雨は決して強く降っているわけではないのですが、それでもちょっと止みそうにはないかな、と思えるくらいの量で静かに、しとしととフロントガラスを叩きます。宿を出る時に、乗ろうと決めていた沖島への船便の時刻まで、あと20分ほど。港から数100m離れた駐車場で車を降り、傘は持っていなかったのでそのまま港へと坂を下ってゆきます。
 地図上で確認する限り今、目の前に広がっている琵琶湖に浮かんで見える島は、位置的に沖島だけのはずなんですね。ですが、どうもそうは見えません。視界を遮るようにして横たわる山のようなものがずっと見えていて、島が見えないのです。
「...ああ、あの全部が沖島なのか」
 そう気づくのに、意外にも時間が掛かってしまった自身に、改めて“島”という響きに対して抱いてしまっている、わたしの狭い固定観念のようなものを垣間見た気がしました。

 海の沖合いに浮かぶ島。それが、わたしの中に無自覚ながら培われていた定義で、当然ですけれどその空間の広がりだとか、距離感みたいなものから、かなり外れた現実がここにあった、ということです。
 ...嬉しいですね。こういう無自覚に身についてしまっている固定観念や思い込み。そんなものは自身自身を縛りつける透明な檻のようなものですから、そこに風穴が開くのは、ものすごく嬉しいです。

 そう言えばほんの2日前。つい、一昨日は反対側の岸から、こちら側を眺めていました。そして、あの時はそんなに違和感を覚えていなかったんですが。何故ならば、向こう岸から沖島は、それなりに距離が遠かったですし、それに見合う大きさでわたしの視界に映っていたからです。
 そう、まさしく沖にある島、として。

 沖島。近江八幡市の地図を見て、何だか不思議に思いました。何故ならば、すぐ側なのです。近江八幡市の琵琶湖岸から、縮尺を計算すると直線距離でたったの2〜3kmくらいの位置に浮かぶ島なのに何故、沖なのか。
 上代語で言うのなら、沖の対義語、辺。その辺の島で、辺つ島。そうするのが適当なように思えてならなかったのですが、ようやく悟りました。

 つまり、万葉期に人々がよく見ていたのは今日のわたしの視界ではなく、一昨日のわたしの視界だった、ということでしょう。さらには、今日のわたしの視界では正直、ちょっと島と見るにはどうなのかな、と感じるくらい大きくも感じます。
 すでに何度か書いていますが万葉期、この近江国は湖西方面が圧倒的に拓けていましたし、北陸方面へと続く道や航路も、みな湖西に通っていました。そして、そこを通る当時の人々の視界からすれば、琵琶湖のずっと奥まった位置に浮かでいた島だったからこそ、沖島。そう呼んだのでしょう。

|近江の海沖つ島山奥まけて我が思ふ妹が言の繁けく
                 作者未詳「万葉集 巻11-2439」柿本人麻呂歌集より撰
|近江の海沖つ島山奥まへて我が思ふ妹が言の繁けく
                           作者未詳「万葉集 巻11-2728」


 類歌でしょうか。「万葉集」に登場する琵琶湖の沖島は、この2首となります。いずれも奥、を起こす序詞としての登場で、さらにはここで詠んでいる奥とは“遠い”という意味の奥、です。...やはり、湖西方面からの光景が先にありき、なのでしょうね。
 いづれの歌も、遠い将来のことまで考えるほど恋焦がれているというのに、相手の女性には何とも噂が多い、と半ば嘆息交じりの内容です。人気者に恋してしまったのでしょう。

 一昨日、自身が見ていた光景を目を閉じて思い出していました。なるほど、遠い将来、とは謡いつつもとんでもなく遠い未来のことではない、それなりに実感ある未来。その時間的感覚と、湖西方面から眺めた沖島の大きさはとてもリアルに繋がります。喩えるならば、友達以上だけど恋人以下、というくらいのじれったさ、とでも言いましょうか。
 これが本当に遠い、海の沖合いに浮かぶ小島では、まるでアイドルに恋焦がれている熱烈なファン心理のように感じられてしまいますし、かといって近江八幡側から見た沖島では、ステディな関係にある相手が落ち着かない、というような嫉妬だらけの歌に感じられてしまいますね。

 こういうところがフィールドワークの堪らなく愉しい瞬間です。ただ、自室で「万葉集」を読んでいるだけでは絶対に感じ取ることのできない臨場感。先の大嶋・奥津嶋神社で覚えた自問への答えが、ここにまた1つ集います。
 そう、これだからわたしは、旅が止められないのです。

 堀切の港は、港というよりはまるで駐車場です。所狭しと車が犇いているのですが、これらはすべて沖島に暮らす方々のものなのだ、といいます。沖島にはフェリーが止まらないんですね。いや、それ以前に確か、琵琶湖の中をフェリーは就航していなかったはずです。
 なるほど、だから島で暮らす方々はここまでを船でやって来て、ここから車で滋賀県内、あるいは県外へと出向くのでしょう。港が車庫、ですね。

 

 雨がしとしとと琵琶湖へ降ります。船を着岸させる桟橋の傍に、小さな待合室があるのですが、何となくそのまま雨に濡れながら琵琶湖と沖島を眺めていました。
 淡水湖の中にある島に人が暮らす。これは案外、世界的に見ても例が少なかったはずです。わたし自身もすぐに挙げられるのは、南米のチチカカ湖くらいでしょうか。もちろん、日本国内では沖島だけなのでしょう。...そもそも淡水湖が少ない国ですしね。

 ですが、琵琶湖の湖底からは、縄文期の遺物が揚がっています。土器の破片や貨幣です。つまり、恐らくはわたしたちが想像するよりもずっと昔から、沖島は人々の生活と密接に関わっていたのではないか、と推測します。
 神奈川帰還後に知ったのですが、沖島に最初に定住したのは近江源氏の落人たちだった、と島では伝えられているそうです。保元の乱と平治の乱で敗れて漂着したらしい、と。

 ならばそれ以前は、ということになると元々は竹生島同様、神坐す島として島そのものが神格化していたようです。つまりは参拝地、ということですね。
 そもそも、沖島に信仰の対象となる奥津島神社が創建されたのは、和銅年間だったといいます。調べた範囲では、続日本紀にそういう記述は残っていなかったのですが元明天皇の勅命により、藤原不比等が九州の宗像の祭神たちを、こちらでも祀ったのだ、と。

 また、もう1つ興味深かった伝承では、その不比等の孫にあたる、藤原仲麻呂。後に恵美押勝という名前を賜るほどの権勢を誇り、けれども天皇の寵愛が別に向いた途端に挙兵。謀反の果てに、田原道を通って先回りした討伐隊と複数回戦った末に斬首された彼が、近江国内を逃亡している最中、やはり沖島に漂流して一時的に暮らした、というものもありました。
 ...藤原氏は、鎌足・不比等親子と、その息子たちである4兄弟までは破綻が殆ど見られないんですね。けれども、4兄弟の子どもたちとなると、宇合の長男で九州で謀反を起こした広嗣や、武智麻呂の次男の仲麻呂、すなわち押勝といった、破綻あるいは破滅してしまう存在が少しずつ現れます。まるで、ゆっくりと傾いでいった天平という時代と一緒に、です。

 桟橋の先の方、もうすぐそこが湖、という場所で船を待っているのですが、何だか不思議な気持ちがしていました。...いや、理屈では当たり前のことなんですけれどね。そうなんですけれど、このシチュエーションに潮の香りがなくて、ただ水の匂いがしているんですね。まるで自分の視覚と嗅覚が、噛み合っていないような、奇異な時間が流れてゆきます。
 やがて、エンジン音と一緒に、少し大きなモーターボートのような船が、こちらへとやって来て。...沖島への連絡船です。

 船が着くと、乗っていた人たちがかなりの人数、降りました。服装などから思うに、これからご出勤される方たちなのでしょう。10時始業でしょうか。時間帯も時間帯ですし、雰囲気からしても全員、島民でいらっしゃるようです。
 一方、これから島へ向かおうとしている連絡船の乗客は、わたしも含めて数人。けれども、みなさん運転手さんや船頭さんと、親しげにお話されていますから、わたし以外はみんな、やはり島民か島に縁ある方なのでしょう。...沖島に渡る余所者は案外、珍しいのかも知れません。

 改めて考えると、わたしの古歌紀行は意外に、船便が多いんですね。「わきもこにあふみゆ〜竹生島」では長浜港と竹生島を船で往復し、「なつそびくうなかみがたゆ」は浦賀水道を東京湾カーフェリーで往復しました。そして、今回もです。
 ただ、これまでに乗った船と今回の船は趣が違います。公共の交通機関というよりは、島のみなさんが必要にかられて続けていらっしゃる、船便ですから。


 見慣れない人間が雨の中、ぽつんと船を待っていたのが余程、目についたのでしょうか。すぐさま船頭さんから話しかけられましたし、乗船後もわざわざ湖上の景色を指差しながら説明してくださいました。
「ほら、あそこに見えるのが竹生島」
「あっちは比良の山」
「向こうは瀬田川に続いている」
 などなど。お陰で、たった数kmの船旅が、さらにあっという間でした。

 連絡船が、スピードを落とします。島の1画がコンクリートの波止場に囲まれていて、あの中が港になっているのでしょう。いや、もしかしたら港というよりは船着場、なのかも知れません。
 ですが、それ以上に目を奪われたのは、その波止場から空へすっくと伸びた2本の竹です。まるで鯉幟のように、その竹の先端に大きくて長い、吹流しが繋がれて、湖面を吹き寄せる風に雄大に翻っているのです。

 吹流し。直接的には宗像3女神などの航海神信仰と、結びついているわけではないと思います。五色という取り合わせからすると、むしろ陰陽五行に関係あるのでしょう。確か、結納道具にも五色吹流が加わることもありますから、陰陽五行をベースとする神道の祭具なのでしょうか。そして、やはり航海には風が不可欠ですから、得てして航海神信仰の地は必ず、と言っていいほど吹流しは見かけますね。
 沖島。遠くから眺めていた時から港の左手側に聳えている山の斜面に、鳥居が建っていることが気になっていました。地図を見ると、山の名前は頭山。そしてお社は、奥津島神社です。...自身が目指すべき場所をしっかり見据えながら沖島へ今、上陸します。


 竹生島もそうでしたが、淡水湖に浮かぶ島というのは、えてして元々は山なり丘なりで、人間の行動する範囲は、岸辺界隈のごく限られた場所、となるようです。この沖島も、それなりに大きな島なのですが、民家や建物が見えているのは、港周辺に限定されるのでしょう。
 上陸したわたしを最初に迎えてくれたのは、沖島の漁協の建物。すでに水揚げされた魚介が粗方、売れた後のようです。...もしかして小売なのでしょうか。

 漁協のそばには郵便局と公民館。その傍で、立ち話していらしたお母さんたちに奥津島神社までの道を訊きました。曰く、
「この路地をゆくとすぐに突き当たるから、左へゆけばもう神社だよ」
 と。


 島の路地はとてもとても細く、まるで全てのお宅に垣根や塀がないまま、家屋と家屋の間が自然と道になっている、というような風情です。様々なお宅の玄関先や勝手口付近を進んでゆくと、これまた細い路地。自転車くらいは通れると思いますけれどもね。
 言われた通りに左に折れると石段が見えました。あれを登ったところが奥津島神社の本殿、ということになるのでしょう。こちらにも吹流しが大きく翻っています。

 

 頭山のそこそこ急な斜面に建っている奥津島神社。祭神はやはり多紀理毘売命(田心姫神)、となっていました。そしてもちろん、延喜式内社です。
 登ってゆくと本殿、さらに登ってゆくと祠なのか、それとも神楽殿なのか。いずれにせよ、小さくはありますけれど、管理がゆき届いているのだろうな、と感じさせるこざっぱりしたお社です。

 それほど登った、という実感はなかったのですが、周囲を眺めるとそれなりに高台になっているらしく、手前には琵琶湖。奥には近江八幡界隈の本土が広がっていました。...雨はまだ、静かに降っています。
 沖つ島山。そう万葉歌に詠まれた山は、恐らくはこの頭山ではなくて、島の真ん中あたりに聳えて事実上、島全体がその裾野のようになっている宝来嶽のことでしょう。そして詠み手は正確には分からなくとも、1首は人麻呂歌集から採られたものですから、自ずと年代は推測できるでしょうね。

|近江の海沖つ島山奥まけて我が思ふ妹が言の繁けく
              作者未詳「万葉集 巻11-2439」柿本人麻呂歌集より撰 再引用


 きっと、大津京時代の後半くらいから藤原京前半くらいまで期間に、詠まれたのでしょうね。もう1首は、人麻呂歌集を模した派生歌かも知れません。あるいは、両方の歌のベースとなった民謡のようなものが、湖西にあった可能性も考えられそうです。
 ただ、1つ気になったのは、ここが信仰地となったのは社歴によると和銅年間ということで、人麻呂の時代よりは明らかに後年です。これは、どういうことなのでしょうか。

 つまり人麻呂の時代、この島は人も暮らしていなければ、神さまも鎮座していなかった、ということです。若狭や越前方面へ向かって、湖西は北陸街道を歩いていた人々は、向こう岸近くに島があることを見て気づいていました。
 けれども、そこがどういう島であるかも、何もかもが判らない島。そして人々はその島のことを話す時に
「琵琶湖の沖にある島が〜」
「沖の島が〜」
 と語り、それが自然と呼称として定着していったのではないでしょうか。

 今いるここからは、湖西方面を眺めることができません。ここを“沖の島”として眺めていた、上代の人々と時代を超えて向き合うことは、ここからは不可能。湖西側の対岸は、どんな風に映っているのでしょうね。
 とてもとても、見てみたく感じているのですけれどもね。1300年を隔てて、人麻呂たちと向かい合ってみたかったのですけれども。...それは、どうにも叶いません。

 近江の海比良の大わだ奥まかばいかに見るらむとほきいにしへ  遼川るか
 (於:沖島/奥津島神社
)


 高台から降りて、港近くまで戻ります。次の船便まではまだ1時間近く余裕がありますから、歩ける範囲だけでも歩いて周ってみることにしました。...といっても、本当に狭い範囲しか動けないのですけれども。
 意外に多いな、と感じたの沖島の人口で、450人くらいはいらっしゃるのだとか。島内には小学校もあります。あと、聞いた中で1番びっくりしたのが、各ご家庭にはほぼ間違いなく、自家用船があるということ。

 その船たちが、港に並んでいるわけですから、港というよりは船着場、あるいはマリーナ。そんな印象になったのも、納得できます。ただ、もう1つ気になったのは、そういうことならば対岸の堀切港にも当然、島のみなさんの自家用船が時間帯によってはプールされることになるのではないか、と。
 人間は、いや。違いますね。むしろ命は、です。命は、本当に逞しいものですね。世界各地を歩いていても感じましたが、こういう瞬間も、同じように感じます。
「命は、とても逞しいものだ」
 と。

 まさか450人全員を、全員が見知っているとも思えないのですが、それでも行き交う人からは必ず、
「お客さん、何処から来たの」
 と声が掛かります。見ない顔だからか、それともちよっとした立ち居振る舞いや服装などの印象からなのか、は判りません。

 歩ける範囲を歩き終え、港の石段に座って、船を整備したり網を補修したりしている島のみなさんのお仕事を眺めているうちに、軽くうとうとし始めてしまいました。もう、安心しきってしまっていたのでしょう。
 わたしがここにいる、ということ。それを周囲でお仕事されている島のみなさんが気づいています。もちろん、わたしがここで船を待っていることもです。だから、船に乗り遅れることなんて、きっとない。きっと、熟睡してしまっても声を掛けてもらえる...。

 独り旅は、気楽ですけれど厳しい場面もあります。全てを自分独りでしなければならないので、自身で気をつけていないと時間に遅れたり、何かを忘れてしまったり。だから時に、ピリピリしてしまう自分がいることも、ちゃんと自覚しているつもりです。でも、それがこの島では必要がないのだ、と。
 しとしと降っていた雨がやっとあがりました。そして、雲間から陽射しも洩れて来て。石段に座り、膝を抱えてうたた寝していた背中に、陽射しのぬくもりが感じられます。遠くの方でこんな会話が聞こえていました。
「あのお客さん、次の船で帰るんやろ」
「ああ、眠ってはるみたいやけど、そろそろ起こさんといかんねえ」

 くさまくら旅にしあれば転寝しついめに聞かむやとほとなみのと  遼川るか
 (於:沖島漁協前)


 

      −・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−

 車にエンジンを掛ける時、思いました。今回の旅で琵琶湖が見られるのは今が最後だ、と。なので車から降りてもう1度、振り返りました。
 さて、ここからは時間との戦いです。残す訪問地は2ヵ所。片や甲賀の山の麓、片や甲賀の山の向こうです。昨日越えた信楽の山よりもさらに北東、もう三重県に近い界隈を目指して、湖岸から一気に山行きです。

 初日に訪ねた市部界隈を突っ切ります。かつて蒲生野と呼ばれた湖東の肥沃な大地、そして草叢。そういった平野部を過ぎると、そろそろ走る道路にも起伏が感じられ、フロントガラス越しに眺める景色には、視界に横たわっている山並みが存在感を強めてゆきます。
 赤人寺と山部神社の近くから、佐久良川と併走するように、南東へ、南東へ。周囲の地番表記には蒲生郡日野町、とあります。...そろそろ甲賀の山の麓に差し掛かり始めたということでしょう。

 近江国。もちろん、ここに太古から暮らしていた人々がいた以上、上代文学に記述されていることだけが、この地の歴史ではありません。また、たとえ上代文学に記述されていたとしても、それが本当にあったこととも限りません。
 すでに書いていますが、成務やそれに続く仲哀、神功皇后などの歴史は、恐らくは大津宮時代前後の斉明天皇期〜持統天皇期にあった出来事を、模して寓話化した可能性が、とてもとても高いと言えるでしょう。

 そういう意味では、この近江国の歴史も。そして日本という国の歴史すらも。...もしかしたらある程度の事実に基づいている、と明言できる範囲の史実の冒頭は、大津。すなわち、この近江国からなのかも知れません。
 ...あくまでも、確証づけられる範囲の歴史では、という意味では、です。

 そしてそんな大津、あるいは近江の歴史のきっかけとなった出来事。それは白村江の歴史的大敗であったことも、個人的には断言してしまっていい、と思っています。
 この島国ではない大陸にて百済という国が滅び、その復興に手を貸した倭は大敗。それによる国防や水運といった観点から、天智が選んだであろう近江は大津の地。

 ですが、それは日本側から見た歴史に過ぎません。敵対していた唐や新羅には、彼ら側からみた歴史があるのでしょうし、同様に滅んでしまった百済という国から見た歴史も、存在していたはずです。
 国土を失い、難民となってしまった百済の人々の中には、海を渡って日本で暮らした人もいました。所謂、渡来人です。

 日本書紀は伝えます。そんな百済からの渡来人についてを。

|是の月に、百済国の官位の階級を勘校ふ。仍、佐平福信の功を以て、鬼室集斯に小錦下を授
|く。復、百済の百姓男女四百余人を以て、近江国の神前郡に居く。
                        「日本書紀 巻27 天智4年(665年)2月」

|是の月に、神前郡の百済人に田を給ふ。
                        「日本書紀 巻27 天智4年(665年)3月」

|又佐平余自信・佐平鬼室集斯等、男女七百余人を以て、近江国蒲生郡に遷し居く。
                          「日本書紀 巻27 天智8年(669年)」


 この一連の記述の中で、百済からの渡来人の中心人物として名前が登場するのが、鬼室集斯です。元々は百済の貴族だった、と言われています。
 詳しい経緯は割愛しますが、そもそも白村江の戦いのきっかけは新羅・唐による百済の滅亡でした。自国が滅んでしまった中、百済復興運動が百済の旧貴族たちの間で興り、そこで活躍したのが鬼室福信、という人物。鬼室集斯とは親戚筋にあたるとか、あたらない、とか言われているようですね。

 そんな百済復興運動に手を貸したのが時の天皇・斉明と皇太子・中大兄皇子(後の天智天皇)。何せ当時、百済の王子だった豊璋は、日本で暮らしていたぐらいですからね。百済復興の旗頭となる国王として、豊璋を百済本土へ帰還させ、さらに援軍も、と。そして新羅・唐連合軍と武力衝突したのが、白村江の戦いです。
 ...その結果、百済と倭は戦いに敗れました。







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