もちろん、日本書紀は

|五月五日に、天皇、蒲生野に縦猟したまふ。時に、大皇弟・諸王・内臣及び群臣、皆悉に従
|なり。
              「日本書紀 巻27 天智天皇 天智7年(668年)5月5日」再引用

 としてますから“弟”であった大海人皇子が蒲生野に出向いていたことは、確定しています。ですが、皇太子についてとなると、日本書紀の記述はどうも釈然としません。
 日本書紀の天智紀には皇太子という存在と、東宮大皇弟あるいは大皇弟という存在が登場しているのですが、後者はもちろん大海人皇子、と。ですが、皇太子はというと大海人なのか誰なのか、明確ではないんですね。

 可能性としては、純粋に弟と子の書き間違い。主な日本書紀の解説文が多くそうしているように、可能性で語るならば、書き間違いなのかも知れませんね。けれども同じく可能性で語るのならば、まさしく子と弟。そういう書き分けだったという可能性も否定はできないのではないかな、と。...可能性で語るのならば、です。

|庚申に、天皇、東宮大皇弟を藤原内大臣の家に遣して〜
                 「日本書紀 巻27 天智天皇 天智8年(669年)10月15日」

|五月の丁酉の朔辛丑に、天皇、西の小殿に御す。皇太子・群臣、宴に待り。
                  「日本書紀 巻27 天智天皇 天智10年(671年)5月5日」


 追々書いてゆきますが、実は壬申の乱の当事者となった、大海人皇子(天智の弟)と大友皇子(天智の息子)。その大友に関しては、日本書紀での扱いがとても微妙になっているんですね。後に弘文天皇、と追尊までされている大友は、日本書紀では全くもって黙殺されているのです。
 日本書紀という正史。天武の息子である舎人親王などが中心となって編纂した日本書紀に於いて彼は、立太子もしていなければ、即位もしてなどなく、それなのに皇位を放棄した大海人を、一方的に討とうとした人物、とされているのです。

 ...もう、お判りでしょう。この蒲生野贈答歌に纏わる、もう1つの説。それは、当時の皇太子とは大友だったのではないか、というもので仮にそうするならば、件の歌がとても判りやすくなるのは事実なんです。つまり、大友の妃は額田の娘・十市皇女で、大友にとって額田は義母。
 すでに老いてはいるものの、相変わらず宮中きっての最高宮廷歌人である義母に、大友が
「紫のにほへる妹」
「人妻ゆゑに」
 と宴席で謡ったとしたならば...。いやはや、こちらもまた中々に納得できてしまうシチュエーションのように思えます。

 ともあれ、そんな“特別地方公共団体・近江大津宮職員旅行”の行先だったのが当事、蒲生野と呼ばれた地です。場所は琵琶湖の東岸。恐らく、大津宮からの距離を考えてもかなり離れているので、この薬猟へは湖上を船で、だったのではないかと思います。後世の人麻呂の歌などから手繰れる、他の土地での猟と比べると本当に遠距離ですから。
 もっとも、そのタイミングで大規模かつ遠方でのイベントを実行したかった天智の考えは判らなくありません。...そう、即位している自身の威光をより広く、より遠くまで、示したかったのでしょう。

 そんな政治的思惑とは裏腹に後世の人々が夢想したロマンスの舞台。それが蒲生野です。現在の行政区分ですと、蒲生郡という地名も存在していますが、定説となっているのは東近江市の、やはり市辺駅近く船岡山界隈となります。西側の瓶割山、東南の布施山、そして北東の箕作山の三山に囲まれた一帯、ということでしょう。
 蒲生野。その名の通り、蒲が生える場所ということでしょうか。といって野である以上は、水辺でもなし。...つまり、それくらいほぼ未開の地、ということなのかな、とも思える一方、額田の歌に“紫野”“標野”とあるので、染料となる紫や薬草の類が栽培されていた朝廷の管轄地。そして同時に、一般人には禁足地だった、とも考えられます。もっとも当時の朝廷管轄地がどの程度のものだったのか、という側面まで考え合わせれば、やはりさほど開拓はされていなかったのではないか、と。

 市辺押磐皇子陵から近鉄の線路を渡ってすぐでした。まず阿賀神社という小さなお社があって、その裏手で存在感を放っていたのが船岡山です。どうやら万葉の森、として整備されているようで、そういえば万葉歌の情景を描いた大きなレリーフは、万葉関連の本でよく見かけていました。
 車を降りて順路通りに進みます。ここでの最大の見ものは、歌碑。かなり巨大なものらしく小高い丘にある大岩に嵌め込まれているのだそうです。

 

 高さや足場の悪さ自体は、全く苦痛ではないのですが、如何せん夜明け前に出発して、そのまま休みもとらずに、あちこちを巡り始めてしまいましたから、この歌碑までの登りは少しばかり堪えました。...どうしても秋口は持病の喘息が酷くなるので、それも手伝って、なのですが。
 けれども、実際に臨んだ歌碑はそれを払っても余りあるものでした。巨大な歌碑ならば、地元・神奈川は走水神社で見た弟橘の歌碑などもありましたけれど、とにかく周囲に溶け込んでしまっていたんですね。そこに碑があることが、不自然ではないんです。これはやはり、元々あった大岩に、碑を嵌め込んだからなのでしょうか。それとも、この土地が長い歴史の中でずっと、万葉歌と共にあったからなのでしょうか。 

 きみ知らにみなひとほるはいめをし見むと
 あれ知るはうつそみはなほいめをしほりす        遼川るか

 風に聞き、雲に聞かむは世のいかに世にしあるかを
 いにしへとても、あしたであれど             遼川るか
 (於:船岡山万葉の森)


 天気が悪いことと、あちこちからいっぱい張り出した樹木の枝で、あまり周囲を見渡すことはできませんでした。ですが、少なくともこの一帯がすでに金色に染まった田圃ばかりである、ということだけは判ります。
 1300年前の半ば未開の地・蒲生野。そこは今、肥沃な穀倉地帯に変わっていました。何でも天平期や平安期の条理跡が発掘されている、とのことですから件の蒲生野薬猟当時はともかくとしても、ここが穀倉地帯になったのは、案外早くからのようです。

 かすかな雨と、かすかな風と。古歌の舞台を巡っていると、こういう瞬間に何度も出遭います。つまり、幼い頃から歌を知り、それゆえに勝手に築いてきていたわたしの中の幻想空間。それが、現実のその場に臨むと幻想がさらさらと崩れてゆく土地、逆に幻想がより強固になってしまった土地、そして幻想空間云々ではなく、もうその場に立てている自身に何だか実感が湧かずにフワフワしてしまう土地。本当にフワフワしてしまって夢と現実が曖昧になってしまった空間に、佇んでいる、と言いますか。
 ここ、蒲生野でのわたしは、実際に自身が蒲生野に来ている実感があまりにも希薄でした。でも、がっかりしているわけでは、ありません。喜んでいるわけでも、ありません。ただ何となくぼんやり、と。
 そして、古歌紀行をする度に、何処の土地でも実感することを、改めて噛み締めてもいました。曰く
「世界は夢を見たがっている」
 と。


 丘から降りて、右手に出ます。すると一面の芝生が広がっていて、巨大なリレーフが奥に立っていました。レリーフに描かれているのは弓を携えて騎馬している男性2人と、すこし離れた場所で草を摘んでいる女性が2人。かつての蒲生野遊猟の情景なのでしょう。
 ...これもまた、夢の1つです。世界が見たがり、そして覚めたがらない巨大な白昼夢。

 深く柔らかい芝生の中を進みながら、世界が奇妙に歪んでゆく感覚が肌に纏わりついて離れませんでした。胡蝶の夢ではないですが、わたしがいるこの世が、1300年もの昔の世が見ている夢なのか、それともわたしたちが1300年前の世界を夢見ているのか。...あるいはそのいずれもなのか。いずれでもないのか。
 台風が近づいてきている近江国。けれどもそこはとてもとても静かで、かつて蒲生野と呼ばれた草叢にはわたし以外に誰もいません。けれども目には見えない何か、の生命力だけはずっと伝わってきていて、その拍動に自分が取り込まれてゆくような奇異な感覚がずっと続きます。といってそれは、決して不快ではなくてむしろ安心できてしまうものなのですが。
 やや強まってきた雨を避けて車内へ戻ります。

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 畿内にほど近い、いやむしろ畿内のほんのすぐ外である近江国。だからなのでしょうね。発見・発掘された古墳も相当な数のようですし、その時代もかなり古いものがあるといいます。
 前述している通り、蒲生野は箕作山・瓶割山・布施山に囲まれていた、とされているのですが、その瓶割山と布施山を結ぶ直線から少し外れた場所に雪野山があります。そして、この雪野山(308.8m)の山頂にもまた古墳があるらしく、発見当時は全国でも珍しい未盗掘の古墳として評判になったのだ、と。何でも4世紀半ばのもの、とのことですからわたしが過去に見てきた古墳の中でも、極めて古いものになると思います。

 もっとも現在、古墳そのものは埋め戻されているそうで、蒲生野を後にして何故、自分がこの雪野山を目指したのかよく判りませんでした。ただ、件の古墳から出土したものの中に三角縁神獣鏡があったのが、とても引っ掛かっていたのは事実です。
 三角縁神獣鏡。一般的には、魏志倭人伝にある

| 景初二年六月、倭の女王、大夫難升米等を遣わし郡に詣り、天子に詣りて朝献せんこと
|を求む。太守劉夏、使を遣わし、将って送りて京都に詣らしむ。
| その年十二月、詔書して倭の女王に報じていわく、
|「親魏倭王卑弥呼に制詔す。帯方の太守劉夏、使を遣わし汝の大夫難升米・次使都市牛利を
|送り、汝献ずる所の男生口四人・女生口六人・班布二匹二丈を奉り以て到る。汝がある所遥
|かに遠きも、乃ち使を遣わし貢献す。これ汝の忠孝、我れ甚だ汝を哀れむ。今汝を以て親魏
|倭王となし、金印紫綬を仮し、装封して帯方の太守に付し仮綬せしむ。汝、それ種人を綏撫
|し、勉めて孝順をなせ。
| 汝が来使難升米・牛利、遠きを渉り、道路勤労す。今、難升米を以て率善中郎将となし、牛
|利を率善校尉となし、銀印青綬を仮し、引見労賜し遣わし還す。今、絳地交竜錦五匹・絳地
十張・絳五十匹・紺青五十匹を以て汝が献ずる所の貢直に答う。また、特に汝に紺
|地句文錦三匹・細班華五張・白絹五十匹・金八両・五尺刀二口・銅鏡百牧・真珠・鉛丹各々
|五十斤を賜い、皆装封して難升米・牛利に付す。還り到らば録受し、悉く以て汝が國中の人
|に示し、國家汝を哀れむを知らしむべし。故に鄭重に汝に好物を賜うなり」
| と。
                                  「魏志倭人伝」

 にならって、卑弥呼が魏国から賜った銅鏡100枚のことだ、とされています。また国内で見つかっているのは、まだすべてではない、とも言われていますね。ですが、三角縁神獣鏡は中国では1枚も発掘されていないうえに、国内で発掘されたものもすべて4世紀の古墳からの出土。魏志や邪馬台国などの3世紀とは時代が合致しないのが現実だ、という論説を読んだことがあります。つまり、三角縁神獣鏡は魏国から賜ったのではなくて、国内で作られたものなのではないか、と。
 わたし自身は考古学的見地には、ほとほと疎いのでこの辺りになってくるともうお手上げなのですが、それでもやはり感じてしまうのは、古代に思いを馳せるロマンという名の夢。この存在です。

 古歌紀行からはかなり脱線してしまうのですが、どうにもひねくれ者のわたしは、正義という言葉が嫌いですし、真実なんてものもこの世には存在しない、と思っています。また、夢は寝ているときに見てこそ夢ですし、憧れなんて代物はとにかく早く壊すに限る、と。
 ...現実の大地に立ち、生きていたい欲求が強いのでしょうね。だから、
「そうあったら素敵だな」
 と考えたくなってしまうドラマチックさや、絶対性に嫌悪を抱くのでしょう。

 古代史。それは絶対に手繰ることのできない、正解なき謎の大陸への航路であって、それが古墳時代であろうと、大和王朝時代であろうと、突き詰めれば答えは1つしか存在しない、と常日頃から思っています。
 すなわち
「判らない」
 と。判らない、という答えに勝る答えなどありません。ですが、判らなくとも判らないなりに、事実の確認は可能ですし、夢や憧れとしてのロマンと事実と。そのいずれが、いずれの前に存在していなければならないのか。...この部分の掃き違えだけはしたくない、と自身に刻みつけたく思っているのですが。

|暮れにきと告ぐるぞ待たで降りはるる雪野の寺の入相いの鐘
                                 和泉式部

 雪野山は古墳こそ埋め戻されていますが、頂上まではハンキングコースになっているらしく、和泉式部の歌碑(出典は不明)が建つ麓から、何組かの家族連れが登ってゆくのを眺めていました。...体力的に余裕があったら登ってみようかな、という程度には考えていたのですが、そこはわたしのこと。蒲生野の船岡山を登るだけでもシンドかったのに、ハイキングコースなんて無理を通り越して無茶ですから、早々に諦めて雪野山からほど近いあかね古墳公園へと移動します。
 こちらは雪野山古墳よりもやや新しい5世紀中頃に造られた古墳群とのことですが、最大の特徴として、原寸大に復元されているらしいのです。

  

 これまでに実寸での復元遺跡や復元建造物は、複数見てきています。そして、そのどれに対しても、個人的には何とも複雑な思いを抱き続けて来たのは事実です。
 古典や古代史ファンとしては、やはり実寸での復元物は往時に思い馳せるのに実感を伴ってくれますし、迫力もあります。ですから、その部分だけを見れば感動もしてしまうんですけれどね。けれども同時に探求することに憑かれた者としては、どうしてもまやかし、と思えてもしまうわけで。

 科学なんてものがなかった時代、当時の人々が知りうる知恵と、知識と、使いうる力を、駆使して造り上げたものたち。それを現代の科学やロジックで完成体のみを復元するというのは、どうなんでしょうか。どうせ復元するのなら、その過程からきっちりと復元すればいい、とも思いますし、かといって実際はそんなことなどほぼ不可能。それこそ批判のための批判めいてきてしまうかも知れません。ただ、そうやって必死に暮らしていた人々の様を観光的に活用するというのがどうにも...。
 ともあれ、古墳そのものの原寸大復元を見たのは初めてで、そしていつもながらの感激とやるせなさとが、綯い交ぜになって襲ってきていました。

 実際に復元古墳の頂上まで登ってみます。かつて歩いた世界各地でも中米のピラミッドなどは登りましたし、
「こんな高さまでにするにはどれ位の時間と労力が掛かったのか...」
 と驚く反面、かすかに呆れてもしまったものでしたが、ここ・あかね古墳公園でもそこはあまり変わりません。
 ...そんなに高くない古墳だったんですけれども。

 死。この避けられない宿命に、科学があろうが、なかろうが。神を信じていようが、いなかろうが。人はずっと様々に考え惑ってきたのでしょう。かなり不謹慎であることを承知で書きますが、この手の遺物の莫迦げた大きさに触れるたびに思います。つまり遺物の大きさは、死に対する忌避感といいますか、恐怖の大きさに等しいのだろう、と。
 そしてさらに思うことは、人間が抱く死の恐怖とは、本質的に何を恐れているのか、ということです。

 「...わたしを忘れないで」
 突き詰めると、これがすべてなのかも知れません。もちろん、それは命ある生物だけではなく、無生物である物も、です。
 必要とされることがレゾン・デートルなのだとしたならば、忘れないでという祈りはただただ、哀しく。...生きる者はできうる限り前を向いているべきだと判っているからこそ、ただただ哀しく、そしてやるせないものです。

 復元された遺跡の上で、何となく思い描いていた古墳時代。その祭祀風景というのはきっとこんな感じだったのだろうな、と少し気持ちに距離がありながらも感じていました。素焼きの土器がぐるり、と並んだ古墳中腹。近江の風が心なしか強く吹き付けてきます。
 公園内に復元されているのは天乞山古墳と久保田山古墳。たくさん並ぶ素焼きの土器は形こそ違いますが、大きさはまるで屈葬の棺用甕のようで、改めて死そのものをバックボーンに造られたもの、それこそが古墳である、ということを淡々と訴えているかのようです。
 宮内庁管理の御陵は何とも格式ばっていました。東国の自治体管理の古墳は傍目には単なる丘のようでした。けれどもここのように復元された古墳ともなると、もはや異界...。まるで二次元のものに対するように心の距離が生じてしまって埋めようがなく、呆然と風に吹かれるに任せるのが精一杯でした。

 過ぎば消ゆ 霊あるゆゑが道なれば風ふくのちのうつそみも消ゆ  遼川るか

 生ることは絶ゆるに等し なれば為し為すがゝぎりを魂とし覚ゆ  遼川るか
 (於:あかね古墳公園)



 余談になりますが、あかね古墳公園から臨めるのが、玉緒山(布施山)です。この玉緒山、和歌にも詠まれて来ているようなので、ご紹介しておきます。

|蒲生野の玉の緒山にすむつるの千とせは君かみよのかすなり
                       詠み人知らず「拾遺和歌集 巻5 賀 265」

|今そ見る玉の緒山のふもとにてみちし蒲生の野辺のほたるを
                        葉室光俊「夫木和歌抄 巻20 雑2 8410」


       −・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−

|近江におかしき歌枕、老曾轟、蒲生野布施の池、安吉の橋、
|伊香具野余呉の湖の滋賀の浦に、新羅が立てたりし持仏堂の金の柱。
                               「梁塵秘抄 巻2 雑 325」


 こんな中古歌謡が、梁塵秘抄に採られています。ここに登場する布施の池が、蒲生野のごく近くにあります。前述している通り、蒲生野の定義は、瓶割山の東側、布施山の北側、そして箕作山の南側の一帯、とされているのですが、この布施山の麓に布施の池が、となるんですね。
 布施の池。別名が布施溜といいますから、人造された溜池なのでしょう。そして、その造成記録かも知れない、とされている記述が続日本紀にありますね。

|己卯、使を遣して、池を大和・河内・山背・近江・丹波・播磨・讃岐等の国に築かしむ。
                「続日本紀 巻25 淳仁天皇 天平宝字8年(764年)8月11日」


 果たして、ここに記された池が、布施の池のことなのかは判りません。考古学的な見地からは、この手の造成があった場合、条理制も同時に敷かれてしかるべし、とのことなのですが少なくとも布施の池周辺に条理制の跡は発掘されていない、と聞いています。ですが、続日本紀はさておくとしても、平安末期には人々に広く謡われ、しかもその歌が定着していたことは、梁塵秘抄が確実に立証していますから、これ以上の野暮は控えようと思います。
 とはいえ、ふと引っ掛かってしまったのが歌枕、です。

 歌枕。これらについては、「あきづしまやまとゆ」や「あきづしまやまとゆ・弐」、「なまよみのかひゆ」、「あしがちるなにはゆ」といった一連の拙作の中で、繰り返し繰り返し書いてきていますよし、詳細は割愛します。
 ですが、ここで明言できるのは
「近江におかしき歌枕」
 と謳われた以上、布施の池を詠んだ歌が存在していなければならない、ということです。もちろん、何も上代歌謡でなければならないはずもなく、平安中後期までのものでも一向に構わないのですが、これがどうも見当たらないのです。

 一方、布施の池以外に登場する歌枕たち。老曾轟は老蘇の森として

|わすれにし人をぞさらにあふみなるおいそのもりとおもひいでつる
                    詠み人知らず「古今和歌六帖 巻5 雑思 2893」


 古今和歌六帖(10世紀末成立)に詠まれていますし、安吉の橋は安義橋のことですから、今昔物語(同じく10世紀末成立)を始め現代まで様々に語られている説話の舞台。勅撰集には見当たらなかったとしても、梁塵秘抄などの民謡には、きっとあれこれと謡われていたであろうことは、想像に難くありませんね。

|今は昔、近江守□□□□と云ひける人、其の国に有りける間、館に若き男共の勇みたる数
|た居て、昔今の物語などして、碁・双六を打ち、万の遊をして、物食ひ酒飲みなどしける次
|に、
|「此の国に安義橋と云ふ橋は、古は人行きけるを、何に云ひ伝へたるにか、今は行く事無し」
| など、一人が云ひければ、おそはへたる者の、口聞しく、然る方に思有りける者の云は
|く、彼の安義橋の事、実とも思えずや有りけむ、
|「己れしも、其の橋は渡りなむかし。極じき鬼なりとも、此の御館に有る一の鹿毛にだに乗
|りたらば、渡りなむ」
| と。
               「今昔物語 巻27 近江国安義橋なる鬼、人をふ語 第13」
                              ※ □は原文の欠落部


 伊香具野以下の歌枕群は、蒲生野界隈ではないので、措かせて戴くとして。

 問題は、布施の池です。いろいろと調べてみたのですが、どうにも平安末期までの歌や記述が見つからなくて唯一、可能性としてありえそうだったのが前述している玉緒山を詠んだ歌。

|蒲生野の玉の緒山にすむつるの千とせは君かみよのかすなり
                    詠み人知らず「拾遺和歌集 巻5 賀 265」再引用

 玉緒山、すなわち布施山の麓にあるのが、布施の池。拾遺和歌集に採られている以上、時代的には合致してはいますけれども...。
 いや、何も整合性がどうこう、という意味で拘りたかったのではありません。ただ、万葉に蒲生野と呼ばれた土地です。そこが時代の中でどう、より幻想空間として成り代わっていったのか、追いかけたかったんですが。








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