余談になりますが、白村江の戦いの直前に、百済復興運動の牽引役だった鬼室福信と、旗頭として帰国した百済王・豊璋が反目し合うようになってしまい、福信は罪人として斬られています。敢えて日本書紀からの引用はしませんが、福信の最期たるや読んでいるとちょっと滅入るほど。 そんな状態での戦いです。倭軍には地の利が全くなく、百済軍には人の和がない。それでは、新羅・唐の連合軍に完膚なきまでに敗れても、仕方ないといいますか、道理といいますか。いずれにせよ、壬申の乱もそうですが、基本的に戦いの記述を読むのは、かなり苦手、いや。もっとはっきり言うならば苦痛です。 お話を鬼室集斯に戻します。白村江の戦い後、彼は日本に渡来。事実上は亡命です。そして彼は、故国の同胞たちとこの近江国へやって来て、最初は神前郡(現・東近江市界隈)、後に蒲生郡(現・蒲生郡日野市界隈?)で、暮らしたのでしょう。 集斯自身は、天智から位まで授かっていますね。もしかしたら国賓扱いだったのかもしれません。 そんな彼の名前が彫られた石柱が見つかったのは、江戸時代だったといいます。つまり、蒲生郡日野町で、表面に 「鬼室集斯墓」 と彫られ、加えて裏面にも 「朱鳥三年戊子十一月八日没」 と彫られた石柱が、です。そして、その石柱が見つかった神社は鬼室神社と改名されて今なお、日野町の田園の中に存在している、とのこと。...はい、今わたしが向かおうとしているのが、その鬼室神社です。 早朝の雨が、今では思い出せないような気分でした。甲賀の山の麓には初秋の陽射しがいっぱいに降り注ぎ、それを浴びて煌くのは視界一面の稲穂の海です。 日野町に入ってから一度、大きな曲がり角を間違えてしまって、かなり遠回りしたことになるのですが、それでもこうして辿り着けた光景に、ただただ圧倒されてしまって...。次から次へと涙が溢れ出していました。 理由なんて判りません。ですが、そこに広がっていたのは確かに、わたしにとっての、そして日本人にとっての原風景だったのだ、と思います。 どれほど奥地に足を踏み入れても、流石に電線と電柱は視界に残ります。厳密に言えば、それはここも同じこと。ですが、自身が向いている方角には、確かに電線も、電柱も、ないのです。...もちろん、振り返ればそんなことはないんですけれどもね。 それくらい、昔のままの表情を残している田園風景の中、そこだけが唐突に田圃ではなくて高い木の繁っている場所がありました。まるで稲穂の海にぽつんと現れた小さな島のような場所。それが、鬼室神社です。 境内へと続く小道に建っていた看板は、日本語とハングルの併記。韓国から訪ねて来られる人が案外、多いのだそうです。 それもそのはずでしょう。その看板を読んだ限りでは、集斯が福信の息子と記されているのです。福信は、故郷・韓国の忠清南道で、祀られている例もあるくらいですからね。亡国の中、孤軍奮闘して祖国奪回に心血を注いだ、英雄とする向きもあるのも知れません。歴史上では大罪人でも、です。その福信の息子であるのならば、半島からの参拝者がいるのも道理。 何だか、また判らなくなり始めていました。こんなに自身の原風景と感じては、理由などなく泣けてしまう景色は、されど半島から渡来した人々が暮らしていた土地。 もちろん、それが嫌だというのではありません。そうではなくて、逆に自身が原風景と察知・認識しているイメージさえもが、いつからか知らず植えつけられていた借り物ではないのか、という疑念ゆえです。 いや、違いますね。そもそも原風景とは何なのか。ここが、とてもとても曖昧なのでしょう。わたしが今、理由も判らず泣いているのは事実。けれどもそれを原風景だから、と理由付けることに歪みがあるのかもしれません。元々、理由なんて判らないのです。ならば、ただ感激したから。 ...それだけで、きっといいのだと思います。 光が満ち溢れていた周囲とはうって変わり、境内はすっかり木陰になっていて空気がひんやりとしています。小振りな鳥居を潜るとやはり小さ目の本殿があって、その裏手に問題の石柱がありました。 彫られている文字までは確認していませんが、何となく祖国の土を踏みたかったのではないかな、と唐突に思い浮かびました。祖国、故郷、家庭。これら全てはホーム、すなわち「帰ってもいい場所」。そう人々は、当り前のこととして捉えているのだと思います。帰属意識、といいますか。 ですが、その国が滅んだのです。生きる為に異国の土に馴染まなければならない、ということは一体、どれほどの思いを喚起するのでしょうね。 人は誰もニュートラルではいられません。生まれた時点で、自身が何者であるかというも、世界とはどういうものなのか、ということも他者や社会から植えつけられますし、全ての認識はそこから始めなければならなくて...。やがて、植えつけられているものと、自らの心身で感じ、考えた自分自身はもちろん、世界すらもがイコールでは結べなくなります。違和感。そう、自身への、世界への違和感です。 そこで認識を再構築することができるのか。そもそも、再構築する以前に、それまでの認識を自ら破壊、あるいは破棄することができるのか。 恐らくは、この関門を越えない限り、その人にとっての世界は決して変わることなどないでしょう。...もちろん、違和感がないのであるならば、そもそも変わる必要もありませんけれどもね。 鬼室集斯。渡来人として祖国ではない土に眠っている人に、せめてもの祈りを。そして時代の濁流に呑まれてしまった、百済という国にも、せめてもの祈りを。 血の交わりはいつ、どこで起こったか、などと確かめようもありません。ですが、自身の中にも幾らかの確率で、倭以外の異国のそれが混じり流れているのでしょう。...だって、国なんてものは、人間より後から来たものなのですから。 きはみなるはなにしか地を綿津見を分くや 分くれどえ分けざるかや 遼川るか (於:鬼室神社) −・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・− 淡海から離れ、そして今いにしえの草叢からも離れてゆくわたしがいます。甲賀の山。この向こうにあるのは、もう上代というよりは中古・中世に縁ある史跡です。 ロードマップ上で最短と思われる道を、ただ黙々と走っていると周囲の景色がどんどん薄暗くなってきました。鬱蒼と繁る木々、県道指定されているにも関わらず、あまりに細く、はらはらと降りしきる小枝や葉で埋め尽くされた道。時折、大きく張り出した枝が垂れてフロントガラスをかすめたりもします。アスファルトなのか、未舗装なのかもう判らない地面は、何処から沸きだしたのか見当もつかない水で湿り、濡れ、そして溜まっていて。ここ数日の雨がまだ乾いていないのかもしれません。大きな水溜まりばかりです。 人混みが嫌いです。けれども、こうまで人の気配がなくなってしまうと、どうしようもなく不安になります。もし、もし、ここで車が故障したら...。電波圏の違う2つの携帯電話は、両方とも圏外となっています。 この近江国で感じたことはたくさんありますが、そのうちの1つがこういった人を拒んだままの、人にそれほど穢されてはいない自然の圧倒的な重みです。自然とは、人の手が入ってないからこその自然であって、人に都合よく整備された自然は、もはや自然とは呼べません。 そしてそれは万葉故地とて同じです。一体、自身が周って来た数々の万葉故地は、どれほど往時から乖離してしまっているものだったのでしょうか。 旅に因んだ万葉歌たちは、どれも切実さを内包しています。何故なら、もしかすると戻れないから...。帰れないかも知れない、という切実さのうえに謡われた万葉歌を、気軽に観光ができるわたしたちに、どれほどリアリティを以て感じられるのでしょうね。 それと同じです。わたしの旅は、わたしの歌は、わたし自身は...。もちろん、万葉期と全く同じことが、現代人にとっては必ずしも尊いとは思いません。それ以前に、そもそも再現など不可能です。叶うわけがないのです。 違う、ということ。この厳然たる事実をどれだけ切実に、そして臨場感あるものとして受け止められるかによって、世界は如何様にも変わるものです。上代文学も、古代史も、万葉歌も。一体、どれだけの刃を自らを刺せば、変わり続けたその先の先の先まで、わたしたちは見られるのでしょうか。それとも、見たいとか知りたい、と願うこと自体が傲慢なのでしょうか。 ...ならば、傲慢であってもいい。少なくともわたしは、そう明確に感じますが。 道すらもないような山の中を進みます。ただ、さっきから少し変わって来たのは、自身が進む半ば未舗装の道の左手奥が、少し明るくなってきたことです。...川、でしょうか。あるいは溜池なのかもしれませんが、ともあれ水辺が近くに点在しているようです。標高も少しずつ下っているのが判ります。 そして、鬱蒼たる森林が突然、拓けました。光がたくさん射し込んで、進んでいる道がもう少しゆくと大きく左へカーブしているのまではっきり見えます。道も進むほどにまた舗装されたものへとなってゆき、幅も広がっていって。 建物が増えてきて思わず溜息をついてしまいました。人の気配があるからです。さっきまでの緊張感が途切れて、とにかくほっとしてしまいます。やがて見えてくる大動脈。国道1号、つまり東海道です。大津や、瀬田界隈から、寄り道をしなければここまでまっすぐに来られていたのでしょう。あの逢坂からならば、きっと2時間は掛からないと感じます。 ...寄り道だらけですね、わたしは。 東海道を東京方面に向けて走り出してすぐでした。頓宮、と名づけられた交差点を通過します。そう、頓宮です。 頓宮。この言葉自体の意味は、仮宮というのが1番判り易いかも知れません。つまり、天皇を始めとするやんごとなき存在が何処かへ遠出する際、まさか不眠不休で進むことはないわけで。当然、途中々々で休んだり泊まったりするのですが、そういう途中の宿。それが頓宮ですね なので、前述している聖武の大迷走。あの時に休んだ頓宮も、近江や美濃などの国には複数存在していたようですし現在、史跡として保存されている場所もあったように記憶しています。 けれども、ここ・甲賀市の垂水地区にある頓宮は天皇行幸に関わるものではありません。では、誰の一行のものなのか。天皇に匹敵するくらいのやんごとなき存在とは一体、誰なのか。...勘の鋭い方はお気づきかもしれません。つまり、この地からは鈴鹿の峠が近い、ということに。そして、その鈴鹿を越えた先にはある大社が鎮座している、ということに。そう、伊勢神宮です。つまり、この界隈で仮宿りをしていたのは、伊勢斎王ということになります。 伊勢斎王。その歴史自体は、伝承などが入り乱れていて正直な処、わたしにはよく判りません。ですが、少なくとも 「伊勢斎王というシステム」 を明確に発足・稼動させた最初の人物は天武です。そして彼は、自らの娘であった大来を伊勢神宮に祀られている天照大神に、差し出した次第。...差し出した、というのも難ではありますけれど、やはり人柱的な要素は否めないのではないか、と思います。因みに天武は、大来を筆頭に大来皇女・當耆皇女・泉内親王・田形内親王、と4人の娘を斎王として送り出していますね。 もちろん、天武よりも昔にだって、伊勢斎宮は複数存在していた、と日本書紀は明記しています。この紀行文の冒頭近くでは、稚足姫皇女のことを書きましたが、日本書紀に習うならば、彼女が第5代目の伊勢斎宮です。 余談になりますが、斎宮と斎王。この呼称の違いについては、ごめんなさい。浅学でわたしは今ひとつ明確なことを掴みきれていません。 ただ、歴代の伊勢斎宮が、斎王と呼ばれるようになった最初の存在。それが天平末期の井上内親王だったことは、記憶しています。...聖武天皇の娘だった人です、井上は。 頓宮の交差点を過ぎて少しゆくと、左手に一面の茶畑が広がっていました。秋の青い青い空に高く伸びた扇風機たち。軽く汗ばむような気温に、なんだか嬉しくなってしまいました。近くのコンビニエンス・ストアに車を止めて、ペットボトルのミネラル・ウォーターを1本。申し訳なかったので購入してから、茶畑の中に伸びる道をのんびりと。 季節は確かにもう秋です。彼岸花の朱色もちらほら見えています。ですが、白い雲と青い空と、とにかく濃い濃いお茶の葉の緑。こういう色の組み合わせは子どもの頃、夏休みを過ごした親戚の家の近くとよく似ていて、わたしにとっては真夏の色合いなんですね。見渡す景色が、夏なんです。 こんなくっきりと濃い色合いは、今では真夏でも見られなくなっていたので、とにかく嬉しくて、歩いているのももどかしく、走り出してしまいました。まるで30年分の時計を巻き戻すかのように、です。 斜面ごとに畝を作る茶の木たち。かるく起伏するささやかな丘陵地のような一帯の先には、こちらも濃い濃い緑の木立が見えています。空を横切る雲の陰が、茶畑の上を動いてゆくのを眺めては、今更ながら改めて 「曇りの日って、雲がつくった影の中にいるってことだよね。つまり曇りの日は、日陰の日なんだよね」 と子どものように納得してしまっては独りでくすくす。 木立の中に飛び込むと、そこはさっきまでの開放的な空気から一転、涼やかで厳かで、かすかに張り詰めた空気が満ちていました。...気の所為かとも思ったのですが、やはり二の腕がかるく鳥肌立っています。 木立に囲まれた小さな空間。その手前には斎王垂水頓宮址、と彫られた大きな碑が立ち、思ったとおりありましたね。遥拝所です。伊勢神宮に向けての遥拝の地、となりますが、恐らくは伊勢方面が見える場所では地形的にないでしょう。...鈴鹿の峠が確実に視界を遮っていますから。 ですが卜定され、潔斎の期間を経たのち、これから伊勢へと向かおうとしてる歴代の斎王たちからすれば、視覚的に伊勢神宮が見える、見えないは問題なかったのだ、と確信します。何故なら、見えないということは、 「見えないという形で見えている」 からです。...沖島は見えなくとも、遥拝所ではないか、と感じてしまった近江八幡側の大嶋奥津嶋神社にしても、ここにしても。そう、拝むべき対象は、見えないという形で見えているのです。 飛鳥や藤原時代は、斎王制度がまだまだしっかりしていませんでした。前述していますが時には讃良のように女帝として斎王を兼任した天皇もいます。 ですか、都が平城へ遷り天平の時代すらも過ぎると、斎王制度は確固たるものとして機能してゆきます。そして、卜定されて伊勢へと向かう新しい斎王たちは、伊勢までの行程を群行として進んでいったのだといいます。輿に載せられて、様々な従者をも連ねた大掛かりなものだったのでしょうね。 そんな斎王群行の際に仮宿りしたのが頓宮となるわけで、近江国には勢多・甲賀・垂水、と3ヵ所設けられていたようです。因みに勢田の頓宮は、昨日訪ねた近江国衙跡のすぐ近く、あるいはその敷地内にあるらしきことは聞き及んでいますが。 最初に群行したのは第16代伊勢斎王の久勢女王だったはずです。もう奈良時代も終わろうとしている時代の斎王ですね。蛇足ながら、彼女の後を継いだのが、前述している井上でした。 正直、この頓宮跡が歴史的に最も重要視されたのは王朝期でしょうから、そういう意味では上代を軸足をおいているわたしには、そこまで関心深い訪問地、というわけでもなかったんですけれどもね。 ただ。ただ、この近江という国を歩いていて、ずっと身に纏わりついているように感じて離れてくれなかったのがものがあって、だからどうしても...。 この近江国で、わたしが感じ続けていたのは、血の匂いです。もちろん、現在の近江に血が溢れているということではないですし、かといって数々の“天下分け目”の舞台となってしまったこの地を、忌避しているのでもありません、断じて。 各地を歩いてきています。ですが、今回ほど虚しさに襲われた地が、過去にはなかったという現実があります。そして、この地だって何も好きこのんで天下分け目の舞台になったわけでもないでしょう。 だから、祈りたかったのです。ただ、ただ、祈りたくて今回の旅の最後は、ここを訪ねよう。そう思いついたのは瀬田の唐橋で、でした。 この国に満ちていたもの。それは血の匂いと、たくんさの人の夢でした。夢。それはきっと叶ったものに対する言葉では、本来ないのだと思います。夢とは、潰えたものを表す言葉なのだ、と。 そして、そんな潰えた夢の残滓を繋ぎ合わせて、新たな夢を見続ける人々と、湖国・近江。真水を湛えるこの国は、されども夢の揺り籠なのかも知れません。水に浮かぶすべての夢が流れ流されてゆく様を、淡々と映し続けた大きな大きな水鏡の国。 両手を合わせました。大きく拝しました。そしてわたしは祈ります。 「自身に連なるすべての人々が幸せでありますように。そして、すべての地に眠るたくさんの始祖たちが、静かに眠り続けられますように」 ただ、それだけをです。 祈ひ祷みて 祈ひ祷みかつも祈ひ祷みて あれあが霊の絶ゆるまで 天つみづ待つものあれば 待たぬものあり 日もあらむ あれ祈ひ祷まば たれをかを願はましゞもひたはすや あれ寒ければ たれをかのぬくきもありて 祈ひ祷むは かなしも こはし あづきなし この等しきと沁みゐてど 手弱きうらに あれの悔ゆ 悔ゆれど 悔ゆも 祈ひ祷みて 祈ひ祷みかつも祈ひ祷みて あれあることのうつそみと 沁まむやかつも なほし祈ひ祷まむ 空蝉のひとゆゑさはなるなしえざるもの 空蝉のひとゆゑ間なく祈ひ祷まゝくほし 果てなきは道なりひとのうらのいめなり 絶えなきは天つ空なりうらの波なり 遼川るか (於:斎王垂水頓宮址)
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