とのこと。なるほど開化の時代に祭神の娘を娶っているというのなら、それより以前にこの地へ天之御影神はとっくに鎮座していなければなりませんから、孝霊の時代というのも確かに辻褄は合いますね。...欠史8代の記述ではありますけれども。
 また、元正天皇の時代に、藤原不比等が勅命でここに社殿を造営したという件に関しては神社のHPによると養老2年3月15日と明記されています。けれどもこちらに関しては続日本紀に記載なし。この2年後の養老4年が不比等の没年となります。

 いずれにせよ、史料があまりにも乏しいので、個々の正当性や信憑性についてはあえて触れませんが、少なくともこのお社がこういう伝説を負っても不思議ではないくらい、古い時代からここに鎮座し、祀られていた、ということだけは覆しようの無い事実なのでしょう。そして、その根拠であり、原点はやはり三上山。この一言に尽きます。
 琵琶湖大橋を渡り、野洲市界隈を走りながら、この実感はどんどん深く、そして強くなってきます。何故ならば三上山がどんどん視界で大きくなってきているからです。湖西側からでもひと際、眼を引いた稜線。それがただの輪郭ではなく、山そのものとして迫ってきているのです。だから、判ります。だから、納得できます。...綺麗なのです、美しいのです。こんな陳腐な言葉で形容する自身がほとほど情けないですが、こうも美しいと、あれこれと形容する気がもはや湧きません。ただただ、ぽかんと
「...綺麗だ」
 と洩らすしかないのです。

 標識に従って、角を曲がります。すると左手には木々が茂ったお社、その前には恐らくは斎田と思われるぬかるみが広がり、まだまだ薄く、浅くしか張られていない水に姿を映す円錐の山。
 各地で山岳信仰の対象となっている山をそれなりに眺めてきていますが、それぞれの神々しさはみな違っていて、葛城のように姿よりも、その地が負った力のようなものと満ちる空気が神々しい山もあれば、三輪山のようにもうその姿だけで胸に暖かいものが満ちてきてしまうものもあります。前者はその神々しさに浸り沈んでゆくような感覚がして、後者は中から溢れてきてしまうような感覚です。...三上山は、あきらかに後者型の霊峰で、しばし浅い呼吸のまま立ち尽くしてしまいました。

 なるほど。万葉にこそ見当たりませんが、この山が21代集に於いて、歌枕としてたくさん詠まれていたことも頷けますね。

|千早振る三上の山の榊葉は栄えぞまさる末の世までに
                      能宣「拾遺和歌集 巻10 神楽歌 601」
|万代の色もかはらぬ榊葉は三上の山におふるなりけり
                  詠み人知らず「拾遺和歌集 巻10 神楽歌 602」
|万世を三上の山のひびくには安河の水澄みぞあひにける
                      元輔「拾遺和歌集 巻10 神楽歌 603」
|祈りくる三上の山のかひあけば千歳の影にかくて仕へむ
                      能宣「拾遺和歌集 巻10 神楽歌 611」
|常盤なる三上の山の杉むらや八百万代のしるしなるらむ
                    藤原季経朝臣「千載和歌集 巻10 賀 640」
|浅緑三上の山の春霞たつや千歳の始めなるらむ
                      匡房「続後撰和歌集 巻20 賀 1366」
|いにしへに名をのみ聞きて求めけむ三上の山はこれぞその山
                   前参議為長「続後撰和歌集 巻20 賀 1368」
|雲はるるみかみの山の秋風にささ浪とほくいづるる月かげ
                   浄助法親王「続拾遺和歌集 巻8 雑秋 586」
|玉椿かはらぬ色を八千代ともみかみの山ぞときはなるべき
                   民部卿経光「新後撰和歌集 巻20 賀 1611」
|榊とる三神の山にゆふかけていのるひつぎのなほややさかへむ
                  前中納言兼仲「新後撰和歌集 巻20 賀 1612」
|志賀のうらや時雨て渡る浮雲にみかみの山ぞなかばかくるゝ
                   詠み人知らず「玉葉和歌集 巻14 雑1 2032」
|千早振三上の山の榊葉を香をかぐはしみとめてこそ取れ
                      顕輔「続千載和歌集 巻9 神祇 923」


 必ずしも勅撰集に採られていることと、参拝地としてこの山が信奉を集めていた度合いはイコールではないのでしょうが、どうも採られている和歌集の年代にかなり特徴的なものが見えます。すなわち、拾遺集が最も多く、一番時代を下っても続千載集まで、と。一条帝の時代、つまりは源氏などが書かれた王朝文学が最も隆盛した時代から始まり、鎌倉末期まで。
 それを題材として詠まれた歌が採られるにはタイムラグがありますけれど、恐らくは三上山信仰そのものが持て囃されたのが、平安中初期くらいからで、あとは時代が世知辛くなってゆくにつれこの手の山岳信仰そのものが、希薄になっていった、と考えてもいいかも知れません。三上山と御上神社は頼朝も参拝しているはずなんですけれどね。それでも鎌倉末期にはもう...、と。

     

 御上神社。きっとかつてはご神体である三上山の遥拝所だった場所に建てられたのでしょう。どこなく山との位置関係が、大神神社に似ている気がします。境内自体は比較的、こじんまりしているらしく、鳥居をくぐった先の参道はかなりあっさりしています。拝殿近くまで来ると、右手には神武の遥拝所があり、はて、この方角に大和国、橿原の神武天皇陵があるのかな、とは思いつつもとにかく参拝から。
 拝殿と本殿が改修作業中なのでしょうか。部分的にビニールシートが被せられていて、境内全体の深閑とした雰囲気にはやや違和感があります。ただ、このとき気づいたのが、各地でこの手の改修作業に自分が行き当たることが案外多く、逆を言えばこういった寺社仏閣の類はそれくらい頻繁に手が入れられているのだろう、と。だからこそ、こうしてわたしも参拝できている、という現実でしょうね。

 いやはや、個人的には寺社仏閣に史跡としてのあれこれはあまり求めていなくて、あくまでも参拝地としての位置づけて接していますから、これには改めて心からの感謝が湧いてきますし、それも含めて拝殿前に立ちます。祈ることは、いつでも、何処でも、当然ここでも1つだけ。
「自身に連なるすべての人が幸せでありますように」
 個人的には形骸化などいまだしていないつもりはあります。というのも古歌紀行を初めてすでに5年。変わらずに祈り続けている額面は同じでも、その裏側に流れる思いは常に混沌でしたから。

  

 最初の頃こそ、そのままを何の衒いもなく祈れていましたが、その欺瞞に唇を噛み締めたくなったこともあります。...要するに、朱に交われば赤くなる、ということなんですが、自身に連なる人々の幸せを祈るのは、自身の幸せを祈ることと全くの同義なわけで、にも関わらずそうストレートには祈れない自身の卑屈に、俯くことしかできなかった時期もありました。
 さらには、すべての人が等しく幸せになることなど絶対に叶わない。それぞれにそれぞれの幸せの概念が存在している以上は叶わない、というこの世界の摂理を前に自らの甘さを嫌悪した時期もまた、ありました。生存とは、誰かの、何かの、生命を奪ってこそ成立し、願望とは同じことを望む誰かの願望を退けることで叶うもの。それなのに周囲全体の幸福を祈り続けるのは逃避ではないのか、と。あるいは免罪符では、と。

 その時々に、自身の命題に悩み、その重みを繰り返し繰り返しなぞりました。自身と他者との境界線も然り。祈ったところで、それを実際に叶えるか否かは相手の問題。ならば祈る、という行為を通してわたしは続けているものは何なのか。...5年考え続けてきた今、1つだけ出せている答えは多分、抵抗。そうじゃなければ反逆、です。
 確かにそんなことは叶わない、夢物語なのかも知れません。そもそも幸せというものに定義などなく、個々がそれをそれとしてのみ成立する曖昧模糊としたものに対して、それでもなお諦めたくない。それに抗うことが、わたしがわたしに対して選び与える幸福。厭世も諦観もないままに続ける抵抗こそが...、と。当初のまるで柔らかくて、暖かい祈りは何処へいったんでしょうね。同じことを祈りながらも祈る姿勢そのものがここまで変わっていることに、自嘲を1つ、喝采を1つ。それぞれあげたくなってしまいます。

 そして今も、まだ抵抗は続いています。自身に対する嫌悪も続きます。同じものを望みながら、けれども自身は叶い、他者は叶わない。つまりはわたしが他者の望みを阻んだことに他ならず、その事実の重みに立てなくなりそうだったのがちょうど半年前、やはり近江国を訪ねていた頃でした。
 なのに半年もすれば、立てなかったほどの重みは変質します。哀しむべきは、
「重い、重い」
 と感じているにも関わらず育ってきてしまっていた自負と自尊心が、今度は頭を擡げだしてしまっていること。周囲の些細な言動に対する不満が、不遇感としてわたしを苛んでいる事実です。

 「こんな、どろどろの身で、果たしてこれを祈ることが赦されるのだろうか」
 拝殿にお賽銭を投げる時、しばし躊躇いました。でも。でも、なのです。その答えは、ほんの1月前に訪ねた隠岐の地が授けてくれました。

| 帰りたい...。恐らくこの感情は、何処へとか何へなどとは無関係に、わたしたち
|が負っているひとつの本能のような気がします。根源にあるのは母胎回帰願望、で
|しょうか。でもその一方で、やはり負っている相反する本能もあります。行きたい、
|という。
| この相反する本能であり、情動でもあるものの二律背反に苦しんでいました。そ
|してそれを北と南、という方位に喩えて詠み続けた時期があります。いや。訴え続け
|た歌たち、です。2つに裂かれるということ。裂くということ。でも、必要以上に裂か
|なければならない理由もまた、存在していません。
|「1つにしたい」
| と望むから実際以上に裂かれる思いは、
|「2つであっていい」
| という前提のもとではそれ以上は裂かれることが、恐らくはない。国と国、歌と詩、
|北と南、人と人、これとそれ。...そして、わたしとあなた。
                         遼川るか「わたのそこおきゆ」


 そう、1つじゃなくてもいいのです。どろどろなのは十二分に承知していますが、けれども同時に本当に祈りたい自身がいることもまた、動かしがたい現実です。ならば、それを無理矢理に1つにしよう、同化させようとするのは、おそらく却って歪みを大きくするだけでしょう。...ならばもう迷いますまい。
 肯定は苦手です。こうやって自身を肯定することは、わたしにとってとてつもない恐怖と苦痛を伴います。否定は楽です、安心です。でも、だからといって否定し続けるのは、それこそただの逃避でしょう。
「だからこれで、いい。これでいいんだ」

 初めて、かもしれません。泣きたいほどの恐怖を抱えながら、それでも変わらない思いを祈ったのは。...初めて、でした。
「自身に連なるすべての人が幸福でありますように」
 というフレーズの“連なるすべての人”の中に自分自身を明確に加えて祈ったのは。怖かったです。かつて経験した実体験としての恐怖の数々。例えば乗っていた大陸横断バスがジッャクされてこめかみに銃口を突きつけられた時や、喘息の重篤発作でもう助からないかもしれない、と自覚した時、亡母の最末期の日々。信じられないかもしれませんが、そういった種々の思いと、少なくともわたしにとって、この瞬間の恐怖は、恐怖の種類は違えど、度合いは殆ど違いありません。恐怖のレベルメーターの振り切れ程度は、何も変わらない恐怖なのです。

 不覚にも浮かんでしまった涙で目尻を拭いつつも拝殿を離れ、社務所へ。恒例のお御籤ともし売っていれば勾玉を買いたかったものですから。...思っていた以上に種類があって、迷った末に瑪瑙でてきた褐色の勾玉を1つ購入。
 続いて引いたお御籤は、大吉でした。そしてそこにあった文面が眼に映った瞬間、さっきまでとは違った涙で、目頭が熱くなりました。

|春風の吹けばおのずと山かげの梅も桜も花はさくなり

|心をかたくもって一時の不運にあわてさわぎ思いまようてはいけません
|本業をよくまもって静かにときのくるのをまちなさい
|開運うたがいありません

|願望 気ながくすればととのう安心せよ
                    「御上神社にて引いたお御籤より抜粋」


                       

 本当に、どうしてこういう巡り合わせなのでしょうね。わたしが旅先で引き続けるお御籤はいつもいつも、その時々の自身にそぐうことを指し示してくれます。甲斐でも、上総でも、近江でも、隠岐でも、そしてまた再訪している近江でも、です。
 ...境内の枝にお御籤を結び、改めて本殿と拝殿へ向けて1礼します。そして振り返れば眼前には、ご神体・三上山。

 瑞籬の神は坐すか
 斎つ榊
 ときはなる真秀
 さゝなみの志賀にて淡海
 安河
 高天原ゆ天降りしか
 天の安河しがすゑか
 なみのと聞こゆ
 斎つ山を呼ばふはみかみ
 瑞籬の神坐す山
 みかみ山
 斎つ田に象をうつしゐる
 斎つ田
 斎つみづ
 問はば知る
 みなひと知らで
 ひとの知る
 みなひと無きを沁みゐても
 みなひと在るを知りゐるを
 授け授くる
 神は山
 神は世なれば世をなせる
 世をなすものの何ならむ
 あれ知らで知る
 ひと知らで知る

 幸はひは神の奇かならざるものか
 幸はひはみなひとなさるなさるるものとて    遼川るか
 (於:御上神社)


 半年前、御上神社は全くのノーマークでした。訪問地としての候補に上げたことは一度も無く、ましてや存在そのものも延喜式でさらりと知っていた程度。それが、ここまで興味惹かれたきっかけは、やはり半年前。訪ねた野洲市立歴史民俗博物館で見かけた記述でした。つまり、御上神社の正面には斎田がある、と。
 斎田。言葉としての意味は、大嘗祭(天皇の即位後、最初の新嘗祭)に使用される新穀を献上することを卜定された田、となりますか。悠紀と主基の2つあって、京都以東以南を悠紀の地方、京都以西以北を主基の地方、としていたと思います。

 明治では悠紀に甲斐国、主基に安房国が卜定され、大正のときは悠紀の地方に愛知県、主基の地方が香川県。昭和の悠紀がここ、滋賀県は御上神社正面。主基は福岡だったと記憶していますが。...平成は悠紀が秋田、主基が大分。
 過去の古歌紀行文で何度も書いていますが、個人的には皇国史観とはかなり遠い考えの持ち主で、何も上代文学をやっているからといって、天皇陛下万歳、という人間では決してありません。イデオロギーとしての天皇制そのものには、大きな疑問すら持っています。ただ、そういうことではなくて、まだまだ政教が分離もしないうちからこの地で行われていた土着の行事が、こうやって受け継がれてゆくのは、とても喜ばしいこと。...そう思っています。

 山岳信仰も、水神信仰も、すべて突き詰めればきちんと食べられることへの感謝と、いまある命をきちんと受けとめて繋いでゆこう、という当たり前すぎるほど当たり前で、シンプルな願いから来ているもの。それを後世の政治的イデオロギーによるバイアスで、あれこれいうこと自体に、ある種の食べられるということに対する感謝を忘れてしまった現代人の傲慢さすらも感じてしまうわたしは、きっと極端な人間なのかもしれません。
 ですが、生きているのです。そしてその生きている器でしか、生きられないのです。ならばそれをただただ真摯に受け止めるしかないのではないでしょうか。

 昭和の悠紀斎田。4月末の今日はまだまだ薄く水が張られていたり、いなかったりで、田植えはもう少し先でしょう。そのまだまだ半ば眠っているかのような印象の田圃に鳩が数羽、降りています。畦には菫が1つ、2つ、ゆく春を惜しむのか、それとも来るべき夏を歓んでいるのか。
 変わるものと変わらないもの。受け継ぐものとそうではないもの。1000年、2000年が過ぎてゆく中のこの今、この瞬間に感じているわたしは言うなればわたし自身の微分。けれども古歌紀行を始めてすでに5年を経たという今であるならば、それは同時にわたしの積分でしょう。ですが、それもまた、さらに大きな積分の中の微分に過ぎず...。

 ゆくみづにいづへな問ひそ日に月にみづのみづゆゑなほしみづゆく  遼川るか
 (於:昭和悠紀斎田址)


    

 日がすでに翳り始めました。岐阜羽島へ5時には戻っていなければなりませんから、そろそろ発ちましょう。ここからだと恐らく、竜王のインターから名神高速に乗ることになると思いますが。
 また1つ、季節がゆきます。また1つ、旅が終わります。果たして何処へ、わたしは最終的にどこへ向かうのでしょうか。...その答えが欲しいからこそ、わたしはゆきます。その為だけに、です。


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 本稿を書くにあたり、参考にさせて戴いた文献とWebサイトを以下に記します。

・万葉集関連
 「万葉集検索データベース・ソフト」 (山口大学)
 「萬葉集」(一)〜(四) 高木市之助ほか 校注 (岩波日本古典文学大系)
 「新編国歌大観準拠 万葉集」上・下 伊藤博 校注 (角川文庫)
 「新訓 万葉集」上・下 佐々木信綱 編 (岩波書店)
 「万葉集」上・中・下 桜井満 訳注 (旺文社文庫)
 「万葉集ハンドブック」 多田一臣 編 (三省堂)
 「万葉ことば辞典」 青木生子 橋本達雄 監修 (大和書房)
 「万葉集地名歌総覧」 樋口和也 (近代文芸社)
 「万葉集辞典」 中西進 著 (講談社)
 「初期万葉歌の史的背景」 菅野雅雄 著 (和泉書院)
 「古代和歌と祝祭」 森朝男 著 (有精堂出版)
 「万葉集の民俗学」 桜井満 監修 (桜楓社)
 「万葉集のある暮らし」 澤柳友子 (明石書店)
 「万葉の植物 カラーブックス」 松田修(保育社)
 「万葉集大成」(一)〜(二〇) (平凡社)

・古事記
 「古事記/上代歌謡」 (小学館日本古典文学全集)
 「新訂 古事記」 武田祐吉 訳注 (角川文庫)

・日本書紀
 「日本書紀」上・下 坂本太郎ほか 校注(岩波日本古典文学大系)
 「日本書紀」上・下 宇治谷孟 校註 (講談社学術文庫)
 「日本書紀」(一)〜(五) 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋 校注(岩波文庫)

・続日本紀
 「続日本紀 蓬左文庫本」(一)〜(五) (八木書店)
 「続日本紀」青木和夫ほか 校注 (岩波新日本古典文学体系)
 「続日本紀」上・中・下 宇治谷孟 校註 (講談社学術文庫)
 「続日本紀」(一)〜(四) 直木孝次郎 他 訳注 平凡社(東洋文庫)

・丹後国風土記逸文
 「風土記」 秋本吉郎 校注 (岩波日本古典文学大系)
 「風土記を読む」 中村啓信 谷口雅博 飯泉健司 編(おうふう)
 「風土記」 吉野裕 訳(東洋文庫)

・延喜式
 「延喜式」 国史大系編修会(吉川弘文館/国史大系一九〜二一)
 「日本古典全集 延喜式」(一)〜(四) 與謝野寛・正宗敦夫・與謝野晶子 編纂(現代思想社)
 「延喜式」 虎尾俊哉 著 (吉川弘文館)
 「延喜式祝詞教本」 (神社新報社)

・古代歌謡
 「記紀歌謡集」 武田祐吉 校註 (岩波文庫)
 「古代歌謡」 土橋寛・小西甚一 校注(岩波日本文学大系)
 「上代歌謡」 高木市之助 校註 (朝日新聞日本古典選)
 「日本の歌謡」 真鍋昌弘・宮岡薫・永池健二・小野恭靖 編(双文社出版)

・上代語
 「古代の声 うた・踊り・ことば・神話」 西郷信綱(朝日選書)

・和歌全般
 「新編国歌大観 CDーROM」 監修 新編国歌大観編集委員会(角川学芸出版)

・古代和歌
 「古代和歌史研究」 伊藤博(塙書房)

・二一代集
 「二十一代集〔正保版本〕CDーROM」 (岩波書店 国文学研究資料館データベース)

・拾遺和歌集
 「拾遺和歌集」 小町谷 照彦 校注(岩波書店新日本古典文学大系)

・千載和歌集
 「千載和歌集」 片野達郎ほか 校注 (岩波新日本古典文学大系)

・続後撰和歌集
 「続後撰和歌集」 國枝利久ほか編(和泉書院)

・続拾遺和歌集
 「続拾遺和歌集」 久保田 淳 監修、小林 一彦 著(明治書院)

・続後撰和歌集
 「続後撰和歌集」 國枝利久ほか編(和泉書院)

・玉葉和歌集
 「玉葉集 風雅集攷」 次田香澄 校註(笠間書院)

・続千載和歌集
 「仏教大学付属図書館蔵続千載和歌集」 国枝利久・千古利恵子編(和泉書院)

・源平盛衰記
 「国民文庫 源平盛衰記」 古谷知新 校訂(国民文庫刊行会)

・近江国全般
 「万葉の歌 人と風土」(八)滋賀 広岡義隆 著(保育社)
 「近江万葉の道」 淡海文化を育てる会 編(サンライズ出版)
 「探訪神々のふる里」(七) 近江・若狭・北陸 (小学館)
 「一二歳から学ぶ滋賀県の歴史」 滋賀県中学校教育研究会社会科部会 編
                           (サンライズ出版)

・近江国分寺
 「がらくた置場」s_minaga ttp://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/ato_oumikokubunji.htm

・御上神社
 「近江富士三上山 御上神社」 ttp://www.mikami-jinja.jp/


※参考サイトのURLは冒頭のhを省略していますよし、アクセスされる際はその修正を各
 位、お願い申し上げます。

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 2007年4月30日        近江国訪問
 2009年1月2〜3日、5月10日   執筆
 2009年5月12日        遼川るか公式サイト瓊音にて掲載開始


                                    遼川るか 拝







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