...どうしたんでしょうね。何故、こんなにも境界というものを、ここに来て感じてしまっているのでしょうか。 この逢坂の後に訪ねる予定の地は瀬田の唐橋です。そしてその瀬田の唐橋は武内宿禰軍に追われた忍熊王の終焉の地となったことを、わたしは知っています。さらには同じく、その瀬田の唐崎は壬申の乱に於ける近江国内最後の決戦の地であったことも、です。 橋も境界です。唐崎のような港も然り。関もまた然り。本当に人の世には一体どれだけの境界が張り巡らされ、敷き詰められているのか、と。そんなことをぼんやり考えていました。そして、気づくと泣いていました。 「これこそが東国へと旅立つ人も、それを見送っては引き返す人も、ここで別れを繰り返す。けれども、そうかといえば知っている者同士も、知らない者同士も、ここで出逢いを繰り返す、という逢坂の関なのだなあ」 出逢いと別れと、時には衝突と。境界があるから流れた血も涙もあります。境界に阻まれて排斥された者も数え切れないほどいます。にも関わらず人は境界を作り続けます。 何故なのか。その答えの1つが、蝉丸の詠み上げた逢う、ということなのでしょうね。逢わなければ別れも、衝突も、排斥も成り立ちはしないのですから。 過去に何度か、訪問地での即詠ができなかったことがあります。でも、その理由の多くは予定外の訪問地へ立ち寄ったため、気持ちがまだ熟れずにいたからでした。 ですが、この逢坂は違います。...万葉歌ではないです。上代歌謡でもないのです。けれども、それでも今のわたしには蝉丸の歌を前に、詠める歌など何もありません。 来て見なければ判らないことは、数え切れないほどあります。わたしが訪ねているのは蝉丸が見ていた逢坂の関でもないですし第一、すでに関は存在していません。来た理由も蝉丸よりは、神功皇后でした。 それなのに、わたしはわたしとして今、この21世紀の逢坂で蝉丸を感じています。彼の感じた境界を、感じたいと心から思っています。そういう意味では、わたしもまた逢えたのかも知れません。関という境界に、です。そして、何よりも誰よりも蝉丸に、です。 逢うてのちの道あまたなり初嵐 遼川るか (於:逢坂の関跡) 引用中に地文と一緒に登場している記紀歌謡を再引用しておきます。 |彼方の あらら松原 |松原に 渡り行きて |槻弓に まり矢を副へ |貴人は 貴人どちや |親友はも 親友どち |いざ闘はな 我は |たまきはる 内の朝臣が |腹内は 小石あれや |いざ闘はな 我は 熊之凝「日本書紀 巻9 神功皇后 神功摂政元年(201年)3月5日」再引用 −・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・− 逢坂までは国道161号で来ましたが、ここからは東海道、つまり国道1号を走って瀬田の唐橋へ急ぎます。ちょうど併走するようにJRの東海道線も走っていて、まさしくこの道は京都の三条大橋へと続いているのでしょう。ですが、わたしは京都とは逆側に向かって進みます。 すると、右手に古墳のような繁みが現れました。...どうやらこれが茶臼山古墳なのでしょう。 茶臼山古墳。現在は茶臼山公園の一画となっている古墳ですが、かつて大友の御陵候補だったと聞いています。もっとも茶臼山に限らず、他にもあったようですけれどもね、大友の御陵候補地は。ですが最終的には、弘文天皇長等山前陵を宮内庁がそれと認定。明治10年のことだったそうです。 大友については、壬申の乱で敵対した大海人皇子サイドの本陣となっていた不破(現在の関が原近く)界隈にも、関連する史跡が複数あるようですし、果ては遠く千葉県の君津市界隈にも、色々あるのは聞いています。...壬申の乱で他界したはずの大友は、実は生きていて海上から上総へ逃げた、という説による史跡なのでしょう。関が原界隈のものも、君津界隈のものも、まだ訪ねたことがないので、今は何も言えませんが、それでもそう遠くないうちに必ず訪ねたい、と思っていますが。 恐らく、今回の近江国の旅では今日が1番総移動距離が長くなると思います。しかも昨日の予定がこなし切れなかったのですからとにかく急ぎ足であちこちを周ってきています。なので、寄り道をする余裕は殆どないのです。なのに、何となく茶臼山古墳には少しだけ寄ってみたくなりました。 ...いや、正直なところ大友の御陵が、壬申の乱が、という側面からの興味ではなくて純粋に高台から琵琶湖と瀬田川を眺めたかった、と言いますか。瀬田界隈を周り終えれば、もう湖南地方には戻る予定がないんですね。それで、何となく。 国道1号を逸れて茶臼山公園に入る頃には、薄日が差しはじめていました。これなら眺めもそこそこが期待できそうです。 公園内を蛇行しながら登ってゆくと古墳の傍に駐車場があります。どうやら前方後円墳らしき古墳はなるほど。大友の御陵と目されていた時期があったことも頷ける大きさです。雨上がりの軽くぬかる道を登った先には鳥居が1つ。その先にお社もあります。 予定外の訪問なので、予習もほぼ皆無でしたし、お社自体が何を祀っているのかという説明書きもないことから、よくは判りません。ですが、確か茶臼山には壬申の乱に於ける近江軍(大友側)の臣下たちの塚がある、というようなことは記憶にありますから、恐らくはその関連か、と。...殉死した重臣たちだったと聞いていますけれど、どうでしょうか。 木々の枝の隙間からは、琵琶湖が見えます。そしてその琵琶湖には近江大橋が架り、小指の先より小さな車たちが次々と走り去ってゆきます。 ご存知の通り、琵琶湖は湖北方面では湖の幅も広く、まさしくこの国最大の湖としての威容を湛えています。けれども、比良界隈から南部は湖の幅が狭くなって、湖東と湖西を結ぶ琵琶湖大橋や近江大橋も架かるほどになります。 そして、そのまま湖の南の果てへゆくと、そこから瀬田川が流れ出して。国道1号も瀬田川を渡りますし、これから向かう瀬田の唐橋はその国道1号よりもさらに南側、と。 海があるからゆけない国があります。でも、その海があるからこそ、海を渡ってゆける国があるとも言えます。...かつて、こんなことをずっと考えていました。関所という境界も、川や港といった水の境界も、すべて同じことなのでしょうね。 琵琶湖から溢れ出す瀬田川の流れと、その両岸を結ぶ橋を巡って古代、大きな戦いが2つあったのでしょう。武内宿禰軍と忍熊王軍の戦い。それから壬申の乱の大友軍と大海人軍の戦いです。 茶臼山全体を探せば、大友について殉死したとされている大津宮の重臣たちに因んだ、碑なり仏塔なりがあるだろう、と思います。ですが、わたしは今回、それを探そうとは思いませんでした。 理由なんてないです。ただ、純粋にそうしたかったし、探す必要もない、と思えてしまっていましたから。...ただ、古代史でも何でもいいのですが、何を追い求め続けるということは、痛みを伴うものだ、ということをだけを、改めて。 うつそみは春のこほりのごとくしてあれとるなへにたなうらに消ゆ 遼川るか (於:茶臼山古墳) それでは、その痛みと向き合うために、瀬田の唐橋を渡ろうと思います。 −・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・− 日本書紀はこう記しています。 |軍衆走ぐ。狹狹浪の栗林に及きて多に斬りつ。是に、血流れて栗林に溢く。故、是の事を悪 |みて、今に至るまでに、其の栗林の菓を御所に進らず。忍熊王、逃げて入るる所無し。則ち |五十狹茅宿禰を喚びて、歌して曰はく、 | | いざ吾君 五十狹茅宿禰 | たまきはる 内の朝臣が | 頭槌の 痛手負はずは | 鳰鳥の 潜せな | |則ち共に瀬田の済むに沈りて死りぬ。時に、武内宿禰、歌して曰はく、 | | 淡海の海 瀬田の済に 潜く鳥 目にし見えねば 憤しも | |是に、其の屍を探けども得ず。然して後に、日数て菟道河に出づ。武内宿禰、亦歌して曰はく | | 淡海の海 瀬田の済に 潜く鳥 田上過ぎて 菟道に捕へつ 「日本書紀 巻9 神功皇后 神功摂政元年(201年)3月5日」 これが、忍熊王の最期です。逢坂から敗走する忍熊軍を武内宿禰軍が追走して栗林(くりす、との訓読)、現在の大津氏膳所界隈で再び衝突。...いや、恐らくは衝突という風情ではなくて、ほぼ一方的なものだったのでしょう。 日本書紀曰く、とにかく夥しいほどの血が流れて、今(日本書紀編纂当時の8世紀前半)に至るまで、その界隈で収穫した果物を宮へ献上していない、というほどですから。因みに栗林は、その名の通り栗がたくさん採れる場所だったようです。 さてそして、もはや逃げられる場所などない、と悟った忍熊王は瀬田川に身を投げます。一方、追いかけていた武内宿禰が忍熊王の遺体を捜せど、なかなか川から上がって来ません。結局、瀬田川よりも下流の宇治川で、ようやく遺体を発見・回収した、とのことです。 後日談となりますが、数ヵ月後の10月。神功は皇太后となり、摂政である彼女のもとで政治が行われ始めます。その翌々年には誉田別皇子(のちの応神天皇)が立太子。そして大和国磐余の地に宮を遷します。...稚桜宮です。 余談になりますが、この大和は磐余稚桜宮の跡とされる、磐余稚桜神社というお社を訪ねたことがあります。2003年のちょうど今頃の季節だったのですが、確か直前の台風で、近隣の樹木が倒れたり、とちょっと殺伐とした光景だったことと、それにも関わらず明日香にほど近い磐余の地の古社は、凛然としていたことを覚えています。 国道1号から逸れて辿り着いた瀬田の唐橋。流石は琵琶湖8景にも選ばれている、観光名所だけあってか、ツアー客らしき集団と、近くの学校へと通う中学生たちでごったがえしていました。...そろそろ登校時刻になろうとしていますから。 どうなんでしょうね。薄日が射しているとは言え、まだまだ曇った空とのもとに横たわる唐橋。ここが最も美しく映ると謂われている夕刻に来れば、別の感慨も、そして感激もあったのかも知れません。ですがこの天気と、この時刻では名所という印象よりも、とても雑然とした生活の中の橋としてしか、わたしの目には映らなくて。 それが却って有難かったのは、本音のお話。 ひと会ひてひとの違ふをひと知らに ひとの増さるも増らずも あに違へやも 違はずにあるは世に吹く風ならむ あるは世をゆくみづならむ 世に多なるはひとなりて みなひと違ひゐればこそ 会ふも会はぬも つねならめ ときじきものと 玉の緒はとこしなへなるものならず あしたにいめの覚むるごと ゆふ山の際にかへりゆく鳥のゐるごと ひとあれば ひとゝ違ひて きはみとふものゝなりゆく みなひとのいたくな思ひそ 違ひゐることあしものと いたくな思ひそ もろひとの真幸くあるがいめなれどいめなれどなほ見ほるいめあり 遼川るか (於:瀬田の唐橋) 瀬田川はのどかに、悠然と流れてゆきます。川風がとても涼やかで、思わず橋の欄干から伸ばした両腕の肌感覚がとても敏感に反応しているのを感じていました。 武内宿禰と忍熊王の戦い。日本書紀の記述をそのまま西暦に直せば、201年のこととなります。もちろん、考古学的には先ず成立しない記述なのですが、ともあれその470年後。この地は再び戦火に見舞われました。...そう壬申の乱です。 日本書紀の巻28。これは丸々1巻を通して壬申の乱の過程を綴っています。それもその筈でしょう。この古代史最大の戦乱の前と後では、もう歴史が。そして当時の人々にとっては世界そのものが。 ...全くの別物に変わってしまった、としても過言ではないほどの大事件だったのですから。かなりヘビィになることを承知で、巻28を丸ごと追いかけてみましょう。 | 天渟中原瀛真人天皇は、天命開別天皇の同母弟なり。幼くましまししときには大海人皇 |子と曰す。生れまししより岐嶷なる姿有り。壯に及りて雄拔しく神武し。天文・遁甲に能し。 |天命開別天皇の女菟野皇女を納れて、正妃としたまふ。天命開別天皇の元年に、立ちて東 |宮と為りたまふ。 | 四年冬十月の庚辰に、天皇、臥病したまひて、痛みたまふこと甚し。是に、蘇賀臣安麻侶 |を遣して、東宮を召して、大殿に引き入る。時に安摩侶は、素より東宮の好したまふ所なり。 |密に東宮を顧みたてまつりて曰く |「有意ひて言へ」 | とまうす。東宮、茲に、隠せる謀有らむを疑ひて慎みたまふ。天皇、東宮に勅して鴻業を |授く。乃ち辞議びて曰はく、 |「臣が不幸き、元より多の病有り。何ぞ能く社稷を保たむ。願はくは、陛下、天下を挙げて皇 |后に附せたまへ。仍、大友皇子を立てて、儲君としたまへ。臣は、今日出家して陛下の為に、 |功コを修はむ」 | とまうしたまふ。天皇、聴したまふ。即日に、出家して法服をきたまふ。因りて以て、私の |兵器を収りて、悉司に納めたまふ。壬武に、吉野宮に入りたまふ。時に左大臣蘇賀赤兄臣・右 |大臣中臣金連、及び大納言蘇賀果安臣等送りたてまつる。菟道より返る。或の曰く |「虎に翼を着けて放てり」 | といふ。是の夕に、島宮に御します。癸未に、吉野に至りて居します。是の時に、諸の舍人 |を聚へて、謂りて曰はく |「我今入道修行せむとす。故、隨ひて修道せむと欲ふ者は留れ。若し仕へて名を成さむと欲 |ふ者は、還りて司に仕えよ」 | とのたまふ。然るに退く者无し。更に舎人を聚へて、詔すること前の如し。是を以て、舎 |人等、半は留り半は退りぬ。 | 十二月に、天命開別天皇崩りましぬ。 「日本書紀 巻28 天武天皇上 即位前記 天智10年(671年)10月〜12月」 大津宮に因んで引用させて戴いたのは、天智側から記述した、天智10年〜12月。そして、ここで引用させて戴いたのが、天武側から記述している天智10年の10月〜12月です。曰く、病に倒れた天智が弟の大海人皇子を近くへ呼び寄せます。そして 「自分はもう長くないから、お前に皇位を譲りたい」 と言うんですね。けれども、大海人は事前に親しい蘇我安麻呂から 「心してください」 と忠告をされていたので、何らかの謀があるかもしれない、という覚悟をすでに持っていました。そして、答えます。 「自分は、病気がちでとてもじゃないですが、そんな大役は務められません。どうか皇后(倭姫王)に皇位を譲られて、大友皇子を皇太子になさってください。自分は、今日より出家して、陛下の為に修行に励みます」 と。...天智はそれを許しました。 ここからが大海人皇子の受難、あるいは絶好の好機となったのでしょう。早速、彼は吉野を目指して大津宮を出たのですが、それを知った世間の人々はこう囁いたのだ、といいます。 「虎に翼をつけて放つようなものだ」 と。そして波乱の幕開けとなる天智崩御、です。 | 元年の春三月の壬辰の朔己酉に、内小七位阿曇連稲敷を筑紫に遣はして、天皇の喪を郭 |務等に告げしむ。是に郭務等、咸く喪服を著て、三遍挙哀る。東に向ひて稽首む。壬子 |に、郭務等、再拝みて、書函と信物とを進る。 | 夏五月の辛卯の朔壬寅、甲冑弓矢を以て、郭務等に賜ふ。是の日に、郭務等に賜ふ物 |は、総合て千六百七十三匹、布二千八百五十二端、綿六百六十六斤。戊午に、高麗、前部富 |加抃等を遣して調進る。庚申に、郭務等罷り帰りぬ。 | 是の月に、朴井連雄君、天皇に奏して曰さく |「臣、私の事有るを以て、独り美濃に至る。時に朝庭、美濃・尾張、両国司に宣して曰はく |『山陵造らむが為に、予め人夫を差し定めよ』とのたまふ。則ち人別に兵を執らしむ。臣 |以為はく、山陵を為には非じ、必ず事有らむと。若し早に避りたまはずは、当に危ふきこと |有らむか」 | とまうす。或いは人有りて奏して曰さく |「近江京より、倭京に至るまでに、処処に侯を置けり。亦菟道の守橋者に命せて、皇大弟の |宮の舍人の、私糧運ぶ事を遮へしむ」 | とまうす。天皇、悪りて、因りて問ひ察めしめて、事の已に実なるを知りたのひぬ。是に |詔して曰はく |「朕、位を譲り世を遁るる所以は、独り病を治め身を全くして、永に百年を終へむとなり。 |然るに今、已むことを獲ずして、禍を承けむ。何ぞ默して身を亡さむや」 | とのたまふ。 「日本書紀 巻28 天武天皇上 即位前記(672年)3月〜5月」 ここに登場する郭務とは、大国・唐から派遣されていた駐日大使みたいな存在、と言うのが適当でしょうか。...あるいは、マッカーサーのような進駐軍の司令官、とするべきなのかも知れません。白村江の戦いの後から、九州に滞在していたのですが、これもあってか俗説では、天智崩御は大国・唐による暗殺で、一方の大海人の吉野下京もまた、唐によるシナリオだった、と。そして大友を担いで完全なる傀儡政権樹立を目指していた、...と.語られることも多くなっているようですが。 ただ、ここで注目したいのは、理由は何であれその郭務がこの時期に帰国しているということでしょう。 一方、大津を離れた大海人一行に、こんな話が持ち込まれます。曰く 「用事があって独り、美濃へ行っていたのですが美濃、尾張などでは天智天皇の山陵を造る為に、人夫を集めるべく指令が下りているようです。それなのに何故か、人夫たちは兵器を手にしているらしく、とてもじゃないですが、御陵の造営とは思えません」 と。また別の者からも 「大津から大和へと至る道々に見張りの者が立っているようです。他にも、宇治の橋守には皇弟(大海人)の住まいの舎人たちが食べる分の食糧を運んではならない、と禁じられているそうです」 との報告がもたらされて。...大海人が慌てて事実関係を調べたところ、どうやら間違いない。そう確認することができてしまったんですね。 「わたしが位を譲って隠棲しているのは、早く病気を治してとにかく長生きしたいからだというのに、火の粉が降り掛かって来てしまった。どうしてただ黙ったまま滅ぼされるのを待とうものか」 これが大海人の挙兵宣言となりました。 余談になりますが、天智の御陵は現在の京都市は東山区に存在しています。正直な話、各地の天皇や皇族の御陵とされているものは、本当の被葬者とイコールではないケースが多分にあります。科学的に分析された御陵の年代と、その人物の生存時代が合致しなかったり、何なり、と物理的側面から 「ここの陵は誰それの墳墓ではありませんよ」 と立証できてしまうものばかりだ、といいます。ですが、明日香にある天武・持統天皇陵と、この天智天皇山科陵に関しては、被葬者はほほ間違いない、と目されているのだといいます。 わたし自身は、今回の近江旅行で京都までは出向きませんでしたから、この天智の御陵もまだ訪ねたことがありません。知る範囲では、地下鉄の駅名に御陵とあったり、地名にも御陵○○、と複数あることから、かなり大きな御陵であろうことは想像できそうですけれども。 ただ、ここで奇異に感じるのが、山科の御陵造成の労働力として、尾張や美濃から人手を集めている、という点です。...純粋に大和や山城、近江からでもいいと思うのですが、そうではない、と。...大津京はいまだ造成中で御陵まで人手が割けなかった、という可能性は、若干ならば感じられますが。 |
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