なほしほしなほし知らまくほしをあれ思ふ
 かつも立つ痛みても立たまくほしやあれ    遼川るか
 (於:近江神宮)


 時刻はまだ6時半過ぎでした。それでは、今回の古歌紀行、最重要ポイントとも言える、大津宮跡へ出向きましょう。天下分け目という歴史の分岐点。その舞台となり続けてきた近江国の歴史の跡を、この目と、この肌で、しっかりと感じるために、です。

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|三月の辛酉の朔己卯に、都を近江に遷す。是の時に、天下の百姓、都遷すことを願はずし
|て諷へ諫く者多し。童謡亦衆し。日日夜夜、失火処多し。
            「日本書紀 巻27 天智天皇 天智6年(667年)3月19日」一部再引用


 日本書紀にはこうあります。すでに書きましたが、667年の近江遷都は、巷に風刺歌が流行するくらい、世間的にも歓迎されず、まさしく強行した、という様相だったのでしょう。
 そしてもちろん、当の中大兄皇子自身も充分、それは承知していのだと思います。けれども、彼はそれでも半ば強引に遷都しました。理由は当時の情勢、とするのが一般的です。

 白村江で敗れた倭。陸続きではないとは言え、大陸側から攻め込まれるという最悪の事態は多少なりとも想定しないわけにゆかなったのでしょう。その点、琵琶湖湖畔の大津は、湖という水上の退路が確保できます。また、外敵は必ず海上からこの島国へ接近してくるわけで、内陸部である方が攻守の時間も稼げます。
 ...海沿いの難波では外敵の脅威が大きく、盆地の大和では退路が確保し辛く、その両方の弱点を克服できる立地が、大津だったということなのでしょう。

 余談になりますが、日本書紀によると中大兄皇子こと天智天皇は、大津から琵琶湖を渡った先にある蒲生野近くの日野の地へ、さらに遷都しようとしていたといいます。

|時に、天皇、蒲生郡の匱野に幸して、宮地を観はす。
                   「日本書紀 巻27 天智天皇 天智9年(670年)2月」


 きっと天智には天智なりの国家観も、そして理想もあったのでしょうし、それへ向けての努力や精進といったものも惜しんでいなかったのだと思います。そんな天智が造った大津宮。そこで繰り広げられていた日々の一端が垣間見える記述を、いくつがご紹介してみましょう。


|及至淡海先帝之受命也
|恢開帝業 弘闡皇猷
|道格乾坤 功光宇宙
|既而以為 調風化俗 莫尚於文
|潤徳光身 孰先於学
|爰則 建庠序 微茂才 定五礼 興百度
|憲章法則 規模弘遠 夐古以来 未之有也
|於是 三階平煥 四海殷昌 旒\無為 巌廊多暇
|旋招文学之士 時開置醴之遊
|当此之際 宸翰垂文 賢臣献頌
|雕章麗筆 非唯百篇
                                  懐風藻「序文」


 「淡海先帝の命を受けるに至るに及び、帝業を恢開し、皇猷を弘闡して、道乾坤にいたり、功宇宙に光る。
 すでにして思われるに、風を調え俗を化すことは、文より尊くはなく、徳に潤い身を光らせることは、いずれも学より先にならないと。ここにすなわち庠序を建て、茂才を徴し、五礼を定め、百度を興す。憲章法則、規模弘遠なること、夐古以来いまだこれにあらず。
 ここに三階平煥、四海殷昌、旒\無為にして、巌廊暇多く、しばしば文学の士を招き、よりより置醴の遊びを開く。この際に当たり、宸翰文を垂れ、堅臣頌を献じる。雕章麗筆、ただ唯百篇のみにはあらず。                     書き下し:遼川るか」

 天智期より時代を下ること90年弱。天智のちょうど玄孫に当たる淡海三船が編纂した、と有力説ではされている懐風藻の序文です。どうやら、なかなか文化的交流も盛んに行われていたほど、往時の宮中は落ち着き、安定していたようです。
 そしてそんな近江文壇、とも言える場で謡われたであろうものが、こちら。

|題詞:天皇の内大臣藤原朝臣に詔して、春山萬花の艶と秋山千葉の彩とを競憐はしめた
|   まふ時、額田王、歌を以ちて判る歌
|冬こもり 春さり来れば
|鳴かずありし 鳥も来鳴きぬ
|咲かずありし 花も咲けれど
|山を茂み 入りても取らず
|草深み 取りても見ず
|秋山の 木の葉を見ては
|黄葉をば 取りてぞ偲ふ
|青きをば 置きてぞ嘆く
|そこし恨めし 秋山吾は
                         額田王「万葉集 巻1-0016」再引用


 「題詞:天智天皇が内大臣・藤原鎌足に花々の咲く春山の艶やかさと、木々の葉の装う秋山の彩りとを競わせた時、額田王が歌で判定をつけた時の歌
 春が来れば、鳴かないでいた鳥たちもやって来て鳴き、咲かずにいた花たちも咲くけれど、山の木々が茂っているので山に分け入って取ろうとはしない。草が深いので手に取ってみようとしない。秋山の木の葉を見る時は、色づいた葉を手にとって鑑賞するし、紅葉しない常緑樹の葉には、そのままでは惜しいと落胆する。そこが残念でもあるのだけれど、わたしは秋山だと思う」

 春と秋ではどちらがより美しいと思うか。そんな問答を歌で返したりするあたり、どうしてどうして、まるで後の王朝期の文芸サロンにも匹敵するような印象ですね。この国の歴史を振り返れば、とても顕著なことなのですが、えてして文化的隆盛が為るには、世情の安定がほぼ必須です。200年にも及ぶ平安期も、そして元禄や化政文化が酣となった時期も、です。
 遷都当時こそ、あれこれ言っていた人々もきっと新しい時代にゆっくり馴染み、その穏やかさを享受し始めていたのでしょう。そして、その平穏が長く続くことを祈っていたのも、間違いないのではないか、と。

 ですが、そんな人々の切なる願いは長くは続きませんでした。こんな歌が「万葉集」に残っています。

|題詞:天皇の聖躬不予の時、大后の奉る御歌一首奉御歌一首
|天の原振り放け見れば大君の御寿は長く天足らしたり
                            倭姫王「万葉集 巻2-0147」

|九月に、天皇寝疾不予したまふ。
                   「日本書紀 巻27 天智天皇 天智10年(671年)9月」


 天智が病に、倒れたからです、
「天上の国を見渡せば、天皇のきっと長く長くご健勝であられるという運気が天いっぱいに満ちていることです」
 天智の皇后であった倭姫王は、予祝という形で祈願し、謡います。元々、天智は自身の父親の仇。大化の改新の最中に滅ぼされた古人大兄皇子です。

 そもそも大化の改新のきっかけとなった、聖徳太子の遺児・山背大兄皇子の暗殺は、蘇我蝦夷や入鹿が古人大兄皇子を擁立するのに邪魔だったから行われたもの。古人大兄皇子は天智・天武兄弟の異母兄にあたります。
 暗殺される山背大兄皇子。けれども古人大兄皇子は皇位につかず、やがて大化の改新の幕があがりました。...入鹿の宮中内惨殺。そして、その父親・蝦夷も自害、と。

 後ろ盾を失った古人大兄は吉野へと下るも謀反を企てている、との密告があり処刑。刑執行の兵を差し向けたのは中大兄皇子でした。
 倭姫王は難を逃れてこの時に命を落とさず、後に中大兄皇子の皇后となります。詳しいことはほぼ判っていませんが、想像するになかなか微妙な夫婦間だったのではないか、と邪推します。子どもも産まれてはいないようですし。

 両親の仇、けれどももはや頼れるものは中大兄皇子その人のみ、という立場だった倭姫王は天智が倒れた時、何を思ったのでしょうか。...人間の愛憎というものは簡単に割り切れるものではなく、けれども古いしこりよりは、その後の日々で積み上げてきたものの方が、それでもやはり重たいのではないか、とわたしには思えますけれども。
 そして、天智が他界します。

|十二月の癸亥の朔乙丑に、天皇、近江宮に崩りましぬ。
                  「日本書紀 巻27 天智天皇 天智10年(671年)12月3日」


 倭姫王の嘆きの歌たちです。

|題詞:近江天皇聖体不予、御病急かにある時、大后の奉献る御歌一首
|青旗の木幡の上を通ふとは目には見れども直に逢はぬかも
                            倭姫王「万葉集 巻2-0148」
|題詞:天皇崩後之時倭太后御作歌一首
|人はよし思ひやむとも玉葛影に見えつつ忘らえぬかも
                            倭姫王「万葉集 巻2-0149」


 「万葉集」巻2。それは挽歌の巻でもありますから、倭姫王だけではなく他の者たちの天智他界に対する嘆きは続きます。

|題詞:天皇崩時婦人作歌一首
|うつせみし 神に堪へねば
|離れ居て 朝嘆く君
|放り居て 我が恋ふる君
|玉ならば 手に巻き持ちて
|衣ならば 脱く時もなく
|我が恋ふる 君ぞ昨夜の夜
|夢に見えつる
                            作者未詳「万葉集 巻2-0150」


 12月3日の没日より8日後の11日に殯、つまり本葬する前に仮の宮へ故人を安置するならわしが行われます。

|癸酉に、新宮に殯す。
                「日本書紀 巻27 天智天皇 天智10年(671年)12月11日」

 この際に、恐らく当時の宮廷歌人たちでしょう。やはり謡っていますね。

|題詞:天皇大殯之時歌二首
|かからむとかねて知りせば大御船泊てし泊りに標結はましを
                          額田王「万葉集 巻2-0151」再引用
|題詞:天皇大殯之時歌二首
|やすみしし我ご大君の大御船待ちか恋ふらむ志賀の唐崎
                            舎人吉年「万葉集 巻2-0152」


 殯の後は、早ければ数ヶ月以内、遅ければ数年後に、本葬となりますが、天智に関しては本葬した時期が日本書紀に記されていません。...もう壬申の乱でぐちゃぐちゃだったのかも知れませんね。
 ですが、殯の後にも天智を悼む歌は続きます。

|鯨魚取り 近江の海を
|沖放けて 漕ぎ来る船
|辺付きて 漕ぎ来る船
|沖つ櫂 いたくな撥ねそ
|辺つ櫂 いたくな撥ねそ
|若草の 夫の
|思ふ鳥立つ
                             倭姫王「万葉集 巻2-0153」
|楽浪の大山守は誰がためか山に標結ふ君もあらなくに
                            石川夫人「万葉集 巻2-0154」


 そして、御陵自体の造営時期も、そこへ埋葬した時期も判ってはいないにも関わらず、こんな歌まで「万葉集」には残されています。

|題詞:山科の御陵より退き散くる時、額田王の作る歌一首
|やすみしし 我ご大君の
|畏きや 御陵仕ふる
|山科の 鏡の山に
|夜はも 夜のことごと
|昼はも 日のことごと
|哭のみを 泣きつつありてや
|ももしきの 大宮人は
|行き別れなむ
                          額田王「万葉集 巻2-0155」再引用


 埋葬した帰り道での歌、でしょうね。そして「〜大宮人は行き別れなむ」と謡われているくらいですから、それなりの葬列にもなっていたはずです。可能性としてはいずれかでしょう。壬申の乱勃発前か。そうじゃなければ壬申の乱平定後、です。
 ですが、個人的には壬申の乱平定後かな、と思っています。詳しくは追々書きますが、何故ならば、この天智の御陵。これこそが壬申の乱の直接のきっかけ、つまりは導火線になってしまった、とも考えられるからです。

 ところで、ここに来て額田の名前がまたちらほら登場してきています。...はい、覚えていらっしゃるでしょうか。額田と天智、そして大海人皇子(天武)について、前述してきたことをもう一度、列挙します。

 1) 蒲生野の贈答歌はあくまでも贈答歌であって、相聞歌ではないのではないか
 2) その蒲生野の贈答歌で額田の相手をしているのは時の“皇太子”であって、大海人
   皇子と明記されているわけではない
 3) 天智と額田の関係の根拠とされる、鏡女王と額田の歌は、漢詩の影響を受けた後の時
   代の何某かによる、仮託の作なのではないか
 4) 以上を鑑みるに、少なくとも中大兄皇子と額田の間の関係は、なかったのではないか

 ここで、こんな記述を引きます。日本書紀からです。

| 七年の春正月の丙戌の朔戊子に、皇太子即天皇位す。壬辰に、群臣に内裏に宴したま
|ふ。戊申に、送使博徳等服命す。
| 二月の丙辰の朔戊寅に、古人大兄皇子の女倭姫王を立てて、皇后とす。遂に四の嬪を納
|る。蘇我山田石川麻呂大臣の女有り、遠智娘と曰ふ。一の男・二の女を生めり。其の一を大
|田皇女と曰す。其の二を野皇女と曰す。天下を有むるに及りて、飛鳥浄御原宮に居しま
|す。後に宮を藤原に移す。其の三を建皇子と曰す。唖にして語ふこと能はず。次に遠智娘
|の弟有り。姪娘と曰ふ。御名部皇女と阿閉皇女とを生めり。阿閉皇女、天下を有むるに及
|りて、藤原宮に居します。後に都を乃楽に遷す。次に阿倍倉梯麻呂大臣の女有り、橘娘と
|曰ふ。飛鳥皇女と新田部皇女を生めり。次に蘇我赤兄大臣の女有り、常陸娘と曰ふ。山辺
|皇女を生めり。
                 「日本書紀 巻27 天智天皇 天智7年(667年)1〜2月」


 

 最初に、この当時の天皇と皇后、そして以下の後宮の構造についてです。天智より後年のものになってしまいますが、養老令(701年成立)の後宮職員令全18条によると、天皇に対し皇后はもちろん1人なのですが、後宮内の内訳は

 1) 妃  2員
 2) 夫人 3員
 3) 嬪  4員

 となっています。もちろん、養老令と天智期の後宮が全く同じ構成だったのかは判りません。ですが、少なくとも上記引用の通り、皇后であった倭姫王以外では、妃と夫人が欠員で、嬪4員という枠に遠智娘と姪娘、橘娘、常陸娘がいた、と日本書紀は明記しています。
 一方の「万葉集」には、やはりこちらも上記引用の通り、石川夫人なる人物の歌が採られているわけで、恐らくは石川麻呂の娘だった遠智娘か姪娘のいずれかではないか、と愚考してみるのですが。

 いずれにせよ、1つだけ明確なのは倭姫王が立后していたのは、彼女が天智をめぐる女性たちの中で唯一の皇族出身者であったからであり、同時に日本書紀に嬪とされている4人は有力豪族の出身者であったから、ということです。
 引き続き、日本書紀を引きます。

|又宮人の、男女を生める者4人有り。忍海造小竜が女有り。色夫古娘と曰ふ。一の男・二の
|女を生めり。其の一を大江皇女と曰す。其の二を川嶋皇子と曰す。其の三を泉皇女と曰す。
|又栗隈首徳万が女有り。黒媛娘と曰ふ。水主皇女を生めり。又越の道君伊羅都売有り、施
|基皇子を生めり。又伊賀采女宅子娘有り。伊賀皇子を生めり。後の字を大友皇子と曰す。
                   「日本書紀 巻27 天智天皇 天智7年(667年)2月」


 ようやく、この近江・飛鳥・藤原・奈良、と続いた白鳳や天平の歴史に名前が残っている大友・志貴・川嶋といった天智の皇子たち、そして伊勢斎宮となった泉皇女の名前が登場していますね。ですが彼ら、あるいは彼女たちは、あくまでも天智後宮の宮人、あるいは采女だった母親から生まれているということで、皇后と嬪の間に厳然たる境界があったように、嬪や夫人、妃と宮人や采女の間にも、厳然たる境界が存在していた、と考えられます。
 ではそもそも、宮人や采女とはどういうものなのでしょうか。

 養老令の後宮職員令全18条。これは1条が妃条、2条が夫人条、3条が嬪条、となっていて要するに当時、正式な妻として迎えら入れるのはあくまでも嬪まで、とされていたのに対し、4〜15条に渡って定められている宮人というのは、後宮の職員として仕えていた女性たちだった、と。

|凡て諸氏は、氏ごとに女を貢げ。皆年卅以下十三以上に限る。氏名に非ずと雖、自進みて
|仕へむと欲ぬ者は聴せ。
                    「養老令 後宮職員令 第18条 氏女采女条」


 恐らく、嬪が中央の大豪族の出身であるのに対し、小豪族あるいは地方豪族出身者が宮人に該当していたのでしょう。そして采女は

|郡の少領以上の姉妹及び女の、形容丹精しき者
                    「養老令 後宮職員令 第18条 氏女采女条」


 とありますから、地方豪族よりさらに小さい郡の豪族たちから貢物、ないしは人質として差し出された存在が采女であった、ということになると思います。

 近江神宮の駐車場に車を置いたまま、大津市役所方面へ向けて歩き始めます。一見、ごくごく普通の住宅地なのですが若干、気になったのは何だか空地が多いな、ということで、しかもその空地が公園になっているわけでもなければ、かといって本当の空地然としているわけでもなくて。
 ぼんやりと不思議に思っていたのですが、さらに進んでしまってからようやく悟りました。
「もしかして、これが大津宮跡...」
 明日香も、藤原も、平城も。いや、離宮でしかなかった吉野宮跡でも。凡そ皇宮跡の類というのはもっとそれ然、としているという思い込みが、小気味良く壊れました。単なる空地だと思っていたあちこち。そのすべてが大津宮跡だったのです。


 詳しいことは知りません。ですが、恐らくは民家が続くことから、発掘できる場所と私有地などの出来ない場所とがある為に、藤原や吉野のように宮の敷地と思われる一帯への、大規模な発掘調査ができないのでしょうか。
 ...そういえば、明日香の嶋宮跡も発掘調査後に、まだ埋め戻されていました。周囲には民家もたくさんありましたね、そういえば。







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