|
||||
| 題詞:天皇、鏡王女に賜ふ御歌一首 |妹が家も継ぎて見ましを大和なる大島の嶺に家もあらましを 天智天皇「万葉集 巻2-0091」 | 題詞:鏡王女、和へ奉る御歌一首 |秋山の木の下隠り行く水の我れこそ益さめ御思ひよりは 鏡王女「万葉集 巻2-0092」 | 題詞:内大臣藤原卿、鏡王女を娉ふ時に、鏡王女が贈内大臣歌一首 |玉櫛笥覆ふを安み明けていなば君が名はあれど吾が名し惜しも 鏡王女「万葉集 巻2-0093」 | 題詞:内大臣藤原卿、鏡王女に報へ贈る歌一首 |玉櫛笥みむろの山のさな葛さ寝ずはつひに有りかつましじ 鏡王女「万葉集 巻2-0094」 そして鏡と額田の姉妹説は上記引用している額田を鏡王の娘とする日本書紀の記述から、そう推測される、と。...はい、つまり明記している文献はありません。 ここまではいいとして、件の額田との「君待つと〜」「風をだに〜」のやりとりです。実はこの鏡の歌にも、こういうものが存在しています。 |明月照高楼 明月高楼を照らし |流光正徘徊 流光正に徘徊す |上有愁思婦 上に愁思の婦あり |悲歎有餘哀 悲嘆して余哀あり |借問歎者誰 借問す嘆ずる者は誰ぞ |言是客子妻 言う是れ客子の妻なりと |君行踰十年 君行きて十年を踰え |孤妾常獨棲 孤妾常に独り棲ぬ(書き下し:遼川るか) 曹植「七哀詩」 三国志演義でお馴染みの曹操の3男・曹植の有名な漢詩です。余談になりますが、中国と日本の時代の照合がここで叶うと思います。 つまり、曹植の父・曹操が興した国は魏。そう、魏志倭人伝を含む魏書を正史としている国ですが、この魏志倭人伝に記されている人物が卑弥呼です。卑弥呼が誰だったのかは、未だ不明ですが、有力説には神功宮皇后の名前が上がっていますね。 神功皇后。追々書いてゆきますが、彼女は第14代仲哀天皇の妃となっていますよし、天智朝〜元正朝を生きた人々よりは数世紀以上時差があります。...それだけあれば充分でしょう。こういった大陸文化の流入と混交、そして定着が為されるのに十二分な時間が経っている、と考えられるはずです。 お話を戻します。このあたりまで来るとまさしく所詮紛々で、論文もそれなりに目を通しましたけれど今現在、リアルタイムの最右翼たる説は、寡聞にして知りません。なので相変わらず、様々な学説とわたし自身の推測をミックスした末に、あくまでも「わたしが」1番納得できるかな、と感じたことをここまでも書いていますし、これからも書きます。 額田と鏡。いずれも万葉初期の代表的女流歌人にして、謎めいている存在同士です。そして、その謎めいているが故に、そしてたまたま出自に関連して“鏡”というキーワードをもってしまっていた故に。 ...人間という生き物は何故、こうも関連性を持たせたがるのでしょうか。仮に2人が本当に姉妹だったとしても、額田が天智に召された確証など何処にもなく、だとすればそれを羨む鏡もまた、存在できようはずがありません。 「あなたを待って恋しく思っていると、戸口の簾を揺らして秋風が吹いてきます(あなたは来てもくれない)」 「風さえ恋うるあなたが羨ましい。誰も訪ねてくれない私は風だけでも待つことができるなら、これほど嘆かないのに(来てくれる人がいて、待てるあなたはいいわね)」 件の秋風に因んだ2人のやりとり。それぞれに類似する漢詩が存在し、「万葉集」にはその並び順までそっくり重出し、加えてどうにも後付けらしき題詞までを伴う...。先の額田と同じです。わたし個人はこの鏡の歌も天平期に誰かが彼女の名前を借りて詠んだものだ、と思わずにはいられません。 お話が複雑になりすぎました。ここでわたし自身が採りたいことを整理します。 1) 額田、蒲生野の宴席で歌を詠む/「あかねさす〜」 2) 時の“皇太子”がそれに応える/「紫のにほへる〜」 3) 鏡、天智の後宮から鎌足に下賜/「妹が家も〜」〜「玉櫛笥みむろの山の〜」 4) 天智期より時代が下った天平期、大陸から齎されていた漢詩を模して、鏡と 額田の2人に仮託した歌を何某かが詠む/「君待つと〜」「風をだに〜」 5) 1)〜4)のすべてを収録し「万葉集」成立 6) 「万葉集」以外の数少ない記述と併せて以下、2組の関係性が定説化 a) 中大兄皇子・大海人皇子・額田王 b) 額田王・鏡女王・天智天皇(中大兄皇子) 前述している通り、蒲生野遊猟当時の皇太子。こちらについても、わたし個人としては大海人ではなく、大友だったと考えたいです。但し、仮に大友が立太子していたとしても、当時の皇太子=大海人皇子、と後世の人々の認識が摩り替わらなければ、ここまでのわたしの推測は成立すらしません。つまり 「天智朝の皇太子は大友ではなく、大海人だったことにできる、あるいはしなければならなかった何か」 が絶対に不可欠な要素なんです。 また、その認識の摩り替えは、「万葉集」の成立よりも前。遅くとも天平期までには為されていなければならない、ということです。漢詩を下敷きとした仮託の歌が詠まれるにしても、その歌に編纂者が題詞をつけるにしても、そしてそれを「万葉集」に収録するにしても。そんな伝説、あるいは噂がそれなりに浸透していなければ...。はい、誰もそんなことなど、するはずがありませんから。 いずれにせよ、すべての根源となる記述は、一体どれなのかと見直すと、どうしても引っ掛かるのが“皇太子”そして“人妻”このたった2つの言葉に辿り着けると言えるでしょう。 日野川を渡ってくる風は随分と涼しく、何だかこのまま、この芝生の上にちいさく、ちいさく、まるくなって微睡んでしまいたい衝動がやってきていました。何時くらいからだったでしょうか。何となく感じ始めるようになったのは。 「わたしは、いつか過去のわたしを否定しなければならない。そうじゃなければ、自分の書いたものにいつかきっと、殺される日がくる」 と。 わたし自身、「あきづしまやまとゆ」の中で、額田と天智と天武。そして天智と額田と鏡女王、という複雑に絡み合う恋模様について書いています。まだまだ「万葉集」の読み込みも浅く、様々な文献や論文もわずかしか吸収できてもいなかった頃。人々が様々に織り上げていった憧れという夢絵巻を、そのまま受け止めていた頃のことです。 そんな過去の自身を、わたしはここで裂き、削ぎ落とそうとしているわけで、西日に影を伸ばし始めた、妹背の里の像を眺めながら何処かが...。ほんの、ごくごくかすかに疼くような感覚がゆっくり浮上して、消えてゆきました。 「わたしは、いつか過去のわたしを否定しなければならない。そうじゃなければ、自分の書いたものにいつかきっと、殺される日がくる」 もちろん、その思いも、感覚も、予感も、いまも薄れていません。額田や鏡に纏わることは、そのほんのささいな1つに過ぎず、もっともっと過酷なものはこれから先のいつか。遠いのか、近いのかも判らないいつかに、必ず遭遇することでしょう。 書きたいのだから、書き続けるしかなく、書き続けるのだから、自身の書いたものも負っています。そして負っている以上は...、と。書いている者には、書いているが故に避けられないことです。そう、これは書いているからこそ、の自己破壊。 「...まだ手緩い」 自然とそ洩らしていた自身に何だか驚きました。今回の旅ではこの後にも大津京や鏡神社などまさしく額田という存在とも、鏡という存在とも、そしてその周辺の人々や出来事を追いかけるには外せないポイントが目白押しです。 そう、まだ手緩いのです。これから訪ねる地でも、わたしは過去のわたしを裂かなければなりませんし、今のわたしに届きうる考察を手繰ります。そしていつの日か、今日ここでしている考察すらも、未来のわたしが破壊するでしょう。...書き続けてゆくならば。 5時からの用事に遅れないように、そろそろ市辺駅近くまで戻ります。午後になってからは薄日も差していたのに、またしてもぽつりぽつりと雨が降り始めていました。 うばら這ふ地にあなうらゑみゑまむ あれゆく地にあれの標せむ 遼川るか (於:妹背の里) −・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・− 蒲生野のある東近江市を出たのは、前日の20時過ぎだったでしょうか。草津市のビジネスホテルで目覚めたものの、どうやら昨夜は疲れ果てていたのでしょうね。今日、訪ねる予定のポイントの位置確認はおろか、入浴もしないでそのまま眠り込んでしまっていたようで、5時半から慌てて支度を始めたのですが...。 結局、2晩寝までしてしまい、宿を後にしたのは予定より大幅に遅い8時。スケジュールはかなりぎゅうぎゅうに詰め込んでいますから、予定のすべてを周るのは難しいかもしれません。 昨日、蒲生野から一気に草津まで移動してしまったので、その途中にあるポイントは当然ですけれどまだ立ち寄れていません。そこで、近江国古歌紀行の2日目は、草津・栗東・守山・野洲界隈を先ずは訪ねて、そこから琵琶湖大橋で湖西へ。そんなルートを大まかには採ろうと思っています。 出掛けに眺めた天気予報では依然、台風は接近中とのことでしが、取り敢えず天気は晴れ。恐らく、午後過ぎから崩れ始めるのでしょう。ならば、なおさら急がなければなりません。 JR東海道線の草津駅近くの宿から、お隣の栗東駅周辺まで。やや狭い路地を車は進みます。この辺りは旧中仙道沿いにもあたるようで、辻々に道標としての石碑があります。街並みも何処か懐かしく、民家の造りが昔ながらの風情を保っているからでしょう。 そんな栗東駅界隈。駅のすぐ傍にこんな地名があります。 「滋賀県栗東市綣/しがけんりっとうしへそ」 綣。元々の語意は、糸を紡いで績んでゆく際、撚った糸を糸玉に巻き上げてゆく、竹製品の名前のようです。主婦がこっそりと貯めるヘソクリのヘソも、語源的にはここから来ているのだといいますが、どうなんでしょうね。 一方、地名・綣の由来にいても、様々な説があるようですが、そんな説の1つに 「万葉集の歌に由来する」 としているものがあるんですね。なので、栗東市綣に立ち寄ってみたのですが、やはり特に何かがあるわけではなく、さっきまでの昔ながらの風情を残す街並みが続いています。 |綜麻形の林のさきのさ野榛の衣に付くなす目につく吾が背 井戸王「万葉集 巻1-0019」再引用 地名・綣の由来ではないか、と目されている万葉歌です。歌自体は、綜麻形という地の林に生える榛の木で着物が染まるように、わたしの目にはあなたが焼きついて離れません、というような意味です。 榛の木の雌花は松ぼっくりのような果穂になるらしく、それが染料とされたようですね。あるいは樹皮も、色合いは違いますが染料になるのだといいます。 この歌は、額田が近江へ下る際に詠んだ例の長歌とその反歌に和してもの、とされているますので、すなわち先に近江入りしている夫と、わたしは離れられないから、これから向かいます、というような解釈なのでしょうか。 ...ですが、どうもそれだけで地名の由来とするには少々弱いかな、というのがわたしの個人的な印象です。一行が向かおうとしていた近江大津京はこの栗東市綣とでは、随分と離れていますし、果たしてこの地に榛の木が林になるほど生えていたのかを、飛鳥で暮らしていた人々が知っていたとは到底思えそうになく...。 加えて、記紀万葉をやっている者にとって綜麻形、榛(はり)、そして三輪山とされたら間違いなく思い出してしまうのがこちらだからです。 |〜活玉依毘売、その容姿端正しくありき。ここに壮夫ありて、その形姿威儀時に比なきが、 |夜半の時に忽に到来る。かれ、相感でて共婚して住める間に、未だ幾時もあらねば、そ |の美人妊身みぬ。 | ここに父母、その妊身みし事をしみて、その女に問ひて曰く、 |「汝は自ら妊みぬ。夫无きに何の由にか妊身める」 | といへば、答へて曰はく、 |「麗美しき壮夫ありて、その姓名も知らぬが、夕毎に到来りて住める間に自然懐妊みぬ」 | といひき。 | ここを以ちてその父母、その人を知らむと欲ひ、その女に誨へて曰はく、 |「赤土を以ちて床の上に散らし、へその紡麻を針に貫き、その衣の襴に刺せ」 | といひき。かれ、教えの如くして旦時に見れば、針著けし麻は、戸の鉤穴より控き通り |て出でて、ただ遺れるは麻き三勾のみなりき。ここに即ち、鍵穴より出でし状を知りて、 |糸のまにまに尋ね行けば、美和山に至りて神の社に留まりき。かれ、その神の子とは知り |ぬ。かれ、その麻の三勾遺りしによりて、其地を名づけて美和といふなり。 「古事記 中巻 崇神天皇 2 三輪山の大物主神」 はい、古事記版の三輪山伝説です。この中にそのものズバリが登場していますね。へその紡麻、針、そして三輪山、と。つまり、綜麻形の林とは三輪山そのもののことではないか、と。 これならば井戸王が夫婦が離れられない喩えとして、引くこともとても明快ですし、古事記の成立は近江遷都よりはかなり後ですが、三輪山神話自体がそれ以前から定着していたのであれば問題はないでしょう。...定着していて、神坐す山であったからこそ、額田だってああ謡ったのでしょうし。やはり地名・綣との関連を云々、とする方が不自然に思えますが、如何でしょうか。 もっとも、肝心の井戸王の歌には額田の歌に和したものとは、思い難いという注釈が「万葉集」には明記されているのが若干、気になると言えば気にはなりますけれども。 |右一首の歌は、今案ふるに、和する歌に似ず。ただし、旧本この次に載す。故以になほ |ここに載す。 「万葉集 巻1-0019」左注 確かに「万葉集」の他の和した歌とは遠いのですが、額田に和した、というよりは額田の歌を後に、続けて奏上した歌、というくらいであるならば、とてもとても納得できそうです。 それでは地名の綣とは一体、となってしまいますが近江栗太郡史によると、綣の北隣に木綿園荘があったとのこと。繊維の産地と隣り合う地の名前が綣であるならば、素直にその関連でつけられたもの、とするのが1番説得力があるのだとも思います。 訪問地への途中、ちょうど通りかかったのでほんの少しだけ車を降りてみた栗東市綣。万葉の舞台であったか、否かは別として、それでも交差点にはしっかりと綣の文字が記され、旧中仙道から程近い街並みに、静かに溶け込んでいました。 果たして地元で育ちゆく子どもたちはいずれ、この地名に何らかの疑問を抱いたりするでしょうか。...もし、そうなるとしたら、何だかわたしにはちょっと素敵に感じてしまえそうです。 糸績むて綜麻に幾勾もなしゆくは継ぎて継ぎゆく霊にそ似れり 遼川るか (於:綣の交差点) −・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・− 再び、旧中仙道沿いに戻って進みます。栗東市やその北隣になる守山市。それぞれと隣接しているのが野洲市となるのですが、これらの市境に流れているのが近江太郎、そう野洲川ですね。近年でこそかつてのような暴れ川ではないようですが、それでも昭和中期くらいまでは、ほぼ10年毎に堤防決壊、そして氾濫していたという近江国きっての暴れ川です。 長閑な街中を走っていると、視界が一気に開けて河川敷の光景となります。噂では聞いていたのですが、やはり大きな河ですね。白鷺も何羽かやって来ていました。 野洲川。この川を詠んだ万葉歌があります。 |我妹子にまたも近江の安の川安寐も寝ずに恋ひわたるかも 作者未詳「万葉集 巻12-3157」 「愛しい人にまたも逢うという近江の野洲川ではないけれど、熟睡もせずに恋し続けているよ」 純粋に、字面のみで現代語訳すれば、こんな感じになると思います。ただ、それだけだとこの歌との距離がどうにも埋まりません。上3句が安を導き出す序詞なのは判るとして何故、野洲川が愛しい人にまた逢う、という喩えになるのでしょうか。 あくまでも個人の思いつきですが、この歌を読んですぐに連想する万葉歌があります。 |天の川安の川原定まりて神し競へば麻呂待た無くに 作者未詳「万葉集 巻10-2033」柿本人麻呂歌集より撰 |天地の 初めの時ゆ |天の川 い向ひ居りて |一年に ふたたび逢はぬ |妻恋ひに 物思ふ人 |天の川 安の川原の |あり通ふ 出の渡りに |そほ舟の 艫にも舳にも |舟装ひ ま楫しじ貫き |旗すすき 本葉もそよに |秋風の 吹きくる宵に |天の川 白波しのぎ |落ちたぎつ 早瀬渡りて |若草の 妻を巻かむと |大船の 思ひ頼みて |漕ぎ来らむ その夫の子が |あらたまの 年の緒長く |思ひ来し 恋尽すらむ |七月の 七日の宵は |我れも悲しも 作者未詳「万葉集 巻10-2089」 いずれも題詞には七夕の歌であることが明記されているわけで、仮に天の川=天の安川という公式が成立していたならば、件の序詞が何となく判ってきますね。もちろん、わざわざ“近江の”と断りを入れていることも、です。 そもそも天の安川という言葉は、もう記紀などにも普通に登場しています。有名な天岩戸のシーンにも登場しています。 |時に、八十万神、天安河辺に会ひて、其の祷るべき方を計らふ。 「日本書紀 巻1 神代上」 |ここに以ちて八百万の神、天の安河の河原に神集ひて、高御産巣日神の子思金神に思はし |めて、常世の長鳴鳥を集めて鳴かしめて、天の安河の河上の天の堅石を取り、天の金山の |鉄を取りて〜 「古事記 上巻 天照大御神と須佐之男命 3 天の石屋戸」 元々、高天原に流れていた川が天の安河であって、それが七夕信仰とも結びつけば天上を流れる川=天の安河=天の川、ともなりましょう。そして、その安河と同じ響きの野洲川、となりますか。 もっとも、安川だけに限らず、川を渡ることで逢瀬とする万葉歌はたくさんありますから、すべてがそこまで厳密でなくても、いいのかも知れませんけれどもね。 そんな野洲川を渡ります。琵琶湖に注いでいる川は、ちょうどわたしの進行方向を右から左へと横切るように流れます。川下を眺めれば湖こそ見えませんが特段、遮っているものもなく、初秋の青い空と木々の緑を伴って涼やかに、ゆったりと。 ですが、一転して川上を眺めると視界に飛び込んでくるのが、近江富士と呼ばれている独立峰・三上山。古事記は欠史8代の開化天皇記に |また近淡海の御上の祝がもちいつく天之御影神の女、息長水依比売を娶して生みし子は、 |丹波比古多々須美知能宇斯王、次に水穂之真若王〜 | (中略) | この美知能宇斯王の弟、水穂之真若王は、近淡海の安直の祖なり。 「古事記 中巻 開化天皇」 という記述が残っています。そしてこの三上山の麓にあるのが、延喜式内社の御上神社となりますが、祭神はやはり天之御影命、となります。因みにこの天之御影神とは、天照の孫。 高天原での天照と須佐之男の誓約で生まれた天津彦根命の息子に当たるのだそうです。 |
||||
BEFORE BACK NEXT |