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浅学にして詳細はわたし自身が何も判っていないのですが、要は銅鐸というのは集落みんなの間に身分の上下などなかった時代のもので、一方の銅鏡はある種の信仰や政治的側面に使われ、そこには支配層と被支配層が存在していたから、と考察することができるようなんですね。 正直、 「鏡だとどうしてそう判断できるのか」 と訊かれると答えに窮してしまうのですが、少なくとも銅鐸に関しては何となく判らなくもないといいますか。 そもそも音は独占できません。現代のようにイヤフォンやヘッドフォンがあるならともかく、古代で音の独占は先ず無理だったのではないでしょうか。けれども、鏡で見るもの。これは確かに独占ができそうです。...何の論拠もない、個人の勝手な感覚論ですが、そんなことをふと思いました。 もちろん、銅鏡の多くに神獣など、あきらかに大陸渡来の信仰の象徴が彫られていることが、支配層と被支配層が存在していたの証として、最有力なんでしょうけれども。 また、銅鐸が最初こそ鳴らされていたものもあれど、大方は地中に埋められていた、という点も何となく...。これまた勝手な感覚論ですが、注連縄などと同じ境界の魔よけだったのかな、と。集落みんなでの生活に必須だった銅鐸なのですから。 いずれにせよ、わたしたち人間も所詮は獣です。そして獣の時代に近くなればなるほど、群れ単位での生活になりますし、逆を言えば獣から遠くなるほど個体に近い単位での生活になります。そんなこの島国で生きていたかつての倭人たちの過渡期に、恐らくは静かに消えていったであろうものが銅鐸なのではないか。...そんなことをぼんやりと考えていました。 考古学的見地で、物質の炭化などから割り出した製造時期というのは、それほど大きなぶれなどなのでしょうね。その一方で、大きくぶれてしまうのが記述というものです。 記紀に照らし合わせると、銅鐸が作られていた紀元前1世紀〜紀元2世紀末までというのは、ちょうど崇神〜仲哀期までに該当することになります。 崇神。それより以前は欠史8代を挟んで、もう神武期、そして神代です。一方、仲哀期の次と言えば神功皇后が天皇空位のまま半島にまで攻め込んだ時代、となります。...どうも、リアリティがかなり希薄になってしまいそうです。 といっても、そもそも銅鐸の原型は中国にあるといいますしその後、この国独自に進化したこともほぼ間違いないようで、それだけ古くから大陸渡来のものが伝わっていたことはもちろん、事実。第一、稲作からしてそうですしね。 また、銅鐸には幾つかの顕著な謎があるらしくその最大が、原料の銅です。続日本紀から引きます。 |和銅元年春正月乙巳、武蔵国秩父郡、和銅を献る。詔して曰はく、 |「現神と御宇倭根子天皇が詔旨らまと勅りたまふ命を、親王・諸王・諸臣・百官人等、天下 |公民、衆聞きたまへと宣る。高天原ゆ天降り坐しし天皇が御世を始めて、中・今に至るま |でに、天皇が御世御世、天つ日嗣高御座に坐して治め賜ひ慈しび賜ひ来る食国天下の業 |となも、神ながら念し行さくと詔りたまふ命を衆聞きたまへと宣る。如是治め賜ひ慈し |び賜ひ来る天つ日嗣の業と、今皇朕御世に当りて坐せば、天地の心を労しみ重しみ辱み |恐み坐すに、聞し看す食国の中の東の方武蔵国に、自然に作成れる和銅出で在りと奏し |て献れり。此の物は、天に坐す神・地坐祇の相うづなひ奉る事に依りて、顕しく出でたる |宝に在るらしとなも。神ながら念し行す。是れを以て、天地の神の顕し奉れる瑞宝に依り |て、御世の年号改め賜ひ換へ賜はくと詔りたまふ命を衆聞きたまへと宣る。故、慶雲五年 |を改めて和銅元年として、御世の年号と定め賜ふ。〜」 「続日本紀 巻4 元明天皇 和銅元年(708年)1月11日」 はい、つまりこの国で銅が最初に発見されたのは、平城遷都直前なんですね。そしてそれを記念して元号が慶雲から和銅に替えられた、ということです。 それだけ、銅が採れたのはおめでたいことだったのでしょうし、逆を言えば願ってはいても国内では採れなかった、ということになると思います。 なのに、この国では銅製品がたくさん出土しています。大陸から輸入でもしていたのでしょうか、紀元前の時代に。だとしたら記紀万葉風土記はもちろん、魏志倭人伝や隋書倭国伝などに、そんな記述が1つくらい残っていてもいいと思うのですが、これらは全く皆無だそうで。 いやはや、ズブの素人には全くもってお手上げの世界です。ですが、館庭だけではなく、ここでも改めて感じていたのが人間本来の底力です。 まだまだ火が貴重であった時代。なのにその火を操って銅を溶かし、鋳型に流して鋳造する...。そんなこと、現代の私たちだって数人の個人や数十人の個人の集団でできるでしょうか。きっと、設備がない、あれがない、何がない、といって最初から諦めてしまうように思うんですね。でも、そんな設備なんてなくとも実際に平然とやっていた人たちが2000年前に存在しています。 ...それでは、現代の便利さを手に入れることで何かを失ったわたしたちは、当時の彼らより弱体化している、とも言えてしまうのではないでしょうか。いや、明確にそう思います。本当の豊かさって一体、何なのでしょうね。 すこし小高い位置に建つ銅鐸博物館を出ると、眼下に復元された弥生住居が広がっています。もうすぐ収穫期を迎えるであろう赤米の穂が、初秋の風に揺れていました。 けだし地に地なくばまた天のなし あれあなぐるはあが天と地と 遼川るか (於:野洲市立歴史民俗博物館) −・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・− 湖東の内陸部をあちこち周っていましたが、それもそろそろお終い。ここから琵琶湖沿岸部まで行って、琵琶湖大橋を渡れば一気に湖西です。時刻はまだ10時過ぎ。出発こそ遅れてしまいましたが、その後の訪問はかなりなハイペースで進めることができていて、何とか遅れも取り返せるかもしれません。 けれども、その前に立ち寄りたい場所があります。兵主大社。もう琵琶湖沿岸に程近い場所にある古社です。 宿を出てから、ずっと街中を走ってきていました。ですが、銅鐸博物館を後にすると、道の両側に刈入れを待つばかりの田圃が続きます。お天気に恵まれなかった前日とはうって変わっての気持ちのいい秋空。心なしか汗ばんできました。 カー・エアコンを止めて、運転席側と助手席側の両方の窓を開け放ちます。すると、この季節特有の稲穂の匂いとに混じって、かすかに水の匂いが漂っているのに気づきました。...車が進むほど、水の匂いは濃くなります。 近江国入りした昨日から、それでもわたしはまだ、目にしてはいなかったんですね。この近江国の象徴である琵琶湖を。 次第に濃くなってくる水の匂いに、ようやく自身が琵琶湖へどんどん近づいていっていることを、実感していました。琵琶湖を見るのは、約1年ぶりです。 フロントガラスに映る景色も変わってきます。高くて青い、青い空が広がり、けれどもその空の向こうにがすこん、と抜けてしまっているんですね。この国では、必ずと言っていいほど、その先には山の稜線が何らかの形で見えるのに、今はそれが見えません。つまり、そこに横たわっているのが、まさしく琵琶湖なのだ、ということでしょう。 海に向かって走っても、似たような状態になりますけれど、海の場合は得てして海抜の関係で水平線が見えますからね。そういう意味では、この奇妙に抜けのいいかすかに不安定感すら覚える光景が、まさしく湖国の証でもあるのかもしれません。 そんな視界に、大きな鳥居が聳えています。わたしの進行方向からだと、ちょうど鳥居を真横から見る形になってしまっていたのですが、ともあれ中々に大きくて、どっしりとした鳥居から、兵主大社がその名の通り大社なのだな、と判ります。 参道脇の道路を進み、先ずは駐車場へ。続いてかなり広い境内に伸びる参道を歩いてゆくと、太鼓橋や朱塗りの楼門が現れます。何でも、楼門は足利尊氏が寄進したものなのだとか。 参道はさらに続きます。もう100m近く歩くとようやく拝殿、そして本殿です。本殿は垣に囲まれていて、恐らく一般の参拝者には禁足地なのでしょう。 拝殿では、いつもの通り最初に参拝です。祈ることも、いつでも、何処でも、変わることがありません。...そう言えば、熊野から始まった私の古歌紀行。すでに数年に渡っていますが、最初から今日まで、ずっと変わらずに続いているものは、必ず現地で即詠することと、参拝でしている願いごとだけなように感じます。...身に着けているものも、経年劣化で壊れてしまって、ずっと変わらないものはもうないですから。 続いて、こちらも恒例のおみくじです。結果はたぶん、古歌紀行では初めてではないでしょうか。大吉でした。 曰く 「さくらばなのどかににおう春の野に蝶もきてまうそでのうえかな 身も進み財宝も出来て立身出世することは 春の暖かい日に美しい花の野を心楽しく遊び行く心地にてよき人の引立にあずかります けれども心正しくないと災いがあります」 とのこと。余談になりますが、個人的にはあながち外れていなかったように思っていますけれども、どうなんでしょうね。 このおみくじにも、各地で随分と助けられ、励まされ、してきています。はっとさせられるような警鐘として受け止めた上総国の姉埼神社のようなこともあれば、励まされて思わず目頭が熱くなった甲斐国の酒折宮や。 わたし自身は宗教や信仰には、全くと言っていいほど興味がありませんし、おみくじだってそれ専用の製作業者や印刷業者、製紙会社が存在しているわけで、信心云々なんて、と思われる方も多くいらっしゃるでしょう。 ただ、わたしなりの信心というものがあるとしたならば、それが何であれ、自身が向上するための助けやきっかけになるか否かは、そのものではなくてあくまでも自分次第にある、と。そう思っています。...だから、おみくじがどんな結果を出そうとも、それを自身の糧としたくて、ずっとおみくじを引き続けているんですけれどもね。 兵主大社は、庭園が国指定の名勝にもなっているそうですし、建造物も文化財指定を受けているものが複数存在していることを、事前の下調べで知りました。何でも、兵主は「つはものぬし」の神と解釈されたようで、中世の武家社会ではとても信奉されたのだ、といいます。なるほど、だから件の楼門に足利尊氏の寄進、というような伝説も存在するでしょう。 ですが、事前の下調べでわたしが最も注目したのは別のことでした。また、それと同じ内容が境内にも書かれていましたね。随分と風雨に晒されて、判読できない部分もありますが、そのまま転記してみます。 | 湖南の沃野野洲川下流兵主の里に鎮座の当大社は大国主神が天孫の勅に応じて国土 |を譲られた際に御杖とされた< >矛を宮中に御鎮祭になったが、景行天皇御矛の神威を |日代宮域近き大和国穴師に神地を< >め皇子稲背入彦皇子(大和武尊の弟)をしてこれを |祀らしめられたのが発祥である。 | 景行天皇近江の国滋賀郡に遷都される時全皇子献地を穴太(大津市坂本)に求められ |遷し祀られた依て今日この地を元兵主と言う。 | のち欽明天皇の時代一族が琵琶湖上を渡り東に移住するに際し大神を奉じて今の地 |に鎮祭し地域住民の守護神として御神徳を仰ぎ当地を開拓した。 兵主大社境内看板より抜粋 ※< >は判読不能部 お話が前後してしまいますが、この兵主大社の祭神は国作大己貴命、あるいは八千矛神。つまり、大国主ということですね。天つ神の首魁にして象徴である天照に対し、国つ神の首魁に象徴、それが大国主ですが、彼にはとにかくたくさんの別名がありまして。 ですが、その中でも確実におさえておきたいもの。つまり、各地の神社の祭神として登場している確率が高い別名は 1) 大穴牟遅神・大己貴命・大穴持命/おほなむちのみこと 2) 八千矛神/やちほこのかみ 3) 大物主神/おほものぬしのかみ 4) 大国魂大神/おほくにたまおほみかみ 5) 国作大己貴命/くにつくりおほなむちのみこと といったあたりでしょうか。...はい、これらすべてが大国主の別名ですから、この兵主大社の祭神は、2柱記載されていますけれど、実質は同一柱にして1柱。大国主ということになります。 ご参考までに、特に八千矛神が沼河比売と謡い交わした、として古事記に登場する歌を引いてみましょう。 |八千矛の 神の命は |八島国 妻枕きかねて |遠遠しぬ 高志国に |賢し女を ありと聞かして |麗し女を ありと聞こして |さ婚ひに あり立たし |婚ひに あり通はせ |大刀が緒も いまだ解かずて |襲をも いまだ解かねば |嬢子の 寝すや板戸を |押そぶらひ わが立たせれば |引こづらひ わが立たせれば |青山に は鳴きぬ |さ野つ鳥 雉はとよむ |庭つ鳥 鶏は鳴く |うれたくも 鳴くなる鳥か |この鳥も 打ちやめこせね |いしたふや 天馳使 |事の 語言も |こをば 八千矛神「古事記 上巻 大国主神 4 八千矛神の妻問ひ物語」 |八千矛の 神の命 |ぬえ草の 女にしあれば |わが心 浦渚の鳥ぞ |今こそは 我鳥にあらめ |後は 汝鳥にあらむを |命は な殺せたまひそ |いしたふや 天馳使 |事の 語言も |こをば 沼河比売「古事記 上巻 大国主神 4 八千矛神の妻問ひ物語」 |青山に 日が隠らば |ぬばたまの 夜は出でなむ |朝日の 笑み栄え来て |栲綱の 白き |腕 沫雪の |若やる胸を そだたき |たたきまながり 真玉手 |玉手さし枕き 股長に |寝はなさむを あやに |な恋ひ聞こし 八千矛の |神の命 事の |語言も こをば 沼河比売「古事記 上巻 大国主神 4 八千矛神の妻問ひ物語」 つまり、大国主が越の国で沼河比売という娘を見初めて、婚礼するまでの相聞歌ですね。 因みに、古事記にはこの後に大国主の元々の妻だった、須勢理毘売命が嫉妬してしまったがために、大国主が謝り、須勢理が許す、という相聞も続いています。 |ぬばたまの 黒く御衣を |まつぶさに 取り装ひ |沖つ鳥 胸見る時 |はたたぎも これはふさはず |辺つ波 そに脱き棄て |そに鳥の 青き御衣を |まつぶさに 取り装ひ |沖つ鳥 胸見る時 |はたたぎも もふさはず |辺つ波 そに脱き棄て |山県に 蒔きし |あたね舂き 染木が汁に |染め衣を まつぶさに |取り装ひ 沖つ鳥 |胸見る時 はたたぎも |こしよろし いとこやの |妹の命 群鳥の |わが群れ往なば 引け鳥の |わが引け往なば 泣かじとは |汝は言ふとも 山との |一本薄 項かぶし |汝が泣かさまく 朝雨の |霧に立たむぞ 若草の |妻の命 事の |語言も こをば 八千矛神「古事記 上巻 大国主神 4 八千矛神の妻問ひ物語」 |八千矛の 神の命や |吾が大国主 汝こそは |男にいませば うち廻る |島の崎崎 かき廻る |磯の崎落ちず 若草の |妻持たせらめ 吾はもよ |女にしあれば 汝を除て |男はなし 汝を除て |夫はなし 綾垣の |ふはやが下に むし衾 |にこやが下に 栲衾 |さやぐが下に 沫雪の |若やる胸を 栲綱の |白き腕 そだたき |たたきまながり 真玉手 |玉手さし枕き 股長に |寝をしなせ 豊御酒 |奉らせ 須勢理毘売命「古事記 上巻 大国主神 4 八千矛神の妻問ひ物語」 古事記では、この5首を神語という、としていますが。 ただ、この相聞挿話自体はとても唐突で、恐らくは元々は別の神だった八千矛神を、大国主と同一にした、あるいはなってしまったがゆえの記述なんでしょうね。とにかく記紀の大国主は、まさしく何人かの総称でなければ無理だな、と感じる部分が多く、前述している複数の別名も、根源的には別の神が同一視されたがゆえのものだと思います。 ともあれ、その大国主と言えば記紀に於ける神代のハイライト・国譲りの際、葦原中国の首魁だったわけで、けれども国を譲る直接の返答をしたのは、その息子・事代主。そして、大国主は天つ神側からの要請で、天つ神の娘を娶っています。 |時に高皇産霊尊、大物主神に勅すらく、 |「汝若し国神を以て妻とせば、吾猶汝を疏き心有りと謂はむ。故、今吾が女三穂津姫を以 |て、汝に配せて妻とせむ。八十万神を領ゐて、永に皇孫の為に護り奉れ」 「日本書紀 巻2 神代下 第9段」 つまり、天つ神はそのまま天上にいて、降臨した天孫とそれに従った天つ神、さらには大国主が束ねていたすべての国つ神で、この地上を護るようになった、ということになります。また、そういう状態で皇孫たちがこの大倭豊秋津島の統治者として代々、継承をしてゆくのだ、と。 そんな大国主が国譲りの時に携えていた矛。すなわち大国主そのものを祀ったのが、全国の兵主神社の始まり。そしてお社を興したのが、第12代景行天皇の皇子・稲背入彦皇子、ということでしょう。 |
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