「時に、大友皇子と近江の群臣たちは揃って、瀬田の唐橋の西側に陣を張った。とても大きな陣で、陣の後方が見えないほどだった。旗印となる幟は一面を覆いつくし、兵たちが巻き上げる砂埃は、天にも届かんほど。打ち鳴らされる鉦と太鼓も数10里へ響き渡った。弓隊が射る矢は雨のごとく、高市・男依軍に降り注いだ。
 近江方の将軍・智尊は先鋒として防衛戦を展開した。唐橋の途中を杖3本分くらいの幅に切断し、そこへ長い板を渡す作戦で、つまり板を渡ろうとする者がいたら、すぐさまに板を引っ張って、川へと落としてしまおう、と。流石の男依たちも、これでは進むことができず立ち往生するばかり。...が、ここに大分君稚臣という勇者がいた。
 大分君稚臣は持っていた矛を捨て、鎧を重ね着して一気に長板を走り渡った。近江方が板を引き寄せるために結びつけた綱を断ち切り、射られながらも敵陣へ突入。...これには近江軍も大混乱となり、離脱・逃亡者が続出した。将軍・智尊は逃げ出す者を次々と斬ったが、それでも逃亡者は後を絶たず。結局、その智尊も橋のほとりで斬られた。
 大友と左右の大臣たちは、それでも何とか逃れて敗走した。男依たちは粟津岡のもと(瀬田川を渡った先の大津市膳所界隈)に、軍を集結させた」

 できるだけ原文を損なわないように現代語訳してみたつもりですが...。これが壬申の乱の最終決戦、そのあらましです。

|是の日に、羽田公矢国・出雲臣貊、合ひて共に三尾城を攻めて降しつ。壬子に、男依等、近江
|将犬養連五十君及び谷直塩手を粟津市に斬る。
                   「日本書紀 巻28 天武天皇上 即位前記(672年)7月」


 この同じ日に、琵琶湖北岸から大きく迂回して来た羽田公矢国・出雲臣率いる、大海人軍が三尾城を落とします。さて、この三尾城。場所は現在、未詳とされていますが、恐らくは高島市安曇川三尾里付近ではないか、とされています。
 安曇川三尾里。ここは先に訪ねている比良の大わだのやや北。現在の路線で言うならば近江舞子駅より2つ北にある安曇川駅の周辺、ということですね。

 ...もう、大津京はすぐそこ、です。もはや完全なる包囲網で、北と南から挟み撃ちにあってしまった大津宮、そして大友皇子、です。
 粟津岡で軍勢を集結させ、翌23日にはさらに大津へと向かう男依たち。残り少ない近江の将軍たちも、これに斬られてゆきます。

|是に、大友皇子、走げて入らむ所無し。乃ち還りて山前に隠れて、自ら縊れぬ。時に左右大
|臣及び群臣、皆散け亡せぬ。唯し物部連麻呂、且一、二舍人従へり。
                   「日本書紀 巻28 天武天皇即位前記(672年)7月」


 「もうもはや、どこへも逃げることは叶わない」
 そう判断したのでしょう。大友が自害します。彼の最期の地となったのが山前。これが現在、弘文天皇長等山前陵のある地か、あるいは京都の大山崎などか、と色々な説があるようですが、いずにせよまだまだ若く、才気ある皇子が1人、歴史の濁流に呑まれてゆきました。
 茶臼山公園には殉死した者たちの塚が複数ある、とのことでしたが日本書紀が記している限りでは、最期まで大友と共にあったのは物部連麻呂と舎人が1人、2人のみだった、と。

 ここに新都・大津が陥落しました。天智が抱いた大きな理想と、それを補佐した鎌足の思いと、額田が春と秋の素晴らしさを謡い、大友たちが詩作に励んだ近江国大津宮。
 その跡地が現在、どうなっているかはすでに書きました。またこれ以降、この大津という地に都が置かれたことは、21世紀の現代までなかったことを、わたしたちは知っています。この国に潰えた夢が数多あったことも、ただわたしたちは知っているだけです。

 

 ゆめな見そゆめな見そねと思ふなへに
 いめをし見るは
 空蝉のひとなるゆゑか
 ひとなれど
 ひとなるゆゑに
 息の緒にきはみはありぬ
 きはみにて離るゝものゝ
 おほきとも
 またもちさきも等しくは
 なに祈ひ祷まむ
 とこしへや
 なにを欲りさむ
 とことはか
 きはみのあれば
 幸くありて
 真幸くあると知らゆるを
 みなひと知らに
 弥日異に暮るゝかぎりと
 のちに思ふ
 あなあはれなるみなひとや
 なほしかなしやもろひとの
 なりていめをし見むを欲り
 なればし見まくほしきいめ
 いめゆ離れて
 いめ離り
 いゆに寄りては
 いめの寄る
 うつそみなれば
 間なく生れ
 間なく絶えゐる息の緒を
 むだきむだかむ
 宣な宣なや

 生るとふはたれも選らえず 選らずしてたれも賜はる違ふことなく  遼川るか
 (於:瀬田の唐橋)

 
 さて、大津が落ちた以上、残る戦地は旧都・大和のみとなります。

| 初め将軍吹負、乃楽に向ひて稗田に至りし日に、人有りて曰はく、
|「河内より軍多に至る」
| といふ。則ち阪本臣財・長尾直真墨・倉墻直麻呂・民直小鮪・谷直根麻呂を遣して、三百の
|軍士を率て、竜田に距かしむ。復佐味君少麻呂を遣して、数百人を率て、大阪に屯ましむ。
|鴨君蝦夷を遣して、数百人を率て、石手道を守らしむ。是の日に、阪本臣財等、平石野に次
|れり。時に、近江の軍高安城に在りと聞きて登つ。乃ち近江の軍、財等が来るを知りて、悉
|に税倉を焚きて、皆散け亡せぬ。仍りて城の中に宿りぬ。会明に、西の方を臨み見れば、大
|津・丹比、両の道より、軍の衆多に至る。顕に旗見ゆ。人有りて曰く
|「近江の将壱伎史韓国が師なり」
| といふ。財等、高安城より降りて、衛我河を渡りて、韓国と河の西に戦ふ。財等、衆少くし
|て距くこと能はず。是より先に、紀臣大音を遣して懼阪道を守らしむ。是に、財等、懼阪に
|退きて、大音が営に居り。是の時に、河内国司守来目臣塩籠、不破宮に帰る情有りて、軍衆
|を集ふ。爰に韓国到りて、密に其の謀を聞きて、将に塩籠を殺さむとす。塩籠、事の漏れし
|ことを知りて、乃ち自ら死す。
                  「日本書紀 巻28 天武天皇上 即位前記(672年)7月」


 奈良山で敗走する前々日(7月1日)、奈良山へと向かうために稗田(現在の奈良県郡山市)に差し掛かった時、吹負は
「河内から軍勢がたくさん迫ってくる」
 ということを聞きます。そこで坂本臣財たちに300の兵で竜田を守らせ、佐味君少麻呂にも数100の兵で恐らくは竹内街道か穴虫峠ではないか、と愚考しますが、ともあれそちらを守らせます。さらには、鴨君蝦夷も数100の兵で同じく、竹内か穴虫かのいずれの峠へ派遣。

 「あきづしまやまとゆ・弐」でも書きましたがこの当時、奈良と河内、すなわち現在の大阪南部を結んでいたのは幾つかの峠道のみ。竜田、竹内、そして穴虫などなどでしょう。...どうやら近江側も、旧都・大和の奪回を図っていたということのようですね。

 このうち、坂本臣財たちの部隊は、最初こそ盆地内の平野部に布陣しましたが、高安(現在の大阪府八尾市)に近江軍が陣を張っていると聞き、地理的には二上山辺りではないか、と推測できる山に登ります。
 すると高安にいた近江軍が逃げ出したので、そのままそこへ駐屯。...が、1夜明けると辺りの景色が一変していました。


 河内と大和と繋ぐ複数の峠より、近江軍が大挙として押し寄せていたのです。近江軍の将軍は壱伎史韓国。そして、坂本臣財たちと壱伎史韓国の軍勢が衝突。ですが、軍勢の少ない坂本臣財たちは防衛線を維持することが出来ずに後退し、他の部隊と合流します。
 一方、近江軍が大和へと進軍する足がかりとなっている河内国。こちらの国司守・来目臣塩籠が大海人側へ帰順しようとしていたことを韓国に知られ、自害します。

|一日を経て、近江の軍、諸の道に当りて多く至る。即ち並に相戦ふこと能はずして、解き退
|く。
| 是の日に、将軍吹負、近江の為に破られて、特一、二の騎を率て走ぐ。墨阪に逮りて、遇菟
|が軍の至るに逢ひぬ。更に還りて金綱井に屯みて、散れる卒を招き聚む。是に、近江の軍、
|大阪道より至ると聞きて、将軍軍を引きて西に如く。当麻の衢に到りて、壱伎史韓国が軍
|と葦池の側に戦ふ。時に勇士来目といふ者有りて、刀を抜きて急に馳せて、直に軍の中に
|入る。騎士継踵りて進む。近江の軍悉に走ぐ。追ひて斬ること甚多なり。爰に将軍、軍中に
|令して曰はく、
|「其れ兵を発す元の意は、百姓を殺さむには非ず。是元凶の為なり。故、妄に殺すこと莫れ」
| といふ。是に、韓国、軍を離れて独り逃ぐ。将軍遥に見て、来目をして射しむ。然れども中
|らずして、遂に走りて免るること得たり。将軍、更本営に還る。
                  「日本書紀 巻28 天武天皇上 即位前記(672年)7月」


 財たちの敗走の翌日、近江軍はさらに増えて河内・大和間の複数の道から集まってきました。吹負たちは当然、防ぐことなどできずに後退。これが前述している7月4日の奈良山での敗走なのですが、もはや従者は1人が2人しかいない、という状態で敗走しているその途中、大和へ急行していた置始連菟の軍と偶然にも遭遇し、そして合流します。
 そのままさらに後退して、現在の橿原市界隈と目される金綱井に駐屯。散り散りに逃げていた兵たちも再結集し、体制を立て直します。

 そこへ韓国の軍が襲来する、という報です。吹負たちは現在の当麻界隈に布陣し、これを迎え撃ちました。
 この時、吹負ちの軍には来目という勇者がいて、切り込み隊長の役を担います。そして吹負たちの兵は来目に続けとばかりに韓国たちの陣内に突入。

 堪らずに混乱したのは韓国率いる近江軍です。瀬田の唐橋同様、軍を離脱・逃亡する者が相次ぎ、けれども吹負は
「戦いの本意は人民を斬ることではない。元凶を断て」
 と号令して勇者・来目に逃走する将軍・韓国を狙わせます。...ですが、矢は韓国に当たることはありませんでした。

|時に東の師、頻に多に臻る。則ち軍を分りて、各上中下の道に当てて屯む。唯し将軍吹負の
|み、親ら中道に当れり。是に、近江の将犬養連五十君、中道より至りて、村屋に留りて、別将
|廬井造鯨を遣して、二百の精兵を率て、将軍の営を衝く。当時に麾下の軍少くして、距くこ
|と能はず。爰に大井寺の奴、名はコ麻呂等五人有りて、軍に従ふ。即ちコ麻呂等、先鋒とし
|て、進みて射る。鯨の軍進むこと能はず。是の日に、三輪君高市麻呂・置始連菟、上道に当た
|りて、箸陵のもとに戦ふ。大きに近江の軍を破りて、勝に乗りて、兼て鯨が軍の後を断つ。
|鯨が軍悉に解け走げて、多に士卒を殺す。鯨、白馬に乗りて逃ぐ。馬泥田に墮ち、進み行く
|こと能はず。則ち将軍吹負、甲斐の勇者に謂りて曰はく、
|「其の白馬に乗れる者は、廬井鯨なり。急に追ひて射よ」
| といふ。是に、甲斐の勇者、馳せて追ふ。鯨に及ぶ比に、鯨急に馬に鞭うつ。馬能く拔けて
|泥を出づ。即ち馳せて脱るることを得たり。将軍、亦更に本処に還りて軍す。此より後、近江
|の軍遂に至らず。
                   「日本書紀 巻28 天武天皇上 即位前記(672年)7月」


 吹負たちが本陣の飛鳥へ戻る頃には、東国からの援軍が次々に到来します。そこで、全軍を3部隊に分けて大和盆地を横断する大動脈・上つ道、中つ道、下つ道のそれぞれに配置。吹負本人は中つ道にて陣を張りました。...河内側からの軍勢は退けたものの、奈良山での敗走によって近江軍の大和盆地内侵入を許してしまっていますからね。当然、その近江軍が移動する際に通るであろう街道を塞いだのでしょう。

 そして、そんな吹負が指揮を執る中つ道に、近江方の将軍・犬養連五十君の率いる軍勢が攻撃の焦点を据えます。廬井造鯨という別の将軍に精兵200をつけて、一気に吹負を叩いたんですね。
 吹負側はやはり兵が少なく、これを防ぐことができません。ですが、今回はただ敗走したのではありませんでした。恐らくは本当に一般の存在だったと思われる大井寺の奴・徳麻呂他5人ほどの弓兵が、矢を射ることで、鯨の軍を前進させずに足止めまではできていまして。
 ...余談になりますが、この大井寺奴の徳麻呂。姓がないことから、まさしく農民と言いますか、凡そ政治には無関係の存在であることが判ります。それだけ、この壬申の乱には近隣住民たちまでが動員させられていた、という明確な証となっています。

 

 そして上つ道に陣を張っていた三輪君高市麻呂・置始連菟の軍勢と鯨の軍勢が激突しました。場所は三輪山の麓、箸墓のごく近く。こちらの上つ道勢は近江軍に大勝、さらに後続の軍勢も断つことに成功します。
 これによって鯨の軍は散り散りとなって逃亡。鯨自身も逃げようとしたところ、乗っていた白馬が泥田に嵌ってしまうんですね。

 時に東国から徴発されていた甲斐の国の勇者に、吹負は
「あの白馬に乗っているのは敵将・廬井造鯨だ。急いで追いかけて射れ」
 と命じます。ところが甲斐の勇者が鯨に追いつく寸前で、白馬は泥田を抜け出し鯨も慌てて脱出。捕らえることは叶いませんでした。...ですが、これが大和国内での最後の戦いとなり以降、近江軍がやってくることはなかったのだ、といいます。

 日本書紀には明確な日付が記しされていません。ですが、恐らくは7月6日と計算できるこの日。ついに大海人軍が旧都・大和の奪回を成し遂げたということになります。そう、当時の人々の心の故郷・大和を、です。
 東国への逃亡を始めたのが6月の22日でしたから期間にして約2週間。古代史に於ける天下分け目の戦いはここに大勢が決し、以後は細々とした戦後処理へと移行します。

| 是より先に、金綱井に軍せし時に、高市郡大領高市縣主許梅、忽に口閉びて、言ふこと
|能はず。三日の後に、方に神に着りて言はく、
|「吾は、高市社に居る、名は事代主神なり。又、身狹社に居る、名は生霊神なり」
| といふ。乃ち顕して曰はく、
|「神日本磐余彦天皇の陵に、馬及び兵器を奉れ」
| といふ。便ち亦言はく
|「吾は皇御孫の前後に立ちて、不破に送り奉りて還る。今も且官軍の中に立ちて守護りま
|つる」
| といふ。且言はく
|「西道より軍衆至らむとす。慎むべし」
| といふ。言ひ訖りて醒めぬ。故是を以て、便に許梅を遣して、御陵を祭り拝ましめて、因
|りて馬及び兵器を奉る。又幣を捧げて高市・身狹、二社の神を礼祭る。然して後に壱伎史韓
|国、大阪より来る。故、時の人の曰はく
|「二社の神教へたまへる辞、適に是なり」
| といふ。又村屋神、祝に着りて曰はく、
|「今吾が社の中道より、軍衆至らむ。故、社の中道を塞ふべし」
| といふ。故、未だ幾日を経ずして、廬井造鯨が軍、中道より至る。時の人の曰はく
|「即ち神教へたまへる辞、是なり」
| といふ。軍の政既に訖りて、将軍等、是の三神の教へたまふ言を挙げて奏す。即ち勅して
|三神の品を登げ進めて祠りたまふ。
              「日本書紀 巻28 天武天皇上 即位前記(672年)7月」一部再引用


 お話は前後しますが、吹負の軍が金綱井に駐屯している頃、すでに高市黒人に関連してご紹介している、高市許梅の神懸りが起きています。曰く、金綱井の地で軍勢の立て直しを図っていた吹負たちの中、高市許梅が突然、口を噤んでものを言うことができなくなってしまいます。
 そしてその3日後、神懸りのようになって言うのに
「わたしは高市の社にいる事代主神である、同時に身狹社にいる生霊神である。神武天皇の御陵に馬や武器を奉りなさい」
 と。さらには大海人があの少ない人数で不破まで逃れられたのは、自身が前後にたって守ったからこそで、現在も大海人を陣中で守っている、と神託は続いたのだといいます。


 「西の道から敵が来る。気をつけろ」
 そう言い残すと許梅が醒めたので、人々は高市と身狹の両社と神武天皇陵を急ぎ祀りました。神武天皇陵も、2つのお社も、現在の橿原市に位置しますから、同じ橿原市内だと思われる金綱井とはそう離れていなかったのでしょう。
 そうこうしているうちに襲来したのが、河内からの韓国の軍勢です。人々はみな、これこそが2社の神が教えてくれたことだったのだろう、と。

 また、今度は守屋神社(現在の田原本町)の神主が神懸かりとなります。曰く
「我が社のある中つ道から敵が来る。この道を塞げ」
 と。こちらもやはり廬井造鯨の襲来という形で的中したので、大和で戦った将軍たちは、後に大海人にこのことを奏上。もちろん、大海人本人も喜んで天武として即位してからこれに3社の位階を高くしました。

| 辛亥に、将軍吹負、既に倭の地を定めつ。便ち大阪を越えて、難波に往る。以余の別将等、
|各三つの道より進みて、山前に至りて、河の南に屯む。即ち将軍吹負、難波の小郡に留りて、
|以西の諸の国司等に仰せて、官鑰・駅鈴・伝印を進らしむ。癸丑に、諸の将軍等、悉に筱浪に
|会ひて、左右大臣、及び諸の罪人等を探り捕る。乙卯に、将軍等、不破宮に向づ。因りて大友
|皇子の頭を捧げて、営の前に献りぬ。
                「日本書紀 巻28 天武天皇上 即位前記(672年)7月〜12月」


 7月22日。将軍・吹負は大和国を完全に平定します。そのまま穴虫峠を越えて難波と至り、他の大和で戦った将軍たちはそれぞれ上つ道、中つ道、下つ道を通りながら山城国の山前(現在の大山崎町)に集結します。
 吹負はここより西側の各国司たちから税として集められた物を納めている倉や、武器庫の鍵、駅鈴、また駅馬や伝馬を使う時に必要となる伝印を、大海人へ献上あるいは提出させました。

 そして、壬申の乱を大海人軍として戦った全ての将軍が、大津宮の地で一堂に会します。逃亡している左右の大臣を始めとする戦犯たちの捕縛や捜索が始まり、26日には全将軍と大友の首が、大海人のいる不破へと到着。

| 八月の庚申の朔甲申に、高市皇子に命して、近江の群臣の犯つ状を宣らしめたまふ。則
|ち重罪八人を極刑に坐く。仍、右大臣中臣連金を浅井の田根に斬る。是の日に、左大臣蘇我
|赤兄・大納言巨勢臣比等、及び子孫、并せて中臣連金が子、蘇我臣果安が子、悉に配流す。以
|余は悉に赦す。是より先に、尾張国司守少子部連鉤、山に匿れて自ら死せぬ。天皇の曰は
|く
|「鉤は有功しき者なり。罪無くして何ぞ自ら死なむ。其れ隠謀有りか」
| とのたまふ。丙戌、諸の有功勲しき者に恩勅して顕に寵み賞す。
| 九月、己丑の朔丙申、車駕還りて伊勢の桑名に宿りたまふ。丁酉に、鈴鹿に宿りたまふ。
|戊戌に、阿閉に宿りたまふ。己亥に、名張に宿りたまふ。庚子に、倭京に詣りて、嶋宮に御す。
|癸卯に、嶋宮より岡本宮に移りたまふ。是歳、宮室を岡本宮の南に営る。即冬に、遷りて居
|します。是を飛鳥淨御原宮と謂ふ。
                「日本書紀 巻28 天武天皇上 即位前記(672年)7月〜12月」


 8月25日、戦犯たちの罰が定まり、27日には逆に武勲を立てた者たちへの恩賞が定まりました。...申し訳ありませんが、このあたりの詳細は引用文から汲み取って戴けたら、と思います。正直、書いたところで虚し過ぎますから。
 9月、大海人は大和への帰路につきます。8日には桑名、9日に鈴鹿、10日に阿閉(現・三重県上野市)、11日は名張、そして12日には大和に入って飛鳥到着。かつては蘇我馬子が暮らしていた、あの嶋宮へと一旦入り、すぐにかつての皇宮であった岡本宮へ。
 ですがこの年の内に、岡本宮の南側に新たな宮を造営して、冬には移り住みます。これが後に言う飛鳥淨御原宮のことで、大海人は自身の崩御まで、この宮にて政を行いました。

 ...これが壬申の乱の詳細です。わたし自身、この日本書紀の巻28はなかなか読み解けなくて、何度も何度も、繰り返し読み続けることで、ようやくこの程度までは読み解けた、というのが情けない実情です。そして、少しずつ読み解いてゆくほどに覚えたのは、虚しさ。これに尽きます。
 正直、もうこの内戦がクーデターだったのだろうが、正当防衛だったのだろうが、どっちでも同じだ、と言いますか、いずにしてもこの人の世にそうまでして継ぐべきものが本当にあるのだろうか、と。...それこそ感情論に流されている夢のような発想ですが、そう思ってやみません。







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