|家にありし櫃にかぎさし蔵めてし恋の奴のつかみかかりて | |右の歌一首は、穂積親王、宴飲の日にして、酒酣なる時に、好みてこの歌を誦して、以て恒 |の賞と為したまひき 穂積親王「万葉集 巻16-3816」 「家にあった櫃に鍵をかけてしまっておいた恋の奴がわたしに掴み掛かって苦しめることだ」 現代も含め、後世の人間たちはより一層のドラマを求めて夢を見ます。そして、穂積のこの歌も、但馬とのことを詠んだに違いないのではないか、と解釈されてほぼ定説のように語られてもいますが。 ...事実は判りません。全くないとは言えないでしょうし、かといってそうだとも思い切れませんし。ですが確かにここに穂積が宴席で酒も酣になると必ず謡っていたという、歌が存在していることだけは事実であり、結局はそれがすべてでしかありません。 |青みづら依網の原に人も逢はぬかも |石走る近江県の物語りせむ 作者未詳「万葉集 巻7-1287」柿本人麻呂歌集より撰 人麻呂歌集より万葉に採られた旋頭歌です。依網の原とは、現在の大阪府の住吉と河内の真ん中くらいの土地、とされているようですが、要はその地を行っていた作者が思っているんですね。 「この依網の原を歩いていて誰か人と会わないだろうか。近江国の物語を話したいのだが」 と。 時系列で考えれば、少なくとも人麻呂が生きていた時代に、人々がよく知っていた近江国の物語でなければ、依網の原をいっていた作者が語りたくなるわけがありませんですから壬申の乱のことかも知れませんし、蒲生野のことかも知れませんね。 けれども同時に、人寂しいとき話題にしたいような話となると、かなり内容的にも限定されてくるでしょう。また、今さら話題にするのもねえ...、と思えるくらい人口に膾炙されたものであることもやや思いがたく。 これも夢です。わたしがそう思いたいだけの夢。けれども、そしてだからこそ、何となく思ってしまうのは、この近江国の物語がもしかたら穂積と但馬のことであったのかも知れない、という可能性です。 そんな可能性をほのかに温めながら、山を降ります。大きな石碑と点在していた礎石と、ただ時間が止まったように凝っている山中に拓けた広場を、もう一度だけ振り返ってから、進みだして。...また滝音が、どんどん近く響き始めてました。 山の中にいた時は、それほど感じていなかったのですが、また市街地に戻ってみると、もう明らかに天気が変でした。ここまでも、雨もぱらぱら降っていましたし、けれどもそれは 「まだ、あちこち見て周れる」 と思える範囲のものであって、まさか車を降りることすら躊躇してしまうような土砂降りの気配は、感じていなかったのですが。 大津市の中心部にある近江神宮。天智を祭神としているお社の駐車場に着いた時、市内放送が辺りに響いていました。どうやら午後5時になってしまったようですね。そして、近江神宮の参拝は午後5時まで、となっていますから時間切れです。 また、ならば近くの大津宮跡や弘文天皇陵を訪ねようか、とも思ったもののとにかく、洗面器を引っくり返したような土砂降りで、その気も起きず。カーラジオで確認したところ、やはり台風13号の影響のようです。九州に上陸する勢いだとか。 急に昨日と今日の疲れが一気に襲ってきていました。日程を考えれば、ここで1ヵ所でも進んでおいた方がいいのは判っているのですが、もう身体も、気持ちも、うんともすんとも動いてくれず、そのまま駐車場でぼんやりし続けること30分。 ようやく、ともあれ宿に帰って休もう。それだけを思って再び車にエンジンを掛けます。今回の古歌紀行。わたしが最も訪ねたい場所は蒲生野と大津宮跡と紫香楽宮跡。ですが、そのうちの2ヵ所はいまだ未踏で、しかも予定では明日、わたしは神奈川へ帰ることになっているのですが。 接近してくる台風。消化しきれない予定、すこしずつ減ってゆく近江にいられる時間。 「...台風で名神や東名が閉鎖されたら、わたしどうすればいいのかな」 焦りと不安と疲労と。...こういう時は、何を考えてもそうそういいことにはなりません。ほんの目の前にある大津宮跡への未練を絶って、逆に明日は早朝からこの一体を周れるように、早く宿へ戻って、ゆっくり寝ないと...。 もう乗り始めて8年になる愛車の屋根を、雨が容赦なく叩き続けていました。 −・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・− アラームが鳴ったのは早朝4時半。とにかく6時には近江神宮に着いていたかったので、そうなりました。カーテンを開けると、かすかに雨は降っているものの、ほんの小雨程度のようです。テレビをつけて台風の進路を確認したところ、すでに日本海海上に抜けていました。ですが、九州各地では大きな被害が出てしまったようですね。 ...そんな時に、暢気に古歌紀行をしようとしていることに、なんだか少し胸が痛みました。けれども、世界規模で考えれば常に誰かが被災なり、被害に遭っているとも言える訳で、では日頃の自分はどうなのか、と考えてしまうともう、どうにも。 あれ知らにゑみて食みゐる 空蝉のひとにて世にそ逆ふるはうらか 遼川るか (於:草津市の宿) 不謹慎はもとより承知しています。ですがせめて、と被災されていらっしゃる方々のご無事を祈ってから宿を後にしました。 まだ薄暗い5時台。車の通行量はとても少なく、草津の宿から近江神宮までは、近江大橋を渡ったこともあってか思っていた以上に早く着けました。...そう、昨日へばってしまった近江神宮の駐車場へ、です。時刻はまだ6時少し前。ご近所の方々なのでしょう。この時刻なら参拝客が少ないからなのか、飼い犬を散歩させている姿が複数見られ、全国区の大社も地元ではやはり、近所のお社なんだな、と感じていました。 車を降りてのんびり境内を歩き始めます。参道沿いに様々な由緒書きや摂社があって、それらをちらちら眺めつつ進むと、本殿へと向かう階段が現れます。階段を登り切れば朱塗りの門があり、さらに進むと近江神宮の本殿です。 本殿に向かって先ずは大きく一礼をしてから敷居をまたぎ参拝。祈ったことはいつものものに加えて、もう1つ。台風に関することも加えました。 続いて、この旅では2度目となるお御籤。こちらの結果は吉とでました。...あまり好調な結果が出続けるのもどうか、とは思うんですけれどね。 近江神宮そのものの歴史は、決して古くはありません。創建は昭和15年とのこと。ただ、何となく立ち寄ってみたくなったのは中大兄皇子という人に、近づいてみたかったからなのかも知れません。 古代史に関わっているとよく 「中大兄皇子と、大海人皇子のどっちのファンか」 というような問いを見かけますし、訊かれもします。もっとも、わたし自身はそのどちらでもなく讃良という人が先にいることは変わりませんし、それゆえにいずれかと言うならば、自然と大海人皇子の方が何となく近くは感じてしまうんですね。 ただ、こうして近江国を巡っていると、中大兄皇子という人にもっと近づかないことにはどうにも見えてこないものがあるように感じてしまってもいて、だから気づいた時には訪問地のリストに、近江神宮を突然、加えてしまっていた、というのが実際です。 中大兄皇子、あるいは天智天皇。わたし個人の彼との最初の接点はやはり百人1首です。 |秋の田のかりほの庵の苫をあらみ我が衣手は露にぬれつつ 天智天皇「後撰和歌集 巻6 秋歌中後 302」 わざわざ言うまでもなく、小倉百人の第1首目がこちらですね。...もっとも、髭面のおじさんが嫌で、4歳だったわしは天智をスルーして百人一首で最初にふれたのは讃良の「春る過ぎて〜」となってしまったのですが。 ただ、今になって思うのはこの歌、どうも天智のものとは思い難いな、ということです。 そもそも、万葉歌人のうち、小倉百人に採られているのは天智、持統、人麻呂、赤人、家持くらいでしょうか。安倍仲麿は奈良時代の人ではありますけれど、「万葉集」が成立した後に遣唐使になっていますので、時系列からすれば“小倉百人に採られている万葉歌人”とはならないでしょう。 ですが、その天智、持統...、といった5人に関しても、小倉百人に採られている歌が、本人作なのかという点については 「ちょっと、どうかな...」 と思いたくなってしまうものもまた、あります。 |春すぎて夏来にけらし白妙の衣ほすてふ天のかぐ山 持統天皇「新古今和歌集 巻3 夏歌 175」 |春過ぎて夏来るらし白栲の衣干したり天の香具山 持統天皇「万葉集 巻1-0028」 |田子の浦にうち出でてみれば白妙のふじのたかねに雪はふりつつ 赤人「新古今和歌集 巻6 冬歌 675」 |田子の浦ゆうち出でて見れば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける 山部赤人「万葉集 巻3-0318」再引用 この2組に関しては「万葉集」と後の勅撰和歌集、そして小倉百人もほぼ一致していますから、まず疑ってかからなくてもいいと思います。その一方で、家持の |かささぎのわたせる橋におく霜のしろきをみれば夜ぞふけにける 中納言家持「新古今集 巻6 冬歌 620」 こちらは類似歌や、作者未詳歌にも、それと思しきものは「万葉集」に登場しません。万葉よりも後世の人々が編纂した家持集から新古今に採られ、そして小倉百人にも採られた、という経緯だからです。 ...はい、そんなわけですから当然ですが、家持作ではないのではないか、という見方も根強く存在している歌ということになります。 |かささぎのわたせるはしにおく霜の白きをみれば夜ぞ深けにける 大伴家持「大伴家持集 冬歌 257」 けれども、ある意味でもっとややこしいことになっているのが、人麻呂の例となります。結論から言ってしまえば人麻呂作、あるいは「万葉集」に人麻呂歌集より、と明記されている歌で、小倉百人と一致するものはありません。...ですが作者未詳歌の中には存在しているといいますか、そうとも言い切れないといいますか。 |あしびきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝む 人麿「拾遺和歌集 巻13 恋3 778」 |思へども思ひもかねつあしひきの山鳥の尾の長きこの夜を | |或本の歌に曰く 足日木乃 山鳥之尾乃 四垂尾乃 長永夜乎 一鴨将宿 作者未詳「万葉集 巻11-2802」 はい、あくまでも「万葉集」に採られているのは「思へども〜」です。けれども異伝歌として登場しているのがそのまま小倉百人と一致するものなんです。そして、作者未詳、と。 |足日木乃 山鳥之尾乃 四垂尾乃 長永夜乎 一鴨将宿 |訓読:あしひきの山鳥の尾のしだり尾の長々し夜をひとりかも寝む 作者未詳「万葉集 巻11-2802」左注 一部再引用 少し脱線しますが、人麻呂歌集と家持集です。ここまでの書き方だと、わたしは家持集については随分ばっさりと後世の編纂による、として殆ど汲もうとしていません。けれども、その一方で、人麻呂歌集については、過去の拙作も含めてかなり汲んできています。 この差は何も人麻呂だから贔屓目に見ている、というのではなくて、少なくとも人麻呂歌集は「万葉集」に人麻呂歌集を出典としている、という記載が何度も登場していることに拠ります。 「万葉集」そのものの成立した時期からすれば、人麻呂は当然、過去の人です。なので、人麻呂歌集もまた、人麻呂や人麻呂の出身である柿本氏の人々が実際に謡ったものだけを編んだ歌集ではないのかもしれませんが、それでも人麻呂歌集が「万葉集」成立時にはすでに存在していたことを、他の何でもない「万葉集」自体が立証しています。なので、そういう意味では万葉期の歌である、と確定的に見ている次第です。 けれども、一方の家持集に関しては、明らかに万葉期より後の編纂・成立です。...当然なんですけれどもね。何せ「万葉集」を最終的に完成させたであろう人物の最有力候補が家持自身です。彼は時系列からしても「万葉集」成立以降も生きていたのですから。 家持集というものは、平安中期。ちょうど清女や紫女といった王朝文学花盛りだった一条天皇の頃に、今昔の代表的な歌人たちの歌を編纂した、三十六人撰の中の1つです。これが評判になって、36人が36歌仙となり、各個の歌集をさらに集めて三十六人集、別名・歌仙歌集も成立します。時代で言うと家持より約200年後、となりますか。 因みに、同じく36歌仙の人麻呂も、家持集と同様に柿本集(人麿集)が存在しますし、それは赤人も同様です。そしてもちろん、人麻呂歌集と柿本集は別の歌集です。 お話を戻します。ともあれ、小倉百人で人麻呂の代表歌のように思われているものも、その実は誰が詠んだものなのかはっきりはしない、ということですね。ですが、家持よりは状況的にまだクリアーで、少なくとも異伝であろうとも万葉期には存在していた歌だ、という1点についてのみは、断言はできる、と。 それでは、本題の天智です。こちらも先に結論を言いましょう。残念ながら「万葉集」には小倉百人に採られている「秋の田の〜」は存在していません。 |秋の田のかりほの庵の苫をあらみ我が衣手は露にぬれつつ 天智天皇「後撰和歌集 巻6 秋歌中 302」 天智本人の作に限定せず、作者未詳歌でも、異伝歌でもいいのですが、とにかくないんですね。彼が生きた時代の文献ということで、日本書紀を眺めてもやはりなく...。ただ、類似歌としてこちらが1首。 |秋田刈る仮廬を作り我が居れば衣手寒く露ぞ置きにける 作者未詳「万葉集 巻10-2174」 恐らくはこれを本歌として派生した歌が、後撰和歌集の成立したと目される955年〜957年の頃までに作者が天智である、として定説化したのでしょう。そして、同時に歌そのものも微妙に変遷していったのだと思います。 ...古典の世界にはままあることですからね。特に驚いたりはしません。ですが、天智の実作である可能性は限りなく低い、と感じることもまた事実。しかもこの歌はある意味で幸運だったのか、不運だったのか、小倉百人を編纂した定家の思惑で、担ぎ上げられてしまった御神輿のようにものになってしまった、とも言えます。 前述している三十六人撰にしても、その他にしても、平安期や中世に於いて、万葉期の秀歌を編んだものはすべて、人麻呂が巻頭を飾りました。何しろ歌聖ですからこれは納得できるものだと思います。 ですが、小倉百人で定家は人麻呂を巻頭にはしませんでした。山柿の門と称されたもう一方の赤人でもありません。定家が巻頭に据えたのは2人の天皇。天智とその子どもである持統、と。そして同じく小倉百人の末尾も2人の天皇であり同時に親子である後鳥羽院と順徳院で〆られています。 つまり、定家は 「和歌というものの流れは、皇室の存在抜きには語れませんよ」 ということを言いたかったのでしょうし、敬意も表したかったのでしょう。 ただ、ならば同じ上古の、親子で天皇となった組み合わせならば誰と誰でもいいじゃないか、ともなるのですが、これがまた意外に苦しい。...その実、あるようでないんです。 天武の遺児たちで天皇即位したものは、実は居ません。后、孫、ひ孫と即位はしていますが子どもはいなく、一方の天智の場合は、持統、元明といった女帝が即位しています。ただ、元明が残した歌として平安以降の勅撰集に採られているものがなく、あるのは持統の「春過ぎて〜」のみ。それ以前の時代になると、斉明(皇極)と天智や天武、あるいは舒明と天智や天武、などなど色々と組み合わせは考えられますが、やはり平安以降の勅撰集には登場せず。 また皇統そのものも天武系が主流だった100年はあれど、天平末期にまた天智系に戻ってしまっているわけで、そのあたりの両系列ともに皇統、と称えるのならば天智と持統という組み合わせ以外にはほぼ無理でしょう。 そんな恣意によって担ぎ上げられてしまった作者未詳歌が1つ。この現代に、古代の天皇の歌として広く伝わり、そして浸透してしまっています。...天智にとって、また元々の歌そのものにとって、果たしてこの変遷は幸運だったのでしょうか。不運だったのでしょうか。 いや、そんなことを言い出したら、それこそ「万葉集」も、記紀も、...となってしまいます。万葉初期の宮廷歌人の世界は、代作が当たり前だったのですから。 天智、あるいは中大兄皇子。そう呼ばれた彼に近づきたくて立ち寄ったはずでした。けれども早朝の近江神宮の境内で、呆然と立ち尽くしてしまっていたのは、わたし自身が抱えている大きすぎる矛盾を、改めて突きつけられてしまったから、なのでしょう。 何度も何度も、繰り返し突きつけられている夢、と呼ばれる矛盾です。 ともあれ、彼が詠んだとされている歌をまとめて引きます。 |君が目の恋ほしきからに泊てて居て斯くや恋ひむも君が目を欲り 中大兄皇子「日本書紀 巻26 斉明7年(661年)10月7日」 |妹が家も継ぎて見ましを大和なる大島の嶺に家もあらましを 天智天皇「万葉集 巻2-0091」 |香具山は 畝傍を愛しと |耳成と 相争ひき |神代より かくにあるらし |古も しかにあれこそ |うつせみも 妻を争ふらしき 中大兄「万葉集 巻1-0013」 |香具山と耳成山と闘ひし時立ちて見に来し印南国原 中大兄「万葉集 巻1-0014」 |海神の豊旗雲に入日さし今夜の月夜さやけくありこそ 中大兄「万葉集 巻1-0015」 |朝倉や木の丸殿に我がをれば名のりをしつつ行くは誰が子ぞ 天智天皇「新古今和歌集 巻17-1689」 この中で注目したいのは、新古今に採られている「朝倉や〜」でしょうか。前述している「秋の田の〜」と同じです。つまり、神楽歌にこんなものがあるんですね。 |朝倉や 木の丸殿に |我が居れば 我が居れば |名告りをしつつ 行くは誰 神楽歌「朝倉」 この朝倉という神楽歌については、寡聞にして詳しく走りません。大元は筑前の風俗(催馬楽や神楽歌に並ぶ古代民謡の1つ)だった、と言われているようです。 筑前。大宰府があった場所ですし、何よりもここで謡われている朝倉の木の丸殿とは、百済救済のために斉明天皇が筑前まで行在所を出張させて立てた朝倉橘広庭宮のこと。当然、その実際の指揮を執っていた天智作と謂われるようになるのもまた、判らないことではなし。 |五月の乙未の朔癸卯に、天皇、朝倉橘広庭宮に遷りて居ます。是の時に、朝倉社の木を |り除ひて、此の宮を作る故に、神忿りて殿を壊つ。亦、宮の中に鬼火見れぬ。是に由りて、 |大舍人及び諸の近侍、病みて死れる者衆し。 「日本書紀 巻26 斉明天皇 斉明7年(661年)5月9日」 |六月に、伊勢王、薨せぬ。 |秋七月の甲午の朔丁巳に、天皇、朝倉宮に崩りましぬ。 |八月の甲子の朔に、皇太子、天皇の喪を奉徙りて、還りて磐P宮に至る。是の夕に、朝倉山 |の上に、鬼有りて、大笠を着て、喪の儀を臨み視る。衆皆嗟怪ぶ。 「日本書紀 巻26 斉明天皇 斉明7年(661年)6月〜8月1日」 余談になりますが、日本書紀によると朝倉宮では怪奇現象が次々と起こり、挙句の果てに天皇であった斉明が他界。なので、中大兄皇子は朝倉から磐瀬へと、宮を遷しています。 ...どうも、 「〜名告りをしつつ行くは誰」 という内容とはそぐわない場所のようではありますが。また、同じく神楽歌には朝倉返し、というものも存在しています。様々な神事の最初に謡い舞われることが多い曲、とのことですが浅学ゆえにこれ以上はなんとも。 |いや見るにも聞くぬにもあかぬもの |いや韓神催馬楽笏拍子 |いや祝ひの舞をかき奏で |いや朝倉返しぞ面白き 神楽歌「韓神の歌」 余談ついでにもう1つ。この神楽歌の朝倉は、現代でもちゃんと謡われているものを聴くことができます。CDにもなっているようですよ。 歴史と時代。恐らく時代は時代として流れてゆき、歴史は歴史として紡がれてゆくものなのでしょう。いま立つここが何処なのか。...そんな大前提中の大前提すら、確たるものなどは何もなく、流れの途上に表れた中州のようなものだけを頼りに、人は像を結びます。 ないのであれば、ない。それでいいはずなのに、そのないという空白に人々がそれでも注ぎ満たしてゆくものたち。 追いかけても、追いかけても、手繰れるのはその圧倒的な空白ばかりで、逆に自身の脆弱すぎる足元ほど鮮明に浮かび上がってしまう...。そんな脆さを知る必要なんて実際にあるのかすら判らないというのに、です。 知りたい。ただ、この思いだけを抱いて歩き続けてきています。ですが、知りたいという欲求はその実、とてもとても自虐でもあることに、もういい加減わたしとて気づいているのですけれどね。 |
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