それと、先ほどまでぽつっ、ぽつっ、と降っていた雨が、参道両脇へ鬱蒼と繁る木々によって感じられなくなり、薄暗さも手伝って森閑、あるいは静謐。そんな言葉を添えたくなるような空気に包まれている空間に、
「ああ、今回はここだ...」
 と言葉が漏れてしまいました。各地を周っていると、その土地で必ず1ヵ所は、自分はここに呼ばれたから来たのだな、と感じてしまう訪問地があります。今回は、ここ・滝口地区の下立松原神社にそれを感じてしまいましたし、けれどもここの存在自体、ほんの数日あるいは数時間前に知った筈なのに、と。

 呼ばれるという感覚は、特に何かが圧倒的に違って覚えるわけではありません。不思議と毎回、ささいなことに納得してしまうだけです。ただ、境内に足を踏み入れた途端に風が変わった、とかそれまでの張り詰めたような空気が一変して、やわらかなものに包まれた感触がした、とか呼吸が急に楽になった、とか。あるいはやたら懐かしさを覚える場合もあれば、この滝口の下立松原神社のように何らかの感触ではなくていきなり、
「ああ、ここだ」
 というセンテンスが頭の中を過ぎることも稀にあります。ただし毎回共通しているのは、その根拠についてわたしは考えようとか、検証しようとか全く思わず、そのまま純粋に受け入れますし、それに対して違和感もない、という点。

 ともあれ、それ自体の是非は擱いて、先ずは参拝。祭神の天日鷲命という存在について、です。前述している通り、阿波忌部の祖、とされていますね。わたしが目を通した限り、古事記はともかく、日本書紀にも先代旧事本紀にも、そしてもちろん古語拾遺にも登場している1柱です。幾つかの別名を持っている、あるいは同一視されている、ということなのなのかもしれませんが、天日鷲翔矢命とか天加奈止美命、麻植神などなど。

 新撰姓氏録には、

|神魂命五世孫天日和志命之後也
                          「新撰姓氏録 第2帙/神別」

|神魂命七世孫天日鷲命之後也
                          「新撰姓氏録 第2帙/神別」

 という記述があり、一方で伊勢国風土記逸文には

|夫伊勢国者、天御中主尊之十二世孫-天日別命之所平
                             「伊勢国風土記逸文」


 ともあります。阿波忌部の系図で見てゆくと、やはり神魂命(=神皇産霊尊)の5世孫。驚いたのが、祖父に当たるのが天之常立神(天底立命)となっていることで、古事記に習うならば伊弉諾・伊弉冉が最後に現れる神代7代のその前。別天つ神5柱の最後の1柱なのですが。その孫が天日鷲命となりますと、なんだか急に古事記神代が史実のように思えてきてしまうのが、すごいと言いますか、逆に怖いともいいますか。
 改めて今、自身が辿っている忌部の足跡というのは、まさしく神話と史実の境界線上をいったりきたりしている、それくらいこの日本のという国の原初に遡る行為なのだ、と思い至ってしまいました。...天岩戸で活躍する天太玉命では、そこまで感じなかったんですけどね。

 というのもこの天日鷲。様々な俗説・記述の宝庫のような存在で、流石にそれぞれの原典までは確認しきれていませんけれど、

1) 伊勢国を平定した
2) 父親が天手力男
3) 父親が天群雲剣
4) 少彦名神と同一神

 などなどなどなど。とてもすべては追いきれませんし、あくまでも安房国を訪ねているのですから、それはまた阿波なり、伊勢なりを訪ねた時のお楽しみにしておいていいでしょう。いずれにせよ、恐らく天日鷲自体は阿波の祖ではあっても、安房には来ていません。実際に安房へやってきたのは、神魂神ではなく、高皇産霊尊の孫である天太玉命のそのまた孫の天富命と、それに従った由布津主命。
 そしてその由布津主命の祖父こそが天日鷲命ですし、この下立松原神社を興したのも、由布津主命、と。莫越山神社を小民命・御道命が興し、それぞれの祖である彦狭知命と手置帆負命を祭神とした、という経緯と近いものがあるのでしょう。


 当時の新天地開拓というものは、それぞれの個人・家族・氏族とってどういう意味をもっていたのでしょうか。自身の家系に例えるならば、わたしの父親は次男で生まれ育った鹿児島を離れ、神奈川に移り住みました。長男一家は地元に残り、彼は首都圏へ。と、ここでまた所帯を持って、となったわけですが、それでも彼にとっての故郷は神奈川ではありません。
 わたしが子どもの頃、飲むと故郷の話をしていた彼が何となく思い出されるわけですけれど、父の上京当時も飛行機などはあまり一般的でなく、夜行なり何なりだったのだろうと思います。今でこそ、日に直行便が複数あり、九州新幹線なるものまで走っていますけれど、やはりそれなりの覚悟はしていたのでしょうね。中々帰ることは叶わない、と。

 仕事柄、在日ブラジル人と接する機会も多いです。彼らの親、あるいは祖父母が日本を離れて新天地を求め、すでにあちらの国で生まれた彼らは逆に今、日本へと太平洋を渡ってきています。日伯間は国内移動まで含めれば72時間も要する場合があるのですが。
 恐らくは、当時のそれはもっともっと覚悟を要するものだったでしょうし、けれども逆にもしかしたら日本に限らず世界各国民族の、古代に於ける移動・拡散を考えると、そういう悲壮感もまた、なかったのかもしれません。より肥沃な地を求めるということは、すなわち生き抜くための行為であり、選択ですから。もっともっと原初的な欲求や直前の事情の方が重要であって、情緒的な云々は、と。

 莫越山神社で感じた“もののあはれ”を前提とした捉え方では、という思いが再度込み上げてきていました。防人は、言ってしまえば律令という代物ゆえの制度。その制度に対する個人の感慨を歌に詠めば、時に妻恋なり、何なりもまた解ります。...が、律令がない時代の、あくまでも氏族単位でのお話なのですから。
 天日鷲命とその孫・由布主津命。由布津主命は天富命の娘・飯長姫との間に訶多々主命をもうけ、この訶多々主命こそが安房忌部の祖。子孫たちはこの地に続く古社の宮司を代々務めている、とも聞き及んでいます。

 いや、本当にある意味で凄いことです。繰り返しになりますが、古事記に最初の造化の3神と謳われる存在のどれとも繋がりある、とされる血脈。いや、もちろん天皇家を筆頭に、例えば、某女優さんが藤原家の末裔であったり、現代にわたしたちが生きている以上、そこには何らかの形で続いた血脈があって、それらを辿ればむしろ天孫降臨や天岩戸に誰だって辿り着けても不思議ではないのかもしれません。
 余談になりますが、わたしの父方の姓は諸説あるうち、新撰姓氏録に宣化天皇の皇子・火焔親王の子孫が賜ったものという記述もあれば、武甕槌神の15世孫の子が云々というものまであります。...武甕槌はご存知、伊弉諾尊が軻遇突智を斬った際に散った血から生まれ、天孫降臨に先駆け、葦原中国の平定に降りた存在です。

 ですが、だからどうだ、というわけでもないですし、そこに裏を取ろうという気もなければ、ただ
「ふうん」
 としか思えないのは実感が湧かないから、という一語に尽きます。
 なのに何故、今こうして自身が立つ下立松原神社では、それが奇妙なほど厳粛で、静かな興奮すらも伴う感慨を惹起してしまうのか。...それが呼ばれた、という感触の答えなのかもしれません。


 ともあれ、天日鷲命に纏わる主だった記述を、改めて引用しておきます。先ずは天岩戸に関連するもの。

|一書に曰く、是の後に、日神の田、三処有り。號けて天安田・天平田・天邑并田と曰ふ。
|此皆良き田なり。霖旱に経ふと雖も、損傷はるること無し。其の素戔鳴尊の田、亦三
|処有り。號けて曰天◆田・天川依田・天口鋭田と曰ふ。此皆磽地なり。雨れば流れぬ。
|旱れば焦けぬ。故、素戔鳴尊、妬みて姉の田を害る。春は廢渠槽、及び埋溝、毀畔、又重
|播種子す。秋は捶籤し、馬伏す。凡て此の悪しき事、曾て息む時無し。然れども、日神、
|慍めたまはずして、恒に平恕を以て相容したまふこと、云云。
|日神の天石窟に閉り居すに至りて、諸の神、中臣連の遠祖興台産靈が兒天兒屋命を
|遣して祈ましむ。是に天兒屋命、天香山の眞坂木を掘して、上枝には、鏡作の遠祖天
|拔戸が兒己凝戸邊が作れる八咫鏡を懸け、中枝には、玉作の遠祖伊弉諾尊が兒天明
|玉が作れる八坂瓊の曲玉を懸け、下枝には、粟國の忌部の遠祖天日鷲が作ける木綿
|を懸でて、乃ち忌部首の遠祖太玉命をして執り取たしめて、廣く厚く称辞をへて祈み
|啓さしむ。
                            「日本書紀 巻1 第7段」
                   ◆は木偏に識の言偏を除いた旁の表記です

|時に、八百萬神、天八湍河の河原に神会集て、其の祈謝奉可方を議計たまふ。高皇産
|霊尊の兒思兼神思慮之智有り。深く謀り遠く慮議て曰はく
|「常世の長鳴之鳥を聚て、遂に聚て鳴合しむ。復、宜く日神の御像を圖造て、招祈祷奉
|るべし」
| とまふす。
| 復鏡作の祖石凝姥命を冶工と為し、則ち、天八湍河の川上の天堅石を採る。
|復真名鹿皮を全剥にし、以天之羽備を作り、復天香山之銅を採て、日矛を鋳造令む。
|此鏡少意に合わず。則ち紀国に所坐す日前神是なり。
|復鏡作の祖天糠戸神を使召す。石凝姥命の子なり。天香山之銅採て日像之鏡を圖造
|使む。其状美麗し、而に窟戸に觸て小瑕有り。其瑕今猶存り、即ち是伊勢に崇秘大神
|なり。所謂八咫鏡、亦の名は真経津鏡是なり。
|復、玉作の祖櫛明玉神に令じて、八坂瓊之五百箇御統之珠を作しむ。櫛明玉神は、伊
|弉諾尊の兒なり。
|復宜く、天太玉神に令して、諸部神を率いて幣を造しむ。
|復、麻續祖長白羽神麻を種て以て青和幣を為せ衣令む。
| 白羽と稱ふは此其縁なり。
|復、津咋見神に穀を種植しめ、木綿を以て、白和幣を作む。並て一夜に蕃茂ぬ。
|復、粟の忌部祖-日鷲神に令して、木綿を造しむ。
|復、倭文造の遠祖天羽槌雄神に令してて文布を織しむ。
|復、天棚機姫神に令して、神衣を織令む。所謂和なり。
|復、紀伊忌部の遠祖手置帆負神に令して,作笠と為す。並びて一食とす。
|復、彦狹知神に令して盾を為作む。
|復、玉作部遠祖豐球玉屋神に令して玉を為作る。
|復、天目一箇神に令して雑の刀斧及鐵鐸を為造む。
|復、野槌者に令して五百箇野薦八十玉籤を採す。
|復、手置帆負、彦狹知二神に令して、天御量に詔て大小く雜の器類を量り以て名を
|つく。
|復、大峽少峽之材を伐て、瑞殿を造しむ。古語に美豆乃美阿良可と云ふ。
|復、山雷者に令して天香山之五百箇真賢木を掘にせしむ。古語に左禰古自乃禰古自
|といふ。
| 上枝には八咫鏡を懸く。亦の名を真経津之鏡と云ふ。
| 中枝には八阪瓊之五百箇御統之玉を懸く。
| 下枝には青和幣白和幣を懸く。
|凡て、厥種種諸物儲備之事具に謀所如し。
                       「先代旧事本紀 巻2 神祇本紀」」

| 爰に思兼神、深く思ひ遠く慮りて、議して曰はく、
|「太玉の神をして諸部の神を率て、和幣を造らせしむべし。仍りて、石凝姥神(天糠戸
|命の子、作鏡が遠祖なり)をして天の香山の銅を取りて、日の像の鏡を鑄しむ。長白
|羽神(伊勢国の麻續が祖なり。今の俗に、衣服を白羽と謂ふは、此の縁なり)をして
|麻を種ゑて、青和幣(古語に爾伎弖といふ)と為さしむ。天日鷲神と津咋見神とをし
|穀の木を種植ゑて、白和幣(是は木綿なり。已上の二つの物は、一夜に蕃茂れり)を作
|らしむ。天羽槌雄紳(倭文が遠祖なり)をして文布を織しむ。天棚機姫神をして神衣
|を織しむ。所謂和衣(古語に爾伎多倍といふ)なり。櫛明玉神をして八坂瓊の五百箇
|の御統の玉を作らしむ。手置帆負・彦狹知の二神をして天つ御量(大き小さき斤雑の
|器等の名なり)を以ちて大峽・小峽の材を伐りて、瑞殿(古語に美豆能美阿良可とい
|ふ)なり。を造り、兼、御笠、及、矛・盾を作らしむ。天目一箇神をして雑の刀・斧、及、鐵
|鐸(古語に佐那伎といふ)を作らしむ。其の物既に備はりて、天の香山の五百箇の眞
|賢木を掘じて(古語に、佐祢居自能祢居自といふ)、上枝には玉を懸け、中枝には鏡を
|懸け、下枝には青和幣・白和幣を懸け、太玉命をして捧げ持ち称讃さしむ。
                             斎部広成「古語拾遺」


 いずれの記述も、少なくとも天日鷲命が果たした役割に限るならば、大筋では差異がありません。ただ、彼の系譜にまでその範囲を広げるならば、古語拾遺はもちろん、先代旧事本紀の記述はかなり詳細です。天日鷲命の子、とされている津咋見神・天羽槌雄神・長白羽神までもが登場していますよし。
 余談になりますが、こういうところに、古語拾遺より後に先代旧事本紀がものされている片鱗を見ることができますね。

 続きまして、今度は天孫降臨にまつわる記述を引きます。

|時に高皇産靈尊、大物主神に勅すらく
|「汝若し国神を以て妻とせば、吾猶汝を疏き心有りと謂はむ。故、今吾が女三穗津姫
|を以て汝に配せて妻とせむ。八十萬神を領ゐて、永に皇孫のために護り奉れ」
| とのたまひて、乃ち還り降らしむ。即ち紀伊国の忌部の遠祖手置帆負神を以て、定
|めて作笠者とす。彦狹知神を作盾者とす。天目一箇神を作金者とす。天日鷲神を作木
|綿者とす。櫛明玉神を作玉者とす。乃ち太玉命をして、弱肩に太手繦を被けて、御手
|代にして、此の神を祭らしむるは、始めて此より起これり。且天兒屋命は、神事を主
|宗源者となり。故、太占の卜事を以て、仕へ奉らしむ。高皇産靈尊、因りて勅して曰く、
|「吾は天津神籬及び天津磐境を起し樹てて、当に吾孫のために斎ひ奉らむ。汝、天兒
|屋命・太玉命は、天津神籬を持ちて、葦原中国に降りて、亦吾孫の為に斎ひ奉れ」
| とのたまふ。乃ち二の神を使して、天忍穗耳尊に陪従へ降す。
                      「日本書紀 巻2 神代下」一部再引用

|高皇産靈尊、大物主神に詔く
|「汝若国神を以て妻と為ば吾猶汝疏心有りと謂はむ。故、今以吾女三穗津姫命を以て
|汝に配て妻と為む。宜く八十萬神を領て永に皇孫の為に奉護れ」
|とのたまひて、乃ち還降り使たまふ。
|紀伊国忌部の遠祖手置帆負神を以て作笠を定為す。
|彦狹知神を以て作盾と為す。
|天目一箇神を以て作金之者と為す。
|天日鷲神を以て作木綿と為す。
|櫛明玉神を以て作玉と為す。
|天太玉命を使て以て弱肩に太手繦を被御手代以て以て此神を祭り此より起り。
|且、天兒屋命神事を主る宗源なり。故、太占の卜事を以て奉仕しむ。
|高皇産靈尊敕て曰はく
|「吾則天津神籬及び天津磐境を葦原中国に起樹て、亦た吾孫の為に齋奉らむ」
| とのたまふ。
                       「先代旧事本紀 巻3 天神本紀」」


 意外かもしれませんが、実は肝心の古語拾遺。天孫降臨に関して、忌部氏の活躍はほとんどふれていません。これは、そもそも古語拾遺が記紀に対する拾遺として書かれているもの、つまり広成老から見るに、上記引用の日本書紀の内容に特に書き加えるものはなし、と判断したからなのでしょうか。
 あるいは、天孫降臨のあとに続く、古語拾遺の記述にこそ、広成老の本当に書き残したかったことが読み取れるから、なのかもしれません。いや、恐らくはそうなのでしょう。

| 仍りて、天富の命(太玉の命が孫なり。)をして、手置帆負・彦狹知の2柱が神のを率
|て、斎斧・斎鋤を以ちて、始めて山の材を採りて、正殿を構り立てしむ。所謂、底つ磐
|根に宮柱ふとしり立て、高天の原に搏風高しり、皇孫の命の美豆の御殿を造り仕へ
|奉れるなり。故、其の裔、今紀伊の国の名草の郡御木・麁香2郷在り(古語に、正殿は麁
|香と謂ふ)。材を採る斎部の居る所は、御木と謂ふ。殿を造る斎部の居る所は、麁香と
|謂ふ。是、其の証なり。

| 又、天富の命をして、斎部の諸氏を率て、種種の神宝、鏡・玉・矛・盾・木綿・麻等を作
|らしむ。櫛明玉の命が孫は、御祈玉(古語に、美保伎玉といふ。言ふこころは祈祷なり。)
|を造る。其の裔、今出雲の国に在り。年毎に調物と共に其の玉を貢進る。天日鷲の命
|が孫、木綿、及、麻、并、織布(古語に、阿良多倍といふ。)を造る。仍りて、天富の命をし
|て日鷲の命が孫を率て、肥饒き地を求ぎて、阿波の国に遣はして、穀・麻の種を殖ゑ
|しむ。其の裔、今、彼の国に在り。大嘗の年に当たりて、木綿・麻布、及、種種の物を貢
|る。所以に、郡の名を麻殖と為る縁なり。天富の命、更に沃き壤を求ぎて、阿波の斎部
|を分かち、東の土に率往きて、麻・穀を播殖う。好き麻生ふる所なり。故、総の国(古語
|に、麻を総と謂ふ。今、上総・下総の2国と為す、是なり。)と謂ふ。穀の木生ふる所なり。
|故、結城の郡と謂ふ。阿波の忌部の居る所、便ち安房の郡(今の安房の国、是なり。)と
|名づく。天富の命、即ち其地に立太玉の命の社を立つ。、今安房の社と謂ふ。故、其の
|神戸に斎部氏有り。又、手置帆負の命が孫、矛竿を造る。其の裔、今、分かれて、讚岐国
|に在り。年毎に、調庸の外に、八百竿を貢る。是、其の事等の証なり。
                         斎部広成「古語拾遺」再引用


 はい、すでに莫越山神社に関連して引きました、この件です。おそらく、ここ・安房国に限るのならば、もっとも重要とも言える記述ですし、この一文があってこそ、安房を訪ねたく思う者もまた、いるわけでして。
 それから、この滝口の下立松原神社を興したとされる由布津主命。天日鷲命の孫であることは、前述していますが、では父親は、と言いますと津咋見神なのだそうです。


 身勝手な想像になってしまいますが、天岩戸で木綿を作った祖父・天日鷲命と父・津咋見神。その息子は麻や、木綿の元となる楮のよく茂る肥沃の大地を求めて東国開拓に加わり見事、安房と上総、下総を拓きました。麻と総が同義であることは「なつそびくうなかみがたゆ」でも書いていますが、他に木綿は音にしてゆふであり、下総は結城郡、現在も群馬県結城市としてその名にかつてを遺しています。結城はゆふき。息子の名も由布津主(ゆふつぬし)。
 いやいや、ここまで踏み込むと由布津主が祖父・天日鷲を祀ろうとしたのも、何だかとても得心してしまいます。21世紀の現代でも、神道では玉串についている木綿や麻から作る麻苧は欠かせません。政教一致だった時代の、天皇家の政に欠かせない神具の原料と、その栽培地を求めての開拓に彼が、自らの名に従って従兄弟に当たる天富命と一緒に黒潮に乗って東へと向かった思い。かつて、天孫と一緒に降臨した祖父たちの思いを受け継ぎ、そしてさらに進め、広めるために東へ、東へ。その思いの名を、誇りと呼ぶのではないでしょうか、きっと。

 ただし、字面からわたしたちが即座に思い浮かべる木綿(もめん)が国内栽培されるようになったのは16世紀後半、安土桃山時代の頃。ここで言う木綿(ゆふ)は現代の木綿とは全くの別物です。むしろ繊維によるものとはいえ成分からすれば紙に近い代物だった、と言えそうですね。というのも、引用にもある通り、穀の木ですから。そして、この穀が現代でいうところの梶、あるいは楮のことでして。

 ...はい。和紙の原料となるあの楮なんですね。現代では、神事に使われる幣は殆どが紙製ですが、それもその筈。
 さらには、当時の紙がどれくらい貴重だったのか、を考え合わせると、忌部の人々が、天富命が、そして由布津主命が。それらの栽培に適した地を求めて船の舳先を東へ向けた姿が、くきやかに立ち上がります。...神代から神武期はおろか、万葉期に至るまで、紙にではなく木簡・竹簡に様々な記述が残されたことが、恐らくはこの裏打ちともなりましょう。

 鳥が鳴くあづまゆきゆく
 ゆくゆくへ
 もろひと欲りす手向草
 かみろぎかむおや
 神そ祝き祝かむ玉串
 わたつみにふねかぢ浮かべ
 漕ぎ出でぬ
 漕ぎたみ漕ぎたみ
 こはいかに
 こはいかなるや
 しながとり安房
 日緯の阿波紀伊ゆ
 漕ぎたみ漕ぎたみ
 こしたりて
 穀種植ゑしめぬ
 木綿畳
 しろにきしろにき
 あきづしまやまと天地
 もろひとの真幸くあるを
 祈ひ祷みて
 穀種植う麻種植う
 みづひたし蒸し蒸しつくる
 木綿倭文
 しろにきあをにき
 遠祖にならひならふを
 ほこりゐしゆゑ

 あるを欲りあるこそほこりほりさばほらめ
 ゆくを欲りゆくこそほこりほりさばほらめ  遼川るか
 (於:滝口地区の下立松原神社境内)






BEFORE   BACK  NEXT