台風の影響ではないはずです。けれども、明け方くらいから雨が降っている音は、眠りながらも遠くの方で聞いていました。今朝はとても涼しくて、初秋から仲秋へと向かう秋の朝を、今年初めて実感していました。
 昨日、こなし切れないスケジュールから急遽、もう1日旅を延長することを決めました。そして、近江八幡市内にとった宿。...近江入りしてから多分、1番寛げた夜だった気がします。気掛かりだったことを粗方、済ますことができたからでしょうね。

 宿に入って最初にしたことは、沖島へ渡るための船便探しでした。沖島。琵琶湖湖東は近江八幡にほど近い位置に浮かぶ、琵琶湖内最大の島です。
 かつて訪ねた竹生島も琵琶湖に浮かぶ島ですが、竹生島は純然たる参拝地。当然、島民はゼロです。けれども、沖島は違います。島に暮らす人々がたくさんいらっしゃる生活の場ですから。

 その沖島への船便について、事前に知っていたのは1日に1便しかない、ということで、だからこそ今回の旅では沖島ゆきを諦めていたんですね。けれども、もう1泊する以上は何としてでも沖島に渡ろう。
 そんな意気込みで、電話帳から地元の観光協会さんへ電話を何回か掛けて、突き止められたこと。それは、1日1便の船が出る長命寺港ではない、堀切港からなら、毎日数回の往復便が出ている、という事実でした。詳細は未確認ですが、堀切港の船便はどちらかと言うと沖島にお住まいの方々の、日常の足として機能しているのだ、と思います。

 ともあれ、予定外の沖島ゆきも含めた近江国古歌紀行最終日は、雨上がりの涼しくてかすかにガスの立ち込める早朝から始まります。神奈川への帰路を考えれば、午後の早い時間には近江を発ちたいところですが。
 車を走らせながらふと気づきました。そういえば近江で迎えた早朝は、いつも軽く朝靄が立ち込めている、と。...季節ならではのものなのでしょうか。あるいは、琵琶湖という大きな大きな水瓶があるために、水蒸気が上がり易いのかも知れませんね。

|秋風の日に異に吹けば水茎の岡の木の葉も色づきにけり
                            作者未詳「万葉集 巻10-2193」
|雁がねの寒く鳴きしゆ水茎の岡の葛葉は色づきにけり
                            作者未詳「万葉集 巻10-2208」
|水茎の岡の葛葉を吹きかへし面知る子らが見えぬころかも
                            作者未詳「万葉集 巻12-3068」


 水郷として、現代でも有名な近江八幡。その昔はかなり広範囲に渡る湿地帯だったことや、後にそれを干拓していったことはご存知の方も多いことでしょう。そんな水郷・近江八幡ならではの万葉故地。それが景勝地としても名高い、水茎の岡なのだといいます。
 水茎の岡。実際には近江八幡市牧町にある、岡山のことになるらしいですが、この界隈はかつて内湖と湿地帯だったことが判っているようです。つまり、水の中からこの岡だけが顔を出していたことになるわけで、それはすなわち島だった、ということでしょう。
 そういう前提で、上記引用させて戴いている万葉歌を眺めると、なるほどなるほど。詠み手が何に心を動かされたのか、伝わってくる気がします。

 「秋風が日増しに吹くので、丘の上の木の葉もすっかり色づいたことだ」
「雁たちが鳴くようになってから丘の葛の葉がすっかり色づいた」
「丘の上の葛の葉を風が吹き返すように、あの子の顔がはっきりと見えないことよ」

 仮に、水上にぽつんと浮かぶちいさな島が、秋の訪れともに黄色や赤に色づいてゆく様を遠くから眺めることができるのだとしたら。...それは思うにとても見応えがあったのではないか、と思います。
 水面にも、色づいた島が映っていたのかも知れませんし、季節によって色を変える水と季節によって色を変える草木が、視界を阻むものなく存在していたのなら、と。

 まだまだ薄く靄がかかる中、琵琶湖湖岸近くまでやって来ました。周囲には河川も多く、水田と、恐らくは溜池であろう池と。まるで、世界全体を細かな水が覆い尽くしているようなかすかに重たげな空気と、軽くくぐもるように響く様々な音。...水槽の中。本当に自分が水槽の中のいるのではないか、と錯覚しそうな時間が、ゆったりと流れてゆきます。
 そして湖岸沿いを走る道路が、わずかな区間だけ湖岸から、離れている辺りで左手に石碑が建っているのを、走り過ぎながら見つけました。

 日野川に架かる橋の手前でUターンして、もと来た道を戻ります。そして先ほどの場所に差し掛かったのを合図に、道路わきの空き地へ。
 車から降りて最初に実感したのは、しっとりとして、かるく肌寒いくらいに涼しい空気でした。まだ朝靄は、消えていません。


 石碑の側までいってみると、そこには
「名勝水茎岡」
 と彫られています。走っている時は意識していなかったのですが、自分の足で立ってみると、確かに小高く聳えた丘の、その裾野にいることを悟りました。

 水茎の岡。...正直、この呼称については、わたし自身がまだ納得できる、自分なりの解を持っているわけではありません。いや、もちろんこの地が水茎の岡と呼ばれていたことは納得しているのですが、それはあくまのでも平安期以降のことで、それ以前は呼ばれていなかったのではないか、と。
 少なくとも「万葉集」に詠まれたのが水茎の岡、という“地名”であったかについては、かなり心許ない。もっと言ってしまうのならば、あやしいのではないか、と思っているわたしです。

 「万葉集」にはこんな歌も採られています。

|天霧らひひかた吹くらし水茎の岡の港に波立ちわたる
                      作者未詳「万葉集 巻7-1231」古歌集より撰


 こちらも歌の内容から察する光景はここ、近江の琵琶湖湖岸にも相応しいのかも知れません。ですが、この歌に登場する「岡の港」は「岡の水門」である、とする説が有力で、ではその岡の水門とは何ぞや、と言えば福岡県は遠賀川の河口辺りのこと。
 はい、つまりは「水茎の岡」が知名なのではなくて、「岡のみなと」が地名で、それに掛かっている「水茎の」は、岡あるいは丘を導く枕詞である、と...。
 そんな解釈が、世間的にはとても浸透している次第。けれども、ややこしいのは「水茎の」という枕詞が、丘あるいは岡にどう掛かっているのか、という点がはっきりしないこと。そして、そもそもの語義もまた、未だ不詳であるということなんですね。

 大前提として、往時とは異なる社会で生きているわたしたちが、枕詞や序詞を実感を伴いながら読み解くのは、ほぼ不可能だと思っています。それは例えば、わたしたち日本人では、なかなかアメリカン・ジョークで笑えないのと、よく似ているでしょうね。
 つまり、ベースとなっている感覚と概念からして、全くの別物だから、ということです。どういうことに笑えるのか、泣けるのか、感激するのか、と。

 もちろん、時代も地域も一切問わない、人類普遍の概念や感覚もあります。非常に大局的な部分ではそうであってこそ、の同じ人間同士です。ですが、何を何かに喩えたり、何かと何かを同類として括ったり。そういう思考は、それ以前に個々の事物をどう認識しているか、という前提の上にのみ成立します。そして認識とは、時代や地域間で明確な格差が生じてしまうもの、とわたし自身は思っているのですが。

 例えば、水面にぽつんと浮かぶ小さな島。それを同じく水面からすっきりと伸びる、蓮や葦の茎にも似ている。そう、上古の人々が感じたのだとしたら、水茎の岡という地名が生まれた、とするのはおかしくない、と感じます。そして、それが枕詞化したのであるならば、なおさらでしょう。
 ですが、その一方で「岡の水門」という地名が確実に存在していたことは、明文化されてしまっているんですね。日本書紀の巻3、神武東征にこんな記述が存在しています。

|十一月の丙戌の朔甲午に、天皇、筑紫国の岡水門に至りたまふ。
                「日本書紀 巻3 神武即位前7年(紀元前667年)11月9日」


 少なくとも「天霧らひ〜」の歌に関してのみは、近江国とは切り離して考えた方が良さそうですね。けれども他の、もはや何処の誰が謡ったのかすら判らない、水茎の岡に纏わる万葉歌の数々。これらの全てが福岡に因むもの、としてしまうのもまた、少々乱暴かな、と。
 もちろん、だからといって近江に因むもの、としてしまうことにも首肯しかねますけれどもね。

 ただ、今こうして立ち寄ってみた、近江の水茎の岡。ここが遠い昔は湖面からすっくりと浮かぶ島であったこと自体は、この周辺から丸木舟が複数出土している事実からして動かし難く、ならばそれでいいのではないか、と。
 自分に都合のいい、自分の夢想にだけ浸るような、そんな推測も、考察も、わたしはしたくありません。だからこそ、実際にその土地へ出向いています。そのためのフィールドワークです。

 そして、判らないものを判らない、とすることは時にそれ以上ない至高の答えとなりうることも、わたしは知っています。結局、答えを出すことが目的ではないのでしょう。ただ、その過程で何を感じて、何を考えることが自身にできたのか。
 そんなものを求め、確かめながら、わたしの旅は続きます。この先もずっと、続いてゆくのでしょう。

 あれ在りてあれ在るゆゑの玉鉾の道とてけふの空にし思ふ  遼川るか
 (於:水茎の岡)


 余談になりますが、水茎=筆跡という概念は平安期以降のもの、と聞いています。...万葉期に、そりゃあ筆跡も何もないでしょう。文字は万葉仮名だけしかなく、紙も筆もほぼなかったに等しい時代だったのですから。
 朝靄か、それとも朝露なのか。水茎の岡、とされている丘を覆う下草たちは濡れていました。今朝はまだ太陽が射して来ていません。いや、太陽が昇ったところで木々の枝に阻まれて、下草たちが直接、太陽を浴びることなど叶わないのかも知れません。
 それでも濃い緑を宿し、潤んだように水を湛えた葉っぱたちがそこに生きているのなら、ここが水茎の岡であろうとも、なかろうとも...。
 こういう瞬間は哀しみ。けれどもそして、悦び。運輸用の大きなトラックたちが次々と、水茎の岡の前を過ぎ去ってゆきます。

      −・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−

 堀切の港を目指して、北東に走ります。...時間帯がまだまだ早く、通勤関連の車は殆どなのでしょうね。その分、運送のトラックがものすごいスピードで飛ばしてゆきます。
 どうしても、初めての土地を迷いながら進んでいるので、法廷速度以上のスピードは出す気にもならず。それがトラックのドライバーさんたちには、かなり苛々させることになるのでしょう。何度かクラクションを派手に鳴らされたり、煽られて道を譲ったり。

 ですが、そうやって落ち着いて走ってゆくと、周囲の景色の劇的な変化をそれほど大胆に見落とすようなことも、ありません。右手側に見えているのは恐らく運河、です。そしてその先には水郷・近江八幡の代名詞とも言える西ノ湖が広がっていることでしょう。
 そろそろ、陽射しも辺りを照らし始めました。...いや、何もそろそろ夜明けだ、というわけではもちろんないんですけれどね。前夜の雨の影響で、全体的に雲が垂れ込めている朝なので、なかなかお日様とはお目に掛かれなかったものですから。

 

 沖島へ渡る前にもう1ヵ所、寄っておきたい場所があります。かつて訪ねた竹生島。あの島が奉っていたのは宗像3女神のうちの1柱・市寸島比売命でした。
 そもそも宗像3女神は、素戔嗚尊の子どもにして、

|是に、日神、方に素戔嗚尊の固に悪しき意無きことを知らしめて、乃ち日神の生せる三の
|女神を以て、筑紫洲に降りまさしむ。因りて教へて曰はく
|「汝三の神、道の中に降り居まして、天孫を助け奉りて、天孫の為に祭られよ」
| とのたまふ。
                             「日本書紀 巻1 神代上」


 こう、天照に役割を命じられた存在です。つまり、九州の宗像地方から朝鮮半島や支那大陸へつながる海の道へ降臨して、後々の天皇たちを助けつつ、その天皇たちから手厚く祀られるように、と。
 そこから転じて、航海神として祀られるようになり九州の宗像はもちろん、広島の厳島神社や、神奈川の江ノ島神社、そして琵琶湖の竹生島など水運とかかわり深い土地々々で祀られるようになった女神たちです。多紀理毘売命と、市寸島比売命と、多岐都比売命と。

 これから向かう沖島でも、恐らくは航海神信仰はあったでしょうから、この宗像3女神の誰かしらは、きっと祀られているだろう、と想像できます。そして、沖島の守り神ともなっているお社は奥津島神社、と。
 彼女たちの本拠地・宗像大社に習うならば、沖津宮の田心姫神(多紀理毘売命)、中津宮の湍津姫神(多岐都比売命)、辺津宮の市杵島姫神(市寸島比売命)、ということで、岸から沖へと順番に鎮座しているわけですね。

 一方の琵琶湖の沖島には奥津島神社が鎮座。奥津島=奥の島、という意味になりますから沖島にそれがある以上、きっと祭神は田心姫神となるように思います。余談になりますが、市寸島比売命を祀っていた竹生島は、市寸島比売命であることもさることながら、神仏習合の後に同一視された弁才天を、島全体で祀っている印象が強く、そういう意味ではこの宗像3女神の沖・中・辺、という配置とはあまり関わりなくても納得できます。
 お話を奥津島神社に戻します。...ただ、ちょっと面白いなと感じたのは沖島へ渡らない、こちら側。つまり近江八幡側にもあるんです、奥津嶋神社が。

 そんなこんなで沖島に渡る前に、先ずは近江八幡側の奥津嶋神社へ。こちらの正式名は大嶋・奥津嶋神社というようですね。恐らくは何らかの合祀の結果でしょう。いずれにしても、その名からして島そのものを祀っているかのような印象ですが。
 多少、迷いながらも何とか着いたお社で、先ずは由緒を確かめます。曰く


|由緒
|当神社の勧請年紀は第十三代成務天皇滋賀高穴穂宮に御即位の年(一三一)武内宿弥に勅
|して祀らしめ給うと伝えられます。天智天皇蒲生野に御遊猟の砌、奥之島に行幸になり、
|この地に産する(むべ)を賞味され、年々皇室に供御すべきと仰せられました。延喜式宮
|内省諸国例貢御贄にも記されており、今も毎年十一月天智天皇を御祭神とする近江神宮
|へ献納しております。延喜式(九二六)神名帳には蒲生郡十一座の内に大嶋神社、奥津嶋神
|社(名神大)、両社とも記されており、さらに三代実録に、貞観七年(八六四)元興寺(奈良)
|僧賢和の奉請により当神社の神宮寺として阿弥陀寺が開基せらるとあります。往時は蒲
|生野北部一帯の産土神として斎祀されておりました。大正四年十一月(一九一五)由緒正
|しき神社として県社に昇格、昭和五十五年(一九八〇)には創祀千八百五十年記念大祭を
|斎行、今日尚氏子崇敬者には御神威を奉持し御神徳を戴いている処であります。
                             大嶋・奥津嶋神社境内石碑


 とのこと。どうやら、この由緒を読む限り、沖=奥。という公式がこの界隈に限っては成立していそうです。天智が、蒲生野遊猟の際に立ち寄ったという奥之島とは、先ず間違いなく沖島のことでしょうから。
 そしてその前提で考えるならば、このお社の祭神はやはり田心姫神、となるでしょうか。境内には記されている限りでは大国主命・奥津嶋比賣命・応神天皇・大山咋命・天火々出見命・須佐之男命・高皇産霊命という7柱が祭神となってはいますが、奥津嶋比賣命がそのまま田心姫神とイコールなのかも知れません。

 あと、実際に訪ねてみてすぐに感じてしまったのは、遥拝所ではないのかな、ということです。...延喜式内社に対して、随分と失礼なことを感じてしまっているのかもしれませんが。
 このお社の鳥居を参道から眺めると、そこにはお社の背後に聳える小さな山が見えるだけです。けれどもその先には方角からして、きっとあるはずなんです。...そう、沖島そのものが、です。

 地図上でも確認しましたけれど、やはり大きなずれはなさそうです。もちろん、現在のお社は延喜式内社であった2社を合祀したもの、となりますから必ずしも昔からこの場所にあったわけではないのかも知れません。
 また、そういった合祀の中で、宗像3女神以外の神格も興ったのでしょうし、主な1柱として大国主が挙げられていることにも、それほど違和感は覚えません。
 何故なら、兵主大社の祭神が大国主でしたからね。あちらも成務の時代の高穴穂宮と関わりがありましたよし。

 各地の宗像3女神信仰というのは、実にまちまちです。3柱のそれぞれがきちんと鎮座している土地もあれば、たった1柱だけの鎮座であったり、2柱の鎮座という土地もあったはずです。つまり、宗像3女神の誰を、何処に、どう祀るのか、ということよりも航海神として3女神はある意味で、3柱で1柱というような側面すらある、とも言えるのかも知れません。
 だとしたならば、このお社の主祭神とされている奥津嶋比賣命というのは、田心姫神1柱に限定されるものではないのかも知れませんね。

 もちろん、詳細に社史を紐解けばそんなことなどないと思います。沖島の1柱、そしてここに合祀された2つのお社にそれぞれ1柱ずつ。それらを併せて3柱。きっと、かつてはそういうことだったのであろうことは、想像に難くないですけれども。
 ですが、わたし個人の極めて身勝手な想像としては、沖島そのものがご神体であって、その島へ真っ直ぐと向かい合う位置に建つことができたであろう、合祀される前の大嶋神社も、奥津嶋神社も。いずれも沖島の遥拝所として興ったように思えてならないのです。

 

 境内の池に、雨粒が次々と波紋を起こしています。土地の歴史。それは、本当にその土地だけのもので、これまでに訪ねたどの国にも、紡がれていたものなのは言わずもがな。
 ですが、ここ近江国に来て、とにかく困惑したのが、この国が歴史に登場した時代の記述同士が、とても密接に関わっていることです。

 例えば、わたしの地元・相模国は上代の記述がとても少なく、結果として上代を専らとしているわたしが古歌紀行をすれば、それは必ず倭建か防人に関連してしまいます。一方、歴代の皇宮が置かれた大和国では、関連する項目が多すぎて、詳細に追いきれないんですね。それを始めてしまったら、もう全てが収拾つかなくなる、といいますか。
 その点、ここ・近江国は、相模ほど限定的ではなく、けれども大和ほど広範囲でもありません。近江に皇宮が置かれたとされている高穴穂宮の時代と、大津宮の時代と、紫香楽宮や保良宮といった天平末期と。

 どのお社の由緒を見ても、どの史跡を訪ねても。必ずそれらの何処かに関わっている近江国。...当然、偶然ではないでしょうね。全ては必ず人為の上に成り立っている、ということの証左なのでしょう。
 つまり、記紀にそう記された歴史は歴史として、されどそれは全てでなどあるはずもない、ということです。高穴穂と大津と紫香楽と保良以外の時期は、この国に人々の営みが全くなかったのでしょうか。...そんなことがあるはずもなし。

 それにも関わらず、そういった現存する上代文献に記されたもの以外の、この国の歴史の断片が、これだけ近江国を訪ね彷徨っているというのに、終ぞ登場して来ていません。一体、それは何故なのか。
 ...つまり、鶏と卵では本来、卵が先であるにも関わらず殊、歴史というものに限っては鶏が先だ、ということなのでしょう。そうじゃなければ、わたしたちが鶏と思っているものが鶏ではなくて卵だ、ということです。

 哀しいのではありません。悔しいのでもありません。嫌ならば、ただ止めればいいだけです。誰かに頼まれてしている旅ならいざ知らず、わたしが好きで続けている旅なのですから。
 そしてだからこそ、改めて思います。繰り返し繰り返し、何度も何度もわたしは思います。
「一体、わたしは何を求めて古代史を巡る旅を続けているのだろうか」
 と。
「一体、わたしは何故、それでも謡おうとしているのだろうか」
 と。

 天つみづの降りゆく先はいづへなむ
 地なるものか
 綿津見か
 山にさはなるこぬれなむ
 地に降れどものち垂水
 みづの流れて綿津見に
 い辿ればまた雲なりて
 かつも降り降る
 とこしへに
 まはりまはれば世は世にて
 世は世にあらざるものならむ
 降るは降るとふことならず
 降るの昇るに等しきも
 いかなるきはみ
 違へてか
 きはみなければ世はひとつ
 ふたつならざるひとつ世に
 さはなるひともえあらずと
 知りてこそこにし
 知りたけれ
 知らまくほしきものはあれなむ

 遇ひたるも遇へざることはりこそ世にあらめ
 離れどもなほ離れざるうらこそひとなめ     遼川るか
 (於:大嶋・奥津嶋神社)







BEFORE  BACK  NEXT