綺麗に刈り込まれた芝生の上を、突っ切るようにして進み、像のすぐ側へゆくとやはり、大海人皇子の像でした。...題材としている歌の主人公ですから、考えれば当然でしたね。
 ですが、わたしがレジャー施設内の像の1つに、こうもあれこれ邪推してしまったのにも、それなりの理由があります。1つは前述している、件の贈答歌の相手であった皇太子とは誰だったのか、ということ。そしてもう1つ。
 こちらが中々の難物なんですね。

 額田王。そもそも彼女については、詳細などは全くと言っていいほど判っていません。彼女が生きた時代の記録としては、日本書紀と「万葉集」のみとなりますが、「万葉集」はあくまでも歌集であって、記述ベースの文献ではないのは言うまでもなし。
 そうなると頼みは日本書紀のみ、となるのですがこれが何とも素っ気ないことしか書いていないんですね。曰く

|天皇、初め鏡王の女額田姫王を娶して、十市皇女を生しませり。
                       「日本書紀 巻29 天武2年(674年)2月」


 これだけ。そう、たったこれだけなんです。そして、たったこれだけしかない記述、という事実の意味に気づいていらっしゃる方はどれだけおられるでしょうか。
 そもそも、わたしたちが
「そういうものだ」
 と学校の授業の中で教わり、また一般的に見聞きしている額田という存在。多くの方はきっと、こう思っていらっしゃると思います。

 1) 万葉初期の代表歌人
 2) 恐らく、現代でいう巫女のような存在だった
 3) 若い頃は大海人皇子に、その後は中大兄皇子に嫁いだ恋多き女

 このうち、特に印象が強いのが3番で、何せ中大兄皇子と大海人皇子は実の兄弟。その2人との三角関係が...、というようなある意味、ちょっとしたスキャンダルめいた説話が、ほぼ定着してしまっています。
 そして、この根拠となっているのが以下の記述です。

| 題詞:額田王、近江天皇を思ひて作る歌一首
|君待つと我が恋ひ居れば我が宿の簾動かし秋の風吹く
                            額田王「万葉集 巻4-0488」
| 題詞:秋相聞 / 額田王、近江天皇を思ひて作る歌一首
|君待つと我が恋ひをれば我が宿の簾動かし秋の風吹く
                            額田王「万葉集 巻8-1606」


 「万葉集」の巻4と巻8にそれぞれ重複して採られている、額田の歌。その題詞が額田と天智(中大兄皇子)を結びつける根拠であり、もう一方の大海人皇子との関わりは既に引いている日本書紀の記述と、蒲生野の贈答歌から、です。
 そして蒲生野の贈答歌についての、わたしなりの考察はすでに書きました。つまり、

 1) 「万葉集」への収録部立が雑歌であって相聞歌ではない以上、相聞とは思い難い
 2) 当時の皇太子が大海人皇子であった確証がないのではないか

 ということですね。..もちろん、だからといって日本書紀の記述そのものは疑う必要性があまり感じられないので、額田が大海人皇子に嫁ぎ、十市皇女を産んだということは、ほぼ断定してしまっていいでしょう。
 余談になりますが、額田を語る第3の資料となる、薬師寺縁起(平安末期成立)は、成立年代と記述内容から、事実上は日本書紀をそのまま受けたもの、と捉えていいように感じます。

 

|初鏡王・額田部姫王・生一女十市女
                                  薬師寺縁起


 一方、わたしたちの多くが“そういうもの”と思っている件の三角関係。そのもう1人の登場人物である天智と、額田の関わりを裏付けている万葉歌と題詞について、その信憑性はどうなのでしょうか。
 恐らくは、ここが核心となるでしょう。

 「あなたを待って恋しく思っていると、戸口の簾を揺らして秋風が吹いてきます(あなたは来てもくれない)」
 単純に現代語訳をするならば、まさしく恋歌なのでしょう。ですが、どうも引っ掛かるのはこんな代物が存在しているという事実なんですね。

|夜相思     夜相想う
|風吹窓簾動   風吹いて窓簾動く
|言是所歓来   言う是れ所歓の来れるかと(書き下し:遼川るか)
                                 呉声歌「華山畿」


 中国は魏呉南北朝時代の閨怨詩の1つですが、お判りいただけることでしょう。因みに件の重複する2首の万葉仮名表記はこちら。

|君待登 吾戀居者 我屋戸之 簾動之 秋風吹
                            額田王「万葉集 巻4-0488」
|君待跡 吾戀居者 我屋戸乃 簾令動 秋之風吹
                            額田王「万葉集 巻8-1606」


 呉声歌というのは呉の地方民謡の1種なのだ、といいます。つまりは南朝ですね。時代的には、5世紀〜6世紀となるでしょうか。
 呉声歌だけではありません。

|清風動帷簾   清風帷簾を動かし
|晨月照幽房   晨月幽房を照らす
|佳人處遐遠   佳人遐遠におり
|蘭室無容光   蘭室容光無し(書き下し:遼川るか)
                                   張華「情詩」

|秋風入窓裡   秋風窓の裡に入る
|羅帳起飄   羅帳起こり飄
|仰頭看明月   頭を仰ぎ名月を看る
|寄情千里光   情を寄す千里の光に(書き下し:遼川るか)
                                 近代呉歌「秋歌」

|昭昭素明月   昭昭たる素明の月
|輝光燭我牀   輝光我が牀を燭らす
|憂人不能寐   憂人寐ぬる能はず
|耿耿夜何長   耿耿として夜何ぞ長き
|微風吹閨闥   微風閨闥を吹き
|羅幃自飄   羅幃自ら飄す(書き下し:遼川るか)
                                  楽府「傷歌行」


 これだけの類似例が、額田と天智の関係の根拠になっている歌に存在していることは、すでに万葉学の世界では周知のこと。...だからなのでしょうね。つまり、額田と天智の関係性そのものを“なかったこと”としている説がとうに優勢になっているのです。
 もちろん、中大兄皇子・大海人皇子・額田王、という三角関係のうち、中大兄皇子と額田の間には何もなかったとしても、だからといって大海人皇子と額田がずっと添い遂げたか否かはお話が別です。また、わたし自身としてはそこがどうであるか、を考察したい欲求は正直、希薄です。

 今のわたしにとって関心あること。それは、わたしたちが“そういうものだ”と思い込んでいることが、どれほど脆弱で、同時にそうやって事実とは別に作り上げられ、広められ、浸透させられ、定着させられていったものなのかとということと、そうしてきた人々の動機は何なのか。
 ...これらがとてもとても気になっているだけなのです。

 お話を本題に戻します。仮に、中大兄皇子と額田の間には何もなかった、とした場合。それに反する記述はこれだけです。

| 題詞:額田王、近江天皇を思ひて作る歌一首
                         額田王「万葉集 巻4-0488」再引用
| 題詞:秋相聞 / 額田王、近江天皇を思ひて作る歌一首
                         額田王「万葉集 巻8-1606」再引用


 これらの題詞のあとに、件の歌が続いているわけで、けれどもその歌については前述している通りです。
 そもそも、「万葉集」には類似歌が多く、中には類似ではなくほぼ同一と見ていい重出歌も複数組、収録されています。わたしがすぐに思い出せるものだけを列挙しても、これだけあるんですね(件の額田の歌を除く)。


| 題詞:鏡王女が作る歌一首
|風をだに恋ふるは羨し風をだに来むとし待たば何か嘆かむ
                            鏡王女「万葉集 巻4-0489」
| 題詞:鏡王女が作る歌一首
|風をだに恋ふるは羨し風をだに来むとし待たば何か嘆かむ
                            鏡王女「万葉集 巻8-1607」

|霍公鳥いとふ時なしあやめぐさかづらにせむ日こゆ鳴き渡れ
                           作者未詳「万葉集 巻10-1955」
|霍公鳥いとふ時なしあやめぐさかづらにせむ日こゆ鳴き渡れ

|天平20年春3月23日、左大臣橘家の使者造酒司令史田辺福麻呂を守大伴宿家持の館
|に饗す。爰に新しき歌を作り、并せて便ち古詠を誦して、各々心緒を述ぶ
                         田辺福麻呂「万葉集 巻18-40350」

|君が行き日長くなりぬ山尋ね迎へか行かむ待ちにか待たむ
                           磐姫皇后「万葉集 巻2-0085」
|君が行き日長くなりぬ山たづの迎へを行かむ待つには待たじ
                           磐姫皇后「万葉集 巻2-0090」

|夕されば小倉の山に鳴く鹿は今夜は鳴かず寐ねにけらしも
                           舒明天皇「万葉集 巻8-1511」
|夕されば小倉の山に伏す鹿の今夜は鳴かず寐ねにけらしも

|右は、或る本に曰はく、崗本天皇の御製なりと云へり。正指を審らかにせず。これに
|因りて以ちて累ねて戴す。
                           雄略天皇「万葉集 巻9-1664」

|嗚呼見の浦に舟乗りすらむをとめらが玉裳の裾に潮満つらむか
                          柿本人麻呂「万葉集 巻1-0040」
|安胡の浦に舟乗りすらむ娘子らが赤裳の裾に潮満つらむか
                           作者未詳「万葉集 巻15-3610」

|我が背子はいづく行くらむ沖つ藻の名張の山を今日か越ゆらむ
                         當麻真人麻呂妻「万葉集 巻1-43」
|我が背子はいづく行くらむ沖つ藻の名張の山を今日か越ゆらむ
                        當麻麻呂大夫妻「万葉集 巻4-0511」


 重出歌。その重なり方もまちまちで、「万葉集」そのものに重ねて採っていることを明記しているものもあれば、万葉期から見て古歌にあたるものを、誰かが誦し、それによって元歌と誦したものが重なったものがあったり。また、実質的には異伝として採っているものもあります。...つまり、「万葉集」の編纂者たちが重複を承知の上で採った、ということですね。
 ですがその一方で、件の額田やそれに続く鏡女王の重出歌、加えて上記引用の當麻真人麻呂妻のものは、収録されている巻も別ですし、
「敢えてやっている」
 と受け取れる“記述”はありません。

 そもそも「万葉集」は古今集以降の勅撰和歌集のように、同一選者によって編纂されたものではありません。過去の拙作でも何度か書いていますが、巻1、2こそ勅撰説は根強く、また17巻以下の家持歌日記はともかく、他の巻に至っては誰が、どういう基準で選出・編纂をしたのかも、詳細な成立年も、様々な説はあれど、確たることはまったく判らないんですね。
 ですが明らかなのは、多くの編纂者たちが、ある程度のタイムラグも含みながら、纏め上げていったであろう、ということで、逆を言えば編纂者が自身より以前の編纂者たちが採った歌を覚えていなかったり、その時差の間に醸されてしまった定説を注釈として書き添えてしまったり、とどうにも
「一枚岩ではない摩訶不思議な歌集」
 それこそが「万葉集」の正体である、とすることにわたし自身、躊躇がありません。そして1つ奇異に感じるのが
「額田王、近江天皇を思ひて〜」
 の近江天皇、です。

 「万葉集」に採られた歌たちは題詞のあるものとないものがありますが、基本的に題詞自体は作者以外の誰かが、書き添えているのはほぼ間違いないでしょう。もちろん、それは前述の通り編纂者であることが多いのだ、とも思います。
 現代のわたしたちも同じなのですが、天皇に対する呼称にはある程度の法則があります。つまり、今上天皇に対しては単に天皇、そして今上よりも以前の天皇に対しては○○天皇とする、と。
 そしてその法則は「万葉集」そのものにも見受けられます。「万葉集」の巻1と2は天皇の時代ごとに歌をまとめていて、その天皇の時代に詠まれた歌の題詞は、基本的に「天皇」、それ以前の天皇ならば「○○天皇」となっているんですね。もちめん、日本書紀も同様です。...つまり、そういう法則は当時から存在していた、としてしまっていいと思います。

 さて、近江天皇。つまりは天智天皇ですが、「万葉集」の場合は天皇としての諡よりも、宮を構えた地で表すことも法則ですから、法則に従うのであれば“近江天皇”と記載されている以上、件の歌が詠まれたのは少なくとも大津京が皇都であった時よりも後、となってしまうんですね。
 ...そして、それは即ちもう天智がこの世にはいない時期、となります。故人を偲ぶことはもちろんあると思います。ですが“待つ”というのはどうでしょうか。少なくともわたしには、天智亡き後に天智を偲んで詠んだのならば、待つとはしなかったと思えてなりません。

 呉声歌や文選収録の漢詩との類似。今上天皇に対するものとは思えない題詞。そして、もういない人を想ったものとするには無理のある歌。さらに最大の違和感が歌風です。

|秋の野のみ草刈り葺き宿れりし宇治の宮処の仮廬し思ほゆ
                            額田王「万葉集 巻1-0007」
|熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな
                            額田王「万葉集 巻1-0008」
|莫囂円隣之大相七兄爪謁気我が背子がい立たせりけむ厳橿が本
                            額田王「万葉集 巻1-0009」
|冬こもり 春さり来れば
|鳴かずありし 鳥も来鳴きぬ
|咲かずありし 花も咲けれど
|山を茂み 入りても取らず
|草深み 取りても見ず
|秋山の 木の葉を見ては
|黄葉をば 取りてぞ偲ふ
|青きをば 置きてぞ嘆く
|そこし恨めし 秋山吾は
                            額田王「万葉集 巻1-0016」

|味酒 三輪の山
|あをによし 奈良の山の
|山の際に い隠るまで
|道の隈 い積もるまでに
|つばらにも 見つつ行かむを
|しばしばも 見放けむ山を
|心なく 雲の
|隠さふべしや
                         額田王「万葉集 巻1-0017」再引用
|三輪山をしかも隠すか雲だにも心あらなも隠さふべしや
                         額田王「万葉集 巻1-0018」再引用
|あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る
                         額田王「万葉集 巻1-0020」再引用
|かからむとかねて知りせば大御船泊てし泊りに標結はましを
                            額田王「万葉集 巻2-0151」
|いにしへに恋ふらむ鳥は霍公鳥けだしや鳴きし我が念へるごと
                            額田王「万葉集 巻2-0112」
|み吉野の玉松が枝ははしきかも君が御言を持ちて通はく
                            額田王「万葉集 巻2-0113」
|やすみしし 我ご大君の
|畏きや 御陵仕ふる
|山科の 鏡の山に
|夜はも 夜のことごと
|昼はも 日のことごと
|哭のみを 泣きつつありてや
|ももしきの 大宮人は
|行き別れなむ
                            額田王「万葉集 巻2-0155」
|君待つと我が恋ひ居れば我が宿の簾動かし秋の風吹く
                     額田王「万葉集 巻4-0488、巻8-1606」再引用


 額田作、とされている歌。長短併せて12首(加えて重複が1首)を並べて見ると判り易いのではないでしょうか。...どうも件の1首だけが、万葉の、それも万葉初期にあった彼女の歌というよりも、もはやたをやめぶりの古今にも近い印象です。
 彼女自身の最も晩年に詠まれた「いにしへに〜」「み吉野の〜」にも、額田らしい艶っぽさはちゃんと感じられるのに、「君待つと〜」にはそれがないんですね。しかも秋の風。

 秋風が秋=飽きに通じる、として恋人の心が離れてゆく状態のメタファーとされたのは、明確な限りで平安初期でしょうか。

|秋風にあふたのみこそかなしけれ我が身むなしくなりぬと思へば
                       小野小町「古今和歌集 巻15 恋5 822」


 平安遷都のほんの数年後に生まれた、とされている小町の古今集収録歌には、すでに秋風=飽き、の公式が詠まれていますね。一方の「万葉集」成立は759年以降と見られていますから、時差を見積もるならば約100年。

 

 ...随分と口幅ったい書き方になってしまいました。つまり、わたしが思うに。そしてすでに万葉学の数多な論文に於いても、「君待つと〜」は額田の作ではなく、天平期に中国文学の影響の中で詠まれたものであろう、ととされているということです。
 要するに後世の者が額田に仮託して詠んだ、と。そして同時に、そうであるならば天智と額田の関係はなかったのではないか、ということにもなりますね。

 あれ立つはいづへなるかを問はまくほしや
 地は地であるか天にし問はまくほしや      遼川るか
 (於:妹背の里)


 さらに続けます。...同じく、重出歌である鏡女王の歌。「万葉集」巻4、巻8共に額田の歌と並んで重出しているところからみるに、こちらの採用と、歌の並び順は恐らく、それぞれの編纂者、あるいは同一の編纂者による故意、と見ることができるでしょう。
 かつて「あきづしまやまとゆ」の中で書いた大津・石川女郎・草壁の歌の並び順にしてもそうですが、「万葉集」には時々、編纂者たちの恣意としか思えない歌番号の並びが複数、登場します。そして、この額田と鏡の組み合わせも、と。

 鏡女王。彼女については過去の拙作で、かなり詳しく書いてきていますよし割愛いたしますが、現代の定説となっているものは以下の数点。

 1) 藤原鎌足の正室で藤原不比等の生母
 2) 天智天皇の後宮にいたのち、鎌足へ下賜
 3) 額田の姉という定説が根強くあるが、根拠は薄い

 先ず、鎌足の正室であったことと不比等の生母であったことは、昌泰3年(900年)に成立したとされる、興福寺縁起に記載されているのだといいます。...ごめんなさい、わたし自身では興福寺縁起の確認をしていないので、あくまでも伝聞の範疇内に留めます。
 そして、天智や鎌足との関係を記しているのは、「万葉集」となります。







BEFORE  BACK  NEXT