹿六◆命、船に乗りて鳥の許に到れば、鳥驚きて他し浦に
|飛びき。猶追ひ行けども遂にえ捕ふること得ず。是に、磐鹿六◆命、詛ひて曰ひしく、
|「汝鳥、其の音を恋ひ兒を見むと欲ふに、他し浦に飛び遷りて其の形を見さず。今よ
|り後、陸に登るを得ざれ。若し大地の下に居ば、必ず死なむ。海中を住処とせよ」
| といひき。
                      「『本朝月令』所引 高橋氏文逸文」
                      ◆は獣偏に葛という旁の表記です。


 「このとき、磐鹿六雁命も天皇の一行に従っていた。天皇は葛飾野へ行幸して、狩りをされた。一方その時、大后の八坂媛は仮宮にいて、磐鹿六雁命も留まって大后にお仕えしていた。
大后が磐鹿六雁命に仰せられた。
『この浦で、ガクガクという霊妙な鳥の声が聞こえました。その姿が見たいのです』
 そこで、磐鹿六雁命が船に乗って鳥のところへ行くと、鳥は驚き、他の浦へ飛び去ってしまった。なおも追いかけて行ったが、捕らえることはできず、そこで磐鹿六雁命は呪いをかけて言った。
『鳥よ、そなたの声を慕って姿を見たいと思ったのに、他の浦に飛び移って姿を見せませんでしたね。なので、今から以後、陸に上がってはなりせん。もし陸に降りることがあるならば、必ず死にます。海中を住処としなさい』」

|還る時、舳を顧れば魚多に追ひ来たり。即ち磐鹿六◆命、角弭の弓を以ちて遊べる魚
|の中に当つれば、即ち弭に著きて出でて忽ちに数隻を獲つ。仍りて号けて頑魚と曰
|ひき。此、今の諺に堅魚と曰ふ[今角を以ちて釣の柄に作りて堅魚を釣るは此の由な
|り]。船過るに、潮涸れて、渚の上に居ぬ。掘り出さむとするに、八尺の白蛤一具を得
|たり。磐鹿六◆命、件の二種の物を捧げて、太后に献りき。即ち大后誉め給ひ悦び給
|ひて詔りたまひしく、
|「甚味く清く造りて御食に供へよ」
| とのりたまひき。
                      「『本朝月令』所引 高橋氏文逸文」
                      ◆は獣偏に葛という旁の表記です。


 「帰る時、船の艫を振り返ると魚がたくさん追いかけてきていた。磐鹿六雁命が角弭の弓を、泳ぐ魚たちの中に入れると魚が弭にかかり、たちまちたくさんの魚を獲ることができた。そこで、その魚を名づけて“頑魚”と呼んだ。これを今の言葉で鰹という[今、角を釣り針の柄にして鰹を釣るのは、これに由来する]。船は潮が引いてしまって渚の上に乗り上げ動けなくなった。船を掘り出そうとしていると、大きな白い蛤が1つ出てきた。磐鹿六雁命は、鰹と蛤の2種類の品物を捧げて、大后へと献上した。すると大后は、そのことをとても誉め、喜んで仰せられた。
『それを美味しく、美しく料理して、天皇のお食事に差し上げてください』」

|時に、磐鹿六◆命の申さく、
|「六◆、料理らせて仕奉らむ」
| と白して、遣はして、無邪志の国造の上祖大多毛比、知々夫の国造の上祖天上腹、
|天下腹らの人等を喚び、膾を為り、及た煮焼して雑に造り盛りて、河曲山の梔の葉を
|見て高次八枚さし作り、真木の葉を見て、枚次八枚さし作りて、日影を取りて鬘とし、
|蒲の葉を以ちて美頭良を巻き、麻佐気の葛を採りて、多須岐にかけ帯とし、足纒を結
|ひて、供御の雑物を結ひ餝りて、乗輿、御◆より還御りたまひ、入り坐す時に供奉り
|き。
                      「『本朝月令』所引 高橋氏文逸文」
                      ◆は獣偏に葛という旁の表記です。


 「磐鹿六雁命は
『六雁が料理をさせて頂きましょう』
 と言い、武蔵国造の上祖・大多毛比、秩父国造の上祖・天上腹、天下腹の一族を呼び寄せて、膾をつくり、煮炊きして様々に料理し盛りつけ、河曲山の梔の葉を選り採って来て高坏八枚、真木の葉を選り採って来て平坏八枚を作った。ヒカゲノカズラを採って鬘にし、蒲の葉で角髪を巻き、まさけの葛を採って襷にかけて帯として、足結を結んで天皇に供する様々な物を美しく整えて、天皇が狩りからお戻りになり、宮へお入りになった時に献上しようとした」

|この時、勅りたまひしく、
|「誰が造りて進る物そ」
| と問ひ給ひき。時に、大后奏ししく、
|「こは磐鹿六◆命が献れる物なり」
| とまをしき。即ち歓び給ひ誉め賜ひて勅りたまひしく、
|「此は磐鹿六◆命独りが心にはあらず。斯は天に坐す神の行ひ賜へるものなり。大倭
|国は、行ふ事を以ちて名に負する国なり。磐鹿六◆命は、朕が王子等に、あれ子孫の
|八十連属に、遠く長く天皇が天つ御食を斎ひ忌はり取り持ちて仕へ奉れ」
| と負せ賜ひて、則ち、若湯坐連等が始祖、物部意富売布連の佩ける大刀を脱き置か
|せて、副へ賜ひき。
                      「『本朝月令』所引 高橋氏文逸文」
                      ◆は獣偏に葛という旁の表記です。


 「この時、天皇が仰せになるに
『これは誰が料理し進上したものか』
 とお尋ねになった。そこで大后が
『これは磐鹿六雁命が献上したものです』
 と答えた。天皇は喜び褒めて、仰せになられた。
『これは磐鹿六雁命1人の力で行ったことではない。天にいらっしゃる神が行われたものだ。大和の国は、行う仕事によって名をつける国である。磐鹿六雁命は、我が皇子たちに、そしてまた生まれ継ぐ我が子々孫々にまで、永遠に長く天皇の食事に関わる職掌に清め慎んで従事し、仕え申しあげよ』
 と膳の氏の名を負わせになって、若湯坐連らの始祖の物部意富売布連が帯びていた大刀を解かせ、添え与えた」

|又、
|「此の行なふ事は、大伴立ち双びて仕へ奉るべき物と在れ」
| と勅りたまひて、日竪日横、陰面背面の諸の国人を割ち移して大伴部と号けて、磐
|鹿六◆命に賜ひき。又、諸の氏人、東方の諸の国造十七氏の枕子各一人づつ進らしめ
|て平次比例給ひて、依さし賜ひき。山野海河は多爾久久の佐和多流きはみ、加幣良の
|加用布きはみ、波多の広物、波多の狭物、毛の荒物、毛の和物、供御の雑物等を兼ね摂
|めて取り持ちて仕へ奉れと依さし賜ひき。

                      「『本朝月令』所引 高橋氏文逸文」
                      ◆は獣偏に葛という旁の表記です。


 「また、
『この仕事は、多くの伴が立ち並んで奉仕するものとせよ』
 と仰せになり、東西南北の諸国から人を割き、移して大伴部と名づけ磐鹿六雁命へ与た。また、諸氏の氏人や東方諸国の国造17氏の童子を、それぞれ1人づつ献上させて平坏と領布をお与えになり、彼らの統括を委ねた。
『山野海河は蟾蜍の渡る果てまで、船の通う果てまで、海の大小の魚、山の様々な獣など、供える全てのものを統括し取り仕切って奉仕せよ』
 と任じた」

|かく依さし賜ふ事は、朕が独りの心に非ず。是は天に坐す神の命ぞ。朕が王子磐鹿六
|◆命、諸友緒人等を催し率て慎しまり勤しく仕へ奉れと仰せ賜ひ誓ひ賜ひて依さし
|賜ひき。この時、上総国の安房の大神を御食つ神と坐せ奉りて、若湯坐連等が始祖、
|意富売布連の子、豊日連を、火鑚らせて、こを忌火として斎ひゆまへて、御食供へま
|つり、また大八洲に像りて八をとこ八をとめ定めて、神斎・大嘗等仕へ奉り始めき
|[但し安房大神を御食つ神と為すと云へるは、今大膳職に祭る神なり。今忌火鑚らし
|むる大伴造は物部の豊日連の後なり]。
                      「『本朝月令』所引 高橋氏文逸文」
                      ◆は獣偏に葛という旁の表記です。


 「『このように委ね、任じることは私1人だけの意思ではない。これは、天にいらっしゃる神のご命令であるぞ。我が王子・磐鹿六雁命よ、諸々の伴たちを督励し統率して慎み勤めて奉仕せよ』
 と仰せられ、祈誓されて委ね任じられた。この時、上総国の安房大神を御食つ神としてお祀りし、若湯坐連らの始祖・意富売布連の子の豊日連に火を鑚らせて、これを神聖な火として、斎い清めて御食に奉仕。また大八島を象徴するものとして、8男8女を定めて、神嘗や大嘗などのご奉仕を始めた[安房大神を御食つ神とすると言ったのは、いま大膳職で祀っている神である。いま斎火を鑚っている大伴造は、物部豊日連の後裔である]」

 御食。みけ、と読みますが、まさしく神様や天皇に献上する食料のことを差す言葉です。ここに引かせていただいた高橋氏文が記しているのは、その調理・調達に携わる職務である膳部の誕生と、それを司る者として磐鹿六雁が任じられた経緯そのもの。そしてそのドラマを生んだのが、山海の珍味豊かな安房国浮島の地、と。
 御食には、御食向かふ、という枕詞も存在し、膳の上で食物が向かい合っている様から生まれた言葉、とされています。掛かる言葉は膳の上に並ぶ、粟(あは)、味鴨(あぢ)、蜷(みな)、酒(き)、などの御食になるものと同音の淡路や味原、南淵山、城上などの地名。...なるほど何故、日本書紀の記述で安房が淡とされたのか、もこう考えると辻褄が合ってしまいますね。
 御食向かふ、が詠み込まれた万葉歌をご紹介しましょう。

|御食向ふ 淡路の島に
|直向ふ 敏馬の浦の
|沖辺には 深海松採り
|浦廻には なのりそ刈る
|深海松の 見まく欲しけど
|なのりその おのが名惜しみ
|間使も 遣らずて我れは
|生けりともなし
                         山部赤人「万葉集 巻6-946」






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