故地をまわっていると、こういう時間帯は必ずやってきます。つまり、それまで夢中で周っていただけに、ふと気づいてしまった疲労に、動きたくなくなってしまうタイミングです。今回の近江では、この小野公園でそうなってしまいました。...もう車から降りたくないんです、それもどうしても。
 雨脚は次第々々に強まります。この日の予定は、まだ6箇所も残っています。恐らく何箇所かは近江国再訪時への宿題とすることになるでしょう。だとしたら、それは何処がいいのか。個人的興味もさることながら、旅全体のテーマから比較的遠いところをチョイスしたいわけで。

 何とも、身体は正直です。ちゃんと条件に該当する場所で、疲労を訴えています。...いや、違いますね。むしろ、身体が疲れて動きたくなくなっている以上、妹子の墓参を止めようとしている自身を、正当化する理由が欲しいだけでしょう。
 ...せめても、と車だけは降りました。そして唐臼山古墳の頂上へ拝礼だけをして、わたしは進みます。実はもう1ヶ所、今日訪ねようとしていたのにパスした墓所もあります。もう少し南下してから山の中へ入ってゆくと紀貫之のお墓があるらしく、ここも訪ねようとしていたのですが、朝寝坊したことから最初に諦めた場所でした。

 墓参という、先人への表敬よりも自身の探求。...何かが歪にも思えますし、逆にとてもシンプルにも思えます。いま一度、雨雲に覆われた空を見上げて、そして車にエンジンをかけました。

       −・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−

 穴太。これで「あのお」と読むそうですが、京阪石山坂本線にも駅があります。道は相変わらず傾斜する山裾を、段々畑状に切り拓いた段差の中、進みます。大津市の中心部へ、少しずつ少しずつ近づいてきているので、心なしか周囲の住宅の数も増えているようです。
 小野神社界隈もそうでしたが、この一帯の街並みが何だかとても落ち着いていて、懐かしく感じてしまうのは、道路の両脇に設えられた側溝が理由なのだと思います。それも、半ば生活排水路としてある狭く、汚い側溝ではなくて、水路とも呼べてしまうくらいの幅と、そして水の清涼感と。そんな側溝が、道路の両脇だけではなく、山裾を下るためにも走っていますから、車の窓を開けると水の流れる音がずっとかすかに響いています。...これが一層、懐かしさの込み上げて来る原因のようですね。

 探していたのは、高穴穂神社。幾つかの資料で確かめた範囲では、おそらく大津市内最古の神社ではないか、と言われているお社です。そして、古代史を追いかけている人間には、やはり外すことのできない重要ポイントではないかな、とも思います。

|五十八年の春二月の辛丑の朔辛亥に、近江国に幸して、志賀に居しますこと三歳。是を
|高穴穂宮と謂す。
                「日本書紀 巻7 景行天皇 景行58年(128年)2月11日」

|若帯日子天皇、近淡海の志賀の高穴穂宮に坐して天の下治らしめしき。
                            「古事記 中巻 成務天皇」


 「あきづしまやまとゆ・弐」で詳しく書きましたが、歴代の皇宮地の変遷。初代の神武は別としても第2代綏靖〜第9代開化までの所謂、欠史8代は葛城山一帯に集中していることから、葛城王朝と呼ばれています。また、その後の第10代崇神〜第12代景行までは三輪山周辺に集中していることから、三輪山王朝とも。さらに第15代応神、第16代仁徳は難波王朝とも呼ばれることがあるのですが、では、空白の第13代成務と第14代仲哀は、どうなのか、となると思います。
 先に言ってしまえば、日本書紀によると仲哀は敦賀や下関や福岡などなどに仮宮も含めて建てては移動していまして、ここといった拠点があった印象は希薄です。

 けれども、成務は違います。上記引用している通り、彼はこの近江国の皇宮にて政治をとりもったということです。
 そもそも、この地へ遷都したのは景行だった、と日本書紀はしています。はい、兵主神社にあった社伝の説明書きを覚えていらっしゃいますでしょうか。

| 湖南の沃野野洲川下流兵主の里に鎮座の当大社は大国主神が天孫の勅に応じて国土
|を譲られた際に御杖とされた< >矛を宮中に御鎮祭になったが、景行天皇御矛の神威を
|日代宮域近き大和国穴師に神地を< >め皇子稲背入彦皇子(大和武尊の弟)をしてこれを
|祀らしめられたのが発祥である。
| 景行天皇近江の国滋賀郡に遷都される時全皇子献地を穴太(大津市坂本)に求められ
|遷し祀られた依て今日この地を元兵主と言う。
| のち欽明天皇の時代一族が琵琶湖上を渡り東に移住するに際し大神を奉じて今の地
|に鎮祭し地域住民の守護神として御神徳を仰ぎ当地を開拓した。
                        兵主大社境内看板より抜粋・再引用
                               ※< >は判読不能部


 その高穴穂宮跡の伝承地が、高穴穂神社の裏手にあるのだといいます。


 雨雲だけではないのでしょう。時間的にも湖国はそろそろ薄暗くなり始めていました。路地と路地とが狭い上に、複雑に交わっているため、すぐそこに見えているお社へ車を進めることができません。たまたま、農作業をしていらしたお父さんに尋ねたところ、徒歩で行ったほうが早い、とのこと。ちょっとしたスペースに車までとめさせて戴いて、まだ何とか本降りになりきらない空の下、小走りにお社へ。
 鳥居の脇には、氏子さんたちによる看板が立てられていて、曰く

|高穴穂宮跡(伝承地)
|第12代景行天皇、第13代成務天皇、第14代仲哀天皇と3帝の都の跡が高穴穂宮と称され
|るものである。景行天皇の御代3年、成務天皇の御代60年、仲哀天皇のおられたのは半年
|にしかならない。穴太を中心に扇状台地を領し都を営まれるに好適地であったろうと
|思われる。現在の高穴穂神社の社殿が内裏のあった跡だとか、又は西の住宅の中がその
|跡だとか云われている
|                              氏子一同
                           高穴穂神社説明書きより引用


 

 とのこと。読んでいて、最初に
「...あれ」
 と思ってしまったのが、仲哀は半年しか云々、という件。気になったので神奈川帰還後に記紀はもちろん、先代旧事本紀や古語拾遺を調べましたが、それらしき記述はありませんでした。

 すでに繰り返し拙作で、そして本作でも書いてきていますが、基本的に記紀が語るこの国の古代史は、鵜呑みにはできないものです。もちろん、わたし自身は何も古代史の謎を暴きたい、というような野望があるわけでもなく、あくまでも文芸作品として記紀や先代旧事本紀、古語拾遺などにふれているつもりです。
 そして、これらの文献にある正当化と捏造と歪曲。それらを特別忌避しているわけでもなく、それも含めて人間の営み。そう思っています。

 記紀によれば、景行天皇の時代、彼の第2皇子であった倭建が各地を平定。それに呼応するように、景行の後を継いだ成務(倭建の弟)は各地に国造を任命します。

|四年の春二月の丙寅の朔に、詔して曰はく
|「我が先皇大足彦天皇、聡明く神武くして、に膺り図を受けたまへり。天に洽ひ人に順
|ひて、賊を撥ひ正に反りたまふ。徳、覆Zにrし。道、造化に協ふ。是を以て、普天率土、王
|臣はずといふこと莫し。稟気懐霊、何か得処ざらむ。今朕嗣ぎて宝祚を践れり。夙に夜に
|兢きタる。然るに黎元、蠢爾にして、野き心を悛めず。是国郡に君長無く、県邑に首渠無け
|ればなり。今より以後国郡に長を立き、県邑に首を置てむ。即ち当国の幹了しき者を取り
|て、其の国郡の首長に任けよ。是、中区の蕃屏とならむ」
                  「日本書紀 巻7 成務天皇 成務4年(134年)2月1日」


 そして、そんな国家としての基盤を作った、とも言えてしまう古代史のエポックメイキングの舞台が、ここ・穴太の地であり、高穴穂宮だった、ということになるでしょうか。

 高穴穂神社の薄暗い参道をゆきます。境内に入って最初に出迎えてくれるのは、おそらくは神楽殿と思われる建物。余談になりますが、近江国のお社には、神楽殿が関東の神社に比べて圧倒的に多いように感じます。続いて、本殿です。そして本殿もやはり、禁足地らしく垣に囲まれていました。
 参拝を済ませ、本殿裏手にあるという宮跡へも行きましたが、もう何かの歯車が噛み合わなくなってしまっていたようで、視界がぼんやり霞んでゆき、足元がぬかるんでいるような奇妙な感覚に襲われていました。


 例えば倭建。文芸的要素とか、古代史に馳せる人々のロマンとか。そういったものをすべて排して、極めてシビアに書くならば、十中八九、実在などしなかった存在でしょう。また、その息子となる第14代仲哀も、当然ですけれど実在などしていないのでしょうし、追々書いてゆく、仲哀の皇后であった神功も、実在していなかったのだと思います。

 さらに、ここ・高穴穂宮で在位していたという成務。彼も架空説が圧倒的に有利な天皇となりますから、成務が実在していなければ、この宮跡も架空であった、となってしまうわけです。
 では、その成務が父・景行を祀るためにな創建したこの高穴穂神社はどうなるのでしょうか。成務や倭建と兄弟だった稲背入彦皇子が創建した、という兵主神社は一体...。

 大前提として、正しさを求めているのではありません。正しさを尊ぶのなら、わたしは最初から記紀を手にはしなかったでしょうし、古歌紀行ではなくきっと刷毛と箆をもって考古学的見地から、古代史と関わったのだと思います。だから、架空だって構いませんし、事実無根であっても個人的には、いいとすら思っています。
 ですが、わたしの中でどうしても巧く呑み込めないでいるのは、そういう様々な伝説に対して、歴代の人々がしてきたことと、見てきたものです。

 わたし流の言葉で表するのならば、それらはすべて夢です。昨今、夢というと英語のドリームの意味から、まるで人生の目的とか希望、というような遣われ方をすることがとても多いですが、日本語に於ける夢は本来はかないものの代名詞。覚めれば消える虹や泡沫です。
 この近江国がそうなのか、あるいはそんな日本的な夢に偶々いまのわたしが反応しやすくなっているだけなのかは判りませんが、近江入りしてからずっと感じてしまっている、様々な時代と種々の立場から、それぞれが描いて、そして堆積させてきてしまった夢の残骸たちに、軽く眩暈がしてくるようで...。エネルギーを吸い取られているように思えてなりません。

 現代人より、かつての人々の方が、夢のはかなさはよく知っていたはずでしょう。なのに何故、それでも人は夢を見続けてきたのでしょうか。
 いや、他人事ではありません。斯く言うわたしもまた、フィールドワークという実地検分はしているものの、それすらも大きな大きな括りでの古代史という夢の範疇内のこと。もう、とうの昔にわたし自身も夢に喰われてしまっているのです。

 かつて訪ねた甲斐国で実は虚も実も産むし、虚もまた実も虚も産むのだ、教わりました。だから判っているつもりはあるのです。なのに、判らなくなっているのは人々をそうまで駆り立てる夢であり、駆り立てられた人々の情熱であり...。
 人間という生き物の美しさと狂気が、ここにあるのだと感じます。わたし自身も含めて、もはやこれは狂気に近いのだと感じてしまうんですね。

 夢というもの1つをとっても、それを夢のままとして追い求めたい人もいるでしょう。あるいは、わたしのように夢である以上、判らないなりにも事実に近づくことや、納得することを求めたいこともあります。
 夢という対象に求めるものは様々なのに、それでも人は夢を見ます。夢を見たがります。精神の安全弁、なのでしょうか。...それもまた、違うと思えてならないのですけれどもね。

|玉たすき 畝傍の山の
|橿原の ひじりの御代ゆ
|生れましし 神のことごと
|栂の木の いや継ぎ継ぎに
|天の下 知らしめししを
|そらにみつ 大和を置きて
|あをによし 奈良山を越え
|いかさまに 思ほしめせか
|天離る 鄙にはあれど
|石走る 近江の国の
|楽浪の 大津の宮に
|天の下 知らしめしけむ
|天皇の 神の命の
|大宮は ここと聞けども
|大殿は ここと言へども
|春草の 茂く生ひたる
|霞立つ 春日の霧れる
|ももしきの 大宮ところ
|見れば悲しも
                          柿本人麻呂「万葉集 巻1-0029」

 一般に近江挽歌とも、近江荒都歌とも呼ばれる人麻呂の長歌です。歌そのものについては、後述させて戴くとして、この中で1つ注目したいのが冒頭から、20句目の「近江の国の」までです。
 ここまでを現代語に訳すとこんな感じになるでしょうか。
「畝傍山の麓の橿原の宮の時代(神武朝)から、生まれ来た代々の天皇はみな大和を都としてきたというのに、一体どのようにお考えになられたのか、平城山を越えてもう大和ではない片田舎の近江国の〜」

 ...歌の中では大和、と人麻呂は言っていますが恐らくは大和国という限定ではなく,畿内のことを言いたかったのだと、考えられています。そして、それでは畿内とは一体、何処までなのかと言えばこうなります。

|凡そ畿内は、東は名墾の横河より以来、南は紀伊の兄山より以来、西は赤石の櫛淵より以
|来、北は近江の狭狭波の合坂山より以来を、畿内とす。
                  「日本書紀 巻25 孝徳天皇 大化2年(646年)1月1日」


 はい、近江へ遷都をした天智、すなわち中大兄皇子その人が、中臣鎌足と共に為した大化の改新。その詔の中で定義されている畿内とは、大和盆地全域はもちろん、南が現在の和歌山県のかつらぎ町界隈、西は兵庫県の明石市界隈、東は三重県の名張市界隈、そして北が京都府と滋賀県の県境界隈より内側の地、と。
 つまり、現在の奈良県でも南半分は畿内ではなかったことになりますし、一方の西に至っては遠く明石までが含まれていたことになります。そして、人麻呂が謡うように天智朝の近江大津宮は、歴史上初めての畿内の外の都だった、と。

 もちろん、これはあくまでも“人麻呂が認識していた”この国の歴史に拠れば、です。何せ人麻呂は記紀よりも前の人。...記紀が編まれたのは、人麻呂がこの歌を詠んだ時よりも後です。
 当然ですが、記紀に記されている皇宮地は、畿内の外だった場所も複数あります。該当するのは景行・成務によるここ・高穴穂宮と、続く仲哀の穴門豊浦宮(山口県下関市が伝承地)とされている)、筑紫橿日宮(福岡県福岡市が伝承地とされている)となりますか。
 ...いや、何もだからといって成務や仲哀は実在していなかった云々、故にこの伝承地がどうこう、ということではないのですけれどね。

 憧れ、というものが嫌いです。日本語本来の意味ではない、ドリームとしてある夢という言葉も、そしてものも、好きではありません。正義なんてものは、正当化の口実だ、とさえ思います。
 ...ならば何故。何故、わたしはその結晶とも言える記紀を、未だに読み続けているのでしょうか。何故、こうして古歌と古代史を巡る旅を、性懲りもなくしているのでしょうか。

 それこそ、わたしがわたしの中の矛盾を認めたくないが為に、正当化の口実として記紀を引っ張り出しているのではないのか、と。あるいは、記紀万葉風土記などに親しむ、という生活そのものに憧れているからではないか。そして、既に喰われていると明確に自覚している、夢というファンタジーの中で、独り遊びをしていたいだけではないのか。
 そんな自嘲にも満ちた思いが渦巻き、けれども同時に、
「何を今さら。そんなことはもうとっくに承知していることでしょう。一体まだ何を往生際悪く足掻いているのか」
 とも思っている自身も確かに存在していて、気づいたら泣いていました。

 旅に出ると必ず、この自問が襲ってきます。
「何故なのか」
 と。そして
「何を」
 と。1つ前の旅で、もう決着はつけたはずなのに、と感じているのに、毎回々々必ず、襲われてしまいます。...試しているのでしょうね、わたしは、わたしを。そして、試されてもいるのでしょう、きっと。

 人が人として立つということ。時に人は、自らが立つ理由欲しさに理屈を捏ね、挙句ルールや道徳までをも作ります。また、それに依ることで自らを支えます。けれども同時に、立つための理由としてそのルールや道徳が機能しなくなった時。...人は再び新しいルールと道徳を生み出してきているのでしょう。
 ならば。...ならば何故、人は何物かに支えられるのではなく、何物かを支えとするのでもなく、自立しようとしないのでしょうか。すべては自らの選択の責任として、選択の恩恵とその表裏一体の弊害を、併せて受けることこそを。

 ...旅に傷口を塞ぎます。けれども旅に受ける傷もあります。旅は愉楽です。そして過酷です。高穴穂宮跡伝承地と、高穴穂神社。
 大和国で、綏靖の高丘宮跡伝承地を訪ねた時は、こんに風に思いませんでした。もちろん、その差異の大前提には、わたしが欠史8代はすべてとは言わないまでも、存在していたという葛城王朝説を採っているということが挙げられます。...逆に、高穴穂宮について、わたしの中では実在していなかったのであろう、と思っているわけで、だから余計に自身の中の矛盾を凝視せざるを得ないのです。

 「高丘宮と高穴穂宮。片や信じて、片や信じず。ではその差は何なのか」
 ...言い出せばもっともらしい理由は色々あります。ありますけれども、それらは全て枝葉末節。答えは1つしかないはずです。
 それは、信じたいから信じているし、信じるのにあまり気が進まないから信じていない。たったこれだけのことでしょう。...そう、これだけです。

 

 頼まむと思はゞ頼むはいめなるものか
 いめなるはいかなるものと頼みてゐるか  遼川るか
 (於:高穴穂神社)


 「どうやら、今日の予定は周りきれそうにないな...。こんなことになるのなら、小野妹子の墓参をちゃんとすればよかった」
 そんなことをかすかに考えていたのを覚えています。あれこれと考えすぎて、そしてあちこちを周りすぎて、そろそろ疲労がピークに達していたのでしょう。雨が、少し大粒になったような気がしていました。

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 穴太から一気に湖側へ向かって降ります。国道を2本、線路も2本、それぞれ越えて琵琶湖の波打ち際まで。
 志賀の唐崎。琵琶湖8景にも唐崎の夜雨、として採られている景勝地ですが、同時に万葉歌にも詠まれた地です。

 流石に、もうこの界隈まで南下してくると、街中はすっかり渋滞する車たちと、幹線道路沿いに並ぶ雑居ビルと、学校帰りらしい制服の集団と。ただ、それでも地元の街中とでは明らかに違う雰囲気はいまだに漂っていて、その原因が漫ろ歩く観光客の集団にある、と気づくには、少し時間が必要でした。
 ここ・唐崎よりもう少し北側には琵琶湖周辺の観光ガイドブックなどに多く、写真掲載されている浮見堂がありますし、ここは唐崎の松で有名な地。

 浮見堂はまだ高校を卒業したばかり、というくらいの20歳前後の人が多かったのですが、唐崎の松は逆にもうすっかり落ち着かれた世代の方ばかりが数組、訪れていました。
 天気が下り坂だからでしょうか。湖面を渡ってくる風は、随分と強くなってきていて琵琶湖の波も、
「さゝなみ」
 とするには少々厳しいかな、と感じるほど強く、荒れてきています。







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