|次の妃五十河媛、神櫛皇子・稲背入彦皇子を生めり。 
                   「日本書紀 巻7 景行天皇 景行4年(74年)年2月」


 ただ、興味深いのは景行天皇の時代、それまでの大和国は纏向の日代宮から、ここ近江国の穴太に遷都がなされているわけで、その際も兵主大社は遷されているということです。さらには、その後に祭祀であった稲背入彦皇子の一族が琵琶湖を渡って、この湖東に移住したのだ、と。
 穴太への遷都については追々、詳しく書きますのでここでは措きますが、後半の欽明期に一族が湖を渡った、とする社伝には、何だか唸ってしまいました。実は、日本書紀にはこんな件もあるんですね。

|夫れ天皇の男女前後并せて八十の子まします。然るに、日本武尊と稚足彦天皇と五百城
|入彦皇子とを除きての外、七十余の子は、皆国郡に封させて、各其の国に如かしむ。故、今
|の時に当たりて、諸国の別と謂へるは、即ち其の別王の苗裔なり。
                   「日本書紀 巻7 景行天皇 景行4年(74年)年2月」


 天つ神と国つ神。こう分けてしまえば、それぞれの境界は存在するのでしょうが、元々は伊弉諾・伊邪冉から生まれた神のうち、高天原から追放された素盞嗚尊の系譜が国つ神。そう始祖は1つなんですね。そしてその天つ神と国つ神がまた混交し、倭という国になって。
 けれども、その倭の国もまた景行天皇の皇子・皇女たちが各所を統治したものであって、それがまた個別の系譜となって...。

 統合と分裂。世界が負っている輪廻であり繰り返しの理です。違うということと、同じということと。
 個人的には同じなんていう認識は錯覚だ、と思っています。だから同じという論理の元に何かを語るのはとても危険で、暴力的ですらある、と。...ですが、ならば世界の全てが同じではないと言い切れるのか、と問われたならばわたしはきっと、返答を躊躇するでしょう。

 あれ在りて
 いましも在りぬ
 こに在りて
 そも在るゆゑにうつそみは
 きはみを欲りす
 きはみにてあれはし立たる
 きはみにていまし立たるゝことはりは
 え違はざるもの
 天地の発けし時ゆ
 天在るに地の在らるゝうつそみは
 天と地とのきはみにて
 綿津見またも
 陸にもきはみの在れば
 玉の緒の玉の緒として
 息の緒をたうとぶことも
 きはみにて別るゝことも
 きはみにて結べるものも
 うつそみにきはみふさにて
 空蝉のひとの子間なく
 欲り欲りて
 なほし捨てまくほしといふ
 なほし消えまくほしといふ
 しに宿れるが世とて沁むれど

 名告藻 世とふ名にして世は世にて世にはあらざるさても神漏岐

 別れたり かれあなぐるはみなもとゝきはみになりてなほなほし、なほ 遼川るか
 (於:兵主大社)


 時々、次々と枝分かれを続ける遺伝子というものたちに。そして個々の細胞というものたちに、わたしたちはただ生かされているだけなのかも知れない、と。個として立てない彼らが立つための仮初の宿。それこそが人間に過ぎない、と感じる時があります。
 同じであることと、違うということと。いつだって答えは1つ、
「すべて違って、けれどもすべて同じで」
 としか言いようもなく、これがわたしの認識範囲の限界なのか、と嘆息が漏れてしまうこともありますけれども。

 

 でも、だからこそ知りたいのです。そして、仮に細胞たちに司られているのだとしても、遺伝子たちに操られているのだとしても、突き詰めてしまえば
「それでいいじゃない」
 と思ってしまうわたしは自我の境界なんて代物を、信じていないし、けれども同時にとても信じているのでしょうね、きっと。
 水の匂いがますます強く、濃く、風に乗って境内に満ちてきていました。

       −・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−

 さざなみ街道。湖東の湖岸沿いの道路に、そんな名前がついていました。さざなみ。こんな件が近江国風土記逸文にあります。

|細浪国(~樂入綾所引、淺井家記録)

|近江の国の風土記を引きて云はく、淡海の国は、淡海を以ちて国の号と為す。故に一名を
|細浪の國と云ふ。目前に湖上の漣を向ひ觀るが所以なり。
                                近江国風土記逸文


 風土記そのものは、和銅6年(713年)に元明天皇が命じたことにより、各地で編まれ、そして提出されたものです。

|五月甲子、機内と七道との諸国の郡・郷の名は好き字を着けしむ。その郡の内に生れる、
|銀・銅・彩色・草・木・禽・獣・魚・虫などの物は、具に色目を録し、土地の沃、山川原野の名
|号の所由、また古老の相伝ふる旧聞・異事は、史籍に載して言上せしむ。
                      「続日本紀 巻6 和銅6年(713年)5月2日」


 ですが、少なくともこの近江国とささなみ、という響きの関係は相当古くからのもののようです。というのも、記紀歌謡に登場しているからなんですね。

|この蟹や いづくの蟹 
|百伝ふ 角鹿の蟹 
|横去らふ いづくに至る
|伊知遅島 美島に著き 
|鳰鳥の 潜き息衝き 
|しなだゆふ 佐佐那美道を
|すくすくと 我が行ませばや 
|木幡の道に 遇はしし嬢子
|後方は 小蓼ろかも 
|歯並はし 菱なす
|櫟井の 丸邇坂の土を 
|初土には 膚赤らけみ
|底土には に黒き故
|三栗の その中つ土を 
|頭著く 真火には当てず 
|眉画き 濃に書き垂れ 
|遇はしし女 かもがもと 
|我が見し児に かくもがと 
|我が見し児に 現たけだに
|向かひ居るかも い副ひ居るかも
                  応神天皇「古事記 中巻 応神天皇 3 矢河枝比売」


 はい、佐佐那美と確かに詠まれていますね。そしてこれが万葉期になると枕詞としてもう定着しています。そう、「楽浪の」あるいは「楽浪や」です。万葉期まではささなみ、と清音ですがこれが平安以降はさざなみ、と濁ります。枕詞として導くのは、志賀や大津、比良などの地名が主になりますけれど、さらに突き詰めると専ら旧都・大津宮に纏わるものが殊、万葉歌には当然ですけれど圧倒的に多いですね。


 言葉としては静かな湖面を表すのに適しているのでしょうが、どうも個人的には失われてしまったものを偲ぶ印象が、強い気がしていまして。...ペンションやバンガローの並ぶ、賑やかな観光地に対して、どうもわたしの感慨は不謹慎なようです。
 その、さざなみ街道を走り再び野洲川を渡ります。そして見えてきた大橋。...はい、琵琶湖大橋ですね。

 琵琶湖には、この琵琶湖大橋ともっと南。もう瀬田川の近くに近江大橋が、それぞれ架かっていて有料道路になっています。
 いや、実はこの近江国古歌紀行、行程がどうも巧く組めなくて結構、悩みの種だったんですね。どうしても琵琶湖に阻まれてしまって、効率的に動けない、といいますか。

 ですが、この2つの大橋の存在に気づいてからは、それがかなり解消されました。そして今日、こうして湖東の野洲界隈から一気に、わたしは湖西の旧志賀町界隈へと移動します。
 琵琶湖大橋。走っていた時間はわずかなものでしたが、とにかく車内に流れ込んでくる水の匂いが嬉しくて、窓を全開にして通過しました。やはり、海とは違って水の色合いも随分と違うんですね。海のように沖へゆくに従ってどんどん変わってゆく色ではなく、ただただ深い藍一色の水、それが琵琶湖大橋から眺めていた琵琶湖です。

 湖西に渡ってすぐの国道161号を右折、そのまま今回の旅では最も北に位置する訪問地まで走ります。ちょうどJR湖西線に沿うように、小野、和邇、蓬莱、志賀、比良、といった駅を通り過ぎて近江舞子の辺りで一旦、地図を見直しました。
 比良の大わだ。その北側の始まりが、恐らく近江舞子界隈だからです。見てみたかったんですね、その湾曲する湖岸線をきちんと。

 関西ご在住の方はご存知でしょうが、琵琶湖は琵琶湖大橋の架かる堅田・守山間より南側は湖の幅がとても狭くなっています。では北側は、と言いますとこれ一転して、この国最大の湖としての風格で、横たわっているんですね。
 とりわけ和邇界隈から、近江舞子駅近く雄松崎を北限とする湖岸線の大きな大きな湾曲。これが万葉歌に謡われた、比良の大わだです。

|楽浪の比良の大わだ淀むとも昔の人に逢はむと思へや
                          柿本人麻呂「万葉集 巻1-0031」


 この人麻呂の歌。「万葉集」には異伝歌として採られていて、本来の歌は

|楽浪の志賀の大わだ淀むとも昔の人にまたも逢はめやも
                          柿本人麻呂「万葉集 巻1-0031」


 こちらの方です。原文をそのまま引きます。

|左散難弥乃 志我能[一云 比良乃]大和太 與杼六友 昔人二
|亦母相目八毛[一云 将會跡母戸八]

                        柿本人麻呂「万葉集 巻1-0031」原文
 「一云」
 とは“一に云ふ”と読みますが、現代風に云うならば
「あるいは〜という」
 といった感じでしょうか。「万葉集」にはこういった注釈付の歌は案外多いのですが、編纂者による注釈であれば各歌の左に注として書かれているのが通常であって、異伝としては扱われません。
 つまり「万葉集」に収録する時点で、すでに部分的に違う歌も伝えられていた(記録に残っていた)ということですね。

 そして、その部分的に違う歌が存在している理由も、それぞれのケースによってまちまち。地方の民謡のような歌であれば、伝播の途上で少しずつ変質してしまった結果としての異伝ともなりますし、逆に人麻呂のような宮廷歌人の場合は、政治的な要素で細部を詠み変えたりした可能性もあるでしょうし、純粋に歌人たちが推敲をしたことだって考えられると思います。
 この人麻呂の歌に関しては、人麻呂本人による推敲説が有力視されているようですね。正直、わたし個人のエゴで語るならば、推敲というのがちょっとな、とは感じますが。...もちろん、それこそわたしが勝手に抱いている人麻呂に対するイメージの問題なので、エゴ以外の何物でもないんですけれどね。

 ともあれ、国道161号から湖岸方面に入ります。レジャー施設は色々ありますし、そういった中へ入れば、湖岸にもすぐに辿り着けるのでしょうが、それでは面白くありません。何とか護岸工事されていない、そして観光目的にはなっていない、湖岸に出られないものか、と狭い路地を行ったり来たり。
 ...どうも、難しい注文なのかもしれません。仕方がないので小回りの効かない車を降りて、ここから先は徒歩です。

 まだまだ残暑が厳しい9月半ば。ちょうど南中の時間帯なのでしょう。真上から日が照り付けて来ていて、歩いているとすぐに汗が滲みます。風の通り抜け方からしても、そして進行方向の先の視界の眩しさからしても。この先には明らかに、かなり風通しがよくて、しかも太陽光を反射するような場所が開けているのでしょうし、それこそが琵琶湖。
 ただ、これが地元・神奈川の海沿いだと確実に下り坂になりますし、同時に風そのものが潮を含んでいてもっと、湿り気があるんですけれどね。...海と湖の確かな違いなのでしょう。

 民家や公民館を通り過ぎて、人間1人が何とか通れるかな、というくらいの柵と柵の隙間を抜けます。すると、そこに広がっていたのは日差しを反射させながら、寄せては帰る波。
「湖にも、波はあるのか...」
 湖国・近江。その最大の象徴である近つ淡海の浜に、初めて立ったわたしがふと呟いてしまった、何ともお間抜けなひと言にして、まさしく「さゝなみ」です。

 以前、訪ねた竹生島は、琵琶湖が最も深くなっている界隈に、それこそいきなり生えるようにして水上に現れた断崖絶壁の島でした。また、その竹生島への連絡線に乗った長浜港も浜にはなっていなかったんですね。
 いや、それ以前にわたしが湖というもののの浜辺に立ったことってあったかしら、と考えていたのですが海外ではあっても、国内では間違いなくこれが初めて。そのあまりにささやかな浜と、それを覆う砂礫のような粒の粗い白砂を手に掬いながら、ぼんやりとしばし。

  

 さゝなみよ しほうみ知らになほし寄り帰るいづへのあらましことか  遼川るか
 (於:比良の大わだ)


 琵琶湖は、1つを除いて滋賀県を流れる全ての川が流れ込む場所です。そして、除かれた1つこそが、琵琶湖から唯一、外へ流れ出す瀬田川。その瀬田川は京都、大阪、と流れて大阪湾へと注ぎます。流域での名称は滋賀県内が瀬田川、京都府内が宇治川、そして大阪府内では桂川と淀川。
 そう考えると、随分とこの巨大な水瓶の水たちは海に遠くて、それがわたしには何だか...。この湖に寄せる波たちも、寄せたところで帰る場所は封じられていると言いますか、それでも寄せてしまうのか、と。

 人麻呂の歌については後述させて戴くとして、この比良の地を謡った他の万葉歌です。

|我が舟は比良の港に漕ぎ泊てむ沖へな離りさ夜更けにけり
                            高市黒人「万葉集 巻3-0274」
|楽浪の比良山風の海吹けば釣りする海人の袖返る見ゆ
                             槐本「万葉集 巻9-1715」
|なかなかに君に恋ひずは比良の浦の海人ならましを玉藻刈りつつ
                           作者未詳「万葉集 巻11-2743」


 比良の港。もちろん、どこにあったのかは不明です。ただ、当時の港ですから得てして河口であったり、干潟であったり、といった自然の地形を活用してのものであったのは間違いないですから、雄松崎界隈ではないか、と。内湖という小さな湖沼が琵琶湖岸のすぐ外にあるんですね。
 そして比良山。こちらは琵琶湖を背にして眺めた内陸部にずっと連なっている山々が、比良山系ということになっていますが、万葉期に比良山と呼ばれた単独峰があったか否かは、寡聞にして知りません。

 ただ、比良山風というのは現代、比良の八講と呼ばれている比良颪のことなのか、あるいは季節は違っても、そういう山颪のことなのか。いずれにしても、初秋の今はそうではありませんが、冬から春にかけての時期、この一帯は強風によく見舞われる、ということは関東者のわたしでも聞いたことがあります。
 所々に連なる網代。湖東方面を眺めれば大きな島影があって、恐らくは沖島でしょう。もっとずっと北になる竹生島は、見えているのかいないのか、ちょっとわたしでは判別できませんでしたけれども。

 カヌーを漕いでいる人、湖岸を散歩している人、ウィンドサーフィンのセイルも見えています。1300年も昔の黒人も舟遊びをしていたのでしょうか。上記引用のものは羇旅歌になっていますが、湖西方面の旅となると、恐らくは北陸方面へ抜けるものとなりますし、その為の街道も当時からありました。...船便での旅、というのもややしっくりしない印象で、旅は旅でもその途上でしばしの遊覧。そんな感じだったのかも知れませんね。
 時代が変わっても、琵琶湖に遊ぶ人々という図式は変わっていないように思えます。

 もう1首、この比良の地に纏わる万葉歌があります。ですが、こちらは歌そのものに詠み込まれているわけではありませんし、歌の舞台でもないようですが。

|秋の野のみ草刈り葺き宿れりし宇治の宮処の仮廬し思ほゆ

|右、山上憶良大夫の類聚歌林を検ふるに曰はく、一書に戊申の年比良の宮に幸すときの
|大御歌といへり。ただし、紀に曰はく、五年春正月己卯朔辛巳、天皇、紀の温湯より至りま
|す。三月戊寅朔、天皇幸吉野の宮に幸して肆宴す。庚辰の日、天皇近江の平の浦に幸すい
|へり。
                         額田王「万葉集 巻1-0007」再引用



 比良の宮。恐らくは行幸した先の宿である離宮のようなものでしょう。そんな施設が、やはりこの比良界隈にあった、ということになります。「万葉集」にある通り、確かに日本書紀にも記載されていますね。

|五年の春正月の己卯の朔辛巳に、天皇、紀温湯より至りたまふ。三月の戊寅の朔に、天皇、
|吉野に幸して、肆宴す。庚辰に、天皇、近江の平浦に幸す。
                   「日本書紀 巻26 斉明天皇 斉明5年(659年)3月」


 また、やはり「万葉集」が言う通り、戊辰の年である孝徳期の大化4年には、比良の宮に関する記述がありません。
 すでに額田の歌としての引用もさせて戴いている歌ですが、実質的には斉明天皇の代作として額田が謡ったものではないか、という説が有力視されていますし、わたしもそう思いますね。そして、そのことはすでに額田よりほんの数10年後の時代の山上憶良も考えていたのでしょう。その証拠が
「大御歌」
 という記述です。大御歌。これは天皇の歌限定の表現ですからね。

 斉明女帝。天智・天武の母親ですが、彼女が近江へ行幸していたのであるならば当然、彼らもまた一緒に近江を訪ねていたでしょうし、それが後の近江遷都へと繋がっていった、と考えるのはそれほど無理筋でもないでしょう。
 天智が何故、畿内ではない近江に遷都したのか。それ自体には、当時の政治的背景と、天智ならではの判断があったのはほぼ間違いないと思われますが、だとしてもそもそもの候補地に近江が挙がった素地。それは、この斉明5年の行幸にあったのかも知れませんね。

 世界は、ひと方向にしか流れられない河のようです。上流で起きたことによって下流の出来事は様々に変わり、様々に編まれます。
 パソコンや家庭用ゲーム機用ゲームのジャンルにアドベンチャーというものがありますが、要するにストーリーの分岐毎にプレーヤーは選択肢をチョイスして、そのチョイスにより以降のストーリーが変わってゆくんですね。...分岐に次ぐ分岐。ゲーム自体に用意されているエンディングは10数通りから数10通りにもなる、といいます。そして、そういう分岐の選択によって、あるエンディングに到達するための条件を満たすことを、フラグを立てる、なんて言うそうですが。







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