何分、こぢんまりしているお社で、参拝自体はすぐに終わってしまいましたが、印象的だったのは拝殿の引き戸が、ほんのわずかに開いていて、そこから垣間見えた鏡が、何だかまるで波の音を聞きたがっているように感じられてしまったこと。それと拝殿から戻る際、石段の上から見えた、布良の海。もちろん、布良星が見えるはずも無く、けれどもこういう自身の好き、という大きなくくりの中に偶然入ってしまった2つのものが、何故かそれぞれに響きあって、ここに来てしまっている自分がいて。

 不思議な気持ちでした。下立松原神社の時とは違う、別の何かに自分が呼ばれた、というよりも何だかここへ来ることがまるで決まっていたような、不思議な気持ち。海は少し波が高いのでしょうか。夏の午後によくある薄曇りの中、海と空との境界線が曖昧で、けれどもこの海を渡って、この地へ上陸し、祖神を奉り、入植した一族がいる...。
 叶うことなら、海からこの地を眺めてみたい、と思っていました。かつての忌部たちが、この安房という地を、どうその目に映したのか。上総でも、隠岐でも、近江でも、わたしは上陸した者たちの視線を、なぞることができていただけに、余計にそう思ってしまったんですけれどね。...残念ながら、この界隈でそれを叶えるには、漁船に乗せてもらうくらいしかできそうにありません。とても、残念なんですけれどね。

 境内にある由緒書きには、こうあります。

| 主神は天富命にして後に須左之男尊、金山彦命を合祀す。
| 祭神天富命、神武天皇の勅命を奉じて、沃土を東方に求むべく四国の忌部を率い
|てこの房総の地に至り、すなわち此の布良の一角を駒ヶ根と称す。駒ヶ根の東海岸
|に聳ゆる二峯あり。海岸に近きを男神山、他を女神山と称す。男神山に祖神天太玉命
|を、御后天比理乃当スを女神山に祀る。
| 命は此の本郷の地を出発点として現在の安房神社に祖神天太玉命を祀り、漸次開
|拓の歩を進められ北上し特に麻穀の播殖を奨励、亦建築並みに漁業の技術をも指導
|され、衣食住の神として崇敬厚い社なり
                             由良崎神社由緒書


 なるほど、つまり忌部たちの安房上陸の地が、ここであるということなのでしょう。それと男神山と女神山。現在もそう呼ばれている山が、帰宅後に調べたら布良漁港を囲うように存在しているようです。標高はそれぞれ100m以下の、本当に小さな山とのことで、女神山はともかく、男神山は登れるみたいです。
 地図で確認すると解るのですが男神山も、女神山も、正確には布良崎神社よりも2、300mほど南、国道410号を挟むようにしてあります。ただ、現在の海岸線では女神山の方が海に近く、これが果たして、漁港の建設などで海岸線が変化したからなのか、あるいは往時の男神山・女神山と、現在のそれが別のものを差しているのか、までは調べ切れませんでしたが。


 ただ、ここを上陸の地とするならば、やはり倭建の上総上陸とは異なるルートで、忌部たちが東を目指したのが、何となく手繰れます。つまり、倭建は陸路を来たからこそ、走水〜木更津界隈への上陸となり、忌部たちは海路を来たからこそ、布良に上陸した、ということ。
 むしろルートとしては、かなり後年の源頼朝が真鶴から安房へ上陸した際の海路に近いとも言えそうですし、逆を言えばかつてはそれくらい、そちらの海路は一般的だった、と言いますか、潮流などからしても、無理が無かったということなのでしょう。...そもそも阿波から安房へ、と至る海路。恐らくは途中々々で食料などの補給をしていなかったとは、潮と風と人力のみが推進力であった以上、考え難いですから。

 もう1つ、気になるのが合祀されているのが素戔嗚と金山彦、という点でしょうか。元々、この地にあった忌部の祖神・天富命を祀ったお社が、のちに安房神社の地へと遷り、布良崎神社は前殿となったのでしょうが、その頃には素戔嗚と金山彦が合祀、と。金山彦は鉱山や鍛冶の神様ですから、まだ解らなくはないんですけれどもね。
 天孫降臨に付き従い、天つ神の末裔であることを氏族の誇りとしていた忌部と、素戔嗚という組み合わせが何とも。あるいは、もうその頃には素戔嗚信仰が、各地にまで広がっていたのかもしれませんし、そうではないならば日本書紀にあるあの記述から、なのかもしれません。

| 素戔嗚尊の曰はく
|「韓郷の嶋には、是金銀有り。若使吾が児の所御す国に、浮宝有らずは、未だ佳らじ」
| とのたまひて、乃ち鬚髯を抜きて散つ。即ち杉に成る。又胸の毛を抜き散つ。是、檜
|に成る。尻の毛は、是艪ノ成る。眉の毛は是豫樟に成る。已にして其の用ゐるべはも
|のを定む。
| 乃ち称して曰はく、
|「杉及豫樟、此の両の樹は、以て浮宝とすべし。檜は以瑞宮を為る材にすべし。艪ヘ以
|て顕見蒼生の奥津棄戸に将ち臥さむ具にすべし。夫の◆ふべき八十木種、皆能く播
|し生う」
| とのたまふ。
                           「日本書紀 巻1 神代上」
                        ◆口偏に「敢」という表記です。


 はい、つまりは木。木の繁殖とそれら木材よって得られる船や宮、ということですね。個人的には、これが一番しっくりくる、と思っていますし、そうであるならばここ・布良崎神社に合祀されている神もまた、忌部ならでは。そう言えるのかもしれません。

 うみつみちその先ゆかば
 なほなほし玉鉾の道生れ生れて
 ひと生れ木生れ宮の生れ
 神なほ生れぬ
 いにしへゆ今のまさかも違はざる
 もろひと継ぎてしかあるは
 生くるてふわざ
 生す謡ふ舞ふ奉る天地に
 しかあるごとく
 しかあることを

 あれあるを今のまさかにあるてふを伝へ知らすやうみつみちなほ  遼川るか
 (於:布良崎神社境内)


 古東海道。そう書いてうみつみち、と読みますが倭建よりもさらに昔。まだ陸路すらも果たして存在していたか定かではない道の、1つの果てしとてあるこの地に。風と波の音だけは、変わることなく今も響きます。

        −・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−

 安房神社と並び、この安房の国に鎮座する社格大のお社。

|安房郡二座 並
|      大
|      安房坐神社 名神大。月次。新甞
|      后神天比理乃当ス神社 大。元名洲神
                           延喜式 巻9 神祇9」再引用


 延喜式神名帳曰く、その名を后神天比理乃当ス神社というお社は、けれども現在、その名を残すものが存在していません。というよりも、延喜式にあるこの名自体にも、かなり疑問がありますが。
 読んで字のごとく、天太玉命の后であった天比理乃当スを祀ったものであることは、想像に難くありませんし、先の布良崎神社の由緒書きにあったように、安房の地に上陸した忌部たちが男神山と女神山を祀った、という点から考えても、忌部たちの始祖とその后神は、神として祀られるのが当然の流れ。

 ですが、その后神の名をそのまま社名にしているのが、かなりの違和感です。そこで注目したいのが、元の名が洲神であった、という添え書きとなりますし、恐らくは延喜式神名帳を編纂するに当たって、正式名のなかったそのお社に、この名をつけて記載したのではないでしょうか。
 同時に気になるもう1点が、安房神社の上の宮に、この天比理乃当スが配祀されていること。もしかすると、本来の后神天比理乃当ス神社は、もう廃社されてしまい、そこで安房神社に配祀という形をとったのではないか。...そんな推測も出来てしまうのかもしれません。

 その一方で安房には洲神、という元名の面影を残すお社もまた2社、存在しています。1つが安房国一ノ宮の洲崎神社、もう1つが洲宮神社。もし、元名を根拠とするならば、この2社は、あるいは、莫越山神社や、下立松原神社同様、論社ともなりましょうか。...なかなか、ややこしいのですけれどもね。
 いずにしても、洲宮と洲崎。それぞれに先ずは行ってみないと。...そうしないことには、何も考えることなど出来ません。


 布良崎神社を後にして、国道410号をやや内陸部へと進みます。直線距離にして、約4kmほどの一帯に、洲宮という地番が存在。ちょうど国道と、近くを流れる小川が交差している地点のごく近くに、洲宮神社は建っています。道路から少し入った場所に白い鳥居。周囲は、昭和中期の頃の農村地帯にも似た、静かで懐かしい風景が広がっています。
 車を降りて、先ずは参拝を。ですが、ちょっと意外だったのは、それでもかつての社格大、とされるお社としては、この鄙びた感じはどうなのだろうか、と。見る限りで、境内には社務所やそれに類するものは見当たりませんし、これでは社格小、とされていた下立松原神社や莫越山神社と、大差なく...。

 社伝に曰く、神武元年に天富命が近くの魚尾山の頂上に、創建。その後、文永年間に社殿が焼失したため、今の場所に遷された、とのこと。魚尾山の山頂付近からは、確かに勾玉などが出土しているようで、古代祭祀の遺跡とされてもいるようですね。
 だからなのか、明治期には一度、こちら洲宮神社が式内社、と定められたこともあるようです。...が、その直後には、それ自体が覆され、今なお議論は絶えていない、とのこと。

 どうなんでしょうか。まだもう一方の洲崎神社を訪ねていませんので、わたしの自身の考えをまとめるタイミングではないのですが、それでもやはり覚えてしまう違和感は、洲宮の洲、です。
 得てしてこういう沿岸部は、土地の隆起も起こりやすいので、現代に比べて上古はきっと、もっと内陸部まで海岸線は入り込んでいたはず。けれども、そうだとしても遠すぎるのではないか、と。


 布良崎神社や安房神社が、当時とそう変わらない場所に今なお建っている、という前提に立つならば、洲に祀られた神、すなわち元名の洲神は、なかなか無理があるような気がしてなりません。もっとも、お社の前を流れる小川、その名も洲宮川というそうですが、仮にこの洲宮川が往時はそれなりの洲をつくるほどの河川だったというのならば、解らなくもないですけれど、それもちょっと想像しがたく。
 ...いや、その洲宮川の両岸に、丘陵がずっと続いているんです。まるで、その丘陵の中でもっとも低い部分に流れているのが洲宮川だ、といってしまえる風情でして。しかもそれらの丘陵がある以上、海岸線もまた、ここまでは入り込んでいなかったこと、立証してしまっているのではないか、と。

 けれども、魚尾山に最初は祀られて、という社伝自体は一も二もなく信じたいところ。やはり古代信仰の基本は、山岳にあったはずですから。出土品があるのも納得できます。
 残念ながら、その魚尾山。地図上でもわたしは確認し切れなかったのですが、様々な記述曰く、洲宮神社の向かい、とのこと。きっと、男神山や女神山と同様の、本当にささやかな丘のようなものなのでしょう。もしかしたら、視界には入っていたのかもしれません。ただ、わたしがそれ、と認識できなかっただけで。


 もう一度、境内をゆっくり歩いてみます。鳥居を潜り、短い参道を進んで、駅の階段ほどもない石段を登り、そして拝殿へ。拝殿奥の本殿と、その先には丘陵。...いやいや、決して風情のないお社だ、とは思っていません。もちろん、古社らしい佇まいはちゃんとあります。ですが、どうしてもイメージが結びつかないのです。
 后神天比理乃当ス神社なるお社が正史に登場する最初は、続日本後紀になります。

|冬十月辛酉朔壬戌。奉授安房国従五位下安房大神正五位下。无位第一后神天比理刀
|命神。
                     「続日本後紀 巻12 承和9年(842年)10月」


 それから延喜式が編纂された醍醐期までは約100年弱。その間にも他の正史・日本文徳天皇実録や、日本三代実録にも登場しています。当然、それなりのお社がきちんと、現在の社殿はともかくとしても、魚尾山には建っていた、ということなのでしょうけれども。...、肝心の魚尾山すらも確かめられていない状態では、もはやどうにも。
 ともあれ、もう1つの論社・洲崎神社へと急ぎましょう。

 こにあらずこにありしかを弥立てて来したるもののいかにしてかも  遼川るか
 (於:洲宮神社境内)


 余談になりますが、この洲宮神社に伝えられている洲宮神社縁起。こちらも中々、興味深いと言いますか、叶うことならば見てみたい、と思ってしまいます。忌部氏の安房開拓と、安房神社や洲宮神社、下立松原神社の創建の経緯といった古伝をまとめたものらしく、本文の1/3は失われた安房国風土記ではないか、と推測されている、とのこと。
 古語拾遺からの引用もあるようなので、縁起そのものの成立は早くても、平安末期以降となりますか。...確かに、安房国風土記を引用した、と考えるには十分な時系列ではあると思います。本当に、見てみたいものです。実際に見ることが叶わないならば、せめて全文を。そう願わずにはいられません。

        −・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−

 一時は雨も降ったのですが、雲間から日が射す瞬間が、少しずつ増えてきています。そして、悟るのはすでにすっかり日は傾いている、ということで、何とか日があるうちに、浮島へ。そんな思いが募ってしまい、ついついアクセルを踏み込む足にも力が入ります。
 館山市洲崎。ずっと外房側を海岸線に沿って、西へと走ってきた房総フラワーラインが、大きく右に。いえ、正確には蛇行する形で、再び東へと伸びる突端にあるのが、洲崎灯台。その向かいはもう、外房ではなく、館山湾です。そして、洲崎灯台よりも少し外房側に鎮座しているのが安房国一ノ宮、とされている洲崎神社。もう1つの元名洲神、と目されているお社です。


 境内二の鳥居の傍の駐車場で車を降り、流石に今回だけは、参拝へもってゆく荷物をもう一度確認しました。今回の古歌紀行では、きっと出番はないだろう、と思っていたんですけれどね。このお社の立地を見た瞬間に必要だ、と悟ってしまいまして。喘息の吸入薬です。
 それくらい、段数のある石段を登らないことには、参拝できそうにない境内には、氏子さんたちでしょうか。結構な人数の奥様方と子どもたちが、わいわいと集っています。

 聳える石段の手前には楼門。その楼門には、日の丸が掲げられていて、そういえば今日、世間では祝日だったのだ、と思い出しました。
 先ずは由緒書きを確認します。

|祭神 天比理乃当ス
| 当社は延喜式神名帳に「后神天比理乃当ス神社大 元名洲神」と記され、天太玉命の
| 后神を祀る式内大社で、元の名を洲神と称した。
|由緒
| 当社は宝暦3年(1753)の「洲崎大明神由緒旧記」によると、神武天皇の御宇、天富命
| が御祖母神天比理乃当スの奉持された御神鏡を神霊として、洲辺の美多良洲山に
| 祀られたことに始まる。
| 鎌倉時代の治承4年(1180)安房に逃がれた源頼朝が、戦勝と源氏再興を祈念して神
| 田を寄進、後、妻政子の安産を祈願している。室町時代には江戸城を築いた太田道
| 灌が、江戸の鎮守として明神の分霊を勧請したと伝えている。房総里見氏も当社を
| 尊崇して、7代義弘が神領五石を寄進し、江戸幕府もこれに倣って朱印状を下した。
| 幕末の文化9年(1812)房総沿岸警備を巡視した老中松平定信は「安房国一宮 洲崎
| 大明神」の扁額を奉納している。
| 神位は平安時代に正一位、鎌倉時代に元寇戦勝祈願の功により勲二等に叙せられ、
| 明治6年(1873)県社に列せられた。往時、別当寺は養老寺など五ヶ寺を数えた。洲崎
| 明神は古来伝承されている数々のあらたかな霊験から、安産・航海安全・豊漁・五穀
| 豊穣や厄除開運の守護神として信仰が厚く、現在に及んでいる。
                         洲崎神社境内の石碑より抜粋


 ...どうなんでしょうか。由緒書を見るだけならば、率直に洲宮神社のそれの方を採りたい気持ちになってしまいそうですが。けれども、立地という点で見れば、元名洲神により相応しいのは、比べるまでもなくこちら、洲崎神社だと感じます。何せこのお社、一の鳥居は海の目の前。洲崎、という単語自体、洲が岬のように海中に突き出した所、という意味をそのまま体現しているようなものですから。
 100段はゆうに超す石段のそのまた奥には御手洗山。ちょうど山の中腹に拝殿と本殿が建てられているのも、海沿いのお社としては、古社たる風情に満ちています。

 大きく息を吸ってから、楼門を潜ります。喘息もさることながら、そもそもの体力からしてこの石段、途中で休むことなく登れるでしょうか。...きっと、無理でしょう。全く鍛えてなどいませんので。
 急ぐことなく、休むことなく、一定のリズムで淡々と登ります。頭の中では一段々々のカウント。50段を越えたあたりから、少し息が乱れ始めました。それでも
「あと10段、あと10段」
 と励まし続けて結局、80段くらいで休憩と吸入。そして振り返った視界に広がる景色に、圧倒されました。石段と、楼門と、参道両脇の御手洗山の木々、そしてその先には海と空と。

 根拠なんてありません。ただ、わたしがそう思ってしまっただけです。少なくとも、延喜式に社格大、元名洲神、と記された式内社は、この洲崎神社ではないのか、と。それくらいの威厳を湛える光景に、ここではないのか、と。
 けれども同時に、こうも思いました。四国から、畿内から、黒潮に乗ってやってきた忌部たちが、始祖の1柱である后神天比理乃当スを祀ったのは、ここではないのではないだろうか。洲宮神社がかつてあったという、魚尾山だったのではないか、と。

 繰り返しますが、根拠など全くないのです。ただ、各地で様々なお社を周ってきたことから、なんとなく感じられるようになったその土地が放っている匂いや、温度、そして色たち。どれくらいの人為によるものか、その地の土の匂い、そして往時にもっとも近い存在として未だ生きている木々の佇まい。そういったものたちから、そう思ってしまった、というだけ。たった、それだけです。
 つまり、この洲崎神社にはそれ、とはっきり感じられるだけの威厳があって、けれどもその威厳こそが人為によるもの。古代のひもろぎなどとは、明らかに一線を画すものでもあるからなんですが。

 石段を登りきり、もう一度吸入。参拝のため臨んだ拝殿には、由緒書きにあった通り、松平定信の筆による扁額が掲げられています。今でこそ、安房国一ノ宮といえば安房神社の名前も度々、取り沙汰されますが、少なくとも江戸中期までは、安房国一ノ宮と言えば、間違いなくここだけを差していたのでしょう。
 そして、参拝。閉じた目の奥には、洲宮神社の鄙びた境内と、その向かいに続く丘陵地帯。ここの石段途中で振り返り見た、外海と内海が交差する洲崎の海。そのまた先に横たわっているものは黒潮。


 何を、どう、謡えばよいのか。そんなことを強烈に、厳格に問うてくる場所に、時々遭遇します。謡うよりも早く、様々なイメージが自分の中の流れ込んできて、息苦しくて圧倒されてしまう場所、です。
 ですが、そういう場所ではいつも、わたしがすることは1つだけ。ポケットに入れているボイスレコーダーのスイッチを押すだけです。あとはもう、自然と溢れてくる言葉たちが溢れたいように任せます。自分はただの依代でしかなく、言葉を紡ぎ、謡っているのは多分、わたしではなく言葉たちであり、歌という韻律であり、そして、その土地。

 ほりたるはうがらつ誉れ
 ほりたるは遠つ祖より神祖より
 かみろきかみろみ継ぎ来る
 伝へられたるかみづかさ
 神祀るわざ独神
 天之御中主神
 高御産日神
 次に神産巣日神
 しが子にて布刀玉命
 畏みて
 天の香具山
 眞男鹿の肩うつ抜きて抜きて亦
 天の香具山
 朱櫻とり占合ひまかなはしめて亦
 天の香具山
 眞堅木を五百箇眞堅木
 こじこじて根こじにこじて
 いで枝にそ
 八坂瓊の勾玉
 御統の五百箇勾玉
 八尺鏡
 白和幣・青和幣とり垂でて亦
 取り持ちし地高天の原ゆ天降りて祀り来し
 ひむがしに亦
 ひむがしに行き来せば
 五百重の波にうみつみち
 漕ぎたみ漕ぎたみ
 ふるさとが名こそ告らめや安房国
 あづまひむがし
 安房てふ地を

 しながとり安房洲神はこにそ祀れる  遼川るか
 (於:洲崎神社境内)







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