|速須佐之男命、天照御大神の左の御みづらに纏かせる八尺の勾の五百筒のみすまるの
|珠を乞ひ度して、ぬなとももゆらに天の真名井に振り滌きて、さがみにかみて、吹き棄つ
|る気吹のさ霧に成りし神の御名は、正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命、亦右の御みづらに纏
|かせる珠を乞ひ度して、さがみにかみて、吹き棄つる気吹のさ霧に成りし神の御名は、天
|之菩卑能命。
| 亦御鬘に纏かせる珠を乞ひ度して、さがみにかみて、吹き棄つる気吹のさ霧に成りし
|神の御名は、天津日子根命。
             「古事記 上巻 天照大御神と須佐之男命 2 二神の誓約生み」


 わたし自身、この御上神社は不勉強からノーマークだったため、立ち寄らずに通り過ぎてしまいまして。...今となってはかなり痛恨、です。
 けれども、ゆったりと流れる野洲川の川上に、ぽつんと佇んでいる三上山は、とてもきれいな円錐形をしていたのを覚えています。確かに神坐す、と古代の人々が思いたくもなるだろうな、と感じる稜線にしばし見とれてしまったのですが、そもそも御上神社のご神体が山そのものなので、参拝していなくても、いいとしましょうか。

 稲筵川の辺はまた地の辺や
 流れ流るゝしが元の川の辺はまた山の辺や
 流れ流るゝしが絶ゆる川の辺はまた海の辺と
 ゆかばところの変はるらむ
 ゆけばところの定まらず
 間なく移ろふきはみとて
 ひと重であらざるとこしへに
 ふた重でありゐるとことはに
 きはみに生るは
 うれしびと
 きはみに生るは
 かなしびと
 見ゆるがきはみ
 見えざるがきはみか知らに
 ゆきまとふ
 いゆきもとほり
 草枕旅にしあれば
 祈ひ祷みて
 祈ひ祷みて祷み狂ほしつ
 祈ひ祷みて祈ひ廻ほしつ
 降ては暮るゝことはりに
 なほし日並べて
 日並べて
 弥日異にきて
 弥日異にゆけば
 山の辺
 川の辺も
 海の辺さては
 地の辺を
 あれゆくなへに
 越ゆるきはみや

 よらず立つ真秀なる山に間なくゆく川の見すらむ この世の影を

 日の経と日の緯貫かばゆかざるをともしと思ふや 神奈備の山  遼川るか
 (於:野洲川)


 天之御影命は後に鍛冶の神様として信仰されるようになってゆきます。が、それもこの湖東の地には古くから渡来系の人々が多く暮らしていて、鍛冶や金属の鋳造技術も伝播していたことから、なのでしょう。
 そう、この地には本当に古くから、金属の加工技術が伝わり、そして実際に金属加工がされていたんですね。その立証とも言えるものが、野洲市から大量に発掘されている銅鐸です。

 時刻はまだ9時前。それでは天之御影命の加護やも知れない銅鐸の数々に会いに、野洲市立歴史民俗資料館、通称・銅鐸博物館へ向かいましょう。

       −・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−

 自分でもちょっと驚いているのは、自覚していました。確かにわたしの興味の範疇から言えば、銅鐸は明らかにその外にあるもの。何しろ時代からして飛鳥の前の古墳時代よりさらに前の時代の遺物です。
 記紀神話には3種の神器として鏡が登場しますが、それよりもさらに前、ということになります。それだけに、御上神社の訪問は見送っても、銅鐸博物館の閲覧は見送らなかった理由は、未だに自身でも判っていません。

 国道8号を右折してゆるやかな坂道を登ります。すると右手にすぐ大きな看板が見えてきて、目指す銅鐸博物館のゲートとなります。9時の開館までまだそれなりに時間があって、駐車場に入るのにも数分待ちましたし、さらに博物館へ入るのにも時間の調整が必要でした。
 けれども、そんなことは全く問題ではなくて、というのもこの博物館。館庭に弥生時代の住居や倉、田圃などが小規模の集落のようにして復元されているんですね。

 前述している通り、個人的には復元遺跡・復元遺物の類は正直、積極的に歓迎するのはどうかな、と感じてしまうタイプです。過去にこの手の施設を訪問しても、遠巻きに見ているばかりだったんですけれどね。
 でも、銅鐸博物館の復元は集落単位というのが新鮮で、珍しくじっくりと見て、触れて、さらには実際に入ったりもしてみました。

 弥生式住居。それは当然ですが茅葺なんですけれど、初めてだったかもしれません。わたしの中でこの復元遺物と「万葉集」が繋がったのは。
 かつて訪ねた大和国は飛鳥の里に伝承・飛鳥板葺宮跡という史跡がありました。そう、大化の改新の舞台となった場所です。...この宮の名前そのものが表しています。つまり歴代の宮で最初に板葺きになった、ということですし、当然ですけれどそれ以前はみな、この弥生式住居のように草葺だったのでしょう。

 

 こんな歌もあります。

|秋の野のみ草刈り葺き宿れりし宇治の宮処の仮廬し思ほゆ
                         額田王「万葉集 巻1-0007」再引用
|はだすすき尾花逆葺き黒木もち造れる室は万代までに
                         元正太上天皇「万葉集 巻8-1637」
|秋津野の尾花刈り添へ秋萩の花を葺かさね君が仮廬に
                           作者未詳「万葉集 巻10-2292」
|天地と ともにもがもと
|思ひつつ ありけむものを
|はしけやし 家を離れて
|波の上ゆ なづさひ来にて
|あらたまの 月日も来経ぬ
|雁がねも 継ぎて来鳴けば
|たらちねの 母も妻らも
|朝露に 裳の裾ひづち
|夕霧に 衣手濡れて
|幸くしも あるらむごとく
|出で見つつ 待つらむものを
|世間の 人の嘆きは
|相思はぬ 君にあれやも
|秋萩の 散らへる野辺の
|初尾花 仮廬に葺きて
|雲離れ 遠き国辺の
|露霜の 寒き山辺に
|宿りせるらむ
                          葛井連子老「万葉集 巻15-3691」


 これらはすべて草葺、主に薄などになると思いますが、それで葺いた仮宿のことを詠んでいますね。その一方で、こういう歌も「万葉集」にはあるんですね。

|板葺の黒木の屋根は山近し明日の日取りて持ちて参ゐ来む
                           大伴家持「万葉集 巻4-0779」
|そき板もち葺ける板目のあはざらばいかにせむとか我が寝そめけむ
                           作者未詳「万葉集 巻11-2650」


 はい、こちらは板葺です。そして時代的に明らかなのは元正太上天皇と家持の歌となりますか。元正が太上天皇ということは、時の天皇は聖武。同じく家持の歌も、紀女郎との相聞ですから恭仁京時代ということで聖武期。
 この頃では板葺・草葺ともに一般的だったようです。元正の歌は長屋王の佐保の家の新築祝いの歌ですし、家持の方は当時の恋人だった紀女郎の家を作るにあたっての歌、と家の主の身分と、屋根の葺き方は関連があまりないのではないか、と。
 そして同じくこの頃の出来事として、こんな記述が続日本紀に残っています。

|十一月甲子、太政官奏して言さく、
|「上古淳朴にして、冬は穴、夏は巣にすむ。後の世の聖人、代ふるに宮室を以てす。亦京師
|有りて、帝王居と為す。万国の朝する所、是れ壮麗なるに非ずは、何を以てか徳を表さむ。
|その板屋草舎は、中古の遺制にして、営み難く破れ易くして、空しく民の財を殫す。請は
|くは、有司に仰せて、五位已上と庶人の営に耐ふる者とをして、瓦舎を構へ立て、塗りて
|赤白と為さしめむことを」
| とまうす。
                 「続日本紀 巻9 聖武天皇 神亀元年(724年)11月8日」


 板葺も草葺も壊れやすいし暮らしにくいから、瓦にするべきではないですか、ということですね。...弥生から古墳、古墳から飛鳥、そして飛鳥から奈良、平安。人の歴史は流れてゆきます。

 他にも関連のありそうなものを幾つか。弥生式住居に並んであった高床式倉庫ですが、こちらは枕詞に関連のあるものが存在していますね。
 ...はい、「あきづしまやまとゆ・弐」でも書きましたが「梯立の」です。

|はしたての倉橋山に立てる白雲見まく欲り我がするなへに立てる白雲
                 作者未詳「万葉集 巻7-1282」柿本人麻呂歌集より撰
|はしたての倉橋川の石の橋はも男盛りに我が渡りてし石の橋はも
                 作者未詳「万葉集 巻7-1283」柿本人麻呂歌集より撰
|はしたての倉橋川の川の静菅我が刈りて笠にも編まぬ川の静菅
                 作者未詳「万葉集 巻7-1284」柿本人麻呂歌集より撰
|はしたての 熊来のやらに
|新羅斧 落し入れ
|わし かけてかけて
|な泣かしそね
|浮き出づるやと見む わし
                           作者未詳「万葉集 巻16-3878」
|はしたての 熊来酒屋に まぬらる奴 わし
|さすひ立て 率て来なましを まぬらる奴 わし
                           作者未詳「万葉集 巻16-3879」


 枕詞の語源は高床式倉庫に梯子をかけることで、そこから倉を導くようになったのでしょうけれどもう一方の熊来、は現在の地名では石川県七尾市にある地域のことのようです。枕詞とその導く語の掛かり方は未詳とされているようですが。
 こんな歌もあります。

|あらき田の鹿猪田の稲を倉に上げてあなひねひねし我が恋ふらくは
                         忌部首黒麻呂「万葉集 巻16-3848」


 「新しく拓いた田、鹿や猪に荒らされてしまう田の稲を倉に積み上げておいたように、ああわたしの恋焦がれることが干からびてしまった」

 こちらが詠まれた時期は判らないので、当時も倉が高かったのかは不明ですが、少なくとも「倉に上げて〜」としているくらいですから、まだまだ高床式だったのかもしれませんね。


 田圃もあります。やはり古代米が栽培されていました。赤米です。...それだけではありません。集落単位の復元ですから、小規模な方墳もありますし、蓮田もあります。太陽神信仰の石舞台までもがあります。流石にちょっとこれはすごいかな、と立ちつくてしまいました。
 恐らく、弥生時代から数世紀を経た万葉期は時差が大きいとは言え、一般庶民はほぼ変わらない生活をしていたのだと思います。そして、そんな原初の生活に於いて、歌は確実に存在し、定着していた...。

 弥生時代の生活の片鱗を見ていて感じるのは、文明って何なんだろう、ということです。あるいは本当の豊かさとは、とも言えるかもしれません。
 たぶん人は、その時々に叶う環境の中で、様々な知恵を絞って難局を切り拓いてきていると思いますし、ならば果たしてあれもこれも便利になりすぎた世界というのは、幸福なのでしょうか。不幸なのでしょうか。

 草葺の住居は、それでもちゃんと戸口も閉められます。高床式の倉庫には小動物が柱をよじ登って進入しないように、ねずみ返しが付いていたり。田で育つ古代米だってそうです。「亡/のぎ」を持つ野生種は荒地にも、悪天候にも強く、生命力が豊かです。また、収穫期になると自然と稲から零れ落ちるものが多いのも、特徴でしょう。
 ただ、唯一の難点は収穫高が栽培種の半分くらいしかなかったということで、結果的に収穫高を優先した人間の手によって忘れ去られていった古代米たち。けれども、その功罪は現代社会に克明に現れてしまいました。
 ...はい、農薬や化学肥料の害と、逆にお米が余ってしまうという現象と。 


 “ある”ということにばかり依拠してきた現代人と“ない”という前提を受け入れて、その上で知恵を絞りあっていた古代人と。
 言霊信仰ともよく似ていると思います。よく、言霊信仰という名前だけを借りて不吉なことは口にしない、としている例を見かけますが、個人的には、そんな自己正当化に言霊を持ち出すのは不謹慎だ、と明確に感じますね。それでは言霊そのものの本質にまったく触れていないどころか、さらに歪曲までしているとも言えるでしょう。

 例えば、現代のわたしたちでもスルメのことをアタリメ、と言い直したり梨のことを有の実としたり。不吉なことだから“言わない”のでは言葉そのものの否定で、すなわち言霊の否定でもあります。
 そうではなくて、不吉なことだから、不吉ではないことに、おめでたいことに言い換えて、きちんと言葉として発すること。これが言霊信仰の本質“祝ぎ”ですから。

 様々な問題解決のステップは必ず早い段階に問題点の自己受容が必須となります。そうしなければ次のステップは絶対に踏めないわけで。
 なのに人は見たくないものから目を逸らします。目を逸らしていることを正当化するために様々な言い訳を用意します。

 高度に発達した文明と、それゆえの便利さ。生きることに必死さを失った生物は問題解決をせずに問題から逃避しようとします。それがいずれは自身に返ってくることにも気づかずに、です。緩慢に、自ら締めてゆく真綿の拘束。これすらも因果応報、すべては誰の所為でも、何の所為でもない自分自身の所為。
 古代の人々の信仰や考えというのは、一見とてもロマンチックだったり、あるいは超常的だったり、といったイメージが付きまとうかもしれません。

 ですが、それこそが現代に生きる者たちが、現代だからこそ知りうる情報に立脚して見ている夢です。当時、自然と格闘し必死に命を繋いでいた古代の人々にとってみれば、そんな夢想など見当違いも甚だしいでしょう、きっと。
 彼らの描いた言霊が、どうしてこうも明確な因果応報に則っているのか。この部分を現代を生きるわたしたちは、もっと真摯に受け止めるべきだとわたしは思いますし、その覚悟がない者は言霊信仰なぞ、引っ張り出さないのがせめてものマナーだ、とも感じます。

 “ない”という前提に立っているからこそ、感じられるものがたくさんあります。“ある”という前提は時々、わたしたちを縛りつける透明な檻にも思えます。けれども同時に、その檻があるからこそ“ない”ということに触れられた、とも言えるわけで。
 様々な形で何度も書いていますし、自問して来ていますけれど改めてわたしは自問します。一体、わたしたち人間は、何処へゆこうとしているのでしょうか。何処へゆきたがっているのでしょうね。

 うつそみに天地のあり
 天地に天つ日のあり
 天つみづ
 天つ風あり
 地のへに日の緯あれば日の経と
 背面
 影面
 あれもつは弓手も馬手も
 復返ることはあらなく
 ゆくことのかへるに等し
 かへるとてゆくに等しく星のゆき
 また波のゆき
 秋のゆき
 え止まらざるはうつそみのひとつが方ゆ移ろひや
 息の緒のほど負へるものに
 え沁みざるもの
 流れにて生るは波なむ
 波は霊
 波にし生るゝはうつそみの創めと知れば
 風も波
 時も波にて
 空も波
 砂子も波と
 ひと知らに
 なほし咲く花
 咲かぬ花
 咲けど散る花
 散らぬ花あればふさあるきはみゆゑ
 世にあり賜ふことはりの見む
 
 見ることのなくばえ開かざるもろなる眼
 言ふことのなくばえ祈はざるひとつなるうら   遼川るか
 (於:銅鐸博物館館庭)


 ようやく博物館への入場も叶う時刻。ふと考えるに最後に銅鐸を直に見たるのは、相当前のことだったように思います。高校生くらいだったかも知れません。
 いまだ残暑厳しい9月半ば。静かな館内に1歩、踏み入るとひんやりとした空気が肌に絡み付いてくるような感覚がありました。...土曜日の午前中です。もう少し、人が来ていてもいいように思えるのですが、閲覧者はわたしだけ。お陰で展示物をほぼ独占状態で観て回ることができそうです。

 来るまで知らなかったのですが、ここ野洲は日本有数の銅鐸の出土地なのだそうです。そして、中でも日本最大の銅鐸も見つかっていて、134.7cm。名前を袈裟襷紋銅鐸というのだ、といいます。
 博物館内は流石に撮影禁止でしたが、エントランスにあった袈裟襷紋銅鐸のレプリカは撮影可、となっていました。なので1枚。


 展示されているものは、銅鐸にはかなり無頓着なわたしにとってもとても興味深くて、銅鐸表面に刻まれている文様や鋳型、銅鐸と成分などなど。年表も整備されていましたが当然、ここで展示されている年表は考古学的見地から、ほぼ特定しているものでしょう。つまり、記紀ようなある種のファンタジーではない、ファクトの世界、ということですね。
 ...だとしたら、やはり驚いてしまいます。紀元前1世紀〜紀元2世紀末まで。それが銅鐸が作られていた時代なのだそうで、紀元3世紀になると銅鐸は突然、作られなくなって代わりに銅鏡が作られるようになったのだといいます。そんな時代から、人間は火を扱い金属を成型していたのか、と。

 どの展示物ももっともっと観ていたかったですし、もっとちゃんと勉強してからまた観たいな、とも思ったのですが特に気になったのがこんな記述でした。
 曰く、銅鐸から銅鏡へと作られるものが移り変わってしまった原因は、支配層と被支配層が成立したからだ、と。







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