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けれども人それぞれが、確かにその時、そう感じたという"心の事実"も、事実ではあります。但し、それを事実として立証する術が、存在し得ない...。たった1首の万葉歌に対する解釈が様々になってしまう所以でもあります。前出している佐壮の歌だって、字面の歌意こそは読み取れますが、それを悲壮感、それなりの年齢であったのではないか、と受け止めているのは他でもない、わたし自身。あるいは、大歳や多麻呂よりも歳若く、防人という制度の実態を知らない少年の、ちょっと背伸びして詠んだ歌、という捉え方だってしようとすれば、できてしまうわけで。 歴史は、歴史と交差する。その交差点の1つとしてある、古歌紀行であり、わたし自身です。インターネットという術を得て、誰もが気軽に思いを発信できるようになってしまったからこそ、交差点の1つとしての自身の意味を、静かに重く感じてしまっていました。 そもそも、意味なんてものに縋ること自体、考えようによってはナンセンスなのかもしれません。誰がどう受け止めようと、そう感じた、そう思った、という心の事実は、客観的な立証が叶いませんが、それも含めて事実でもあります。でも...。 宮下の莫越山神社で感じていたもどかしさが、また少しせり上がって来たように感じていました。あの時と...。近江を最初に周った時と。よく似ている感じがします。きっと、またわたしは否定し、破壊しなければならないのでしょうね。かつて自身が、そう感じたという心の事実を。...きっと。 息長鳥安房に来し来し今日の日のあり 息長鳥安房ゆ立ち立つ今日の日のあり 鶏の鳴く東いにしへみなひとの立ち 押し照るや難波しらぬひ筑紫の遠し 弥遠に時流るれど絶えざるものを なほなほし頼らまくほしくたれもしあらむ 在るてふをたれもえ知らじ在るてふがゆゑ 在るがゆゑゑひかなしびて在るはかもなし わくらばに忘るをほるもかひなき名なる 歌思ひここりこめこむ言にし出でむ 言繁きあれあれなほし揺らかし給へ 震り震りてあれな揺れそね謡ふてふこと 天ありて地あるをこそ神祝け謡はめ しがはかに命生くてふゆゑのえあらず あれなほりそなにしかあれかなにしかあるか さかしまにいゆきもとほるのみ たまきはる 世に命あるは鳥草木ひとゆきゆく 咲き匂へず飛べずしかれどあれ謡はらる こはこにて在るがまにまに思ふがまにまに 来ぬ来てはいつにいづへに玉矛の道 遼川るか (於:石堂寺境内) −・−・−・−・−・−・−・−・−・−・− 論社。恐らくは一般の方には耳慣れない言葉なのだ、と思います。かくいうわたしも、単語の存在こそは知っていましたけれど、正確な意味を調べ、なおかつ実際の検分という形で接したのは、今回が初めて。すなわち、似たような名前の神社が複数存在し、どれが延喜式に記述された式内社か決定できないもの、という意です。 ...はい。すでに前述していますが件の莫越山神社は、宮下地区と沓見地区に1つずつ、同じ名前のお社が在って、さらには延喜式内社でもありますから、論社に該当しているわけなんですね。 石堂寺を後にして、内陸部からより海岸線へ近い方へ。国道410号を走り続けると、3年前に潜った鳥居が見えきます。沓見の莫越山神社です。前回は、すでに稲の借り入れも終わった9月半ばの訪問でしたが、今回はまだまだ青田風ゆく7月。当時の何処となく煤けて寂れた印象から一変、すこんと抜けのいい開放的な光景の中、です。 3年前、たまたま台風が近づいてきていたために、時折吹く突風と降っては止み、止んでは降る雨に見舞われながら、このお社を探しました。そもそもの悪天候に加え、すでに暗くなりかかった時刻に、周囲の民家の中を社用車でぐるぐる走り回り、それでも見つからない、と道ゆく人に何度も尋ねては、ようやく辿り着けたこと、今でも明確に覚えています。 あの日、玉前神社の例大祭に立ち寄り、仕事を済ませてから、わたしが向かったのは御宿海岸でした。 | 「月の沙漠」 | | 作詞者 加藤まさお | |1 月の沙漠を はるばると 旅の駱駝が 行きました | 金と銀との 鞍置いて 二つならんで 行きました | |2 金の鞍には 銀の甕 銀の鞍には 金の甕 | 二つの甕は それぞれに 紐で結んで ありました | |3 先の鞍には 王子さま 後の鞍には お姫さま | 乗った二人は おそろいの 白い上着を 着てました | |4 広い沙漠を ひとすじに 二人はどこへ 行くのでしょう | 朧にけぶる 月の夜を 対の駱駝は とぼとぼと | | 砂丘を越えて 行きました 黙って越えて 行きました お馴染みの童謡・月の沙漠の歌詞となりますが、はい。こちらとても綺麗な今様歌の韻律です。元々は加藤まさおが詩と挿絵という形で発表したものへ、後から曲がついて童謡となったものなのですが、そもそもの加藤まさおが作品の着想を得たのが、御宿海岸だった、と。
...といって、現代にも残る今様歌の韻律に縁の地、として御宿海岸に立ち寄ったわけではありませんでした。荒れた海、嫌いじゃないんですね、実は。まあ、これもまた、わたしの中の酔狂の1つなのかもしれませんが、古歌や韻律とは全く別の理由から寄り道をし、そのお陰で宮下の莫越山神社へは訪ねること叶わず。それどころか何とか、ここ・沓見の莫越山神社の鳥居を潜る頃になって、やっと月の沙漠の歌詞が今様の韻律だった、と気づいたことも、ありありと思い出せていました。 旅の不思議。そう、これも旅をする中で感じてしまう不思議な感慨なのですけれど、3年という時間が流れたのに、ここはここのまま。この界隈で暮らしていらっしゃる人々にとっては身近すぎて、もはや何も感じられないほどに目に馴染んだ鳥居も、境内へと向かう石段も、そして拝殿も。ずっと変わらずここに在り続けていたはずなのに、わたしにとっては、時間軸の中のほんの点と点。 季節が変わり、光景から受ける印象も変わり、では、もし今日わたしが再訪していなかったとしたならば。沓見の莫越山神社は、薄暗くて、少し怖いくらいの印象しか、わたしの中には残らなかったのかもしれません。 違う印象、でも同じ場所。その場はその場であり続けていたというのに、こことは別の場所で暮らしていたわたしにとっては、ここがこことして在り続けていた空白の3年間が、とにかく不思議で、不思議で。 その同じ3年間、わたしは一体、何度ここのことを思い返したでしょうか。考えたでしょうか。興味のきっかけとなった万葉歌も、延喜式も、わたしの中では3年間、確かに継続していたもの、といいますか地続きの感覚なのに、ここという場所は地続きではない...。ですが、3年という空白の間、確かに地続きのものとして在り続けたお社です。 これもまた、気まぐれに立ち寄った旅人の傲慢、なのかもしれません。何故、自身の意識の外のものは継続的に捉えられないのでしょうね、人は。あるいはそれが人の限界、なのかも知れません。所詮人間は、どこまでいっても万能にはなり得ませんから。 沓見の莫越山神社の祭神も、手置帆負命と彦狹知命。けれども小民命と御道命は配祀されていないようですね。代わって配祀されているのが、彦火火出見尊、鵜葺草葺不合尊、豊玉姫命という正直、びっくりしてしまうラインナップです。 彦火火出見尊は、古代神話で有名なあの山幸彦のこと。その山幸彦が、釣り針を探して訪ねた海神宮にいた豊玉彦命の娘にして、山幸彦の妻となったのが豊玉姫命。そんな2人の間に生まれたのが鵜葺草葺不合尊で、因みにその鵜葺草葺不合尊の子どもと言えば...。はい、初代天皇の神武です。 もう言ってしまえば、がちがちの大和朝廷的な3柱が、ここに祀られているわけで、同じ論社の宮下の莫越山神社とは一線を画す気がしてしまいます。あちらの配祀は忌部の裔にして、実際に開拓・入植した小民命、御道命なのに対して、です。 現実的には神武にしても倭建命にしても、時代にしてどちらが先だったのか、あるいはそもそもの実在だって未詳です。いやいや、それどころかのこ地の開拓神話たる忌部のことにしても、学術的なことはさておき、本当の意味での真実は未詳、と。そうしてしまったっていいのかも知れません。ただ、この距離にしてたったの5kmしか違わない2つの論社。何故、分かれてしまったのか、を考えてしまいたくもなるわけでして、1つわたしなりの拙い推理などをぶって見ましょうか。 1) 土着の山岳信仰など、よりこの地の古代に寄り添う印象が強いのは宮下の莫越山神社。 2) 延喜式など、より時代が下った中での“神社らしい神社”は沓見の莫越山神社。 3) 一方は祖神をより祖神を祀るものとして。一方は、より国が定める神を祀るものとして 存在するようになったのではないか。 4) 5kmという距離は現在の沓見界隈に暮らしていた、当時の人々が、神事・祭事を行うのに 決して不便すぎるもの、とは考えがたい。但し、沓見から宮下へゆくには登り道となる。 5) 海側のほうがより、中央には近かった。 これらのことが瞬時に考察できるわけで、個人的な感覚論では、最初にあったのは宮下でけれども次第に中央からの影響が色濃くなる中で、社格はむしろ沓見の方が高くなっていったのかもしれません。何となく原初はさておき、延喜式に記載されたのは沓見のような印象が根拠はないですけれど、します。 分かれた原因を推理できる理由は、様々にありますが例えば「さゝなみのしがゆ」で書いた不破の関の若宮八幡神社と井上神社が壬申の乱で、天武方についた者たちと大友側についた者たちが分かれて興した、というようなことでは、きっとないのではないか、と。 そういうことよりもむしろ、純粋に後から来たものも受け入れましたよ、という結果のように思えてなりません。こっちは本家のお墓、あっちは分家のお墓。分家(本家でも構いません)の先代は新しい物好きで、その先代が信奉していたものも、一緒にお祀りしちゃいましょうね。本家(分家でも構いません)は先祖代々の生業を継いでいるから、それに纏わるご先祖様たちも一緒にお祀りしましょうね、というような流れと申しましょうか。 由緒書きによれば両社とも、手置帆負命と彦狹知命は建築の神様、としているわけで、より海に。より中央に。近く稲作に軸足を置いていた一方と、より山に近く、開墾する中で建築的作業に従事する機会が多かった一方。しかも片方にはシンボルたる山があります。 さらに言うなら、一方は現代の海岸線にも2km足らずなわけで、海猟・海運の守り神とされる鵜葺草葺不合尊を祀りたかったのかもしれませんし、そもそもが山幸彦が海へ行って海神の娘を娶るなどなど、山と海のいずれもが近い距離ならば、案外自然。などと思ってしまったりもするわけでして。 ...わたし自身もずいぶん変わってきているのだと感じます。かつてであれば、この沓見と宮下の間に中央集権による覇権主義的なものを見て、きっと哀しみのようなものを感じてしまっていたことでしょう。 いや、そういうものをまったく感じていない、といったら嘘になります。ただ、それが覇権主義なのか、否か。それを哀しみと捉えるのか、それもまた人の営みと捉えるのか、否か。そういう部分で、わたし自身も静かに絶えず変わってきていますし、それは土地に暮らす人々の思いや考えとて同じ。 ただ、ここに論社が2つあって、一方は祖神信仰に厚く、一方はよりステレオタイプ的信仰に厚い、という事実だけを受け止めてお終い、というのもまたずいぶんと味気ないものです。せっかくの旅、せっかくの古歌紀行なのですから、その愉しみ方の1つとして推理したり、想像したりがあってもいいのではないか、と。 かつて悲劇的なものが好きでした。底流する人間の業であったり、罪深さであったり、時代という一定方向にしか流れることのできないものに対する諦念であったり、そういうすべてにある意味でのカタルシスを求め、東洋的な概念に染まりきっていた頃のわたしだったらば、きっとここで軽く絶句したり、もしかしたら泣いたりもしたのかもしれません。 でも、根底で人間は強い。いや、弱いものだと常々思ってもいるのですが、何というのでしょうか。情緒的、あるいは極めて個人的な情動における弱さを凌駕する、人間の逞しさ。荒地を拓き、そこに根付き、子を産んで育てて、そして、そして...。 上代文学を近しくする身として、けれども平安以降の“もののあはれ”のような前提でそれらを咀嚼し味わってきていたのではないだろうか、わたしは。そもそも神話という名を借りた古代の人間は、けれども工作機器などなくても巨大な陵を築き、科学によって却って弱くなってしまった現代人には、およそ想像もできないような逞しさで海を渡り、道を造っては命を紡いできたわけで。 もっとシンプルに。もっと大らかに。それでも生きてきた人々の躍動とその恵みを愛しむことを。それをもっと、もっとやったっていいんじゃない。参拝を終えて、石段を次第に駆けるように下りながら感じ始めていました。それだって、いいんじゃない、と。 歌謡ひ舞ひ舞へばなほもろひとの笑み 命生く道あらばゆくもろひとの歌 遼川るか (於:沓見地区の莫越山神社前駐車場) −・−・−・−・−・−・−・−・−・−・− 沓見を発って、まずは海岸線近くを目指します。沓見地区界隈からは外房黒潮ライン(国道128号)で一気に館山、つまりは内房側へ出られてしまうのですが、それでは安房の安房たる地を素通りしてしまうこととも同義。房総半島にあって、もっとも緯度が低く、もっとも南に位置する地域を房総フラワーライン(国道410号)に沿ってただただ南下。 時折見える海水浴場は、それなりに人出があるのでしょうが肝心の天気が、徐々に怪しくなって来ていました。台風は近づいてきていないはずなのですが、どんより重たげな雲と、午前中が嘘のように薄暗い中、ついには車のフロントガラスにも大粒の雨がぽつり、ぽつり、と。海もどうやら波が高いようです。 やがて名倉の海水浴場近くで房総フラワーラインと国道410号が分かれます。そのまま房総フラワーラインを走り続けて、目指すは白浜町の滝口界隈。下立松原神社、という莫越山神社同様の延喜式内社です。社格も同じく小。ただ、手持ちの地図でははっきりとした場所が全く解らず、といいますのも市町村合併で以前の住所ではないのですね、安房国の多くの場所は。南房総市という大きな市になってしまったものですから、昭和期に書かれた文献だけを頼りに探していても、もうどうにも。長尾川という川の近くだとは解っていましたが、その川すら解らない有様です。 これまでの古歌紀行文で何度も書いていますが、だめなんですね、雨が。雨に祟られるとどうしてもモチュベーションが一気に落ちてしまいまして。 房総半島最南端の野島崎の灯台をとりあえずのランドマークに、先ずは少し休憩しようかしら、と立ち寄ったのが白浜野島崎の道の駅です。車を止めたかったこともあるのですけれど、あとは道を尋ねたかったり、地図上で見つけられていない、この先に訪ねたいポイントの情報収集だったり。 ですが、車を降りて最初に見えた灯台の姿にしばし立ち竦んでしまいて。それとやっぱり最南端という事実が、最果て好きにはたまらなかったわけで。 流石にこの天候で灯台はないですし、先も詰まっているから今回は見送るとして。とにかく道の駅にいらっしゃる地元の方に、下立松原神社の場所を聞きました。けれども皆様、ご存じない、とのこと。ならば、と昭和期の住所で聞いてみたところ、長尾川の位置だけは解りまして。あとは川沿いに周囲のお宅に聞いてゆくしかなさそうです。 「そんな地元の人間でも知らない場所に、神奈川からねぇ...」 「いや、はい...」 「あんま役に立てなくてごめんねぇ、他にはなんか解んないことある?」 相手をしてくださった年嵩のご夫婦は、わたしのことを物珍しそうに眺めます。 「ああ、難しいのは無理だよ」 「そうそう、この辺のもんがみんな知ってるんじゃないと教えられないって」 それはそうなんでしょうけれども。 「あの、この界隈ではないと思うんですけれど浮島という場所も行きたくて」 浮島。当初、この地名はノーマークでした。安房=忌部=古語拾遺。もう頭からそう思い込んでしまっていて、あとは防人歌くらいだろう、と暢気に構えていたわたしが急に、慌てだしたのが実は今日、キャンプ場を出た後でした。 途中々々のポイントで持参していた資料に目を走らせている時に、目に飛び込んできたのが浮島の行宮という文字...。 すみません、倭建命についてはそれなりに追いかけていたのですが、その父・景行天皇についてまでは、日本書紀を読み端折っていました。それで慌てて地図を調べるも、そもそもが土地勘なし、慣れない大型営業車の運転で余裕なし、ついでに言うならば最終的には会社まで車で帰らなければならないわけで、それほど長く千葉にはいられない、という状況に、じっくり地図を調べられていなかった、と言いますか、地図のどのあたりを探していのかすら、よくわかっていませんでして。 「浮島ったら勝山だよ、お姉さんそんなことも知らないの?」 地元のお父さんは、こちらが意外に思うくらい驚いたご様子。 「いや、あの勝山って」 「違うよ、地図のそんなとこじゃないって、もっと北、北」 あとで聞いたら奥様は勝山のご出身とのこと。 地図上で確認した浮島は、東京湾フェリーの千葉側・浜金谷よりも少し南に位置する、安房勝山の海上1km辺りにある小島でした。...因みにわたしが必死に地図で探していたのは、そこから20km近くも南の館山界隈。ロードマップでは見開き2ページ手前でして、見つかるわけもありませんね。 ただこれでこの日の残りのポイントの位置関係がすべて頭に入ったわけで、当然順路とそれぞれに割ける時間とが何となく計算できました。だって、浮島はどうしたって日のあるうちじゃないと訪ねても意味がなさそうです。最悪でも夕方6時。そこまでには、浮島に着いていないと...。 萎えかけていたモチュベーションが一気に回復したものです。ならばもう、時間を無駄にできないので、車はここに置いたままで足で下立松原神社を探したほうが早い。そう思い立ち、雨が降ったりやんだりしている中、とにかく長尾川へ。途中、めがね橋という県指定の重要文化財を横目に見つつ、川沿いを山側へ。 恐らくは1kmは歩かなかったと思います。やがて川と川沿いの道路が分かれるあたりで道端の商店で聞き、ようやく大体の位置がつかめた下立松原神社を目指します。雨は相変わらずぽつっと落ちてきてはやみ、やんだかと思うとまたぽつっ。 そもそもこの下立松原神社。正直なところ式内社という予備知識があるだけで、あまりよく解っていませんでした。忌部五部神の1柱・天日鷲命が祭神であるということと、お社を興したのが、安房開拓の祖とも言える天富命の娘婿・由布津命だ、ということくらい。 順当に行けば、この天日鷲命あたりに関する記述を、となるのですがこれが中々手強い...。記紀と古語拾遺という立ち位置の異なる文献の隙間は、やはりどうにも埋めようもなく、けれども自身なりの思いを綴ろうにも、そもそもこれまで自身が書いてきている古歌紀行文は、それでも結局は記紀に準じていたわけで。「わたのそこおきゆ」で少し触れた古史古伝ともまた違って、わたしは一体、どうしたんだろう、と。 そんな疑問を、ようやく見つけられた下立松原神社の参道に立ったとき、ふいに思ってしまったものでした。そしてそれが後々まで解消不能のまま引きずるものとなっていったのは、また別のお話。ともあれ、先ずは境内へと続く石段を登ります。 下立松原神社。実際に境内に立ってみて。参道を歩いてみて、実感したのはその広さです。この手の古社の中では、過去に訪ねた中でも屈指の広さです。後に官幣大社であったり、一ノ宮であったりすれば、とんでもなく広いお社も多々ありますが、地元の人でも場所なんて知らない、と言われてしまう古社にしては、とにかく広い。 |
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