|人もをし人も恨めしあぢきなく世を思ふゆゑに物思ふ身は
                  後鳥羽院「続後撰和歌集 巻17 雑歌中 1208」
                              「小倉百人一首 99」


 はい、小倉百人一首に採られている、後鳥羽院の歌です。ご多分にもれず、わたしも最初に接した彼の歌はこちらで、4歳の時でしたね。...当然、歌意なんて全く判っていませんでしたし、それどころか歌意を聞いても今度はその歌意が判らなかったことでしょう。いや、本音で言えばもう結構な年齢となった今でも、判っているとは思い難い歌だと感じます。

 「世を味気なく、面白味のないものと思い、物思いに耽っている身には、ある時は人を愛しく思い、またある時は人が恨めしく思われてしまう」
 所謂、述懐の歌となりますが、どうでしょうか。...いや、言っていること自体は判るんですけれどね。でも、これをこれから承久の乱を起こす9年も前に詠んでいた、というバックグラウンドを考え合わせると、ちょっと表面上の意味だけでは語れない歌なのだろうな、と思えてしまいますが。

 ご存知の通り、承久の乱とは当時の鎌倉幕府に対し、後鳥羽院(当時は上皇)が反旗を翻しては政の実権を朝廷に取り戻そうとした事件。鎌倉幕府執権・北条義時追討を掲げ、挙兵したのが後鳥羽上皇その人でした。そして返り討ちにあい、隠岐流罪となったわけでそのまま隠岐にて病没。これが後鳥羽院の人生後半の概略となりますか。
 先に引用している彼の歌は、表面の意味だけを汲んでしまうと、まるで配流後の厭世的なものに感じられてしまいますが、事実は全くの逆。もちろん、この歌の中で彼が人をどう愛しく思い、また恨めしく思うのかは判りませんし、誰に対してなのかも判りません。ですが、少なくとも世の中が詰まらない、味気ない、と感じていたことはストレートに伝わってきます。しかもここでいう“人”とは恐らく、特定個人などではなく不特定多数を指す、一般名詞としての人。もっと言ってしまえば人間全般のことでしょう。

 どうなんでしょうね。わたし自身、人間という生き物に対する愛しさはもちろん抱いていますし、多分に人が好きなのだと思います。ですが、それでも人間を含めたすべての生き物が負う原罪。つまり、命を糧として命を繋ぐという罪を、生ある限り犯し続け、しかもそれに対して罪悪感を覚えていない時間の方がはるかに長いことを知っているわけで。
 また、個々の精神に巣食う闇はどれ1つとっても重く、深いものとも思いますし正直、そういった闇を恐怖しないと言ったら嘘になるでしょうね。ただ、人という生き物を恨めしく思うほどの内圧もまた、ないのが事実。どうやらわたしは後鳥羽院よりもはるかに淡白なのでしょう。

 本当に心から厭世観に塗れた人ならば人を愛しく思ったり、その裏返しで恨めしくも思ったりすることは先ずない、とわたしは思います。絶望は希望があってこそ発生するものですから、厭世という思いはそもそも世に期待なり、希望なりを抱いていなければ、覚えるはずもなし。ならば後鳥羽院の言う“あぢきなく”とはどういうことだったのか、と。
 未来に対する絶対的な絶望や、原罪に対する諦観というよりは、諦めきれないからこそ抱き続ける不遇感、だったように、わたしには感じられます。すなわち
「俺は、皇室は、朝廷は、本来こんなものではないんだ」
 と。...だとしたら、とてもとても熱い歌、ということになってしまうんですけれどもね。

 少し脱線してしまいますが、その不遇感。わたし個人ももちろん、覚えてしまうことはかなりありますし、あまつさえ
「わたしは違う」
 と人目も憚らずに叫びたくなったことも過去に何度かあります。いや、きっと感じたことのある方は世間に少なくないでしょう。
 ...ただ。ただ、わたし個人の経験則から言えば、この感情に囚われ始めると、途端に自分自身の軸がブレ始めてしまい、しかも得てして病んでしまうものだ、と。大袈裟ではなく、本当に病んでいるとわたし自身はかつて何度も感じましたし、実はこの今も感じています。

 何が、どうだから、ということではなく。やはり思ってしまうのは、どうして人は解放されないのか、と。何故ならば、不遇感とは相対性のうえにのみ成立するからです。他者と比べてどうこう、あっちと比べて云々、と自身の状況を不満に思う。それが不遇感でしょう。...もっと判りやすい言葉にするならば不満、と言うべきなのかもしれません。
 比較物があるから生まれ、その比較のさらに前提となる大小、多寡、高低、軽重、美醜、強弱、尊卑、などといった二元論による価値観。この二元論の檻のなかにいるからこそ覚えてしまう不満なのだとしたならば、唯一無二の脱出法は自らを高める以外にはなく...。あるいは、もっとジョーカーのような解決を望むならば、諦観。...諦めて降りてしまう、という道もまたありですが。

 それなのに、人に、物に、周囲に、環境に、何かを求めてはより一層の不満を募らせることしか出来ない時期、人はみな病みます。それも含めて人という社会性動物である、とするならば病むことで何が生み出せるのか、と。...病んだ末に膿を出し尽くして再生なり、新生なりが約束されているのでしょうか。それこそキリスト教的に言うなれば復活、ですか。...恐らく、膿を出すには挙兵するしかなかったのでしょうね、少なくとも後鳥羽院にとっては。
 例えば、上代で言うならば、それでもわたしは讃良側に立ってしまうことがとても多いのを否めません。同時に両側へ立つことなどできず、常に片側に立たざるを得ないのは、誰にも等しい現実です。

 ですが、そんなわたしでもタイミングさえ合えば、向こう側へ出向き、また立つこともできます。それを教えてくれたのは近江国。讃良というベースがあるために、どうしても大海人側から常に歴史を見てきたわたしが、壬申の乱を記述した日本書紀を読み解いてゆくうちに、大海人も大友もなく、ただただ虚しさに襲われ、そして大友にも涙しました。
 後鳥羽院についても同じです。どうしてもわたしは北条氏側から、あの時代を見てしまうわけで、北条氏に仇をなした後鳥羽院も、そして北条氏を崩壊させるきっかけとなった後醍醐天皇も、今までずっと向こう側の人でした。けれどもここ・隠岐では違います。いま、確かにわたしは相対の向こう側を訪ねています。...こんな風に。そう、本当にこんな風に、相対の向こう側を訪ねられるならば、二元論の檻からだって簡単に抜け出せるといいのですけれどね。

                

 参拝を済ませ、境内の中程でぼんやりと真上を仰ぎ見ました。流れてゆく雲と、その度に雲間から現れ、そして世界に春の陽射しをもたらす太陽と、空と。主島もそうでしたが、今いる中ノ島もまた、怖くなるくらいに静かでもはや聞こえるのは自身の呼吸音と小さく、小さく吹き寄せる風の音だけです。
 二元論の檻から抜け出したい、相対の中で自身を確かめるのではなくて、自身が在ろうとするからこそ確かめられる自身でいたい。そんな祈りにも似た望みを抱いてはやまないわたしに、けれども隠岐神社は諭します。
「ならば、ただひたすらに勉学して自身を高めなさい。諦められないのなら、ただそうしなさい。道はまだまだ遠いのですよ」
 と。

 すべての人が等しく幸せ。そんな桃源郷のような場所では、この地上は決してない。自身の望みは誰かの仇となり、誰かの望みは自身の仇でもある。それが人の世であるという事実を、かつて近江国はわたしに突きつけました。望みが叶えば、同時に誰を哀しませているかも知れず、望みが叶わなければ、すなわち誰かの望みを叶えているのかも知れず、ならば叶うも、叶わないも、それ自体はきっと等価で、そして同義なのだ、と。大切なのは、叶うことや叶わないことから何を学び、得るのかだけなのだ、と。
 ...なるほど、それが学ぶということならば病むこともまた学び、なのかも知れません。勉学せよ、と未来を指し示す隠岐神社は、あるいは大いに病んで大いに膿を溜め、そして出せ。そう言っているのかもしれませんね。

 来たばかりの時は自身がまとっていた薄い膜のようなもの越しにしか感じられなかった世界が、こうしてわたしの手元に戻ってきたから気づきます。病むことと健やかなこと。これすらも相対、それさえも二元論なのだ、と。
 ...ならばもう、何も考えますまい。在るように在り、なるようになれば、きっとそれが世界の答えなのですから。

 あらかじめ世は世なりまた人は人しゑや何しかあづきなしとや  遼川るか
 (於:隠岐神社境内)


  

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 隠岐神社の向かいには、歴史民俗資料館が建っています。後鳥羽院に因む品々と隠岐は中ノ島、すなわち海士町の歴史的資料が収められている資料館なのですが実はここ、冬季は閉館されてしまうらしいんですね。そして、毎年開館されるのが3月21日から、と。...はい、ほんの一昨日から、今年も開館されたというわけで、その日に出雲に私用があったからこそ隠岐へやってきたのがわたしですから、こういう部分にも巡り合わせを感じてしまうような、しまわないような、いやはや何とも。
 隠岐神社の境内を後にして、歩いて道路を渡ります。幾何学的な造形のおやおや、なかなかにモダンな建物。これが隠岐海士町歴史民族資料館なのでしょう。昨日の島後は隠岐郷土資料館が明治期のモダンさならば、こちらまさしく昭和末期、あるいは平成のモダンさ、と言ったところでしょうか。中庭があって、展示コーナーは半地下になっていて、と地元の方々が力を入れていらっしゃるのがダイレクトに伝わってきます。

 展示されているものの半分は、古墳時代から大和時代のものと考えられる須恵器や土器、それから勾玉などの装飾品と鉄器類、と。そしてもう半分。これがこちらの資料館の肝となるのでしょうか。後鳥羽院関連の品々や、同じく隠岐流罪になった飛鳥井雅堅関連の品々で、烏帽子あり、文箱あり、蹴鞠用の靴あり。...王朝文学や、それ以降の時代の有職故実にご興味ある方には、きっと垂涎の内容なのではないかと思います。
 ...但し、残念ながらわたし自身はそれらよりも木簡や勾玉に吸い寄せられてしまう人間ですから、却って資料館に方々に失礼な気が少しばかり。けれども、そんなわたしでも、つい立ち止まってしまったのが歌留多でした。小倉百人だったのか、後鳥羽院遠島百首だったのかは記憶が曖昧ですが、恐らくは遠島百首を歌留多化したものだったように思います。流石に、そもそも歌の入り口がわたしの場合は歌留多でしたから、これには興味が惹かれてしまいましたね。

                 

 そもそも後鳥羽院が和歌の歴史に残した大きな功績は、新古今和歌集編纂の勅命を出したこと、として間違いないでしょう。新古今の撰者たちは別に複数いますが、それでも後鳥羽院自身もかなり積極的に撰その他に関わっていたことを、明月記が記述しています。また、新古今編纂に先駆けて和歌所を再興、そして主宰した千五百番歌合は、和歌の歴史の中でも、他に例を見ない規模です。
 ...この頃はそれぞれが百首持ち寄っての歌合せがよく行われていましたけれど、その出詠者が30人。それを左右に分けて1首ずつ優劣を競わせるわけですから1500番勝負、と。そういうことです。

 少し脱線してしまいますが、歌合せというのはただ優劣を競わせるのではなくて、自らの陣営の歌がいかに優れているのか、という点をその勝負に出詠している作者以外が、論じ合わなければなりません。いってしまえば、歌そのものの優劣もさることながら、同時に論戦なんですね。なので、歌合せが盛んなればなるほど、比例して発展したのが歌論となりますし、この時期を頂点に、和歌の歴史がゆっくりと衰退していったことは、歴史にも明らか。
 勅撰和歌集は21代ありますが、所謂8代集の最後を飾ったのが新古今です。
「ここに行き着くところまで行き着いてしまった歌の1つの姿がある」
 個人的にはそう実感します。...といっても何分、万葉歌や記紀歌謡をベースとしているわたしの言うことですから、やや批判的になってしまうのは致し方なし。そこは差し引いて頂けたら、とも思いますが。

 ただ、作風の好みという差異はあれど、それ以前に和歌。歌です。もちろん歌は大好きですしわたしの生活にはなくてはならないもの。だからいち歌詠みとして、後鳥羽院はやはりそれなりに精神的に近い存在であることもまた、動かしがたい事実でして。その後鳥羽院がここ・隠岐に流されてから詠んだ歌を編んだものを、後鳥羽院遠島百首。...世間では、こう呼んでいます。
 幾つかの底本も存在しているようですが、この隠岐歴史民俗資料館で買い漁った複数の資料のうち、隠岐の後鳥羽院抄という1冊にそれとして掲載されている百首から、わたしなりに10首ほどを、僭越ながら。

|すみぞめのそでの氷に春たちてありしにあらぬながめをぞする
                   後鳥羽院「後鳥羽院隠岐遠島百首 春 002」
|あはれにもほのかにたたく水鶏かな老のねざめのあかつきのそら
                   後鳥羽院「後鳥羽院隠岐遠島百首 夏 030」
|夕すずみあしのはみだれよる波に蛍かずそふあまのいさり火
                   後鳥羽院「後鳥羽院隠岐遠島百首 夏 032」
|思ひやれいとどなみだもふるさとのあれたるにはの秋の白露
                   後鳥羽院「後鳥羽院隠岐遠島百首 秋 045」
|かぞふればとしのくるるは知らるれど雪かくほどのいとなみもなし
                   後鳥羽院「後鳥羽院隠岐遠島百首 冬 070」
|とはるるもうれしくもなしこの海をわたらぬ人のなげのなさけは
                   後鳥羽院「後鳥羽院隠岐遠島百首 雑 079」
|人ごころうしともいはじむかしより車をくだくみちにたとへむ
                   後鳥羽院「後鳥羽院隠岐遠島百首 雑 088」
|うしとだにいはなみたかきよしの川よしや世のなかおもひすててき
                   後鳥羽院「後鳥羽院隠岐遠島百首 雑 092」
|とにかくに人のこころもみえはてぬうまやのもりのかがみなるらむ
                   後鳥羽院「後鳥羽院隠岐遠島百首 雑 094」
|かぎりあればかやがのきばの月もみつしらぬは人のゆく末のそら
                   後鳥羽院「後鳥羽院隠岐遠島百首 雑 100」


 どうでしょうか。前記引用させて頂いている

|人もをし人も恨めしあぢきなく世を思ふゆゑに物思ふ身は
               後鳥羽院「続後撰和歌集 巻17 雑歌中 1208」再引用
                           「小倉百人一首 99」再引用


 と比べてみると、流石に胸につまされますね...。この遠島百首は、四季と雑とで分類されていて、恐らくは実際に歌が詠まれた時系列で配列されていないはずなんですが、作者の心情が嘆きから始まって厭世、諦観へと続いていゆく様が手繰れる気がしています。意図したものではなくて、たまたま季節に仮託する心情はどうしても詠嘆が多く、雑としてよりストレートな述懐が多くなる、ということだけではないようにも受け取れてしまうのですが。
 ...ごめんなさい、偽ることなく書くのであればこの百首。一気に通して読むのはかなりシンドかったんですね。もう前半は嘆いてばかりで、それこそが後鳥羽院の真の思いなんだ、とは思えどもなかなかに、
「もうちょっと、しゃきっとしようよ...」
 と言いたくなってしまいまして。ごめんなさい。

 どうもやはり、根底には北条氏贔屓という色目もあってか、
「自分で挙兵したのだしねえ」
 とまで思ってしまう始末。ただ、そんなもやもやした思いから一気に醒めたのが

|とにかくに人のこころもみえはてぬうまやのもりのかがみなるらむ
                後鳥羽院「後鳥羽院隠岐遠島百首 雑 094」再引用


 「この憂世になって、ようやく人々の本当の心がすっかり見えてしまった。憂うということはまさしく人々の本心を映しだす鏡であろう」
 こちらでした。皇室に生まれて、常に擦り寄り持ち上げてくれる人に囲まれていた存在です。そしてそれを疑うことなどあるわけもなく、だからこそ挙兵も出来たのでしょう、恐らくは。けれども戦に破れ、罪人として遠流となってしまえば周囲の人々の態度もまたまちまち。ずっと変わらずに尊んでくれる人、疎遠になる人、もう自身のことなど忘れてしまったかもしれない人々。...人の世の落とし穴を、ようやく知ることが出来た1個の人間・後鳥羽院が、ここにいます。そして思うのは、自らの前半生に対する疑問、だったのかも知れません。

 大前提として新古今の頃の和歌には、かなりの苦手意識を持っています。また、繰り返しになりますが北条氏贔屓です。そんなわたしにとっても、この遠島百首の特に雑30首は、とても読み応えがあります。また、そこに至るより以前にも、新古今調とはやや思いがたい質実なものもあって、ちょっとほっとしました。
 ...流されてまで貴族趣味な歌ばかり詠んでいた、あるいは詠めていたのなら、それはそれでちょっと怖いですしね。現代風の言い方ならまさしく引き篭もってしまっているか、あるいは逆に流罪がそれほど辛くなかったのか、と。

 この百首から一番伝わってきたもの。それは流罪というものの本質だったように感じます。流罪、それはすなわち社会生活を営む人間としての死を与えるもの、と。所詮、大昔は群れで暮らしていた獣です。集団欲は連綿と受け継がれて来た本能の1つ。人恋しさは、どこまでいっても人の心を蝕みます。
 かつて手にしていた、且つ手にしようとした権力への執着や、北条氏への恨み辛みといったものはこの百首からは手繰ることが出来ず、後鳥羽院がひたすら嘆き続けたのは寂しさと忘れ去られることへの恐怖といった人恋しさでした。...きっとこれが、流罪というものの根幹を成している罰、なのであろうと。

 ガラスケース越しに、後鳥羽院縁の展示品を眺めながら考えていました。きっと、わたし自身が導き出した流罪の意味そのものは、それほど大きく外れていないと思っています。ですが、それだけではどうしても語れない要素が、存在しているのです。
 つまり、ならば遠流と近流はどうなるのだろうか、と。満たされることのない人恋しさに苛まれ続ける罰。それが流刑の本質なのだとしたならば、ある意味で距離の遠近はあまり問題にはならないような気します。もちろん、精神的なダメージは最初こそあるのでしょうが、近かろうが遠かろうが、同じ罰となってしまいます。

  

 ここまでにもすでに柿本美豆良麿や小野篁など、隠岐配流になった人物について書いてきました。そして思うに、隠岐流罪となった人々の多くには政治犯・思想犯だったという共通項が存在してるのは明らか。...というよりもそもそも、あの時代に於ける罪にはどんなものがあったのでしょうか。
 たとえば現代にはたくさんの法律が存在し、おそらくはわたしたちが罪とすら思っていないものが実は罪だった、ということは存在しているはずです。ですが、そういう仔細のことではなくて、盗まない・騙さない・怪我をさせない・殺さない、といった誰もがすぐに思い浮かべる罪。そういうレベルで語れる上古の罪とは、どんなものだったのか、と。

 八虐という言葉があります。これは日本最古の律令である大宝律令を編纂する際、参考にしたとされている唐の国の律にある十悪から2つを除いた、上古の時代の特に赦しがたいとされている罪の総称です。

 1)謀反  天皇殺害の罪、およびその未遂と予備。

 2)謀大逆 皇居、陵墓などを損壊するといった不敬行為。

 3)謀叛  国家に対する反乱、あるいは外患誘致、他国への亡命

 4)悪逆  尊属の殺害。

 5)不道  大量殺人・呪詛などの一般的な重罪。

 6)大不敬 神社に対する不敬行為。

 7)不孝  殺害以外の尊属に対する犯罪。

 8)不義  主君・師匠といった上位者に対する殺人ほか。

 大宝律令と養老律令は内容的に大きく違いませんから、これが上古の時代に普及した罪悪の概念といってしまってもいいでしょう。余談になりますがこの養老律令。現代の刑法に当たる部分を担っているのが養老律の方ですね。そして、養老律は養老令とともに平安中期くらいにはすでに形骸化してしまっていたものの、廃止されることもまたなく、実は幕末まで存続していたのですが。

 お話を戻します。こうやって当時の罪悪を詳らかにすると、やはり主権在民の現代とは違って、当時は明らかに専制君主制下にあった、ということを再確認できますね。現在の道徳観では最大の禁忌とされているものが八虐では第5。そして、それ以上は天皇なり、皇室に対するもの、となっていますから。
 まだまだ庶民の暮らしに財産などという概念も芽生えていなかったのやもしれない時代、罪の何たるかを定めるとしても、それは極めて限定的な階級の存在を対象にせざるを得なかったのかも知れません。仮に、そうであるならば政治犯・思想犯は、まさしく天下の大罪人です。そして、それに適応された罰こそが配流、と。

 一方、養老令によれば、当時最大の刑罰は大辟(最も重い罪)=死罪と明記されていて、それに次ぐのが流罪です。

 1)死 斬
    絞
 2)流 遠流
    中流
    近流
 3)従 3年
     2年半
     2年
     1年半
     1年
 4)杖 百
    九十
    八十
    七十
    六十
 5)苔 五十
    四十
    三十
    二十
    十

 上から下へ、という順番で刑罰が重くなります。このうち、杖と苔は単純にいってしまえば体罰刑で、打たれる回数によって軽重が変わります。従と流は追放刑。但し、従は期限が定められていて、しかも都の中で労働に就くもの。一方の流には期限はなく、しかも都から遠く離れた地に配される、ということですね。







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