| 是の年の春、疫瘡大きに発る。初め筑紫より来りて夏を経て秋に渉る。公卿以下天下の
|百姓相継ぎて没死ぬること、勝げて計ふべからず。近き代より以来、これ有らず。
                    「続日本紀 巻12 聖武天皇 天平9年(737年)」


 それでも、それまではまだ罹患者がそれほど多くなかった天然痘が、ついにこの年、本格的に大流行し出したんですね。ただですら悪天候続きで飢饉になっていたのに、天然痘によってお百姓さんたちが相継いで亡くなってしまったのでは、飢饉もまた一気に悪化してしまいます。
 そしてこの年。時の政治をほぼ掌握し、長屋王事件の黒幕でもあったであろう、とされていた藤原4兄弟が相継いで他界しています。

|辛酉、參議民部卿正三位藤原朝臣房前薨しぬ。送るに大臣の葬の儀を以てせむを、その家
|固辞びて受けず。房前は、贈太政大臣正一位不比等の第二子なり。
                 「続日本紀 巻12 聖武天皇 天平9年(737年)4月17日」

|乙酉、參議兵部卿従三位藤原朝臣麻呂薨しぬ。贈太政大臣不比等の第四子なり。
                 「続日本紀 巻12 聖武天皇 天平9年(737年)7月13日」

|丁酉、詔して、左大弁従三位橘宿禰諸兄、右大弁正四位下紀朝臣男人を遣して、右大臣の第
|に就きて正一位を授け、左大臣を拝せしめたまふ。即日、薨しぬ。従四位下中臣朝臣名代ら
|を遣して、葬の事を監護らしむ。須ゐるのは官より給ふ。武智麻呂は贈太政大臣不比等の
|第一子なり。
                  「続日本紀 巻12 聖武天皇 天平9年(737年)7月25日」

|丙午、參議式部卿兼大宰帥正三位藤原朝臣宇合薨しぬ。贈太政大臣不比等の第三子なり。
                  「続日本紀 巻12 聖武天皇 天平9年(737年)8月5日」


 何とも...。まさしく“奢れる者は久しからず”といったところでしょうか。どれほどの権勢と、どれほどの栄誉と、どれほどの富裕と。そんなものをどこまで手に入れたところで、遅かれ早かれ命は必ず終わります。
 いや、何も個人的には藤原氏にあまり好意的になれないからといって、4兄弟が相継いで倒れたことを喜んでなどいないですし、ましてやそれを皮肉っているのでもありません。ただ、壬申の乱にしてこの天平崩壊にしても。...とても虚しいですし、そして愛しいとも感じます。

 これら上記引用の中で、特に注目したいのが武智麻呂に関連する記述です。つまり左大弁従三位の橘諸兄が、病で臥っている武智麻呂のもとへ右大臣から左大臣への昇格を知らせているんですね。もちろん、聖武の詔によってです。もっとその日のうちに武智麻呂は他界してしまうのですが。
 ここに1つの時代の趨勢が見られるように思います。というのも相継いで他界した藤原4兄弟に代わって、以降の政局を掌握してゆくのが他ならぬ、この橘諸兄だからです。

 

 朝、宿を出て来る時にテレビを見た限りでは、台風は日本海海上に抜けたとのことでしたが、だからなのでしょうか。まだ小雨がぱらついていた早朝から始まって午前、さらには正午と、天気はすっかり回復してきています。
 そして今に至ってはもう、周囲の山の緑は鮮やかにして光は眩しく、本当に気持ちのいい秋の空が広がります。運転席の窓を少し開けると、そういう秋の空気の匂いと木々の匂いが流れ込んできて、ふいに自身が
「ああ、遠くにきているのだなあ...」
 と意味もなく感じていました。

 橘諸兄。元々は葛城王と名乗っていた皇族です。敏達天皇の5世、あるいは6世孫にあたったのだそうです。藤原4兄弟の死後に大納言、左大臣と昇格して、後に孝謙天皇となる阿部内親王の立太子と同時に右大臣就任。
 「万葉集」の編纂にも、恐らくは少なからず関わっていたであろう人物であることは、後世の栄華物語などに書かれていますが。また、そんな彼を敬慕し、部下として勤めに励んだのが大伴家持であることも、すでに過去の拙作にて書きました。

 ともあれ、鎌足→不比等→4兄弟と続いた、藤原氏の絶対的と言えたはずの権勢。それがこの天平半ばにして、やや翳りを帯び始めます。
 いや、実際には翳りというよりは単にひと段落しただけだった、ということのは、小中学校の歴史にすら登場しているんですけれどもね。ですが、それに不満を感じて、遂には謀反として挙兵してしまった人物まで、藤原氏にはいたのですから、当時を生きていた人々にとっては愕然とするほどの変化だったのかも知れません。

 天平12年(780年)。藤原4兄弟の3男・宇合の長男である藤原広嗣が、九州で挙兵します。理由は簡単です。朝廷内を掌握している反藤原派に対する不満と、憂国と。何せ、4兄弟の他界と同時に朝廷内の勢力地図は一気に塗り替えられてしまいましたし、彼に至ってはそういった親族に対する誹謗を受けた果てに、大宰府の中級役人へ左遷されてしまったわけで。
 もちろん、一足飛びに挙兵ではなく上奏文も提出されたのですが、それを読んだ諸兄が謀反と判断したのでしょう。それゆえの挙兵です。そして、それに対する鎮圧軍が組織され、出発します。

| 癸未、大宰少弐従五位下藤原朝臣広嗣、表を上りて時政の得失を指し、天地の災異を陳
|ぶ。因て僧正玄ム法師、右衛士督従五位上下道朝臣真備を除くを以て言とす。
| 九月丁亥、広嗣遂に兵を起こして反く。勅して、従四位上大野朝臣東人を大将軍とし、従
|五位上紀朝臣飯麻呂を副将軍としたまふ。軍監・軍曹各四人。東海・東山・山陰・山陽・南海
|の五道の軍一万七千人を徴り発して東人らに委ね、節を持して討たしむ。
              「続日本紀 巻13 聖武天皇 天平12年(740年)8月29〜9月3日」


 藤原式家。藤原4兄弟はそれぞれの家の祖となって、各個に繁栄するのですが、後世まで長く繁栄したのは宇合から始まる式家です。平安期に君臨した、あの藤原一族は式家の流れですから。
 けれどもその式家の嫡男は、賊として処刑されていている現実も、歴史というものの皮肉ぶりを見るようです。つまり負ければ逆賊、勝てば功臣、といったところでしょうか。たまたま彼の謀反では家自体がどうこうならなかった式家ですが、藤原道長などの後の世の専横ぶりを見れば一体、逆賊の定義とは何なのか、と。そう感じずにはいられませんね。
 しかし、そんな風雲急を告げている情勢の中で、肝心の聖武は理解不能。あるいは奇怪な行動に出ます。

|己卯、大将軍大野朝臣東人らに勅して曰はく
|「朕意ふ所有るに縁りて、今月の末暫く関東に往かむ。そのときに非ずと雖も、事已むこと
|能はず。将軍これを知るとも、驚き怪しむべからず」
| とのたまふ。
                  「続日本紀 巻13 聖武天皇 天平12年(740年)10月26」


 藤原広嗣の乱の真っ只中です。都・平城から九州へ、将軍も兵たちも、たくさん派遣されている中だというのに、聖武はいきなり関東へ行幸をする、と言いだします。ここでいう関東とは現代の関東地方のことではなくて、せきのひがしと読む、要するに鈴鹿関や不破関の東に位置する伊勢や美濃国のことを指します。
 そして、
「よりによってこんな時期に行幸をしてしまうけれど、将軍たちはこれを怪しんだりしないように」
 と、言い添えるかのように。

 ...自ら怪しむな、と言うくらいですから間の悪さは当然のこと。そのうえ、ちゃんとそれを自覚もしていたのでしょう。しかし、にも関わらず行幸をしなければならなかった聖武には、どんな思いがあったのでしょうか。
 現代でも様々な推論は囁かれ、そして見聞きしていもいますが、わたしが個人的に採りたいのは、その後に辿った聖武の行幸の行程から、そう思わずにいられないと感じたものです。つまり、この行程です。

 10月29日 平城宮
 10月30日 名張
 11月01日 伊賀郡安保(現・伊賀市阿保)
 11月02日 壱志郡河口(現・津市白山町河口)
 11月12日 壱志郡
 11月14日 鈴鹿郡赤坂頓宮(現・亀山市関町木崎)
 11月23日 朝明郡(現・四日市市朝明)
 11月25日 桑名郡石占頓宮(現・桑名市多度町戸津)
 11月26日 美濃国当芸郡(現・岐阜県養老郡養老町)
 12月02日 不破郡不破頓宮(現・不破郡垂井町)
 12月06日 坂田郡横川(現・滋賀県米原市醒井)
 12月07日 犬上頓宮(現・彦根市高宮町)
 12月09日 蒲生郡(現・東近江市界隈か)
 12月10日 野洲頓宮(現・野洲市or守山市)
 12月11日 志賀郡禾津頓宮(現・大津市粟津町)
 12月13日 志賀の山寺(崇福寺)
 12月14日 山背国相楽郡玉井頓宮(現・綴喜郡井出町)


 ...改めて地図上で照らし合わせると、余りにもぴったりと合致しているのに驚いてしまいます。すなわち、出発地と到着地こそ違いますが、この聖武の奇怪な行幸はかつて、壬申の乱で吉野から不破へ逃げ、そしてその不破から大津まで攻めていった、大海人と大海人軍の移動・進軍行程とほぼ同じということなんですね。
 もちろん、この2つの行程は、信楽・甲賀・鈴鹿の山をさけて不破の向こうまで往復すれば。またその出発地が奈良であり、到着地が京都ならば。...他意などなくても、自ずとこうなってしまうもの、とも言えます。

 ですが、折りしも世情が乱れ、反乱軍が西国で中央政治を批判した上に、挙兵しているという状況で、しかもその謀反の張本人は藤原氏の嫡男なのです。これを聖武はどう感じたのでしょうか。
 壬申の乱の以降、遠く東は常陸などで蝦夷との小競り合いは何度も起こっています。なので、壬申の乱を最後に武力衝突は全くなかった、ということでは決してありません。...が、当時の概念からすれば、蝦夷との武力衝突は少なくとも内乱ではなかったのではないか、と。

 仮に、この藤原広嗣の乱が壬申の乱以降、最初の内乱だとします。当然、聖武にとっても初めての内乱です。また、それ以前からも、天候不順による飢饉が続き、各地では伝染病が猛威を奮っては、人々が倒れ、死んでゆきます。
 科学など何もない時代でした。農業技術も、医療技術も何もない時代だからこそ、政治とは即ち宗教です。神に、仏に、祈ることしかできないのです。

 もちろん、それ以外にも律令、つまりは現代で言うところの法律などを以てして、人々の生活を少しでも安定・向上させられるような努力は惜しまなかったことでしょう。でも。それでも、次々と倒れてゆく人々を救えなかった聖武。
 頼りにしていた藤原4兄弟すらも、その命を救うことができず挙句、その嫡男が叛旗を翻した...。

 この状況下で、聖武が自らの曽祖父である天武の辿った道筋を、どうしても辿って見たくなるのは、わたし個人の感覚ではとても納得できます。...もちろん、それを実際にするか、しないかはともかくとしても、辿りたくなる気持ちは、とてもとても納得できてしまうんですね。
 さらには、それを実行してしまったことも、もうそれくらいに切羽詰っていた、という証のようにしか思えず。...律令を整えてもだめ。仏に祈ってもだめ。
「ならば一体、自分は何を拠り所に、この苦境を乗り越えて民草を救うのか」
 と。そんな藁にも縋るような思いの果ての行幸決行だった、と思うのはわたしの甘さでしょうか。

 この聖武の行幸の途中、藤原広嗣は掴まり、斬られます。それと同時に内乱も鎮圧。その後は橘諸兄が、一行と別行動をとって恭仁京へ先乗りしました。聖武の受け入れ体性を整え、遷都の準備をするために、ということでしょう。
 当時の歴史観からすれば天皇崩御や戦の終結の後、あっておかしくない大事業として、遷都は大切なものだったはずです。ましてや平城京は、天然痘の死者が後を絶たたないような状態でしたから、ここで遷都構想がもたれるのも、不思議ではないでしょう。
 そして、遷都が成ります。

|丁卯、皇帝在前に恭仁宮に幸したまふ。始めて京都を作る。
                「続日本紀 巻13 聖武天皇 天平12年(740年)12月15日」


 あらたしきことにあらたむ ゆふさりてまたもあしたの来る世にあれば 遼川るか
 (於:紫香楽宮へ向かう国道422号途上)


 恭仁京に遷都して数日後。天平13年(741年)が明けます。ですが、遷都はしたものの恭仁京自体が突貫工事で造営されていたためか、まだまだあちこちが出来ていなかったらしき記述が、続日本紀には散見されますね。続く天平14年も同様です。
 ですが、それももう仕方ないとしか言いようがなく...。というのも、すでに聖武の半ば狂気とも言える様々な造営に次ぐ造営が始まってしまっていたからなんですね。

 先ず、天平13年には全国に国分寺と国分尼寺の建立の詔です。また、平城京からの様々な機能の引越しも続いていましたし、恭仁京周辺の環境整備として橋を架けたり、ととにかく各地からその為の人夫が、たくさん徴発されていたことが判ります。
 次いで天平14年。まだ恭仁京自体の大極殿も出来ていなような状態でありながらも、宮から東北の方角へと伸びる道を造営。

|是の日、始めて恭仁京の東北道を開き、近江国甲賀郡に通せしむ。
                 「続日本紀 巻14 聖武天皇 天平14年(742年)2月5日」


 東北、つまりは丑寅ということで鬼門です。新都から見て鬼門となる方角への道を拓いて、ではその道の先で聖武がしようとしていたのは何なのか。...その答えが次第々々に明らかになります。

|癸未、詔して曰はく、
|「朕、近江国甲賀郡紫香楽村に行幸せむ」
| とのたまふ。即ち宮卿正四位下智努王、輔外従五位下高岡連河内ら四人を造離宮司とす。
                  「続日本紀 巻14 聖武天皇 天平14年(742年)8月11日」


 造離宮司。こう明記されていますね。そう、先ず明らかになったのは離宮の造営計画です。新都・恭仁京がいまだ完成もしていない状態で、紫香楽に離宮を造ろうというんですね。そして、これを境に聖武は頻繁に紫香楽へ行幸するようになります。
 さらに翌天平15年になると、離宮があることから近江国甲賀郡は租庸調が減免。調は半減、庸は免除となって挙句、遂にはこの詔がなされます。

|冬十月辛巳、詔して曰はく
|「朕薄徳を以て恭しく大位を承け、志兼差済に存して勤めて人物を撫づ。率土の浜已に仁恕
|に霑ふと雖も、普天の下法恩洽くあらず。誠に三宝の威霊に頼りて乾坤相ひ泰かにし、万代
|の福業を脩めて動植咸く栄えむとす。粤に天平十五年歳癸未に次る十月十五日を以て菩薩
|の大願を発して、盧舍那仏の金銅像一躯を造り奉る。国の銅を尽くして象を鎔、大山を削り
|て堂を構へ、広く法界に及して朕が智識とす。遂に同じく利益を蒙りて共に菩提を致さし
|めむ。夫れ、天下の富を有つは朕なり。天下の勢とを有つは朕なり。この富と勢とを以てこ
|の尊き像を造らむ。事成り易く、心至り難し。但恐るらくは、徒に人を労すことのみ有りて
|能く聖に感くること無く、或は誹謗を生して反りて罪辜に堕さむことを。是の故に智識に
|預かる者は懇に至れる誠を発し、各介なる福を招きて、日毎に三たび盧舍那仏を拝むべし。
|自ら念を存して各盧舍那仏を造るべし。如し更に人有りて一枝の草一把の土を持ちて像を
|助け造らむと情に願はば、恣に聴せ。国郡等の司、この事に因りて百姓を侵し擾し、強ひて
|収め斂めしむること莫れ。遐邇に布れ告げて朕が意を知らしめよ」
| とのたまふ。
                 「続日本紀 巻15 聖武天皇 天平15年(743年)10月15日」


 これが後の世にいう“盧舍那仏造営の詔”です。はい、つまり聖武が1番したかったことは大仏造営だった、ということなのでしょう。
 身勝手な解釈であり、感想に過ぎませんが、以前感じられた、聖武のもうどうしていいのか判らない、という切迫した思いがこの詔からは感じられないように思います。...というよりも、
「だからこそ、もうこれをするしかないんだ」
 という風情から始まって、最後には
「こうすればすべてがうまくゆくんだ」
 というような、思い入れが思い込みへとすでに摩り替わってしまっている感触を受けずにはいられないんですね。...苦しかったのでしょう、きっと。とてもとても、筆舌に尽くしがたいほどの苦しみだったのだろう、と思います。

 ですが、わたしたちはすでに知っています。現在、信楽の地に大仏など存在していないことを。聖武がそれほどまでの意志と、半ば執念とも思える意気込みで取り組んだはずの大仏が、信楽に存在していない...。
 その後の、歴史で関連あるものを列挙してゆきます。

|初めて平城の大極殿并せて歩廊を壊ちて恭仁宮に遷し造ること四年にして、茲にその功
|纔かに畢りぬ。用度の費さるること勝げて計ふべからず。是に至りて更に紫香楽宮を造る。
|仍て恭仁宮の造作を停む。
                   「続日本紀 巻15 聖武天皇 天平15年(743年)12月」


 ようやく恭仁京の大極殿が完成します。平城京の大極殿と歩廊を壊して、その資材を、そのまま投入しての恭仁京大極殿。けれどもあまりに費用が嵩み過ぎ、しかも紫香楽宮まで造営しなければならない、という情勢にあって大極殿の完成と同時に、それを内包する恭仁京の造営自体が停止になってしまい...。

| 閏正月乙丑の朔、詔して百官を朝堂に喚し会へ、問ひて曰はく
|「恭仁・難波の二京、何をか定めて都とせむ。各その志を言せ」
| とのたまふ。是に、恭仁京の便宜を陳ぶる者、五位已上廿四人、六位已下百五十七人なり。
|難波京の便宜を陳ぶる者、五位已上廿三人、六位已下一百卅人なり。
                 「続日本紀 巻15 聖武天皇 天平16年(744年)閏正月1日」

|戊辰、従三位巨勢朝臣奈弖麻呂、従四位上藤原朝臣仲麻呂を遣し、市に就きて京を定むる
|事を問はしむ。市の人皆恭仁京を都とせむことを願ふ。但し、難波を願ふ者一人、平城を願
|ふ者一人有り。
                 「続日本紀 巻15 聖武天皇 天平16年(744年)閏正月4日」


 恭仁京か、難波京か、平城京か。聖武自身も迷っては、様々な人に意見を求めた様も、続日本紀は記録しています。...もう、羅針盤を失ってしまった船のようで、大仏造営という大目標はあれど、そこにどう漕ぎ付けていいのか。その見当もつかないとばかりに迷走している、という印象が拭えません。

|丁丑、薨しぬ。時に年十七。
                「続日本紀 巻15 聖武天皇 天平16年(744年)閏正月11日」


 もう時代の、あるいは歴史の歯車が聖武と、聖武が築いた世と噛み合わなくなってしまった、とした言いようが無いのかも知れません。聖武にとってさらなる悲運だったのは、唯一の皇子であった安積親王が17歳にして夭折してしまったことでしょう。
 これで、彼には皇位を継ぐべき皇子がいなくなりました。

|庚申、左大臣勅を宣りて云はく
|「今、難波宮を以て定めて皇都とす。この状を知りて京戸の百姓意の任に往来すべし」
| とのたまふ。
                 「続日本紀 巻15 聖武天皇 天平16年(744年)2月27日」

|三月甲戌、石上・榎井二氏、大き楯・槍を難波宮の中と外との門に樹つ。
                 「続日本紀 巻15 聖武天皇 天平16年(744年)3月11日」


 そして、難波遷都が正式に、天下に知らしめらされます。

|十一月壬申、甲賀寺に始めて盧舍那仏の像の体骨柱を建つ。天皇、親ら臨みて手らその繩
|を引きたまふ。
                 「続日本紀 巻15 聖武天皇 天平16年(744年)11月13日」


 その一方で、紫香楽宮と紫香楽宮に隣接する甲賀寺に造営されようとしている、大仏の準備がついに本格的に始動。挙句、こんな記述が天平17年の最初であり、同時に続日本紀の巻16の冒頭に記されています。

 

|十七年春正月己未の朔、朝を廃む。乍ちに新京に遷り、山を伐り地を開きて、以て宮室を造
|る。垣牆未だ成らず、繞すに帷帳を以てす。兵部卿従四位上大伴宿禰牛養、衛門督従四位下
|佐伯宿禰常人をして大きなる楯・槍を樹てしむ。
                  「続日本紀 巻16 聖武天皇 天平17年(745年)1月1日」







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