季節外れの寒波なのか、それとも寒冷前線が通過しているのか。奈良市内のビジネス・ホテルで目覚めて、最初に感じたことです。今朝も雨。しかも気温が明らかに低く、巨勢で半袖だったのがほんの数日前のこととは、ちょっと信じられないほど。 雨脚も相変わらずのようです。この天候の中、すべて徒歩圏内とはいえ1日、車なしで過ごすのはかなり堪えそうで、もっている着替えの中から1番暖かそうなものを選んで、重ねて着込みました。 いつもは人の多いJR奈良駅前も、近鉄のそれも何となく人影まばらに思えてしまうのは、気の所為でしょうか。ともあれ駅構内のコインロッカーに荷物を入れて、足早に前回訪ねずに済ませてしまったポイントへ。 奈良県庁前の猿沢の池を通り過ぎて元興寺に着くと、境内は満開の八重桜で覆われていました。けれども、その八重桜が春の嵐の中、はらはらと舞い、散り続けています。 | 題詞:大伴坂上郎女の元興寺の里を詠ふ歌一首 |故郷の飛鳥はあれどあをによし奈良の明日香を見らくしよしも 大伴坂上郎女「万葉集 巻6-0992」 「大伴坂上郎女が元興寺の里を詠んだ歌1首 故郷の飛鳥を眺めるのもそれなりに好いけれど、この奈良の明日香を眺めるのはとても好いものです」 元興寺の里、そして奈良の明日香。当時、この一帯はそう呼ばれていたといいます。百済寺に関連して書きましたが、百済寺は百済野から名前を変えて飛鳥に移設され、そののちに平城にも、さらに名前を変えて移設されました。百済寺だけではありません。現在は西の京にある薬師寺も飛鳥からの移設になりますし、紀寺も同様とされていますね。 ですが、それらの寺院よりも往時の飛鳥を代表していたのは、恐らく法興寺。仏教を手厚く擁護した蘇我氏の菩提寺でしょう。実際、かつて法興寺があった場所には現在、飛鳥寺が建てられていますし、飛鳥大仏も安置されています。 そんな飛鳥を代表した法興寺もまた、平城遷都とともに現在の奈良市内へ移設されているのですが、それが現在の元興寺。加えて、元興寺界隈を“奈良の明日香”と呼んで当時の人々は懐旧したのだといいます。 ...余談になりますが、これが世代格差というものなのでしょうね。 |采女の袖吹きかへす明日香風都を遠みいたづらに吹く 志貴皇子「万葉集 巻1-51」再引用 天智7年(668年)くらいの生まれではないか、とされている志貴は飛鳥で過ごした時期も長く、ゆえに藤原へ遷都すればこう飛鳥を懐旧しました。 一方の坂上は恐らく700年前後の生まれではないか、とされています。志貴とは約30歳違いということになりますか。ご存知の通り710年には平城遷都がなされていますから、坂上は藤原こそ知っていても事実上、飛鳥に宮があった時代は知らないことになります。親たちから聞くかつての都・飛鳥。もちろん興味はあるのでしょうが、実感は薄いでしょうね。そして、その実感の薄さが、「〜奈良の明日香を見らくしよしも」と詠ませたのでしょう。 その元興寺界隈。もちろん、21世紀の現代に天平の世の名残はありません。ならまち、として確かに古い町並みが続いていますが、それはまた別の時代のお話。 ソメイヨシノよりずっと色の濃い、八重桜が吹雪のように風に舞います。不思議なもので、どうもわたしの目には吹雪、とは映らなくてその色の所為か、なんとも艶っぽい光景に映ることしきり。吹き荒れる風と、時折ばらばらと強く降る雨と。...嵐に血が沸いてしまう、という感覚は、少なくとも 「悪しき風、荒き水」 を恐れた農耕民族のものではないでしょうね。それよりもさらに古い地層に残る、狩猟民族の血。南方渡来の縄文人の名残か、と。北海道・沖縄も含めて、この国の人々はほぼみな縄文と弥生の混血のはずですから。 | 題詞:十年戊寅、元興寺の僧自らを嘆く歌一首 |白玉は人に知らえず知らずともよし知らずとも我れし知れらば知らずともよし 作者不詳「万葉集 巻6-1018」 「真珠はその真価を人には知られないし、知られなくてよい。世間が知らなくても、わたしが真価を知っていれば、知られなくてもよい」 元興寺境内にある歌碑にあるお歌です。旋頭歌ですね。そして左注にはこうあります。 |左注:右の一首は、或いは云はく、元興寺の僧、獨覺にして智多けれども、顕聞すると | ころあらず、衆諸狎侮りき。これによりて、僧この歌を作りて、みづから身の才 | を嘆くといへり。 「万葉集 巻6-1018」左注 「右の1首、元興寺の僧は独り修行して悟り深く博識であったけれど世間に知られず、人々に侮り、軽んじられた。そこで僧はこの歌を詠んで自らの才を嘆いたという」 いやはや、どうなのでしょうね。個人的には嘆いている、というよりは1種の達観のように感じられるお歌に思えるのですが。逆の立場よりははるかに気楽でしょうしね。...実は、かなり好きなお歌の1つです。 知らるゝは知らざるとふと知りたればこそ 知らざるもえ知らずとても知らば知るらめ 遼川るか (於:元興寺、のち再詠) 無骨で世渡り下手のお坊様と、なんとも艶っぽい印象の境内と。可笑しなことに万葉とはかけ離れたお歌を思い出していました。 |花さそふ嵐の庭の雪ならでふりゆくものはわが身なりけり 入道前大政大臣「新勅撰和歌集 巻16 雑上 1052」 「花を散らす風の吹く庭で、降りゆく(古りゆく)ものは花ではなくこの身であるよ」 はい、小倉百人にも採られている名歌ですね。...もう平安も末期、鎌倉時代に掛かろうか、という時代のものですが、こちらも花の盛りを過ぎても散ればまだ雪のように見所がある花に比べ、ただ老いてゆくほかにない、自身の心持ちを詠んだものでしょう。 一見すると悲観的にも思える光景ですが、やはりそうは感じられないですね。むしろ諸行無常の摂理を抗わず、流されず、きちんと受け入れた潔さと達観めいたものに裏打ちされているように感じます。 何故なんでしょうね。何故だかは判りませんでしたが、奈良を発つ直前で思い出していたのは、上代歌謡でも万葉歌でも、王朝でもない、もう中世と言ってしまってもいい時代に詠まれた歌でした。 井上縁の御霊神社では軽く参拝だけ済ませました。十市縁の赤穂神社を探すには気力も体力も、ついでに気温も足りなくて、また奈良を訪ねる時の宿題にしました。 能登川を渡り、志貴に縁の白毫寺を再訪します。数日前、巨勢で見たたくさんの椿。白毫寺の境内にもたくさんの椿が咲いていましたが、この嵐で地に落ちてしまったものがもっとたくさん、濡れた地面を覆っていました。 旅先ではあまりお土産は買いません。いつも恒例のくじ引きとお守りくらいしか買わないのですが、白毫寺ではどうしても買いたいものがあって、その為に立ち寄ったんですね。...それは土鈴です。 白毫寺に咲く五色の椿を模した土鈴が昨夏、神奈川に帰還してからずっと欲しいと思っていました。恐らく、こうして独りで古歌の舞台を歩くようになって初めて買った、自身へのお土産だと思います。 あきづしまやまとゆ。いや、やまとだけではないでしょう。古歌の舞台はわたしたちが暮らすすぐ傍に息づいていたり、あるいは古歌の舞台の上でわたしたちが暮らしていることだって往々にしてあるわけで。 歌とともにあり、謡い続けてきたこの国にいる以上、いずこもわたしの旅先となることでしょう。だから行き、けれどもそれは帰ることでもあるでしょう。何処から来て、何処へ行き、何処へ帰るのか。 答えはきっとたった1つです。自身が存在している場所は常に「ここ」。これまでも、これから先も、ずっとここだけです。 だからわたしはここから来て、ここへ行き、ここへと帰ります。ここへ帰りたいのです。 病みゐては いめにも見えし故里の 見らくしよしも沁みをりて いづへにあるやあが里の いづへにゆかむあが欲るは いづへゆ来しやあがもとの いづへに帰らむあが願ひ あなぐりあなぐる波に潮 潮の満つれば波の立ち 波の寄すれば海つ路のなりて ゆく波かへる波 あげ潮ひき潮 海ゆかば海処もありて 世にあるはきはみもふさに 陸処には道の八十にて八百万 地ゆく空に風ありて 雨ありてまた日もありて 春来るれば遠からぬ秋を思はむ もろひとの祈ひ祷まむかな 祈ひ祷みて謡ひまくほし 舞ひまくほし 瑞穂国のまほろばゝ 真秀なる峯にて 峯は穂にて よろづちよろづ在り賜ふ ものみな坐す神の名は もろひと知らに 日並めても もろひと知りぬ 知りをりぬ 初めにありて 果てにあるひとつがゝぎりの 奇ゆゑ なほ祈ひ祷まむ 和魂もて い帰らばまたもい帰る日はあらむ いづくもわぎへこのこにあれば 言挙す あれあれゆゑにあがもともあがすゑかつも倭ゆ、倭に 遼川るか (於:ならまち界隈、のち再詠) = 了 = |
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