だからなのでしょう。どうもこの大津宮跡は全体像も掴み辛く、奈良や藤原で体感した壮大さ。そう、当時の宮や都の大きさが全く感じられず、何とも奇異と言いますか、あるいは訪ねているわたし自身が何処となくぎこちなくなってしまうような、奇妙な感慨でした。
 取り敢えず、周囲を歩き回った限りでは、大津宮跡は現在、第1〜第9までの発掘ポイントがあるようです。そして、それらには発掘後に簡素な碑や看板が建てられてもいますが、全体的にはとてもあっさりしていて、ともすれば素っ気なさすら感じそうな雰囲気です。

 ですが、史跡というものをどう扱いたいのかによって、それぞれの土地の姿勢もまたよく見えます。観光資源としたい土地ならばいかにも史跡然、とした顔つきにもなりますし、学術資料としたい土地でも、史跡はそういう顔をしているものです。
 さらには、保全はしておくけれど何らかの資源として、活かすつもりがない土地になると史跡たちはきっと彼ら本来の遺物然として、それ以上でもそれ以下でもなく、佇んでいて。

 ここまでのわたしの印象では、近江国は史跡をあくまでも史跡として保全しているようですし、積極的ではなくとも学術資料として活かしているような感触も、所々で感じていました。ですが、観光資源として活かす意図は、かなり希薄にしか感じられず、却ってそれがわたしには好印象でもありましたけれども。
 また同時に、これまでの自身が、如何に観光資源化した史跡ばかりを見てきていたのだろうか、とかすかな自己嫌悪にも襲われたほどです。

 いにしへのあれ思ふなへに沁み賜ふ
 あれの恋ふれば弥遠に
 いにしへあるを
 あれ寄ればなほ弥高に空ありて
 なにしかいまにありたるに
 まとはざれども
 かなしびて
 寄るとも寄らず
 え寄らずを
 またうれしびて
 とほければ
 なほし往かるや
 往くことのいたもまくほし
 けふにけふ見ゆるは象と色ばかり
 象にそ集ひたるものゝ
 名こそな言ひそ
 いめなどゝ
 いめにて空は空ならず
 いめにて日並はさにあらず
 いめにていめは覚むるゆゑ
 あれ恋ひたきは
 世のまにまにを

 あれどまた違はずにある弥日異にあしたに見ゆるものゝあるらむ  遼川るか
 (於:大津宮跡)


 掲示されている幾つかの資料を読み、写真を撮っている間も、考えてしまっていたのは額田のことです。そもそも彼女は、額田王と呼ばれていた以上、皇族の出身者であることは間違いがありません。つまり、前述の後宮での位置関係からすれば、同じ皇族でも天智のほぼ直近の存在であり、そして舒明天皇の孫(皇孫)にあたるという倭姫王がなっていた皇后、とまではゆかなくとも当然、後宮にいたのであれば日本書紀に記載されていなければならない人物。...記載がないなどということは、率直に言って不自然です。
 通常であれば間違いなく妃として名前が挙がることでしょう。にも関わらず、彼女の名前を日本書紀は伝えていないのです。...これが、天智と額田の関係はなかった、としている諸説が拠る最も大きな点で、わたし自身も同様に感じます。

 

 そして、だからこそなかったはずの関係が、天智期よりほんの100年後の天平期には、一般的にあったこととして扱われていた直接のきっかけ。そう、まさしくきっかけとなる何かが確実に存在しているのでしょうし、前述している通り、それこそが蒲生野薬猟での時の皇太子が謡った歌だったのでしょう。
 ...だからこそ、もう一度考えてみたいのが“天智朝の皇太子”についてです。天智崩御の少し前のことを日本書紀は、こう記しています。

|天皇、疾病弥留し。詔して東宮を喚して、臥内に引入れて、詔して曰はく
|「朕、疾甚し。後事を以て汝に属く」
| と云云。是に、再拝みたてまつりたまひて、疾を称して固辞びまうして、受けずして曰
|したまはく、
|「請ふ、洪業を挙げて、大后に付属けまつらむ。大友王をして諸政を奉宣はしめむ。臣は請
|願ふ、天皇の奉為に、出家して修道せむ」
| とまうしてたまふ。天皇許す。
                「日本書紀 巻27 天智天皇 天智10年(671年)10月17日」


 つまり、天智は自身の長くないことを悟って、大海人皇子を呼んで彼に皇位を譲ろうとした、ということですね。...が、大海人皇子はそれを固辞。
「自分は病をもっているから、とても皇位を継ぐに値するような人間ではありません。どうか皇后である倭姫王に皇位を譲り、大友皇子がそれをサポートするようにしてください」
 と。この記述が後に、
「倭姫王は中皇命ではなかったのではないか」
 とする説の根拠になっているわけですね。

 その一方で、ここに来て突然、名前が登場してきた大友皇子です。前述している通り、彼は采女の母親から生まれています。つまり、本来ならぱ皇位継承の候補には、先ず名前が挙がらない立場なのですが、ここが難しいところで、同じ年の新年早々にこんな記述があるんですね。

|是の日に、大友皇子を以て、太政大臣に拝す。蘇我赤兄臣を以て、左大臣とす。中臣金連を
|以て、右大臣とす。蘇我果安臣・巨勢人臣・紀大人臣を以て、御史大夫とす。
                  「日本書紀 巻27 天智天皇 天智10年(671年)1月2日」


 はい、大友皇子が太政大臣に就任しているのです。これはかなり違和感のあるお話と言えるでしょう。何故なら、太政大臣という位自体、この大友皇子が最初となったもので、それ以前のこの国には存在していないんですね。
 そして、例えば持統期の高市皇子のように、この大友より後の時代の太政大臣を見れば、太政大臣とは皇太子とほぼ同義、あるいは同格の存在だったことが容易に想像できます。また、日本書紀の巻27、天智紀に於ける皇太子と大皇弟、という2つの表記が登場することについては、蒲生野に関連してすでに述べました。

 核心を再度、綴らせてください。ここまでに覚えてきた様々な違和感たち。そして、それらに対してわたし自身が、見聞きしてきた諸説の中から思い至ったのは、
「天智期の皇太子は大海人皇子ではなく、大友皇子ではなかったのか」
 という1点に尽きます。

 考えてみてください。仮に大友が時の皇太子であったならば、あの蒲生野の贈答歌が何故、相聞歌として採られなかったのか、などという謎は取るに足りません。また、上述の違和感だらけの太政大臣就任。こちらも太政大臣ではなく元々、大友は立太子していたならば、とてもすっきりと読み解けてしまいます。
 そして何よりも、最大の謎。...そう、それは壬申の乱です。父親は舒明、母親は斉明(皇極)という大海人皇子と、天智の息子とはいえ采女の子である大友皇子とが、どうして天下分け目の戦をすることができたのか。そもそも何故、壬申の乱が起きたのか。...これを考えれば、答えなど推して知るべし、と言ったところでしょう。


 大友が立太子していたとして、天智崩御の前に天智の弟である大海人皇子は都を下るとなれば、大友の天皇即位の可能性をよく思わない皇弟・大海人皇子が、本来の継承者である自身の皇位奪回を目論んでクーデターを起こす準備に入ったと考えるのが自然でしょう。
 そう、つまり何故、ありもしなかったであろう額田と天智、などというメロドラマが天平期に定説になっていたのか、と言えば壬申の乱の勝者となっていた大海人皇子サイド、すなわち天武天皇サイドが自らのクーデターを正当化するため、日本書紀に彼が皇太子であった、と綴ったことによる余波、ではないか、と。

| 題詞:天皇の蒲生野に遊猟したまふ時、額田王の作る歌
|あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る
                          額田王「万葉集 巻1-20」再引用
| 題詞:皇太子の答へませる御歌
|紫のにほへる妹を憎くあらば人妻故に我れ恋ひめやも
                       天智朝皇太子 「万葉集 巻1-21」再引用


 皇太子であった大友が人妻、と義母・額田を呼んでいるのならば、宴席の歌としてもやんややんやの大喝采にもなりましょう。一方、仮に大海人皇子が皇太子であったとして、かつて自分との間に子どもまでなしている額田に、
「もしもあなたを憎んでいるのなら、人妻となった今でも恋焦がれているでしょうか。憎んでなどいませんよ」
 などと未練たっぷり謡ったならば、その人妻とは誰に嫁いでいるのか、と人々の興味を煽ってしまうことにもなりましょう。何しろ皇太子なのです。手に入れたい女性など、簡単に手に入れられる立場の皇太子が唯一、欲しいものを諦めざるを得ない相手。
 ...そんな存在、当時の社会体系に於いて、ただ1人を除いて存在しようはずもありません。

 前述していますが、繰り返します。わたし自身は、額田と大海人皇子の関係自体は疑っていないですし、その後の2人が添いとげたのか、あるいはそうではなかったのかについては殆ど興味がありません。
 日本書紀の天武紀には額田の存在が明記されていますが、ただしそれは後宮の中に組み込まれるものではなかった、と読み取れる記述でもあります。...要するに、天武が天皇即位する前に関係を結んだけれども、後宮には入らなかった可能性が高いだろう、と思えるということですね。天智朝を代表する宮廷歌人だったこと。そして娘・十市は大友皇子に嫁いでいたことなどが、クーデターを起こし、勝利した側からすれば煙たく感じもしたのではないか、と。

 そんな時代の歪みの中で、華やかな人生前半とは裏腹に、その後半が殆ど手繰れない額田王。同時に、出自すらも杳として知れず、かすかな足跡を辿る限り、奈良県は宇陀の地でひっそりと眠りについたのでしょう。
 明日香とも、三輪山とも、近いと言い切れるほど近くはなく、かといって遠いと言うほどの遠さでもない地で、静かに。...たった1人の娘は彼女よりもずっと早くにこの世を去りました。それも、恐らくは自殺ではないか、と思われるような形で。

 人は夢を見ます。噂やゴシップなどは凡そ退屈しのぎに、より鮮烈なドラマを夢見る、人間の空想から生まれるものです。様々に存在している点と点とを、何で、どうやって、どんな風に繋いだ線にしてゆくのか。
 そこまでの要素が少し替わるだけで、線はあったものを歪ませ、なかったものを出現させます。そういった全てのものを夢とするならば、記紀などはその筆頭に挙げられるべき存在。...そしてもちろん、こうやって古歌紀行文を書いているわたしとて、夢を見ているのです。

 日本書紀は、その記述から大友の立太子に関するものをすべて消し去っています。一方、日本書紀以降の文献では、懐風藻が立太子していたことを明記していますね。

|淡海朝大友皇子 二首

|皇太子は淡海帝の長子なり。魁岸奇偉、風範弘深、眼中精耀、顧Y。唐の使、劉コ
|高見て異なりとして曰く、
|「この皇子、風骨世間の人に似ず、実にこの国の分にあらず」
| と。
| かつて夜夢見らく、天中洞啓し、朱衣の老翁、日を捧げて至り、フげて皇子に授く。
|忽ち人あり、腋底より出で来て、すなはち奪ひ將ち去ると。冷めて驚異し、具に藤原
|内大臣に語る。歎じて曰く、
|「恐らくは聖朝万歳の後、巨猾の韈ユあらむ。然れども、臣平生曰『あにかくのごと
|き事あらんや』と。臣聞く、天道親なし。ただ善をこれ輔くと。願はくは大王勤めて
|コを修めよ。災異憂ふるに足らざるなり。臣に息女あり。願はくは後庭に納れて、以
|箕帚の妾に充てむ」
| と。遂に姻戚を結んで以てこれを親愛す。
| 年甫めて弱冠、拜太政大臣を拝す。百揆を総べて以てこれを試む。皇子博学多通、
|文武の材幹あり。始めて万機に親しむ。群下畏れて肅然たらざることなし。年二十三
|にして立ちて皇太子となる。広く学士沙宅紹明、塔本春初、吉太尚、許率母、木素貴子
|等を延きて、以て賓客となす。太子天性明悟、雅より博古を愛す。筆を下せば章とな
|り、言を出せば論となる。時に議する者その洪学を難ず。いまだ幾ばくならずして文
|藻日に新たなり。壬申の乱に会ひて天命遂げず。時に年二十五。
                      「懐風藻 1 大友皇子 2首〔伝記〕」


 ですが、これがさらに時代を下ると水鏡や大鏡、扶桑略記などが天皇即位していた、とまでしていまして。そして明治期には、彼は弘文天皇として追尊されました。
 わたし個人としては大友が皇太子だった、とは思っています。ですが同時に、天皇即位はしなかった、とも思っています。

 この時代には、称制というシステムがありました。天皇不在期に皇后や皇太子が政務をとりしきることなのですが、この称制を実践したのは中大兄皇子が斉明の死後、自らが即位するまでの7年間と、讃良が天武亡き後、やはり自ら即位するまでの4年間です。

|七年の七月の丁巳に、崩りましぬ。皇太子、素服たてまつりて、称制す。
                 「日本書紀 巻27 天智天皇 斉明7年(661年)7月24日」

|朱鳥元年の九月の戊戌の朔丙午に、天渟中原瀛真人天皇崩りましぬ。皇后、臨朝称制す。
                 「日本書紀 巻30 持統天皇 朱鳥元年(686年)9月9日」


 なので、考えるに天智他界から壬申の乱を経て天武即位までの期間にあった可能性がある体制を列挙してみると

 1) 大友皇子の天皇即位
 2) 大友皇子による称制
 3) 倭姫王の中皇命(事実上は倭姫王による称制)
 4) 倭姫王の天皇即位

 となるでしょうか。そして、少なくともわたし自身が1番、納得できるは倭姫王が取り敢えずは中皇命として立って、けれどもその間に壬申の乱が起こった、あるいは起こしてしまった、ということではないのか、と。

 

 大津市の市役所のすぐ傍です。えてして地方の役所周辺というのは、そこそこ近代的で清潔感があって、こざっぱりしていて。古の宮の跡すらも、とてもさっぱりと簡素に整えられている近江国大津。
 けれどもこの地では、1300年の昔、人々の思いが入り乱れ、取り沙汰され、錯綜していました。...本当に塀1つ隔てれば民家、という立地の古代の都です。この島国にとっては初となる統一国家を創ろう、と理想に燃え、人々の不満を押し切って都を造営した天智は、道半ばにして他界。言ってしまえば、この大津宮跡もまた天智の夢の跡です。
 また、そんな天智の夢の結晶とも言えた都は、自らの息子と弟の戦乱により廃都と化します。わずか5年と5ヶ月弱。それがこの都で紡がれた時間となりました。

 みなひとの絶ゆれば違ふことのなし
 あれば違ふも違はぬも
 なりてたまふも
 ありてなすものいかあれど
 絶えしては
 あらざるを世とひと知らに
 天つ日の出で
 天つ日の暮れゆくものと
 月読の出づれば沈み
 雪降れば
 春の来るらむ
 とことはゝなくもありゐて
 変はりゆくの
 え止まらざるの
 とことはにえ止まざるに
 違はぬを
 え違はざるを
 あれあれに聞く

 欲るものゝいかなるを欲りいかなるを欲らざるものかたれ知りゐるや  遼川るか
 (於:大津宮跡)


|但時経乱離 悉従
|言念湮滅 軫悼傷懐
|自茲以降 詞人間出
|竜潜王子 翔雲鶴於風筆
|鳳天皇 泛月舟於霧渚
|神納言之悲白 藤太政之詠玄造
|騰茂実於前朝 飛英声於後代
                                 懐風藻「序文」

 「ただし時は乱離を経て、ことごとく爐に従う。ここに湮滅を念い、軫悼して懐いを傷む。
 これより以降、詞人間出した。竜潜の王子、雲鶴を風筆に翔らせ、鳳の天皇、月舟を霧渚に泛べた。神納言が白を悲しみ、藤太政が玄造を詠んだ。茂実を前朝に騰らせ、英声を後代に飛ばす/書き下し:遼川るか」

 懐風藻によれば、大津宮は灰燼に帰したとなっていますが、発掘調査から火災の跡は見られず、他の宮と同じようにスクラップ・アンド・ビルド。つまりは柱などはみな明日香で再利用された、と見るのが順当なようです。
 直接的には、大津宮陥落とは関係のない藤原宮の造営に因んだものですが、当時の宮の造営の雰囲気が伝わる万葉歌を引きます。

|題詞:藤原宮の役民の作る歌
|やすみしし 我が大君
|高照らす 日の皇子
|荒栲の 藤原が上に
|食す国を 見したまはむと
|みあらかは 高知らさむと
|神ながら 思ほすなへに
|天地も 寄りてあれこそ
|石走る 近江の国の
|衣手の 田上山の
|真木さく 桧のつまでを
|もののふの 八十宇治川に
|玉藻なす 浮かべ流せれ
|其を取ると 騒く御民も
|家忘れ 身もたな知らず
|鴨じもの 水に浮き居て
|我が作る 日の御門に
|知らぬ国 寄し巨勢道より
|我が国は 常世にならむ
|図負へる くすしき亀も
|新代と 泉の川に
|持ち越せる 真木のつまでを
|百足らず 筏に作り
|泝すらむ いそはく見れば
|神ながらにあらし
                           作者未詳「万葉集 巻1-0050」


 「わが大王、偉大なる日の御子は藤原の辺りで国を治められようと思い召されて、宮を造ろうと神としてお思いなると共に、天地もそれに従っていればこそ、と近江の田上山で美しい木を切り出し、檜の材木を八十宇治川に浮かべて流す。それを取り集めようとする役人たちは家族も自分の身の上も忘れて鴨のように水に浮んでは(われわれが作る宮に服従していない国をよしこせ、ではないが巨勢路からはわが国が常世の国になる図柄の甲羅を背負った神亀も新しい時代を祝福して出た、という)泉の川に切り出した材木を筏にしているのだろう。その作業に勤しむさまからすれば、まこと天皇は神であるますようだ」

 木材を宇治川、つまりは琵琶湖から流れ出す瀬田川で運ぶのは、少なくとも藤原京をつくることには定着していたようですね。明確なことは言えませんが、大津から瀬田川が大した距離ではないことだけは事実です。







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