|蓋し聞けく、「上古の世に、未だ文字有らざるときに、貴きも賤しきも老いたるも少
|きも、口口に相傳へ、前言往行、存して忘れず」ときけり。書契ありてより以来、古を
|談ること好まず。浮きたる華競ひ興りて、還りて旧老を嗤ふ。遂に人をして世を歴て
|弥新たに、事をして代を逐ひて変へ改めしむ。顧みて故実に問ふに、根源を識る靡し。
|国史・家牒、其の由を載すと雖も、一つ二つ委曲は、猶遺りたる有り。愚かなる臣言さ
|ずは、恐るらくは絶えて伝ふること無からむ。幸ひに召問を蒙りて、蓄へきたる憤り
|を◆べまく欲りす。故、旧説どもを録して、敢へて上聞る、と云爾り。
                             斎部広成「古語拾遺」
                       ◆は手偏に「慮」という表記です。


 「思うに、聞いているには上古の時代には、まだ文字もない時代だったのにも関わらず、当時は身分の上下も、老い若きの区別なく、すべての人が言葉だけで、語り伝えてきた昔の人が言ったことや、昔の時代にあったことが残っていて、忘れられることはなった、という。
 けれども文字で残すようになってからというもの、人は古い時代を語ることを好まなくなった。表面だけが華やかで実質の伴わない傾向が、まるで競うかのように盛んになって、しかも古伝承を語る老人を嘲笑するようになってきている。そしてついには、時代が進むにつれて人々をますます新たな風潮に走らせ、物事を時代の推移とともに変革させるに至っている。今振り返るに古来からの慣例を遡っても源流を知っている験しがない。朝廷編纂の史書や氏族の記録がそれらの由緒を記録しているけれど、少数ではあれど細部が遺漏してしている点もある。
 わたしのような者が申し上げないならば、恐らくは絶えてしまい、伝えることがないものになってしまうであろう。幸いにも陛下のご下問を頂戴し、ここに長年の間に積もりに積もった憤りを述べようと思う。そこでわが家に残る古伝承を記述して、積極的に朝廷に言上する、と申し上げる次第である」

 斎部広成が平城天皇からの求めで記した古語拾遺の冒頭と、それを現代風にわたしが意訳させて頂いたものです。...繰り返しますが、これはあくまでも天皇の求めで記述したもの。にも拘らず、その冒頭がいきなり天皇氏に対する賞賛その他の美句で飾られるのではなく、まさしく正述心獅ニ言いますか、変わりゆく世の中に対する憤りと、警鐘を真正面から綴っているわけで、いやはや広成老のお人柄が、それとなく手繰れますね。
 さらには、上古には文字が無かったこと、文字が出来てからはかつてのように人が古伝をしなくなってしまったことを、明け透けに書いてしまっているのも、記紀の成立によって多くのことが歪曲されてしまったから、と遠まわしに伝えたがっているように読めてしまうのは、わたしがへそ曲がりだからでしょうか。

 例えば先代旧事本紀と記紀とでは、物部氏の始祖となった饒速日尊に関する記述部が大きく異なります。これは恐らく、物部氏独自の古伝も踏まえて書かれているから、という有力説があるのと同様に古語拾遺では、そもそもの忌部の始祖たる天太玉命の活躍場面が、記紀に比べて多いことが特徴的。さらには、その天太玉命に従った忌部5部神(櫛明玉命=出雲忌部の祖、天日鷲命=阿波忌部の祖、彦狭知命=紀伊忌部の祖、手置帆負命=讃岐忌部の祖、天目一箇命=筑紫・伊勢忌部の祖)についても書き記されています。

| 又、天地割れ判くる初めに、天の中に生れます神、名は天御中主神と曰す。次に、高
|皇産霊神(古語に、多賀美武須比といふ。是、皇親神留伎の命なり)次に、神産霊神(是、
|皇親神留弥の命なり。此の神の子天児屋の命は、中臣の朝臣が祖なり)其の高皇産霊
|の神の生みませる女の名は、栲幡千千姫の命(天祖天津彦の尊の母なり)其男の名は、
|天忍日の命(大伴宿禰が祖なり)又、男の名は天太玉の命(斎部の宿禰が祖なり)と曰
|す。太玉の命の率たる神の名は、天日鷲の命(阿波国忌部等が祖なり)・手置帆負の命
|(讚岐国忌部が祖なり)・彦狹知の命(紀伊国忌部が祖なり)・櫛明玉の命(出雲国の玉
|作が祖なり)・天目一箇の命(筑紫・伊勢両国の忌部が祖なり)と曰す。
                             斎部広成「古語拾遺」


 いや、恐らくは逆ですね。先代旧事本紀には、古語拾遺の記述の引用がありますから、没落した物部氏の末裔が、古語拾遺に倣って自身らの古伝も含めて記したのが先代旧事本紀となるのかもしれません。
 いずれにせよ、これらの裏側に存在するのは大化の改新以降の中臣氏=藤原氏の専横によって表舞台から消えていったかつての有力氏族たちの鬱屈、なのでしょうか。お話は逸れますが、この現代ですら教科書の記述の有り様について、様々な異論・意見がものされていますし、その顕著な例が太平洋戦争当時の様々の取り扱いについて。国内のみならず対外的にも論争どころか1つ間違えば政争、紛争すらも起こりかねない情勢が続いていますので、考えるまでも無く殊、歴史というものの明文化には、いずれの時代も人々の悲哀が交錯するものなのだ、と。

 余談が長くなりました。ともあれそんな忌部の、特に地方の忌部たちは朝廷に属する品部だったわけで、この品部とはそのまま職業集団というのが、やや早計ではあれど最も解りやすい説明なのかもしれません。
 忌部5部神もそれぞれに専門的な役割があり、櫛明玉命を祖とする出雲の忌部は勾玉つくり。天日鷲命を祖とする阿波の忌部は木綿や麻布を織ること。手置帆負命を祖とする讚岐の忌部はすでに引用した日本書紀の記述にあるように笠縫。天目一箇命を祖とした筑紫・伊勢の忌部は鏡や斧、刀などの鋳造品つくり。そして、彦狹知命を祖とした紀伊の忌部は盾縫にして、宮を建てる際に不可欠な木材の貢納と、宮そのものの造営などに従事した、と。

| 仍りて、天富の命(太玉の命が孫なり)をして、手置帆負・彦狹知の2柱が神のを率
|て、斎斧・斎鋤を以ちて、始めて山の材を採りて、正殿を構り立てしむ。所謂、底つ磐
|根に宮柱ふとしり立て、高天の原に搏風高しり、皇孫の命の美豆の御殿を造り仕へ
|奉れるなり。故、其の裔、今紀伊の国の名草の郡御木・麁香2郷在り(古語に、正殿は麁
|香と謂ふ)。材を採る斎部の居る所は、御木と謂ふ。殿を造る斎部の居る所は、麁香と
|謂ふ。是、其の証なり。

| 又、天富の命をして、斎部の諸氏を率て、種種の神宝、鏡・玉・矛・盾・木綿・麻等を作
|らしむ。櫛明玉の命が孫は、御祈玉(古語に、美保伎玉といふ。言ふこころは祈祷なり)
|を造る。其の裔、今出雲の国に在り。年毎に調物と共に其の玉を貢進る。天日鷲の命
|が孫、木綿、及、麻、并、織布(古語に、阿良多倍といふ)を造る。仍りて、天富の命をし
|て日鷲の命が孫を率て、肥饒き地を求ぎて、阿波の国に遣はして、穀・麻の種を殖ゑ
|しむ。其の裔、今、彼の国に在り。大嘗の年に当たりて、木綿・麻布、及、種種の物を貢
|る。所以に、郡の名を麻殖と為る縁なり。天富の命、更に沃き壤を求ぎて、阿波の斎部
|を分かち、東の土に率往きて、麻・穀を播殖う。好き麻生ふる所なり。故、総の国(古語
|に、麻を総と謂ふ。今、上総・下総の2国と為す、是なり)と謂ふ。穀の木生ふる所なり。
|故、結城の郡と謂ふ。阿波の忌部の居る所、便ち安房の郡(今の安房の国、是なり)と
|名づく。天富の命、即ち其地に立太玉の命の社を立つ。、今安房の社と謂ふ。故、其の
|神戸に斎部氏有り。又、手置帆負の命が孫、矛竿を造る。其の裔、今、分かれて、讚岐国
|に在り。年毎に、調庸の外に、八百竿を貢る。是、其の事等の証なり。
                             斎部広成「古語拾遺」


 現在の島根県松江市に玉造温泉という地名があることや、畿内で大規模な宮を造営する木材は、当然畿内から最も近い樹木の繁殖地であったであろうことから、紀伊は熊野界隈が該当するのも頷けますね。
 ...日本書紀の記述と古語拾遺の記述の差異は、ここではあえて触れないでおきます。そもそもの立位置が違う2つの書物の記述です。そして、その差異を埋める手段も、わたしには持ちえませんよし。


 遥拝所であったであろうかつてを思いつつ、鳥居より社殿奥の莫越山を臨みます。風が止むたびに世界から音が消え、また風が吹くたびに稲穂が揺れる音だけが軽く響きます。本殿の前まで進み、いつもように参拝しました。
「自分に連なるすべての人が幸せでありますように」
 自分に連なるすべての人。言ってしまえば、すべての人々はかならず何処かで繋がっていますし、連なってもいます。こうやって古歌紀行をしていると本当によく感じるのですが、すべての人々が同じ地表を共有しているわけで、それは何も同時代の人だけには限りません。

 この地で暮らしていた先住民がいて。その後に忌部が来てここを当時では最先端の技術や知識で開拓。けれどもその後の時代では、また大和朝廷による東征があって、その時、朝廷側から見ればこの地に居ついた忌部の子孫たちもまた、先住民です。
 そののちの時代にだって、大なり小なり、1つの地表を共有せんがために、諍いもあれば融合もあったのでしょうし。そこにあったのは、支配と服従なのか、融和と同化なのか、よく判りません。ただ、判ることはその時々に人々が暮らしていたという事実と、その暮らしのためになされた努力と。

 そんな断片を訪ねて周る旅だからこそ、すべての人々の幸せを願わずにはいられませんし、その時々の人が願いを仮託していた祭神という存在にもまた、あれこれと考えをめぐらせてもしまいます。
 宮下の莫山神社祭神・手置帆負命と彦狹知命。その一方で、古語拾遺にはついぞ登場しない、小民命、御道命。この2人の申し出によって建立された、という説も莫越山神社にはあります。身勝手な推測ですが、土地の開拓には当然、鋤や斧が不可欠だったのではないでしょうか。そのために小民命、御道命が東進に参加していた、とするならば。...莫越山神社が忌部の祖である天太玉命でも、東進した天富命でも、ましてや阿波忌部の祖である天日鷲命でもなく、あえて自身たちの遠祖・手置帆負命や彦狹知命だけを祭神としたのも、また解らなくもないのかもしれません。当時の海岸線がどこまで内陸部に入り込んでいたのかは寡聞にして知りませんが、そもそもの上陸の地や、古語拾遺にも明記されている安房の社、すなわち安房神社よりは、それでも内陸に位置するこの界隈。急峻とまでは言わずとも山があり、木々が生い茂っていたであろうこの地ならば。

 ...そんなことを、ぼんやりと考えては、薄く浮いてくる汗もそのままに、ただただ風の中に立ちすくんでしまっていました。解るような、解らないようなもどかしさばかりが、後頭部にじんわりと凝っていました。

 天離る雛の地ともえ知じてみなひと向かふいづへともなし   遼川るか
 (於:宮下地区・莫越山神社)


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|家風は日に日に吹けど我妹子が家言持ちて来る人もなし
                  朝夷郡上丁丸子連大歳「万葉集 巻20-4353」


 「故郷の方角からの風は毎日、毎日、吹いてくるのに妻からの便りを持って来てくれる人などいない」

 こちらも防人歌ですが、作者は朝夷郡上丁丸子連大歳、とあります。丸子連。まるこむらじ、と読みます。ここで注目したいのは姓(かばね)が連(むらじ)だということでしょうか。
 先ずはかばね、です。大和朝廷以前の古代日本で、かばねは家臣に与えられた称号のようなもの、とされています。判り易い例に置き換えると、会社という組織に於いて、各人に与えられる職位・職責が、かばねであった、と。なので、地位や権限を表すかばねと、担当を表すかばねがあった、ということになりますか。

 そして、そのかばね、の中でも最高位だったのが連だ、とも。もちろん、ここでいう古代日本というのは天武以降の明確な中央集権以前。言ってしまえば、各地の豪族、あるいは小国もあったであろう、という前提での話ではありますが、それを後から追認・整備・記述という形で一本化にしたにせよ、後付したにせよ、少なくとも記紀万葉の時代には、かばねの中で連は最高位、という認識であったのでしょう。
 つまり、丸子氏はそれなりの力(地位or技術)を持った一族だった、となります。では、その丸子氏とは、となるのですが、これがまた中々...。

 今回少し調べてみたのですけれど、定説として丸子氏は大伴氏の系譜となっている一方で、いやいや実は和邇氏の系譜だ、とする説もいまだに多く、何とも。実は、丸子氏の他に丸氏、という一族が存在しました。といって、丸と書いてわに、と読みますから、似ているのは字面だけなのですけれど、どうにも混同されがちな様子。丸という氏族が上古から中古、中世の文献にぽつりぽつりと登場することが混同の原因と思われますけれど、恐らくは丸子氏と丸氏は別物です。
 丸氏は確かに和邇氏の系譜なのでしょうね。丸邇という表記やら、和邇氏から後に派生した春日氏に、丸部某という人物がいたことも続日本紀には記載されていますから。

 いずれにしても丸子氏は、東国ではかなりの広範囲にわたって居住していた一族だったのではないか、と。余談になりますが、一方の丸氏はむしろ西日本にその足跡が多く見られます。「さゝなみのしがゆ」でも、それなりに書きました。
 ただ今回、ややこしいと言いますか、紛らわしいと言いますか、誤解してしまいそうになったのが丸山町、という地名。ここから一瞬、和邇氏を連想してしまいましたし、某所で見かけた丸子氏は和邇氏から派生した、という説に慌ててあれこれ調べてしまいまして。でも、どうやらこの一帯の丸、は大伴氏系譜の丸子氏に縁の丸、なのでしょう。

 ともあれ、丸子氏です。知りうる限りでは、崇峻天皇の妃となった小手古の父親・大伴糠手の子(小手古の兄弟)である頬垂が丸子氏の祖とされているようですが、浅学にしてそれ以上のことは手繰れていません。
 ただ、この丸子連と莫越山神社一帯の旧丸山町界隈。古くは丸という地名だったらしく、その関連については色々と議論・検討の対象となっているようで、インターネット上でも幾つか拝読させていただきました。

 万葉集に採られている「丸子」に関連するものは他に

|難波津に装ひ装ひて今日の日や出でて罷らむ見る母なしに
                 鎌倉<郡>上丁丸子連多麻呂「万葉集 巻20-4330」
|久慈川は幸くあり待て潮船にま楫しじ貫き我は帰り来む
                     久慈郡丸子部佐壮「万葉集 巻20-4368」

 が見られます。
「難波の港に船出の装いを重ね着して、今日この日に出航するのだろうか。この姿を見てくれる母はいないというのに」
「久慈川は、そのままであっておくれ。船に楫をたくさん取り付けて、わたしは帰って来るから」

 はい、いずれも防人歌にして、前者が相模国、後者が常陸国出身、と。個人的にはこの中で最も悲壮感が漂っているように読めてしまうのは、丸子部佐壮のものですか。数年間の任地に赴く、という状況で親や妻と離れ離れになってしまうことを哀しんでいる、というよりはもはや祈りといいますか、まるで死地に赴くような覚悟が感じられます。...つまり、前述している通りの“防人の現実”もしっかり認識しているのではないかな、とも思えてしまうわけで、それなりの年齢に達していたのかもしれませんね、佐壮は。行きたくなくとも、それはもう詮無いこと。あとは早く帰ることだけを、という"考え"も感じ取れますね。
 一方の多麻呂は逆にとても幼い印象です。妻ではなく母ですから。行きたくない、という"感情"がストレートに表現されていますし、とにかく不安だったのでしょう。

 ...といって大伴氏とも、和邇氏とも、そして万葉集とも、直接的にはほぼ無関係ではありますが、そんなかつての丸の地に行基が開祖とされている古刹があります。石堂寺です。
 古くは日本3大石塔寺の1つに挙げられ、旧名はそのまま石塔寺といったようですね。場所が、宮下の莫越山神社のごく近くなので、その石堂寺へちらっと立ち寄ってみることにしました。

 行基開祖、という"枕詞"は東国にまた、たくさんあります。元々が畿内に比べて上古の記述が極端に少ない東国で、上古の文学に縁ある地を訪ねて周ろうとすると、とにかく倭建命か、防人か、あるいは行基か、となってしまうのは仕方がないこと。とは言え、何だかすっかりお馴染みになってきていること、思わず笑ってしまいましたが。
 また、忌部が開拓という形で、技術面からこの地をリードしていったり、あるいは倭建命が東征という形で、各地を束ねていったとしたならば、行基はそれを仏教という形で実行した人、となるのかもしれませんね。原初はひもろぎなどから始まった自然信仰が、忌部によって祖神を祭り、また功労者を祭って、一方の大和朝廷の東征によって天つ神、国つ神信仰という、統治にして、日本という国家全体の信仰が伝道され、やがて中央が仏教に傾倒するにつれて、今度はそれで各地を上書きしていった、といいますか。


 お寺さんの駐車場から、ゆるやかな坂道を登ります。途中、それなりに樹齢を重ねているのでしょうか、大木の根が土から張り出している様なども見られますし、国や自治体から重要文化財指定されていると思われる建造物も複数あって、南房総最古のお寺さんであること、改めて実感していました。
 お寺さんの由緒は、神亀3年(726年)に行基が建立、となっています。一方の大歳が件の万葉歌を上奏したのが天平勝宝7年(755年)。...この地を本拠とした安房の丸子氏。その中にはもちろん大歳もいたのでしょうし、もしかしたら彼もまた、このお寺さんに詣でたことがあったのかもしれません。

 古歌紀行をしていると襲われる不思議な感覚。それは歴史は歴史と交差する、ということです。ここにお寺さんとして時間を紡いできた場があり、その一方で歌集として歴史を重ねてきた万葉集があって。それぞれの1300年も経た今になって、わたしがその2つの歴史が交差したかもしれない様を、何となく感じている、といいますか。...もちろん、わたしだけではない、様々な分野からこの地へ関心をもって訪れた人々もまた、そういった交差する歴史と歴史、というもう1つの新しい歴史を紡いできたのでしょうし、ゆくのでしょうし。
「重い...」

 梅雨明け間際のまだ低く浮かぶ雲たちの下。気温はすでに30度を超えていました。東国の哀しみ、それは西から来た為政者たちによる、支配の歴史。そう、わたしは「なつそひくうなかみがたゆ」で書きました。けれども、その為政者によって支配された者たちもまた、かつては西からやってきてこの地を開拓した者たちでした。
 開拓民とはいっても、恐らくはそれ以前からこの地に暮らしていた原日本人と言いますか、いずれにせよ先住民が全く皆無だったとは思えません。先史時代の貝塚や、石器などが、その事実を21世紀の現代も、静かに物語っています。

 ならば開拓民もまた、為政者だったのかもしれませんし、その後にやってきた倭建命にしても、それこそ行基にしても...。歴史は、歴史と交差します。もしかしたら、そこに悲哀などという甘ったるい感傷を抱いてしまうのは、わたしの奢りや、傲慢なのかもしれません。
 先住民は、それでも忌部が率いた開拓民によって新しい技術という恩恵もまた、享受したことでしょう。麻にしろ、木綿にしろ、鋤や斧などにしろ。


 その開拓民の子孫は、大和朝廷の東征によって支配され、その解りやすい形の1つに防人という制度がありました。...が、同時にそんな彼らの歌が現代に残っている事実や、心の支えとして存在したかもしれない古刹もあって。
 人の歴史。土地の歴史。時代という歴史。果たして"それ"が正しかったのか、間違っていたのか。美しかったのか、醜悪だったのか。有効だったのか、無意味だったのか。...過去に対するすべての評価は、その時、その場ではなく、後の時代がくだすものです。そして、その後の時代の評価もまた、時代によって醸成される価値観によって次々と様変わりします。

 いや、そもそも後の時代がくだした評価に、果たしてそれほどの価値が存在するのでしょうか。前述している通り、バックボーンが違いすぎるのです。あくまでも、学術的に。あくまでも芸術的に、という側面での評価はもちろん存在するのでしょうが、ならばその学術や芸術とは、と。
 同時代性の権威、というものは社会の1つの機構として必要なのでしょう。学術としての筋道もまた、必要なのだとも思います。現にわたしはここまででも、定説が、有力説として、などの記述しています。

 義務教育的な正解と不正解。これもまた古歌紀行をしていると判らなくなるものの筆頭格で、仮に学術的にそれがそうだ、と定められているから...。それに倣わなければ、それに寄り添わなければ、すべて不正解なのでしょうか。
 万葉歌に謡われた場所が不特定の地。ではその地は何処なのか、と歩いて周ったところで、そもそも学術的な答えなど出ません。数多の先人たちをもってしても定められていないものを、わたしが仕事の合間を縫って訪ね歩いたところで“未詳という定説”を覆すほどの大発見はなされるはずもありません。

 「あきづしまやまとゆ・弐」で書きましたが、柿本人麻呂は誰だったのか。その問いに対するわたしの現時点での最高の答えは“判らない”です。ですが、それと等価で“わたしはこう思う”というものがあったっていい、とも思います。あくまでも私見の範疇内であるならば。
 そこに正解不正解という境界を設ける必要は果たしてあるのでしょうか。同時に、後世がどうジャッジしたからといって、それにもまた寄り添う“義務”はないではないでしょうか。

 例えば、これが太平洋戦争中の価値観で捉えるとしたならば、家族とはなれるのが哀しい、などと心情を吐露している時点で非国民、とされたのかもしれません。戦後60余年を経た今だからこそ、そこに人々の悲哀がとてもくきやかに浮かびあがるのであって、仮にこの先、日本という国がまたしても軍国化するのならば、もしかすると万葉集は19巻で完結、とされてしまうのかもしれません。あくまでも、仮定のお話になりますが。

 ですが、その同じ時代の中にも、人それぞれのものの感じ方、考え方、が存在しますし、それらだって価値観、という言葉で括られます。歴史や考古学はただただ立証可能な事実にのみ、裏打ちされて然るべきもの。






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