由布津主の誇り。それが、改めて手繰れるような思いに駆られながらの雨上がり。立ち込めた靄と、それゆえに一層、厳粛さが増した下立松原神社境内で、瞼の裏で結んだ像を確かめていました。

 ところで、天岩戸や天孫降臨はもちろん、神武よりもさらに時代が下った万葉期。この木綿(ゆふ)は多くの歌に詠み込まれています。大体30首くらいでしょうか。すべては無理なので、個人的に好きなもの、特徴的なものを幾つか引いておきます。

|三輪山の山辺真麻木綿短か木綿かくのみからに長くと思ひき
                         高市皇子「万葉集 巻2-157」
|ひさかたの 天の原より
|生れ来る 神の命
|奥山の 賢木の枝に
|しらか付け 木綿取り付けて
|斎瓮を 斎ひ掘り据ゑ
|竹玉を 繁に貫き垂れ
|獣じもの 膝折り伏して
|たわや女の 襲取り懸け
|かくだにも 我れは祈ひなむ
|君に逢はじかも
                        大伴坂上郎「万葉集 巻3-379」
|木綿畳手に取り持ちてかくだにも我れは祈ひなむ君に逢はじかも
                        大伴坂上郎「万葉集 巻3-380」
|うちひさつ 三宅の原ゆ
|直土に 足踏み貫き
|夏草を 腰になづみ
|いかなるや 人の子ゆゑぞ
|通はすも我子 うべなうべな
|母は知らじ うべなうべな
|父は知らじ 蜷の腸
|か黒き髪に 真木綿もち
|あざさ結ひ垂れ 大和の
|黄楊の小櫛を 押へ刺す
|うらぐはし子 それぞ我が妻
                        作者未詳「万葉集 巻13-3295」
|後れにし人を思はく思泥の崎木綿取り垂でて幸くとぞ思ふ
                       丹比屋主真人「万葉集 巻6-1031」
|肥人の額髪結へる染木綿の染みにし心我れ忘れめや
              作者未詳「万葉集 巻11-2496」柿本人麻呂歌集より撰
|天雲の 向伏す国の
|ますらをと 言はれし人は
|天皇の 神の御門に
|外の重に 立ち侍ひ
|内の重に 仕へ奉りて
|玉葛 いや遠長く
|祖の名も 継ぎ行くものと
|母父に 妻に子どもに
|語らひて 立ちにし日より
|たらちねの 母の命は
|斎瓮を 前に据ゑ置きて
|片手には 木綿取り持ち
|片手には 和栲奉り
|平けく ま幸くいませと
|天地の 神を祈ひ祷み
|いかにあらむ 年月日にか
|つつじ花 にほへる君が
|にほ鳥の なづさひ来むと
|立ちて居て 待ちけむ人は
|大君の 命畏み
|おしてる 難波の国に
|あらたまの 年経るまでに
|白栲の 衣も干さず
|朝夕に ありつる君は
|いかさまに 思ひませか
|うつせみの 惜しきこの世を
|露霜の 置きて去にけむ
|時にあらずして
                         大伴宿祢「万葉集 巻3-443」


        −・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−

 滝口の下立松原神社を後にして車に戻り、海岸線を再び。目指すは、今回の古歌紀行の最重要ポイント、とするべきなのでしょうね。ここまでの莫越山神社は、安房開拓に加わった氏族のうち、紀伊忌部や讃岐忌部の流れが色濃かったですし、下立松原神社は阿波忌部の流れ、としてしまっていいでしょう。
 ですが、忌部5部神の系譜というのは忌部の系譜そのものからすれば、傍流、あるいは朝廷より与えられた品部です。当然ですけれどそれらを束ね、忌部本来の神事・祭事を執り行っていた中央忌部とでもいいますか、解りやすくいえば本家のような存在があるわけでして。その祖たる存在こそが、天孫降臨に付き従った五伴緒の1柱・天太玉命そのひとですし、そこの孫にあたる天富命が安房開拓の祖でもあることは、すでに書きました。


 つまり、ここ・安房の地にも忌部の本流を祀るお社は必ずあるはずですし、あるとするならばやはり、安房上陸を果たした地にこそ、と。そう考えるのが自然だと思います。
 今日、内陸部から海岸線を目指して来たわたしが、ここまで品部たちの足跡を辿ってきているのもその証左となるでしょうし、先ずは開拓民の一団がそこにいるすべての者たちの祖、あるいは主の祖を祀り、そこから開拓が進むにつれて、それぞれの定住していった地も次第々々により小さな単位での集団の祖を祀った...、と。とてもシンプルな構図が描けますね。

 延喜式に、安房国には社格が大とするお社が2座。

|安房国六座 大二座 小四座
|安房郡二座 並
|      大
|      安房坐神社 名神大。月次。新甞
|      后神天比理乃当ス神社 大。元名洲神
|朝夷郡四座 並
|      小
|       天神社 
|      莫越山神社
|       下立松原神社 
|      高家神社
                         「延喜式 巻9 神祇9」再引用


 安房坐神社。現在では、一般に安房神社と呼ばれる後の官幣大社は、先の野島崎を房総半島の最南端として、すでに東京湾側へ入った地に鎮座しています。因みに住所地番も、そのものの大神宮、です。それくらい大規模な神領がその昔、存在していたのでしょうね。
 営業車にはカーナビがついていますから、いつものように地図を片手に右往左往する必要が、今回はないのですけれど、それでもここまでのお社はカーナビの地図上には名前がありませんでした。が、流石は官幣大社。地図上に名前があるどころか、50音検索の項目にも存在しています。

 海岸線の大きな通りから、細い路地を何度か曲がりまた大層、立派な鳥居へ。鳥居の傍に数台の駐車スペースもあって、そこからは歩きです。
 安房という地に於けるこのお社の権勢がいやでも感じられるほどの、そもそもの敷地の広さと、参道の広さ。安房国の一ノ宮は洲崎神社、と認識しているのですが、現代では安房神社もほぼ一ノ宮として周知されているのが、納得できてしまいます。


 玉砂利を敷きつくした参道を進み、拝殿前の由緒書を確認します。曰く

|房総半島の南端神戸郷に鎮り坐す旧官幣大社安房神社は、天太玉命を主祭神に天比
|理刀・命を配祀として奉斎し、摂社下の宮に天富命を祀る。
|延喜の制には名神大社に列せられ、安房国唯一の由緒正しき名社である。
|本社の主祭神天太玉命は中臣氏の祖神天児屋根命と相並んで天照皇大神の側近に
|奉仕し祭祀を司られた重要な神に坐します。
|天照皇大神が天石窟に御幽居あらせられた時には、天太玉命は天児屋根命と共に大
|神の出御を祷り遂に再び大御神の天日の如き御威徳を仰ぎ奉られたのである。
|安房開拓の神として当社の下の宮に祀らるる天富命は、天太玉命の御孫にあたらせ
|られる。天富命は四国の阿波国忌部族の一部を割いて関東地方に大移動ほ起し、最
|初に占拠されたのが房総半島の南端、即ち現在の安房神社の鎮座地であって茲に本
|拠を定めて祖神天太玉命の社を建てた後、次第に内地の方に進みこの半島に麻穀を
|播殖しその産業地域を拡められたのである。
|安房神社の御祭神は、日本産業の総祖神として崇められ更に現在では家内安全、交
|通安全守護神、厄除開運等、関東地方随一の神社として信仰が厚い。
                               安房神社由緒書


 主祭神は上の宮が天太玉命、相殿が后の天比理乃当ス。一方の下の宮の祭神が天富命と天太玉命の弟・天忍日命となっています。それに加えて、かつては忌部5部神も相殿とされていたようですね。
 正直、ここ安房神社に限らず、各地のいわゆる名神大社クラスのお社の由緒書というものがわたしはあまり得意ではありません。というのも唯一の、とか随一の、という修飾を本当に良く見かけるものですから。もちろん、その地にあってそのことを最大の拠所として今日まで至っているのですから、そこに変な誇張や他意はないのでしょうけれど、少々肩が凝ってしまいます。


 ですが、少なくとも安房神社のこの由緒書は読むべきもの、と感じてしまいますし安房国開拓神話そのものでもあるわけですから、しみじみ読み耽ってしまいそうです。後で安房神社のHPも確認していますが、内容的にはほぼ古語拾遺を踏襲していて、曰くそもそもは神武勅命の阿波開拓から始まり、さらには安房開拓へ、と発展していった、と。
 ただ、大筋はさておき、安房神社の由緒で1つだけ引っ掛かってしまったのが、占拠という表現です。...文字通りの占拠、だったのでしょうね、恐らくは。当時、どれほどの先住民が暮らしていたのか、は全くもって不明ですけれども。

 先ずは上の宮に参拝します。これも実は、後から知ったのですが主祭神の天太玉命、驚いたことに天宇受売命の父親に当たる、とのこと。正直、以前から天孫降臨伝説に違和感は覚えていたんですね。というのも天孫・瓊瓊杵尊に随行した五伴緒。天児屋命・天太玉命・天宇受売命・伊斯許理度売命・玉祖命、という顔ぶれなのですが、これはどういう意図での組み合わせなのか、と。
 天児屋命は祝詞をあげる神です。伊斯許理度売命は神器の鏡を作りますし、玉祖命も神器の勾玉を作る神です。天太玉命は、これまで書いてきているように、その他の神事に必要な祭具全般を作りますし、古語拾遺に拠るならば祝詞はあげないまでも祈祷もする。では、天宇受売命の役割は、と。

 因みに天孫降臨には五伴緒の他にも思金神や天手力男神なども従っています。...現代的な考え方ならば。いや、もしわたしが高皇産霊尊だったとしたならば、一も二もなく先ずは思金神は随行させるでしょうし、あとは身辺警護の役を担える神は当然、従わせます。もちろん、先行した経津主や武甕槌によって、葦原中国はすでに高天原に恭順しているのですが、それでも...、と。
 五伴緒。言ってしまえば神事を行うのに必要な神を、天孫と一緒に送り込んで葦原中国を高天原が完全掌握せんとしていたのでしょうし、その中の1柱としては、天宇受売命の存在が極めて異質に感じられていまして。さらには、天孫降臨に際しての猿田彦との一件が、その異質さをさらに際立たせているような、逆にその違和感を払拭しているような何とも説明のし難い印象をずっと覚えていました。

 ですが、古語拾遺を読み進めていくと、身勝手ではありますが
「ああ、そういうことか...」
 と感じられる記述に行き当たります。天岩戸の件でも解るとおり、天宇受売命は舞踊する神。天孫降臨での働きはそれとはかなり異なりますが、本来はそうなります。では、舞踊の真髄とは、となります。...あくまでも私見で語らせていただくのなら鎮め、ではないか、と。

 日本神話で語られる神々の本質は2つ。荒魂と和魂となるわけで、供物を捧げたり歌舞を奉納することで、その荒魂を鎮めて和魂とするのではないか、と。はい、天岩戸神話そのものです。そして神様への供物としての巫女、というのはもう日本神話に限らず洋の東西を問わずに見られる共通項。
 ただ、その一方で天孫降臨の際は、異界のものに対するある主の威圧の役割を果たしているわけで、これ自体もまた天宇受売命自身の荒魂と和魂とも言えるのかもしれませんし、別の形での鎮めの役ともなる、...のかもしれません。かなり穿った見方なのは、重々承知していますれども。

| 天照大神は、本、帝を同じくしたまへり。故、供へ奉る儀も、君と神と一体なりき。
|天上より始めて、中臣・斎部の二氏は、相副に日の神を祷り奉る。猿女が祖も、亦、神
|の怒りを解く。然れば、三氏の職は、相離るべからず。而るに、今、伊勢の宮司は、独り
|中臣氏を任して、二氏に預からしめず。遣りたる三つなり。
                             斎部広成「古語拾遺」


 これまでに何度も書いてきていますけれど、個人的に天宇受売命は本当に好きな1柱です。ただ、その好きという感情が先行して、彼女が日本神話の中で、どういう役割を負っていたのか。また、神代があくまでも神話とは言えども、彼女は何らかの形で日本という国の歴史に影響を与えたのか。あるいは歴史に影響を受けて生み出された存在、なのかもしれませんが、いずれにしてもそこには何らかの意図、政としての意思が先にあったことは否定するまでもないでしょう。
 ですが、そこにわたしは思い至ってはいなかったわけで、ただただ何故、彼女が五伴緒の1柱に加わっていたのかに漠然と、違和感を抱き続けていたのですがけれどもね。

 和魂を請ぎ荒魂を鎮めては謡ひ舞はむや けふもみなひと  遼川るか
 (於:安房神社境内)


 猿女氏。言うまでもなく天宇受売命と猿田彦を祖とする氏族です。主に神楽舞を司っていたわけですが、広成老が書き記したように、氏族としては忌部(斎部)同様、没落していったのだ、と。しかし、そもそもの系譜が忌部と同じくするものであるのならば。平安期、藤原でなければ人ではない、とまで謳われた時代と、そもそも日本書紀の編纂には藤原鎌足の息子・不比等の思惑が背景にあることなどからして、ようやく繋がる1本の糸が浮かび上がってきますね。

安房神社再訪時に撮影 2010.1.16

 天太玉命を主祭神とする安房神社の境内で、天宇受売命のことばかり考えてしまうのも、また随分な不敬。気を取り直しまして、引き続き天富命を祀る下の宮へ参拝します。
 天富命に関する記述は、記紀に一切ありません。また、1つ気になるのが安房忌部の系図です。前述している通り、天富命は娘の飯長姫を、天日鷲の孫・由布津主に娶わせています。そして生まれた訶多々主こそが安房忌部の祖。事実、安房神社や下立松原神社に伝わる安房忌部の家系図には、その後の約80代近くにもなる系譜が記されている、とのお話を聞いたことがありますし、その系譜は天太玉命とその孫・天富命、さらにその孫の訶多々主などが、間違いなく記載されている、とのこと。わたし自身は、残念ながら家系図を見せて頂いたことはないのですけれどもね。

 ただ、天富命が神武の勅命を受けた、とある以上、やはり当時の忌部宗家の当主は天富命となりますし、けれどもここ・安房には娘以下の系譜が残るだけ、と。嫡流たる男子は大和にいたのでしょうか。...いなければ、そもそも古語拾遺を記した広成老は一体、誰の血筋になるのでしょうね。因みにわたしが調べた範囲では、広成老は天富命の19世孫、となっていましたが。
 それと、古語拾遺を読んでいると安房開拓以降と思われる中央の記述に、天富命の存在が見られまして。どうしても彼は、中央へ帰参した印象が拭えません。つまり、開拓にある程度の目鼻がついた時点で、由布津主にすべてを託したのではないか、と。

|日臣の命、来目部を師ゐて、宮門を衛護り、其の開闔を掌る。饒速日の命、内の物部を
|師ゐて、矛・盾を造り備ふ。其の物、既に備はりて、天富の命、諸の斎部を率て、天璽の
|鏡・剣を捧げもて、正殿に安き奉り、并、瓊玉を懸け、其の幣物を陳ねて、殿祭の祝詞
|〔其の祝詞の文は、別巻に在り〕す。次に、宮門〔其の祝詞も、亦、別巻に在り〕を祭
|る。然る後に、物部、乃ち矛・盾を立てつ。大伴・来目・仗を建て、門を開きて、四方の国
|を朝らしめて、天位の貴きことを観しむ
                             斎部広成「古語拾遺」


 これは神武即位に関連する記述です。先に引用している忌部の東進は、記述で言いますとこれよりも手前、つまり時代が古い記述です。さらにもう1つ。

| 又、天富の命をして作り供へまつる諸氏を率て、大幣を造作らしめ訖はりぬ。天種
|子の命〔天児屋の命が孫〕をして天つ罪・国つ罪の事を解除へしむ。所謂天つ罪は、
|上に既に説き訖はりぬ。国つ罪は、国中の人民の犯せる罪なり。其の事、具さに中臣
|の祓の詞に在り。爾して乃ち、霊の畤を鳥見山の中に立つ。天富の命、幣を陳ねて、祝
|詞して、皇天を◆祀り、群望を■秩りて、神・祇の恩しびに答ふ。是を以ちて、中臣・斎
|の二氏、倶に祠祀の職を掌る。猿女の君氏、神楽の事を供へまつる。自余の諸氏、各も、
|其の職有り。
                             斎部広成「古語拾遺」
                ※◆は示偏に西と土を縦に並べた旁の表記です。
                    ※■は行人偏に扁という旁の表記です。


 あるいは、こうやって中央と安房を行き来した天富命の行程が、後の古東海道の下敷きになったのかもしれませんね。初代天皇である神武と、実在が危ぶまれている倭建命はともかく、その父である第12代景行天皇の東征。途中、欠史8代をなかったものとしても、時代は明らかに天富命の方が手前になりますよし。
 そうじゃなければ、海路。難波から太平洋にぬけて一路、安房へ。難波・大和間ももしかしたら大和川に沿った水路、ということだって考えられます。そしてそれならば、徒歩よりもさらに行程は楽だったことでしょう。

 思えば、ほんの100余年前までは、江戸・京都間も人は徒歩で行き来していました。幕末の京都と江戸を繋いでいたのは現代のものとそう変わらない東海道となりますが、同時に大阪湾から海路で江戸へ、というルートもかなり発達していたわけで、現代のわたし達からすれば、大変だったのだろう、と感じてしまうことも逆に当時の人々にとってはそれが当たり前。案外、大和と安房はそう遠くはなかったかもしれません、当時の感覚ならば。
 ...文明によって得たものと、文明によって失われたもの。こういう瞬間、古史古文などに見られる古代の超文明、なんてものも信じる信じないは別として、発想そのものの根拠は解らなくない、と感じます。それくらいのポテンシャルは人間に備わっているのだ、と思ってしまったり。...ですがやはり、こうして古歌紀行をしていると、思ってしまいます。わたし達は本当に、進化しているのだうか、と。むしろ退化しているのではないか、と。そして、何故か一抹の寂しさのようなものが胸を過ぎってしまうのも、またいつものことです。

 中央に帰参した天富命。その末裔たちがいずれどう時代の流れの中で、表舞台から去っていったのか。いや、表舞台から遠ざけられていったのか、は古語拾遺の後半に詳しいです。中々、広成老の忸怩たる思いが、赤裸々に記されていますが、ともあれ古語拾遺の記述にそって、追いかけてみましょう。

| 小治田の朝に至りて、太玉が胤、絶えざること、帯の如し。天恩しび、廃れるを興し、
|絶えたるを継ぎて、纔かに其の職に仕へまつる。
                             斎部広成「古語拾遺」


 経緯は解りませんが、推古期にはすでに天太玉命の末裔は衰退していて、細々と続いている、といった状態になっていた、とのこと。ですが推古の援助よって何とか家職に奉仕できている、と。
 天太玉命の末裔といっても、この場合はおそらく忌部(斎部)氏のことだけを差しているのでしょうが、後世から見れば猿女氏とて同じような憂き目に遭ってゆくことからして、あるいは猿女氏のことも含まれている、と考えてしまうのは流石に穿ちすぎてしょうか。

 ただ、神武期から欠史8代を度外視したとしても、推古期までは数100年近い時間が流れていますし、その間に繰り広げられた様々な豪族の盛衰なども考え合わせると、むしろ自然な流れだったのかもしれませんね。逆に、それでも推古の後ろ盾があったことこそが、神職に携わる一族ならでは、だったのかもしれません。
 因みに仏教が日本に伝来したのは、日本書紀に習うならば推古の父親・欽明の時代。そして、仏教を信奉する蘇我氏と天神地祇を奉る物部氏が争ったのが用命天皇の後継争いでのこと。それによって物部氏は没落、蘇我氏は権勢を握りましたし、用命の後継者は蘇我氏が推挙していた崇峻。そしてその後継が推古その人ですから。

 恐らくは、同じ五伴緒にして、神職に奉仕してきた天児屋根と天太玉・天宇受売それぞれの末裔のその後が、あれほどまでに明暗を分けたことの1つには、この仏教の存在があるのでしょう。神職に専心した一族と、それもさることながら同胞から、政治家としての手腕を発揮する者が現れた一族の、境界線。
 他にも秦氏を始めとする渡来系技術者集団の存在も、きっと浅くはない関係があったと考えられます。...時代が、大きく変わり始めたこの時期。けれどもそれよりもさらに後世の人であった広成老は、ただ簡素に書き記しているだけです。

|纔かに其の職に仕へまつる。
                         斎部広成「古語拾遺」再引用

 と。






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