繰り返しますが、わたしは正義という言葉も概念も、嫌いです。ですが同時に、生命は生命によってのみ、産み出され、育まれ、営まれるものであることも承知しています。命でしか繋げない命。それが狭い狭い地球という天体に宿る存在が負う唯一無二のもの。常なる存在ではない、限りあるものだからこそ許されている生殖、とも言えるかも知れません。 そう。きっと、そうなのでしょう。 大海人皇子と大友皇子。彼らの明暗を分けたのは、ありがちな表現ならば天の時と地の利と人の和、となるのでしょうか。 追い風の時というのは、本当にほんの紙一重の幸運が続きます。これは、何も天下分け目の戦い、などという大事ではなくとも、わたしたちの日常にもまま起こりますし、自身も複数回、経験していることです。 地の利。大海人軍が初動で要衝となる地を全て掌握できたのは言うまでもありませんが、それと同時に彼が最初に逃げ込んだ美濃・尾張の地。 前述している通り、美濃には大海人の私領があり、尾張は大海人の幼少期、養育係を請け負った大海人宿禰菖蒲の本拠だったといわれています。そう大海人とは、伊勢湾岸を占めていた海人族にして、後の海部氏や尾張氏へと続いていった一族のことです。 余談になりますが、この大海人氏の祭神は当然ですけれど、伊勢神宮ですから、天武として即位した大海人が正式に伊勢崇拝を定めて、斎宮制度までつくりあげたことにも、何らかの影響があった可能性が高いかも知れません。 最後の人の和に至っては、ここまで綴って来ましたから敢えて書く必要もないでしょう。ただ、あと1つだけ付け足すことができるとすれば、大海人の長子にして、壬申の乱の総指揮官を務めた高市皇子。 彼の母親・胸形尼子娘は、胸形君徳善(宗形徳善)の娘だ、といいます。...宗形、つまりは宗像ですからこちらは九州は福岡の宗像を本拠地とする一族。 はい、覚えておいででしょうか。大友が大宰府へ援軍要請の使いを出したことを。 「大宰府は国防の要衝」 そういう理由で、内乱には武力は割けないとした当時の筑紫大宰・栗隅王でしたが、本当にそれだったとも思い切れません。...もちろん、大友のやり方に対して不満があったのでしょうけれど、同時に宗像氏が多少なりとも精神的なプレッシャーとなっていなかった、とも考えづらいと、わたし個人は感じています。大宰府と宗像はごくごく近いですから。 瀬田の唐橋。相変わらず走り去る自動車たちと、行き交う人々と、そして琵琶湖から吹き寄せる風と。もうここは名立たる景勝地として在ることが、最も相応しくなっています。ここを訪ねる人々もまた、流血の歴史よりはその景色に、心惹かれてのことなのでしょう。 流れてゆきます。時は移ろい、人は流れ、土地という不変のものだけが黙し、ただすべてを刻んでゆくだけです。 穴太に関連しても少し書きましたが、倭建や成務天皇、仲哀天皇、そして神功皇后などは現代、実在していなかったとする説の方が有力です。中でも神功皇后は、斉明天皇や持統天皇といった女帝たちの世を、寓話化したものなのではないか、とする論説を、とてもよく見かけます。 つまり、神功皇后の新羅への進軍から三韓に至るまでの流れが、斉明期後半の白村江前後のことを下敷きとしていて、その後の摂政時代は持統天皇の時代をモデルとしている、ということでしょうか。 だとしたならば、三韓と摂政期の間に起こった、忍熊王との武力衝突は一体、何を下敷きとしたのでしょうね。奇しくも似たような時期に、この瀬田の唐橋を同じく決戦の地とした大きな、大きな、戦いがあったのですが。 それともこれも、ついつい記紀を深読みしてしまうわたしが見ている、夢なのかも知れません。 いにしへは弥遠長き辺にありてたれもたれとて幸く知らえず 遼川るか (於:瀬田の唐橋) この壬申の乱を人麻呂は「万葉集」最長の雄編として謡い上げました。ここまでに、壬申の乱の詳細を見てきていますから、人麻呂がどの場面のことをどう謡ったのかも、何となく判るのではないでしょうか。 |題詞:高市皇子尊の城上の殯宮の時に柿本朝臣人麻呂が作る歌一首 |かけまくも ゆゆしきかも |言はまくも あやに畏き |明日香の 真神の原に |ひさかたの 天つ御門を |畏くも 定めたまひて |神さぶと 磐隠ります |やすみしし 我が大君の |きこしめす 背面の国の |真木立つ 不破山超えて |高麗剣 和射見が原の |仮宮に 天降りいまして |天の下 治めたまひ |食す国を 定めたまふと |鶏が鳴く 東の国の |御いくさを 召したまひて |ちはやぶる 人を和せと |奉ろはぬ 国を治めと |皇子ながら 任したまへば |大御身に 大刀取り佩かし |大御手に 弓取り持たし |御軍士を 率ひたまひ |整ふる 鼓の音は |雷の 声と聞くまで |吹き鳴せる 小角の音も |敵見たる 虎か吼ゆると |諸人の おびゆるまでに |ささげたる 幡の靡きは |冬こもり 春さり来れば |野ごとに つきてある火の |風の共 靡くがごとく |取り持てる 弓弭の騒き |み雪降る 冬の林に |つむじかも い巻き渡ると |思ふまで 聞きの畏く |引き放つ 矢の繁けく |大雪の 乱れて来れ |まつろはず 立ち向ひしも |露霜の 消なば消ぬべく |行く鳥の 争ふはしに |渡会の 斎きの宮ゆ |神風に い吹き惑はし |天雲を 日の目も見せず |常闇に 覆ひ賜ひて |定めてし 瑞穂の国を |神ながら 太敷きまして |やすみしし 我が大君の |天の下 申したまへば |万代に しかしもあらむと |木綿花の 栄ゆる時に |我が大君 皇子の御門を |神宮に 装ひまつりて |使はしし 御門の人も |白栲の 麻衣着て |埴安の 御門の原に |あかねさす 日のことごと |獣じもの い匍ひ伏しつつ |ぬばたまの 夕になれば |大殿を 振り放け見つつ |鶉なす い匍ひ廻り |侍へど 侍ひえねば |春鳥の さまよひぬれば |嘆きも いまだ過ぎぬに |思ひも いまだ尽きねば |言さへく 百済の原ゆ |神葬り 葬りいまして |あさもよし 城上の宮を |常宮と 高く奉りて |神ながら 鎮まりましぬ |しかれども 我が大君の |万代と 思ほしめして |作らしし 香具山の宮 |万代に 過ぎむと思へや |天のごと 振り放け見つつ |玉たすき 懸けて偲はむ |畏かれども 柿本人麻呂「万葉集 巻2-0199」 「高市皇子尊が城上の殯宮の時に柿本朝臣人麻呂が作る歌一首 心に思うことすら畏れ多く、申し上げることもまた畏れ多い、この明日香の真神の原に宮をお定めになり、今は神としてお隠れになられた天武天皇。その天皇がお治めになられていた美濃国の不破の山を越えて和射見が原の仮宮へと天降り、この国を平定しようとして東国の兵士を召しては乱暴する者を和らげ、従わない国を治めよ、というお心を高市皇子にお任せになったので、皇子は御身自ら太刀を佩き、手には弓をとって兵士たちを励まして。 隊伍を整える太鼓の音はまるで雷の音のよう。吹き鳴らす角笛の音は、敵に向かった虎が吼えるが如く、人々を驚かすほど。また高く掲げた赤い軍旗は、春になると放たれる野火が風に靡いて地を覆うにも等しく。引き放たれる矢はまるで大雪が乱れ降る様。まつろわず戦う敵軍も、死ぬなら死ね、とばかりに戦っているその時に、伊勢神宮からの神風で敵軍を混乱させ、雲でこの世を真っ暗に覆い隠されて平定したこの瑞穂の国を、神として堂々とお治めになった高市皇子。 天下の政を永遠に執行し続けるだろうと思うほど、まだまだ盛んな時だというのに、皇子を殯宮に安置しようとは。皇子に仕えていた者たちはみな白い喪服を纏い、昼に夕に使えるべき主を亡くして這い回り、噎び泣き、嘆きも悲しみもいまだ尽きないというのに。それなのに百済の原を進んで神として葬り申し上げ、城上の宮を永遠の宮としてお鎮まりになられてしまった。 ...けれどもわが高市皇子がお造りになられた香具山の宮は万代に滅びないであろう。大空を振り仰ぐように、ずっと心にかけてお偲び申し上げ続けよう」 日本書紀からの引用中に、地文と一緒に登場した記紀歌謡を再引用しておきます。 |いざ吾君 五十狹茅宿禰 |たまきはる 内の朝臣が |頭槌の 痛手負はずは |鳰鳥の 潜せな 忍熊王「日本書紀 巻9 神功皇后 神功摂政元年(201年)3月5日」再引用 |淡海の海 瀬田の済に 潜く鳥 目にし見えねば 憤しも 武内宿禰「日本書紀 巻9 神功皇后 神功摂政元年(201年)3月5日」再引用 |淡海の海 瀬田の済に 潜く鳥 田上過ぎて 菟道に捕へつ 武内宿禰「日本書紀 巻9 神功皇后 神功摂政元年(201年)3月5日」再引用 −・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・− 少しずつ、空に晴れ間が見えてきました。宿を出た時は、時刻も手伝って薄暗く、しかもまだかすかに降る雨もあったのですけれども。瀬田の唐橋からそのまま走る県道16号。それにかかる信号機の下の標識には神領、の文字。 ...本当に地名というものは、その土地が追った歴史をとてもとても雄弁に物語ってくれるものだ、と改めて感じます。様々な土地を歩いてきましたが、各地共通の地名。ある一定条件に適っているが故の地名、というものが幾つかあります。惣社あるいは総社であったり、国分や国分寺、さらには国府などが代表的な例ですが、他に挙げられるのが神領、でしょうか。 「なつそびくうなかみがたゆ」でも書きましたが天平期、各国に創建された国分寺や国分尼寺、そして国府。これらがあった地区には大体、それに因んだ地名が残っているものですし、同様に総社(惣社)なども存在していることが多いです。 一方の神領。こちらは読んで字の如し。天平期やそれ以前とは限定できませんが、けれども大社に類するお社のかつての領地であった、ということですね。...はい、当然ですけれどこの地名がある以上は、ごく近くに大きなお社。それも各国の一宮や二宮クラスの大社が存在していることを表します。 一宮。わたし自身はまだあまりたくさんの一宮を訪ねていません。地元・相模国の一宮である寒川神社はもちろん訪ねていますが、あとは大和国の大神神社、上総国の玉前神社、武蔵国の氷川神社、出雲国の出雲大社、諏訪国の諏訪大社、下総国の香取大社くらいではないか、と。...そう、ここ近江国の一宮にもまた、わたしは未だ訪ねていなかったわけですね。 滋賀県大津市神領。この地名は、近江国一宮・建部大社に関連します。つまり、すぐそこには建部大社があるということですし事実、もう鳥居が視界の端に見えていました。 建部大社。正直、特別な思い入れがあるわけではありませでした。ですが、純粋に一宮であることだけではなく、その名前から色々と考えることは多そうだな、と感じて立ち寄ったのも事実。 いやはや、この建部という名前です。こちらにもまた、日本書紀というものの歪みが滲んでしまうのでしょうね。 大きな観光バスが玉砂利を敷き詰めた建部大社の駐車場に数台、止まっていました。近江の観光バスツアーのコースに、ここが入っているからなのでしょう。ただ実際に歩いてみて感じたのは、一宮にしては敷地が狭いのか、もしかしたら大半が禁足地にでもなっているのか、意外にもこじんまりしていたことです。参道も少々呆気なく感じてしまうほどの短さで、ですがその参道の先にある拝殿の手前には、ご神木とされる3本杉。 ともあれまずは参拝です。 境内にあったお社の由緒書きなども眺めはしましたが、なかなか素直に読むのは難しく、気づいたら写真を撮ることすら失念してしまいました。なので、神奈川帰還後に慌てて調べる羽目となったのですが。 | 当社は近江国の一の宮と称えられ、景行天皇四十六年(西暦三一六)四月神崎郡建部郷 |千草嶽に、日本武尊の御神を建部大神としてお祀りしたのが創りである。 | 天武天皇白鳳四年(六七五)四月に近江国府のあった瀬田の地にお迂し、此の国の守護 |神として仰ぎ奉られる様になった。天平勝宝七年(七五五)には孝謙天皇の詔により大和 |一の宮大神神社から大己貴命を勧請し権殿に奉祭せられ現在に至っている。 建部大社由緒書き 建部。こう字面で現れると、やはり最初に推測してしまうのは倭建との関連で、やはりですね。日本書紀の景行紀によれば、各地を平定して廻っていた大和武(日本書紀での表記)こと、小碓皇子が伊吹山の神の怒りに倒れ、能褒野で果てた後。父である景行天皇は |時に日本武尊、白鳥と化りたまひて、陵より出で、倭国を指して飛びたまふ。群臣等、因り |て、其の棺槻を開きて視たてまつれば、明衣のみ空しく留りて、屍骨は無し。是に、使者を |遣して白鳥を追ひ尋めぬ。則ち倭の琴弾原に停れり。仍りて其の処に陵を造る。白鳥、更飛 |びて河内に至りて、旧市邑に留る。亦其の処に陵を作る。故、時人、是の三つの陵を号けて、 |白鳥陵と曰ふ。然して遂に高く翔びて天に上りぬ。徒に衣冠を葬めまつる。因りて功名を |録へむとして、即ち武部を定む。 「日本書紀 巻7 景行天皇 景行54年(124年)」 ※ 日本書紀には明確な年の表記はなく、前後の記述か ら算出すると景行54年になるゆえ、こう記載します。 つまり、武部(建部)という部民を定めることで、息子の功績を後世まで伝えようと考え、実行したということですね。...お話が前後しますが、部民というのは大化の改新以前の、この国の基本的な統治、あるいは支配形式に関連するものです。大和王権に服属している官人や人民のことを部民(べみん)と広く呼び、その部民の傾向によって分類されました。 例えば、技術者集団が支配下に入れば品部に分類され、地方豪族の領土の民は子代や名代となります。また、中央豪族の領土の民は部曲、と。 そんな分類を1つ増やして武部(建部)とし、主に倭建の子孫たちをそう呼んだ、ということのようですが、どうなんでしょうね。 | 健部の郷。郡家の正東一十二里二百廿四歩。先に宇夜の里と号けし所以は、宇夜都弁命、 |其の山の峯に天降り坐しき。即ち彼の神の社、今に至るまで猶此処に坐す。故、宇夜の里と |云ひき。而して後、改めて健部と号けし所以は、纏向の檜代の宮に御宇しめしし天皇、敕り |たまひしく、 |「朕が御子、倭健命の御名を忘れじ」 | とのりたまひて、健部を定め給ふ。爾の時、神門臣古禰を、健部と定め給ふ。即ち健部臣 |等、古より今に至るまで、猶此処に居り。故、健部と云ふ。 「出雲風土記 出雲郡 健部郷」 こちらは出雲風土記ですが、やはりほぼ同じような内容になっています。“纏向の檜代の宮に御宇しめしし天皇”というのは、景行のことですから。 ただ、実際はこの日本書紀にある建部の由来は後付けのものであって、品部が技術者集団であるように、恐らくは軍事的な職にあるものたちを建部、としていたのであろう、と見るのが現代では一般的なようですね。 また、建部大社の由緒書きにある天武4年の遷移は、日本書紀には記載されていないようですし、天平勝宝7年の孝謙天皇の詔も、続日本紀には見当たりませんでした。 孝謙天皇と近江。この組み合わせもまた、色々と考えたくなってしまうものがありますね。そもそも、ここ・近江国に皇宮が置かれたとされたのは、伝承も含めれば歴史上4回。 最初が穴太の高穴穂宮(景行〜仲哀)、続いて大津宮(天智)、さらには紫香楽宮(聖武)、そして最後が保良宮(淳仁)となりますか。 このうち、すでに書いていますが高穴穂宮は、実在したのかまだ明確ではない伝承地ですし、それとほぼ近い状態なのが、保良宮でしょうか。幾つかの礎石は見つかっているようですけれども。 保良宮。ほらのみや、と読みますが天平末期に、孝謙女帝の後を継いだ淳仁天皇が、陪都という形で造営しようとした。あるいは造営した宮だといいます。陪都、すなわち国の首都に準ずる扱いの都、ということですから、なかなかな微妙ですね。 また、その淳仁天皇自身もすぐに廃帝に追いやられてしまい、保良宮もそれと同時に廃都。再び皇位に返り咲いた称徳女帝(孝謙と同一人物)はさっさと平城へ帰ってしまった、という何とも情け容赦ない顛末の舞台となった都でもあります。 地理的には、ここ建部大社より西。瀬田川を渡った先にある石山寺の近くらしきことは知っていましたけれど、もうどうやってもスケジュールに余裕がなくて、今回は訪問見送りとしています。 ですが、この建部大社の由緒書き。景行、天武、孝謙、と少なくとも現在の大津市内に該当する地域で、政治的なあれこれが起こっていた時期に、建部大社自体にもあれこれが起こっているわけで、奇しくも時代が合致しています。それも3回とも、です。 余談になりますが、聖武の紫香楽宮は同じ近江国でも随分と離れた土地でのことですから、この“偶然”にはカウントされないのも納得がゆきます。 ...個人的に偶然は2回まで、と思っています。3回を超えたら、それは偶然ではなく、何らかの意思が働いたことの結果であろう、と考えていますので少なくともわたしは、建部大社の由緒書きそのものは信じてもいいかな、と。 そんな風に思いたいのですが、如何でしょうか。 あれほど立ち込めていた雲はすっかり晴れ、初秋の青い青い空が建部大社の上に広がっていました。観光バスは、さして広くはない境内へ、引きも切らさずやって来ては、また去ってゆきます。 近江国一宮・建部大社。建部という部民が制定された経緯は、よく判りません。恐らくは倭建とはまた別に定められたものなのでしょう。ですが、ここ建部大社がそれでも倭建を祀っているのは事実なわけで、それでいいのでしょう。お社はお社、日本書紀は日本書紀、そしてこの国の古代史は、この国の古代史です。 |
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