|飛ぶ鳥の 明日香の川の
|上つ瀬に 石橋渡し [一云 石なみ]
|下つ瀬に 打橋渡す
|石橋に [一云 石なみに] 生ひ靡ける
|玉藻もぞ 絶ゆれば生ふる
|打橋に 生ひををれる
|川藻もぞ 枯るれば生ゆる
|なにしかも 我が大君の
|立たせば 玉藻のもころ
|臥やせば 川藻のごとく
|靡かひし 宜しき君が
|朝宮を 忘れたまふや
|夕宮を 背きたまふや
|うつそみと 思ひし時に
|春へは 花折りかざし
|秋立てば 黄葉かざし
|敷栲の 袖たづさはり
|鏡なす 見れども飽かず
|望月の いやめづらしみ
|思ほしし 君と時々
|出でまして 遊びたまひし
|御食向ふ 城上の宮を
|常宮と 定めたまひて
|あぢさはふ 目言も絶えぬ
|しかれかも [一云 そこをしも] あやに悲しみ
|ぬえ鳥の 片恋づま [一云 しつつ]
|朝鳥の [一云 朝霧の] 通はす君が
|夏草の 思ひ萎えて
|夕星の か行きかく行き
|大船の たゆたふ見れば
|慰もる 心もあらず
|そこ故に 為むすべ知れや
|音のみも 名のみも絶えず
|天地の いや遠長く
|偲ひ行かむ 御名に懸かせる
|明日香川 万代までに
|はしきやし 我が大君の
|形見かここを
                        柿本人麻呂「万葉集 巻2-196」

|やすみしし 我が大君の
|あり通ふ 難波の宮は
|鯨魚取り 海片付きて
|玉拾ふ 浜辺を清み
|朝羽振る 波の音騒き
|夕なぎに 楫の音聞こゆ
|暁の 寝覚に聞けば
|海石の 潮干の共
|浦洲には 千鳥妻呼び
|葦辺には 鶴が音響む
|見る人の 語りにすれば
|聞く人の 見まく欲りする
|御食向ふ 味経の宮は
|見れど飽かぬかも
             田邊福麻呂「万葉集 巻6-1062 田邊福麻呂歌集より撰」

|御食向ふ南淵山の巌には降りしはだれか消え残りたる
              作者未詳「万葉集 巻9-1709 柿本人麻呂歌集より撰」


 他にも万葉歌には御食つ国、という言葉で御食を供する国のことを詠み込んだものが複数、採られています。謳われているのは淡路、志摩、伊勢。歌番号934は、933の反歌なので、ここで謳われている野島は、そのまま淡路のこと。

|天地の 遠きがごとく
|日月の 長きがごとく
|おしてる 難波の宮に
|我ご大君 国知らすらし
|御食つ国 日の御調と
|淡路の 野島の海人の
|海の底 沖つ海石に
|鰒玉 さはに潜き出
|舟並めて 仕へ奉るし
|貴し見れば
                         山部赤人「万葉集 巻6-933」

|朝なぎに楫の音聞こゆ御食つ国野島の海人の舟にしあるらし
                         山部赤人「万葉集 巻6-934」

|御食つ国志摩の海人ならしま熊野の小舟に乗りて沖へ漕ぐ見ゆ
                         大伴家持「万葉集 巻6-1033」

|やすみしし 我ご大君
|高照らす 日の御子の
|きこしをす 御食つ国
|神風の 伊勢の国は
|国見ればしも 山見れば
|高く貴し 川見れば
|さやけく清し 水門なす
|海もゆたけし 見わたす
|島も名高し ここをしも
|まぐはしみかも かけまくも
|あやに畏き 山辺の
|五十師の原に うちひさす
|大宮仕へ 朝日なす
|まぐはしも 夕日なす
|うらぐはしも 春山の
|しなひ栄えて 秋山の
|色なつかしき ももしきの
|大宮人は 天地
|日月とともに 万代にもが
                        作者未詳「万葉集 巻13-3234」


 さらには、時代がかなり下ってしまいますけれど、延喜式によると御食とは別に御贄。みにえと読みますが、こちらは天皇や宮中に供出する食材と、その産地として畿内5国の山城・大和・河内・和泉・摂津と、志摩・紀伊・淡路・若狭・近江・参河などが記載されています。
 ...当時の食品輸送を考えると、恐らくはこれらが限界で、当たり前になりますが、安房のような東国は適するわけもありませんね。


 余談になりますが、そもそも安房という国が置かれたのは、歴史的に意外と後だったことは、一番最初にお話した通り。

|乙未、越前国の羽咋・能登・鳳至・珠洲の四郡を割きて始めて能登国を置く。上総国の
|平群・安房・朝夷・長狹の四郡を割きて安房国を置く。陸奥国の石城・標葉・行方・宇太
|・曰理と常陸国の菊多との六郡を割きて石城国を置く。白河・石背・会津・安積・信夫
|の五郡を割きて石背国を置く。常陸国多珂郡の郷二百一十烟を割きて菊多郡と曰ひ
|て石城国に属く。
             「続日本紀 巻8 元正天皇 養老2年(718年) 5月2日」再引用


 景行期に安房という国は当然、存在していませんでしたから日本書紀で淡水門が上総国とされているのも、極めて自然なこと。因みに、その日本書紀の成立は2年後。養老4年(720年)のことです。

 走った所為なのでしょう。汗が噴き出して、こめかみと背中を流れてゆきます。相変わらず鼻の奥はつん、としていて滲み続ける涙と洟水。呼吸はまだ、楽になったとはとても言えない状態で、もっともっと浮島を眺めていたいのですが、そうも言っていられません。吸入薬は車に残したままで、仕方なく、そろそろとまた、堤防を戻り始めます。
 自分でも解りません。何故、こうまで自分が浮島に惹かれてしまうのか。そもそも、安房国を周ると決めた時点で、わたしの頭にあったのは、とにもかくにも安房忌部でした。浮島の存在など、考えてもいませんでしたし、何処にある島かすらも知らなかったわけで。

 ですが、布良崎神社もそうなのですけれど、旅をしているとこういう、全くのノーマークの場所を、気づけば訪ねてしまい、訪ねてしまえば、そこには新しい歓びが待っていてくれます。巡り合せ、あるいは偶然。そんな言葉で語るにはあまりにもそぐわない、まるでわたしではない、何かの意思によって出会い、招かれたのように感じてしまう場所たち。
 正直、実際にほんの1km先に横たわる浮島は、わたしの感覚では高橋氏文や日本書紀が言う白い大蛤や鰹を獲るには果たしてどうなのか、と思えてしまっています。鰹はまだしも蛤は厳しいのではないか、と。淡水と海水とが交じり合う、砂地でしか蛤は獲れなかったはずですから。...もちろん、かつての浮島界隈と現代のそれとでは、また地形も多少は異なっていたのでしょうが。

|安房国【行程上卅四日、下十七日】

| 調、緋細布十二端、細貲布十八端、薄貲布九端、縹細布二百五十端、鳥子鰒、都都伎
|鰒各廿斤、放耳鰒六十六斤四兩、著耳鰒八十斤、長鰒七十二斤。自餘輸細布、調布、凡
|鰒。
| 庸、輸海松四百斤。自餘輸布。
| 中男作物、紙、熟麻、丶紅花、堅魚、鰒。
                       「延喜式 巻24 主計寮上 安房国」

|常陸国【行程上卅日、下十五日】

| 調、緋帛七十疋、緋纈◆卅、紺帛七十疋、黄帛一百六十疋、◆一千五百廿五疋、長幡
|部◆七疋、倭文卅一端。自餘輸◆、暴布。
| 庸、輸布。
| 中男作物、麻四百斤、苧、紙、熟麻、白暴熟麻、紅花、茜、麻子、雜醋、鰒。
                       「延喜式 巻24 主計寮上 常陸国」
                        ※◆糸偏に施の旁の表記です。


 やはり延喜式の記述になりますけれど、安房は鰹、獲れていたようですね。一方の常陸には、記載なし。それでは蛤は、となりますが千葉県出土の木簡に、蛤の文字が認められるようです。ただし、あくまでも千葉県であって、安房、ではありません。
 かつて干潟だった東京湾。当時の国で言うならば、安房はもとより、その先の上総でもなく、さらに先の下総。つまりは、現代の幕張や船橋周辺になりますけれど、その辺りであるならば、蛤は確実に獲れていた、とも思いますが。逆に、湖と鹿島灘という外海にごく近かい常陸の方が、しっくり来てしまう予感は、まだ常陸を訪ねていないはずなのに、してしまっています。

 それだけではありません。海の色が...、わたしにはどうも、ここではないよと言っている気がしてならなかったんですね。実際に勝山側はともかく、浮島周辺は海が急激に深くなっていること、後からの調べで判明しています。
 ですが、それとは全く別次元で、浮島という島が、神意のようなもので護られている印象を放っていたことも事実。そして、こちらも後からの調べて判明したのですが、浮島内は滅多に人が足を踏み入れないだけあって、原生林で覆われている、とのこと。
「日本最後の原始の島」
 そんな風にも呼ばれているようです。...だから、ですね。だからあれほど、泣けてしまったのでしょう、きっと。

 御食つ国安房の浮島
 荒磯越す波を畏み
 うちひさつ宮ありし日の
 知らえずも
 漕ぎ渡らむや漕ぎ渡らまく欲しきてふ
 しくしくに思ひ思へど
 白波の五百重の波のさはきては
 よく見ていませ
 畏みて見れども飽かず
 旅なれば夕さりていまあれ離れむ
 荒磯に波に島蔭に
 いつにそ逢はむ
 しなが鳥安房の浮島
 畏けば
 目こそ隔てれ心隔てや

 神坐す斎つ島ゆゑに忌はりて渡らまく欲し安房の浮島  遼川るか
 (於:勝山漁港)


 ようやく車に戻り、先ずは吸入を。人心地ついてから見上げた空には、鳶が数羽、ゆったり描く弧。間もなく、夜がやってきます。
 これまでにも、上古に東国、と呼ばれた土地を歩いてきています。その土地、その旅ごとに思い感じることは様々でしたが、初めてでした。東国、すなわち為政者たちによって何かを変えられてしまった哀しみを負う土地、という思い込みではない目で見つめ、そしてそれを肌で感じ取れた国は。


 この国へ渡り、開拓していった忌部と末裔たち。彼らが祀ったのは自らの祖であり、恐らくはわたしたちが日頃思っている神という存在よりも、ずっとずっと近く、何よりも人そのものでした。
 それから数100年後、安房に至ったのは倭建。その父・景行は我が子の足跡を確かめながらも、この地の産物を認めました。そして、それらは後に中男作物という税の1つとして、畿内へ。さらに数100年後、もう1つの税である防人たちが、この地から筑紫へと旅立ち、また帰った来ていたのでしょう。

 果たして彼らは、哀しんでいたのでしょうか。嘆いていたのでしょうか。...それは、解りません。氏族の誇りを負い、それに生きた者もいます。統治者として、それでも乱れることなく、多くの民たちが平らかに生きられることを望み続けた者がいます。故郷を後にすることの哀しみに耐えながらも、やはりみなが平らかに生きられるのであるならば、と辛い勤めに臨んだ者たちもいます。
 哀しみは哀しみとして、嘆きは嘆きとして、けれども同時に誇りもまた、誇りとして。それぞれの立場で、人は生きます。...生きています。

 知りすぎてしまったわたしたち現代人とは違い、知る術が少なかったからこそ、知らなかったからこそ、もしかしたら現代よりもずっと恐れずに、構えもせずに、未知なるものを受け止め、受け入れていたかもしれない、いにしえの人々。
 彼らが見つめていたのは、いつだってきっと、その先に広がる無限の可能性だった。...そんな風に感じてしまうのは、今のわたしが少し疲れてしまっているからなのかもしれません。ただ、そう思いたいのかも、しれません。

 かつて上総で、道はそれでも繋がってゆく、と感じていました。そしてその思いをまた新たにしてくれたのが、安房国。すでに陸路すらもなく、海路を丸木舟とさして変わらないもので、畿内と安房を行き来していた往時が見せてくれたのは、人の子が宿す力であり、知恵であり、そして何よりも思いというもの。
 土に生き、海を行き、そして謡う。播いて、殖やして、刈り、また謡う。産んで、育んで、護って、謡い、生きて、ただ生きて、ただなお謡う。きっと、それだけです。たった、それだけであることが、逆にあまりにも眩しい。太古より人というものが負っているのは、たったそれだけなのでしょうね。

 うみつみちの果てとしてある安房国。この国に掛かる枕詞はしなが鳥、となります。万葉集にたった1首だけ採られている、高橋蟲麻呂のあの名歌によります。

|題詞・上総の末の珠名娘子を詠む一首 短歌を并せたり
|しなが鳥 安房に継ぎたる
|梓弓 周淮の珠名は
|胸別けの 広き我妹
|腰細の すがる娘子の
|その顔の きらきらしきに
|花のごと 笑みて立てれば
|玉桙の 道行く人は
|おのが行く 道は行かずて
|呼ばなくに 門に至りぬ
|さし並ぶ 隣の君は
|あらかじめ 己妻離れて
|乞はなくに 鍵さへ奉る
|人皆の かく惑へれば
|たちしなひ 寄りてぞ妹は
|たはれてありける
            高橋蟲麻呂「万葉集 巻9-1738」 高橋連蟲麻呂歌集より撰

|題詞・上総の末の珠名娘子を詠む一首 反歌
|金門にし人の来立てば夜中にも身はたな知らず出でてぞ逢ひける
            高橋蟲麻呂「万葉集 巻9-1739」 高橋連蟲麻呂歌集より撰


 しなが鳥。様々な水鳥をさす言葉のようですが、恐らくは現代のカイツブリが最も有力である、とされています。ただ、興味深いのはこのカイツブリ、その生涯を殆どを水上で暮らし、歩くということが極端に少ないようですね。何でも、足が身体のかなり後ろから生えていて、とてもバランスが悪く、そもそも歩くことにはあまり適さない身体なのだそうです。
 けれども、その足は一度水中に入るや否や、まるで櫂のような役割を果たし、泳ぐのにも、潜るのにもとても適している、と。

 覚えていらっしゃるでしょうか。磐鹿六雁命が、駕久我久と鳴く鳥に掛けた呪いを。

|「汝鳥、其の音を恋ひ兒を見むと欲ふに、他し浦に飛び遷りて其の形を見さず。今よ
|り後、陸に登るを得ざれ。若し大地の下に居ば、必ず死なむ。海中を住処とせよ」
                      「『本朝月令』所引 高橋氏文逸文」
                      ◆は獣偏に葛という旁の表記です。


 「陸に上ることは赦さない。ずっと海中で暮らすといい」
 ...件の鳥、もしかしらカイツブリだったのかも知れませんね。もしそうだとしたら、蟲麻呂にはもはや天晴れ、と言いたくもなりますし、同時にちょっと出来すぎかな、とも思ってしまうのですが。...因みにカイツブリの鳴き声は決して、ガクガクとは聞こえないらしいですけれども。
 そしてもう1つ。それほどに水を力強く掻くカイツブリの足は、黒潮に乗ってこの地へやってきた忌部たちの舟の櫂にも通じると、思えてなりませんし、陸上を不恰好に歩く様を想像すると何故か、愚直に、不器用に、それでも誠意をもって生きようとした広成老が残した、古語拾遺の言葉たちさえも、透けて見えてきそうです。


 しなが鳥安房。後日談になりますが、実は、訪ね漏らしてしまった場所が幾つかあり、この地を再訪するのは、そう遠くありません。秋になるのか、冬になるのか。ですが、今日のところは帰ります。会社に車を戻さなくてはなりませんし。日もすっかり沈んでしまいました。
 最後にもう一度、浮島を振り返ります。向こう側の堤防に隠されて、もう大ボッケも小ボッケも見えません。続いて今日、自身が訪ねて周って来た東と南の方角へ、また来ることを約束しながら深く、深く、一礼を。海に、空に、そして土にも、です。

 しなが鳥安房のくぬかにわたつみに幣取り向けむ早帰り来む  遼川るか
 (於:勝山漁港)





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