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久しぶりだ、と感じていました。いや、むしろ初めてという感慨の方がずっと強かったのかも知れません。天気雨。天気雨そのものと遭遇するのも久しぶりでしたし、それ以上に 「こんなに、こんなに、晴れているのに。なのに、こんなに雨が降っているなんて...」 と。 これが天気雨、というものなのでしょうか。だとしたら、わたしが子どもの頃から遭遇していた天気雨は一体、何だったというのでしょう。 それとも。それとも、これは涙雨でしょうか。ならば、泣いているのは誰なのか。そう、本当に誰がこんなに泣いてしまっているのでしょうね。 大垣ICを降りたのは、朝の9時前でした。仕事でこの界隈には案外、よく来ていたのですが、古歌紀行をしようと思ったことなど、過去にはありません。 もちろん、神奈川ともう滋賀に程近いこの界隈を仕事で日帰りする時に、寄り道をする気なんてそうそう起きない、ということもあります。また、ここが記紀万葉風土記といった上代文学に縁ある土地、という印象が希薄だったのも事実です。だから、仕事で来てもいつも真っ直ぐ帰っていたのですけれど、なんて勿体ないことをしていたのか、と。そう、思い始めたのは2月くらいだったでしょうか。ちょうど、近江国の古歌紀行文「さゝなみのしがゆ」の中でも最大のハイライトとなる壬申の乱について書いた時期です。 壬申の乱。この古代史最大の戦乱で勝者となったのはご存知の通り、大海人皇子でした。そして、彼と彼の率いる軍が本陣をおいたのが近江と美濃の国境・不破。後には、その壬申の乱によって不破という地の重要性が広く知られるようになり、関所が設けられた地です。 不破の関。...はい、古代の三関の1つでもあった不破関の跡地が今でも、ここ・岐阜県不破郡関が原町に残っているのだといいます。 高速道路を降りるまでは、雨なんてまったく降っていませんでした。それが大垣ICを降り、関が原へと向かえば向かうほど、雨量が増えてゆきます。風も強く、吹きつけるかの勢いで雨は降りしきります。でも、空は抜けるほど澄んだ青空...。 暖冬だった影響で、今年は梅も桃も早く、予報では 「桜も3月中旬には開花しそうだ」 とのこと。事実、ここ数日は暖かいというよりもはや暑いくらいで、なのに今日に限っては底冷えするほどの寒さ。そしてこのお天気です。春の嵐に、わたしの中で不安が絶えず掻き立てられていて、だからこそ余計に感じやすくなってしまっていたのかも知れません。 不破関資料館に着いた時には、何だかもう泣きそうになっている自分がいました。理由なんて判りません。ただ、ここに来るまでの間、何度も何度も去来したのは日本書紀・壬申の乱の各場面。 吉野から乗る馬も、食べるものも、暖を取るものすらないまま東国へと落ち延びようとしていた大海人たちの様子。南と北の両方から軍を向けられ、もはや逃げ場などない、と自ら果てた大友皇子の最期。そしてすべてが終わった後で、この不破にいた大海人に届けられた、大友の首のこと...。 平日の早朝に来館者など他になく、不破関資料館で動いているのはわたしだけです。とても小さな資料館で、小学校の教室の半分より小さい展示スペースは、どんなにじっくり見てもすぐに終わってしまいます。ですが、この界隈の史跡を散策するなら、やはり最初にここで地図や、道などの情報を確保するのが正解のようです。 資料館の方に、わたしが告げた訪問希望地は不破関跡、自害峯、そして大垣へ戻る途中にあるらしき野上行宮跡。それぞれへの道を説明しながらも、 「ついでに近いから...」 と、もう数ヵ所への行き方も教えてくださった館員さんのお奨めに沿って、不破関界隈を歩きます。 相変わらず傘というものを持たない身。皮のコートに天気雨がかすかな音を立てながら降っています。...そう言えば、たまたま皮のコートにしましたけれど、幸運でした。何せ、このコートを着ていてもまだ寒いのです。昨日までと同じつもりでいたら、と考えるとちょっとぐったりしそうですが。 資料館向かいのお宅の脇、畑と畑の境界線にもなっている野道に、大きな道案内板が立っています。曰く 「不破関庁舎跡/天武天皇兜掛石・沓脱石 30m 1分」 地元に残っている伝説なのでしょう。道案内に従ってほんの数歩ゆくと、そこは畑。畑といっても大きな畑ではなくて、民家の庭先のような畑です。そして、その畑の中に垣で囲まれた石と、屋根まである小さなお堂に守られている石がぽつん、ぽつん、と。 ...大海人に限らず、義経でも聖徳太子でもいいのですが、こういった石の伝説は、何処の土地で微笑ましく思いますし、同時に切なくも思えます。往時と繋がっている可能性がある“具象”。そう考えれば、当然のように石に辿り着くわけで、歴史の舞台となった地であるならば、そんなファンタジーが伝承されるのも、判らなくはないですからね。 同時にそういうファンタジーと自らを繋げたい。繋がっていたい。あるいは繋がっているような夢が見たい。そうやって夢想した人々が生み出すのが、伝説というものなのでしょうし、それは現代のアイドルやスポーツ選手に対するファン心理と何ら変わらないとも感じます。 史書などの記述の断片を繋ぎ合わせてつくり上げるドラマも、言ってしまえば現代の芸能ゴシップと大差などなく...。何も古代史だから高尚だ、なんてこれっぽちも思いませんしね。いずれにせよ、今も昔も人はファンタジーが好きなのです。 野道を進み、舗装路に出ます。そしてすぐに見えた白壁。不破関の跡です。 |題詞:不破の行宮にして大伴宿祢家持の作る歌一首 |関なくは帰りにだにもうち行きて妹が手枕まきて寝ましを 大伴家持「万葉集 巻6-1036」 これは、壬申の乱より約70年後。藤原広嗣が謀反を起こしていたのと時を同じくして、聖武が東国行幸をした際、従駕していた家持が、不破にて詠んだ歌です。 「もし不破の関がなかったなら、せめて日帰りしてでも妻の手枕で寝るだろうものを」 ...不破の関がなかったら。家持はそう、ぼやきました。「万葉集」にはこの歌と一緒に、件の行幸の途中で詠んだ、家持の歌が数首、採られていますがその殆どは妻恋歌です。いや、もっとはっきり言ってしまうと、家に帰りたいという愚痴でしょうね。 ですが、不破の関さえなければ、という措辞からするにやはりあの聖武の行幸。目的地はここ・不破の関だった、ということなのでしょうね。もちろん、だからといって聖武が曽祖父である天武の足跡を辿りたかったから、と断定する決め手にはなりませんけれども。 乱の舞台となったのはあくまでも不破道であって、関所が設けられたのは乱の後です。皮肉なことにあの戦乱がこの地の重要性を、世に知らしめたということですね。 もっとも、不破の関に建っている説明書きによれば、関そのものは平安期にはもう停止されたようで、けれども江戸末期までは朝事がある度に関として機能していた、とのこと。京都からも、江戸からもそれなりに遠いですから、余程のことがない限りは、ここはそうそう厳戒体制にしなくても...、といったところでしょうか。また、関が停止になって以降に、関守が任命されるようになった、ともあります。 通りに面しているのは関の門構えなのでしょうが、恐らくはずっと後の時代に造られたものだと思います。何せ往時こそは要衝中の要衝でも、この現代では民家の敷地内にある史跡です。末期の頃の関守と、関係のあるお宅なのでしょう。産婦人科の医院をやっていらっしゃるようですが。 関跡の裏手は関守址、つまり関守の屋敷跡ですね。資料館でお庭が自由に見学できることを聞いていましたから早速、入ってみます。...椿の花が咲いていました。そして土に落ちてもいました。お庭には碑がたくさん並んでいて、歌碑は見なかった気がしますが、句碑はありました。芭蕉のものだったように思います。 資料館で聞いた順路で、不破の関跡から坂道を下ります。遠くの方に大きな鉄橋と、そこを奔り抜けてゆく新幹線が見えます。そして、後にはまた風の音と葉擦れの音、コートに降る天気雨の音のみ。 坂の途中に、また説明書きの看板が立っていました。曰く、 「不破関西城門と藤古川」 と。...不破の関の西の端のようです。藤古川が境目ということですね。だとすると、やはり大きな関だったのだな、と感じます。 わたしが訪ねたことのある関跡は、関としての時代はばらばらなれど、足柄や箱根、そして逢坂くらいしかありませんし、ましてそれらのすべてが当時のまま現存しているわけもなし。なので、ちらっと訪ねたくらいで単純には大きい、小さい、などと語れないのは承知しています。ですけど、それにしても...。 あるいは、比較対象物をかつて歩いた世界各地。徒歩で越えた数多の国境にしたならば、納得がゆくのかも知れません。国境。そう、まさしく存在意義自体は現代の国境とほぼ同じだったのが、当時の関というものなのでしょうから。 藤古川に架かった橋を渡ります。この橋にも町の観光協会さんが設置した説明書きがあるのですが、どうも日本書紀の記述と若干、違う内容です。やはり地元には地元の伝承があるのでしょうね。...むしろ、こちらの方がずっとリアリティがあります。 |藤古川 |この川ほ古くは関の藤川と称し、壬申の乱には川を挟んで東が天武天皇軍、西側には弘文 |天皇軍が陣しそこの地区民は銘々の軍を支援したので、戦後東の松尾地区は天武天皇を |奉って井上神社と号し、川西の藤下、山中地区では弘文天皇を奉って氏神とし、現在に及 |んでいる 関が原町観光協会
壬申の乱、最初のニアミスの舞台が不破ですから、それがこの藤古川を挟んでということだったのかも知れませんね。ですが、驚いたのはこの地域のお宅が、それぞれ天武と大友を氏神にしている、ということです。この意味するところは、当時の徴兵に関連している可能性もあるわけで、1300年を経た今でも氏神が違うというが何とも...。 実際に立ち寄ってみたんですね、藤古川西岸の若宮八幡神社と、東岸の井上神社に。いやはや、百聞は一見にしかずといいますか片や境内に懐風藻の詩碑が立ち、片や境内に壬申の乱の勝者にして皇統を継いだ天武を讃えて、氏子さんたちが立てた碑が立っていたのには、何だか色々な意味でどきどきしてしまいました。 ...もちろん、現代に暮らすこの地域の方々の間にはぴりぴりしたものなど、ないのでしょうけれどね。
藤古川までは坂を下って来ましたが、川を渡ると今度は登りです。相変わらず吹き付ける風は冷たくて、あちこちでほころんでいる白梅が、何だか可哀想に思っていました。寒さはまだしも、もう少し風が優しいといいのですが。 坂を登りきるとまた川です。藤古川も思い切り助走をつければ、飛び越えられそうな気がしなくもない川でしたが、こちらの川はもっとささやかです。けれども、そんな風情とは裏腹の名を持っていました。...黒血川、と。 日本書紀の記述では、この不破界隈はあくまでもニアミス程度しかなかったはずの地、とされています。ですがここに、倒れた兵士たちの血で川の水が黒く染まるほどだった、ということから名づけられた川があります。また、今なお氏神を分ける地域もあります。...どうやら、わたしが繰り返し読んだのは日本書紀という書物でしかなく、壬申の乱という歴史では、やはりなかったのやも知れませんね。 黒血川はささやかな川幅に反してそれなりに深いのでしょうか。水の色が川の中程は青味掛かっていて、間違っても浅瀬には見えません。それが染まる、ということの意味をあまり考えたくないな、と率直に思ってしまいましたが...。 ちょうど、小高い丘の麓を流れる黒血川。流れに沿ってそのまま後ろに廻り込むと、丘の登り口が現れるのですが、そのすぐ側を新幹線の高架が横たわっていました。 「...こんな近くに新幹線が走っていたら、静かになんて眠れないだろうに」 無意識に洩れてしまった思いです。 秋に訪ねた滋賀各地。中には宮内庁が弘文天皇陵と定めている長等山前陵もありましたし、弘文天皇陵の候補地でもあった茶臼山古墳もありました。ですが、そのいずれもがわたしには何とも空虚といいますか、 「ここには大友はいない気がする...」 と感じられてなりませんでした。けれどもここ。そう、ここです。すなわち茶臼山古墳と同じく弘文天皇陵の候補地だった自害峯を登り始めてすぐに、何を感じたのか自然と泣いてしまっていたわたしがいました。 天気雨と吹きつける寒風。それらは自害峯の中だと殆ど感じられず、ただ木々たちが揺れる音だけが、頭上から降ってきます。地鳴りのように、海鳴りのように、古墳ではないこの丘を包むかのように響き渡る音に、何だか上下左右の感覚が麻痺しそうで立っていられなくなりました。...斜面を滑り落ちてしまいそうだったんです。 杉の大木が3本、重なるように生えています。“自害峯の三本杉”と説明書きにありました。つまり、自害した大友の首がこの地に届けられ、大海人による確認と、その後の晒し首。そして最終的に葬られたのがこの丘ということで、3本杉は目印なのだ、と。 蹲るようにしゃがんだまま、思っていたのはかつて。かつて、わたしが訪ねた場所で、非業の最期を遂げた存在に縁ある地はどれくらいあったか、ということです。 大津皇子の磐余の池跡。長屋王の屋敷跡地と御陵。井上内親王の御陵も訪ねましたし、藤原広嗣を祀った鏡神社だってあります。平群鮪、市邊忍歯王、...倭建も非業の最期だった、と言えるかも知れません。 それだけの痛みを伴う地を訪ねていながら何故、今までこうはならなかったのでしょうか。何故、この自害峯でだけわたしは、こんなにも視界がぐんにゃりと歪んで、まるで酷い乗り物酔いにでもなったかのように、縮こまってしまっているのでしょうね。 大友皇子。正直な話、讃良側から日本書紀を読んで来たわたしにとって、彼は興味の対象外でした。いや、それどころか讃良の夫であった大海人にどうしても肩入れしてしまっていた余波で、彼には好意的でなかったように思います。 だから近江でも、何よりも長等山前陵ですらも、わたしはこんな思いに襲われませんでした。良心の呵責のような感情は、抱きもしませんでした。 日本書紀の巻28。読めば読むほど、自身が肩入れしていた大海人軍の動きに湧いてしまった疑念。そして何より、もう1300年を経た今になってなおも、どちらがどうだ、などと語ること自体が、すでに眠っている魂に対して不謹慎なのではないか、とも痛感していました。 歴史に正義などない。正解もない。...こう思うようになったのは、すでに数年続けている古歌紀行の中でのことです。けれども、その古歌紀行を始めるより前から、わたしなりの歴史解釈はありました。それはまさしくある種のファンタジーの世界。わたしが殊更、忌避する夢の世界です。 書いているから負っているものがあります。ですがそれ以前に、それでも歌を追いかけ、上代文学を追いかけ、古代史を追いかけ続けている自身がいます。机上では飽き足らずフィールドワークを始めてしまったのは他ならぬ、わたし自身です。 過去の自身を覆す、過去に自ら書いたものを否定する。これは、近江国の旅で1番、わたしにとって重く、そして熱かったことです。 でも、何も今回の近江が最初になったのではありませんでしたね。いい事であろうとも。自身にとっては辛い事であろうとも。過去のものから変化したのならば、それはみな自己破壊なのではないでしょうか。 ならば、わたしは近江よりもずっと以前から、もう繰り返し繰り返し自らを破壊し、そして再構築してきていたのかも知れません。そして、それを気づかせてくれたのは、かつては無関心でしかなかった大友皇子、という存在だったのだ、と。 すぐそばに新幹線の高架が横たわる丘。天に向かって真っ直ぐに伸びた杉たちに覆われた斜面に立って、真上を見据えます。...高い高い梢たちの先に見えるのは、相変わらず抜けるような青い青い空。天気雨は木々に阻まれてわたしまで届きません。 ですが、きっと。きっと、今でも降っているはずです。 3本杉に手を合わせました。...初めてです。これまで訪ねてきた記紀万葉風土記の故地では初めて、いつものものではなく、大友その人の為だけに手向けた祈りを、3本杉に。 丘を降りると、やはり天気雨は降り続けていました。一旦、資料館まで車を取りに戻ります。資料館の方にもご挨拶するために顔を出したら、驚かれました。...泣いていましたからね。 「こんな天気じゃなかったら、気分も違ったでしょうにねえ。歩きが辛かったですか。それとも迷いましたか」 「いえ、歩きの所為でも、お天気の所為でもなくて、ただ虚しくて。日本書紀を読んでいても感じましたけれど、ここに来てもっと実感しました」 「そうですか。...自害峯もねえ、大友皇子の御陵に立候補したんですよ。でも長等に負けてしまってねえ」 「長等も茶臼山古墳もゆきましたよ」 「ああ、あっちもゆかれたんですか」 御陵というものの信憑性については、元々とても懐疑的なわたしです。流石に宮内庁管理の御陵になると、観光目的という印象は希薄ですが、代わりにもっと鬱陶しい意図が薄っすらと、そして露骨に見えて、本音の部分でうんざりしたくなるものも多くあります。 ですが、そこで眠っているのか、あるいは眠っていないにしても確かにそこで悼まれ、偲ばれている存在には、そんな意図など無関係でしょう。だから各地で御陵を訪ねています。 けれども、その御陵がまるで世界遺産のように立候補云々、という過程を経ているとは思ってもいなくて、少なからず唖然としてしまったのは事実です。...大友の場合は、明治期になってからの追尊です。なのでそれ以前には御陵などなかったでしょうし、当然ですが延喜式の巻21・諸陵寮にも記載などありません。 余談になりますけれど、同じく追尊された存在である井上内親王は、平安初期にすぐ追尊されているだけあって、延喜式にも記載されています。...ともあれ、そんな大友だけに御陵が定められたのも近年ですから、立候補制になっても仕方ないのかもしれません。 天気雨は未だやまず、そのまま車を大垣方面へ戻るように走らせます。大海人たちは最初、桑名に本陣を置き、不破は前線地でしかありませんでした。けれども不破から桑名まで、距離がありすぎて不便だ、と高市皇子が進言したことで、大海人たちも不破へ本陣を移しています。 その不破の本陣。現代の地名では不破ではなく野上となりますが、野上行宮跡とされている伝承地が、関が原から大垣へと向かう途中にありました。 こちらも東海道新幹線のガードのすぐ側です。徒歩でしか進めそうになかったので、新幹線のガード下に車を止めて、山の中を歩きます。 時折、背後から新幹線の通過する轟音が響きます。関が原。この地にしてみれば新幹線の方が後からやって来た存在なんですけれどもね。すでにこの地の主役は彼らです。 資料館の方は原野、とおっしゃっていました。また事前にWeb上で見た写真でもまさしく原野だったので、ついつい看板を見落として目的地を通り過ぎてしまいました。1kmくらい先まで行って、 「見つけられないや、今回は諦めよう...」 そう思って引き返し、車へ戻る途中でようやく野上行宮跡を見つけました。なるほど、往時の長者屋敷をそのまま行宮としたようですね。原野という風情とはちょっと違う気もしましたが、礎石が組まれた土段は、確かにここに何らかの建造物があったことを物語っています。 こんな山の中です。そして新幹線の路線の近くです。新幹線の開発当時、この界隈に民家が犇いていたなら、今の路線とは少し違っていたでしょうか。そういう意味からしても、ここは往時以来、ずっと山の中だったのだと思います。 ...どうしてでしょうね。以前のわたしなら、大海人の本営地だったここで、もう少し何らかの情動があったでしょうに、どういうわけかただ、ただ立ち尽くすばかりです。 日本書紀によれば、讃良は桑名に残り、ここへは大海人たちの本営のみが移動してきたはずです。同行していた草壁・忍壁の両皇子はどうでしょうか。流石に高市と大津が陣中にあって、彼らが讃良と一緒に安全地帯にいた、とは思い難いですが。...それが、大海人の皇子たちにとっての壬申の乱でした。 行宮跡から車へ戻ろうとした時、やっと気づきました。あの天気雨が止んでいるのです。不破関の資料館を出た時は、確かにまだ降っていたのに、ここ・野上の新幹線のガード下で車を降りた時には、もう止んでいたはずです。 いや、違いますね。時間的に降った、止んだ、というよりも不破の周辺でのみ、降っていたような形になるのかもしれません。 陽も射し、青空も広がっているのに降り続いていた雨。まるで初めて遭遇したかのような長時間に渡る天気雨が途切れ、わたしは不破を去ってゆきます。近くまでは頻繁に来ていますから、また立ち寄ることも出来るでしょう。今度はもっと違うお天気のもと、3本杉に手を合わせられたら、と思います。 「万葉集」に不破の関が詠まれたのは、上記引用の家持のものの他にもう1首です。 |足柄の み坂給はり |返り見ず 我れは越え行く |荒し夫も 立しやはばかる |不破の関 越えて我は行く |馬の爪 筑紫の崎に |留まり居て 我れは斎はむ |諸々は 幸くと申す |帰り来までに 倭文部可良麻呂「万葉集 巻20-4372」 関が停止されてしまうまでのわずかな期間。天平期、防人に派遣された若者の歌のようです。足柄の関、不破の関を越えて、難波へ行き、そこから船で筑紫へ向かう覚悟と決意の歌、でしょうか。 もっとも不破の関が、そして藤古川(関の藤川)が、歌枕として多くの歌に詠まれるようになったのは中古・中世のことです。21代集に採られている、いずれかを詠み込んだものには流石に恋歌などなくて、主に羇旅歌、雑歌、賀歌、などに分類されていますね。 個人的な好みで恐縮ですが、幾つか引いてみます。 |故郷に立かへるともゆく人のこゝろはとめよ不破の関守 源頼康「新拾遺和歌集 第8 離別歌 755」 |神代より道ある国につかへける契りもたえぬ関の藤川 光明峰寺入道前摂政左大臣「風雅和歌集 巻第17 雑歌下 1800」 源頼康の歌は、蝉丸の逢坂の関の歌に近いかも知れません。ただ、東海道や中山道の終点に近かった逢坂では逢う、ともなりますが、それぞれの道の途上である不破では、人はみな通り過ぎてゆくばかり。そんなこの地を足早に過ぎていってしまう人々の、心だけでもせめて束の間、留めさせておくれ、関守よ。そんな内容でしょうか。 たまたま、関守の屋敷跡で芭蕉の句碑を見かけたから、という訳ではありませんがすぐに思い出しのは奥の細道の有名な冒頭でしたね。 一方の光明峰寺入道前摂政左大臣、つまり九条道家の歌は果たしてどう捉えるべきなのでしょうね。ここで言っている道とは、恐らくは儒教的な人として、臣下としての道のことだと思うのですが、契りというのがやや引っ掛かります。あと、たえぬです。絶えてしまって久しいのか、絶えないのか、どうも判りづらく...。もし前者ならば、壬申の乱そのものを詠んだ歌なのかも知れません。本当に、神代より道ある国に仕えて来た、その大きな大きな約束事すらも、関の藤川では絶えてしまったのではないでしょうか。 もちろん、歌自体の読解にはかなり疑問がありますから、全く別の歌意の可能性は高いですけれども。...余談になりますが、九条道家の父親・九条良経も不破の関を詠んでいますね。 |人すまぬ不破の関屋の板ひさし荒れにし後はたゞ秋の風 摂政太政大臣「新古今和歌集 巻17 雑歌中 1601」 不破の関。ここもまた境界でした。そして境界とは、人と人とを隔てるものであり、同時に逢わせるものです。今日、この地でわたしが出逢えたもの。それは哀しいまでに澄み渡った空と、天気雨。日本書紀とは食い違う現地ならではの伝承、すでに何度も自己破壊を繰り返してきていた自分自身、そして大友...。 ふと、あまりにシンプルな答えが1つ降ってきました。 「何故、旅を続けているのか。何故、謡っているのか。...だって、逢いたいから。もっともっとたくさんの人と、たくさんのことと、たくさんのわたし自身に、逢いたいから」 と。 息の緒に逢はまくほしきものさはにありてな問ひそなにしかなどや 遼川るか (於:野上行宮跡) |
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