「軽の道は、わたしの妻が暮らす里だから、ねんごろに通いたかったのだけれど、入り浸っていては人目も多いから気になるし、頻繁に出入りしていたら人が多いから気づかれてしまうだろう、と思っていつも後で逢おう、と心で焦がれるばかりでいたら、日が暮れてしまうように、また月が雲に隠れてしまうように、わたしと寄り添った妻は死んでしまった、と使いの者が言う。何を言っていいのか、何をしていいのかも判らなくて、でもただそう聞いただけでじっとなどしていられなくて、せめてこの思いの千にひとつでも慰められるならば、と妻がいつも出ていた軽の市に出向いて立っていても、鳥の鳴き声は聞こえるのに、彼女の声は聞こえない。通り行く人の中に彼女に似ている人もいない。するべきことなどないので、ただ袖を振ったことだ」 「紅葉がたくさんしげっている秋山へ迷い込んでしまった妻を捜しにゆこう、山道など知らなくても」 「紅葉の散るのと共に使いの者が去って行くのを見ていると、かつて逢えた日が思い出されてならない」 「まだこの世の人だと思っていた頃、2人で見た門前の堤に立つ槻の木の枝のあちこちに春の葉がたくさん繁るがのように思いを寄せた妻ではあるけれど、信じていた人ではあるけれど、世界の摂理には背くことなどできないから陽炎の立つ野に、天女の白い天領で隠して、鳥でもないのに朝立ちしてしまった。夕日のように隠れてしまった妻が、形見に残した子が、母恋して泣くけれどあげる物もない。男のくせに脇に抱きかかえて妻と2人で寝た部屋の中で昼はしょんぼりと過ごし、夜はため息ばかりついて明かしては嘆いても、なす術などない。どれほど焦がれても、逢えるはずもない。羽がひの山に妻がいる、と噂に聞いて山道を難儀して来たけれどそんな甲斐もない。この世の人だと思っていた妻が、かすかにも見えないなんて」 「去年見た秋の月夜はまた照っているけれど、一緒に見た妻は年と共に遠ざかってゆく」 「引手の山に妻を埋葬して、衾道を歩いていると自分が生きているとはとても思えない」 「まだこの世の人だと思っていた頃、手を取り合って2人で見た、門前の大きな槻の木に枝が延びるように、春の葉がたくさん繁るかのように、思いを寄せた妻ではあるけれど、信じていた人ではあるけれど、世界の摂理には背くことなどできないから陽炎の立つ野に、天女の白い天領で隠して、鳥でもないのに朝立ちしてしまった。夕日のように隠れてしまった妻が、形見に残した子が、母恋しくて泣くけれどあげる物もない。男のくせに脇に抱きかかえて妻と2人で寝た部屋の中で昼はしょんぼりと過ごし、夜はため息ばかりついて明かし嘆いても、なす術などない。どれほど焦がれても、逢えるはずもない。羽がひの山に妻がいる、と噂に聞いて山道を難儀して来たけれどそんな甲斐もない。この世の人だと思っていた妻が、灰になってしまったなんて」 「去年見た秋の月夜はまた渡りゆくけれど、一緒に見た妻は年と共に遠ざかってゆく」 「引手の山に妻を埋葬して、その山道を思うと自分が生きているとはとても思えない」 「家へ戻り部屋を見れば、亡き妻の枕が彼女の霊を祀っている玉床のあらぬ方を向いてしまっている」 かなり長い長歌と反歌3組です。長歌ごとにグルーピングして簡単に現代語訳してみましたがいかがでしょうか。韜晦の歌聖・柿本人麻呂。ですが、ここにいるのは愛する者を失って為すすべもなく哀しみ、茫然自失とする普通の男性です。 思い出すに、わずか9mの茂みの向こうに、天上界までも見据えて朗々と歌を詠んだり。一族の誉れとして天皇行幸に従駕しては、吉野川にこの国の美しさと天皇の治世が続くことを寿いだり。そんな神々しさとは明らかに違う、人間・柿本人麻呂がここにいるのだと思います。 どうしてなんでしょうね。昨夏の訪和で宿題になってしまった雷丘への再訪。そこから始まり、奈良盆地を西に、東に、と走り回った最後にやっとわたしは人麻呂に会えた気がしています。 もちろん、相変わらず芸能集団・柿本人麻呂のことも、人麻呂歌集も、そして宮廷歌人・柿本人麻呂についても、わたしには到底、手繰りようもない謎はまだまだ山積みのままです。いや、むしろ謎は却って深まってしまった、というのが本音のお話。 でも、それはそれとして今は、1300年前に龍王山をとぼとぼと登って、降りて、そして乳飲み子を横抱えにして宥めながらも、自身も泣いてしまうような人麻呂の姿が、薄暗くなった辺りに見えてきそうに思えていました。 衾田陵そのものは、前述している通り被葬者が今ひとつ明らかではないことに加え、何よりも実質的には人麻呂とはあまり関わりがなさそうですから、参拝は簡単に。...そもそもわたしは、人麻呂に会いにここを訪ねていますから。 代わってわたしが探すのは、人麻呂の歌碑。車を降りて、この先は徒歩となります。 探している歌碑に彫られているのは |衾道を引手の山に妹を置きて山道を行けば生けりともなし 柿本人麻呂「万葉集 巻2-0212」再引用 のお歌ですね。かなり有名な歌碑なので、場所自体はきっと簡単に見つけられるだろう、と思っていたのですが如何にせん、もはやすっかり夕刻。そのうえお昼前から降りだした雨がようやくやんだと思いきや、一面のガスで一層暗くちょっぴり徒歩で探すのが恐いほどです。 周囲は御陵があるくらいですから、のどかな田圃や草叢が広がっていて、街灯もかなり少なく...。少し西側には道路もありますが、排気音も殆ど聞こえまていませんでした。 人麻呂の妻が暮らしていた、という軽の里は昨夏、訪ねた剣池の周辺となります。ちょうど橿原神宮前駅近くに、今でも大軽町という地名が残っていますね。 そこから、埋葬地の龍王山まではかなりの距離がありますから、葬列はひと際、哀しいものだったのだろうと、何だか無遠慮な想像をしてしまいます。 ただ少し気になったのが#0213にある灰、です。どうやら、火葬にしたようですね...。志貴に関連して少し書きましたが当時、まだまだ火葬は珍しかった、と思うのですが。日本最古の火葬は文武4年(700年)に行われた、と続日本紀にあります。 | 弟子たちは遺言の教えに従って、栗原(明日香村栗原)で火葬にした。天下の火葬は |これから始まった。 「続日本紀 巻1 文武4年(700年)3月」 宗教的なことは寡聞にして知りませんが、火葬は仏教の伝来と共にこの国に伝わった、というのが一般的な考え方で、けれども実際に行われるようになったのは上述の通り700年代初頭からとなりますか。 前述している湯原王もそうでしたし、前作で書いた額田も半ば同様なのですが、実は人麻呂もまた、「万葉集」だけがその存在を証していて、記紀には一切の記述が残っていないんですね。まがりなりにも官人だったのだし、随一の宮廷歌人であったのだから...。 と、思えどこれがさっぱり、です。もっともだからこそ諸説紛々、種々雑多な人麻呂伝説が存在してる、とも言えるのですが少なくとも、この火葬に関連して朧げに見えて来るのは白鳳から天平。あるいは藤原から平城、という時代と時代の小さな境目であり、すなわち人麻呂にとってのそれは、仏教など渡来文化の台頭による“何か”の終焉ではないか、と個人的には感じます。 いや、何も祭祀神事に関わり深い氏族出身だからといって、仏教の台頭はすなわち没落、などという短絡的な発想で思ってはいませんし、それだけにも限らないのですが、とにかく人麻呂が生きた時期、世の中はめまぐるしく変わっていったように、感じるんですね。そして、そんな新たな時代の1つひとつ、みなすべてを人麻呂が歓迎できていたとも思い難く...。 時代を否定するつもりも、抗うつもりも、決してなかったのでしょう。けれども流れに乗ることもまた、良しとはできていなかったように、彼が残した多くの歌から何となく感じてしまうのは、わたしだけでしょうか。 時代が動く時は、人も動きます。様々な人の思惑にまみれて、独り歩きしてしまった宮廷歌人の偉大さは、けれどももしかすると本人自身もまた、そう振舞うことで時代に取り残されてゆきがちな自身の心を、覆い隠してしまいたがっていたゆえの、虚像でもあったのではないか。 ...そんな根拠もない感慨が、この衾道に来てからずっとし続けています。人麻呂が衾道で覆い、葬ったものは、本当に妻の棺だけだったのでしょうか。妻の骨灰と一緒に、人麻呂の中の何かも埋葬してしまったのではないか。 いや、この仮説のこともまた、彼は空の何処かで笑い飛ばしているのかも知れませんね。 衾田陵を少し降ったところに、小さなお社がありました。とりあえずここまでに歌碑はなく、あとは草地の中へ伸びている小道を進んだ先辺りならば...。 気温が少し上がっているのでしょうか。ガスはさらに深く、ほのかに暖かく感じていました。お社の敷地を出て、草地にのびている小道をゆきます。恐らく100mちょっとくらいだったと思います。小道が大きくカーブしている傍に、ようやく歌碑を見つけました。 ...もちろん、歌碑だからといって人麻呂本人を証すものではありません。というよりむしろ、そんなものはたぶん、物体としては何処にも存在していないように思えます。 記紀がどういうものなのか。「万葉集」もまた、どういうものなのか。後の時代に建てられた寺社や史跡もどういうものなのか。...判っているつもりは、わたしにだってあります。 結局、わたしがこうして万葉巡りをしているのは、土地という 「普遍にして移ろうもの」 だけが何かを証せるのであって、それ以外に時の流れと、人々の営みを立証するものなど存在しないということ。この“ない”ということこそが何よりも雄弁な立証だと感じているからなのでしょう。 そして、それぞれの人の思いの断片である歌と、です。 答えなど最初からあって、最初からなく、ただ1つだけ絶対的な万能の鍵があるとしたならば、それは 「判らない」 これだけです。夜行で奈良入りしてすでに3日。いや、昨夏からも含めたらすでに8ヶ月に渡る人麻呂との鬼ごっこに対する、わたしの答案用紙をようやくちゃんと埋められた気がして、じんわりと嬉しくなっていました。...そう、判らない。判らない、ということが何よりも最高の答えなのでしょう。 なきことのあるはうむがし あることのなきはうらさび 世は合ひてかれ分かるゝて かれ合へり 生るゆゑ隠るゝことはりの 隠るゝゆゑに生ることゝ ひとしきなるを うつそみの人の子知らに 日並べては 暮るれば暮れに 明くるなら明けに い泣くも またゑむも えやまずにゐて やまずゐて 杜にしゆかば 杜あらず 海にしゆかば 海のなし 山はあれども登りては 山のなにをか知らるゝか なほし国原ゆくなへに 知らるゝものは 知らえずの ひと言ならむ なきことをなきと知らるゝとふかぎり あなかしこしや かしこみて ゆゝしきことの 生くるはむがし 問ふ風の聞こえ来ざれば息の緒ふかく言挙げをしまくほしけり あれ、みづのいを 遼川るか (於:衾道、のち再詠) −・−・−・−・−・−・−・−・−・− 朝起きて、すぐ目に映るものが法隆寺と夢殿。そんな光景もこれが見納めです。予約をとってから知ったのですが、わたしが滞在していた宿は、かつて高浜虚子が斑鳩物語を執筆した処だったらしく、同時にその斑鳩物語の舞台でもあったそうです。他にも、明治以降の滞在者として堀辰雄、志賀直哉、里見ク、芥川龍之介、幸田文、会津八一などなど...。 もっとも彼らが泊まった建物はもうなく、今はもっぱら法隆寺の夏大学などにやってくる人たち向けとなっていますが。 奈良滞在4日目。今晩はもう奈良市内の宿に移りますから、この斑鳩の宿とはここでお別れです。所謂、旅館やホテルとも違って、ごく普通の民家にお泊りさせて戴いている感覚が寛げて、気に入っていたんですけれどね。 出発する時、奥様に訊きました。 「以前、毛無と呼ばれていた地区がこのごく近くにあるそうなんですけれど、ご存知ですか」 ...流石に、少々突拍子もない質問だったようです。 外は時折、強く降ったかと思えば、唐突にやみ、また強く降りだすという春の嵐。今夜8時迄には、レンタカーを奈良市内へ返さなければなりませんし、夕方には奈良市内の宿にもチェックインしなければなりません。 どうやら時間との戦いの1日になりそうです。 前作でこんなことを書きました。「万葉集」4516首の中で好きな歌を3首選べと言われたならば、と。そしてわたしが選んだのはこの3首だったと思います。 |思はぬを思ふと言はば真鳥住む雲梯の杜の神し知らさむ 作者不詳「万葉集 巻12-3100」 |秋山の木の下隠り行く水の我れこそ益さめ御思ひよりは 鏡女王「万葉集 巻2-0092」 |神なびの石瀬の社の呼子鳥いたくな鳴きそ我が恋まさる 鏡女王「万葉集 巻8-1419」 もちろん、この他に好きな歌は多いですし、前述している坂上の歌のように、昨夏の訪和をきっかけにわたしの中でクローズアップされた歌もたくさんあります。なので、この3首に限定するのは今まで以上に厳しくなっていますが、いずれにせよ大好きであることには、今も変わりません。 中でも、前回は縁ある地を訪ねることが出来なかった「神なびの〜」に登場する石瀬の社(磐瀬の杜)と、それに関連する場所の訪問は、わたしにとってはもちろん必須。 幸いにも、磐瀬の杜は斑鳩のお隣・三郷町に故地として存在している、とのことですから、今日の最初の訪問地はここから...。そう決めていたはずだったのですが。 |神奈備の石瀬の社の霍公鳥毛無の岡にいつか来鳴かむ 志貴皇子「万葉集 巻8-1466」 はい、鏡のお歌を本歌取りした志貴のお歌です。...いや、元々この本歌取り自体は知っていましたし、特段驚いたりもしません。ですが、ここに詠まれた毛無の岡が斑鳩に存在していた、と奈良入り直前に知ったものですから、慌てて予定を変えるはめになった次第。 結論から言ってしまえば、毛無の岡が何処なのかは、完全なる不詳です。ですが学説によれば斑鳩は法隆寺近くということで、まさしく今いる辺りなのではないか、と。 ...徐行運転しながら、行き違った数人に訊くもそれらしき答えは得られず。 もっとも岡、というくらいですから多少は小高い場所なのでしょうし、そう考えると大体、法隆寺の裏手辺り、ではないでしょうか。 いや、志貴が詠んだ頃には、すでに法隆寺はありましたから裏手というのも不自然なのかも知れません。...それ以前に、歌枕じゃないですが本当に志貴が毛無の岡界隈を訪ねたことがあるのか、も多少は疑って懸かるべきなのかもしれません。 ただ、わたし自身は行ったことがないのに詠んだ、という印象は志貴の歌から感じられないんですね。 |神なびの石瀬の社の呼子鳥いたくな鳴きそ我が恋まさる 鏡女王「万葉集 巻8-1419」再引用 |神奈備の石瀬の社の霍公鳥毛無の岡にいつか来鳴かむ 志貴皇子「万葉集 巻8-1466」再引用 こう2首を並べてみると判りやすいですが、2者最大の差異は距離感だと思います。つまり鏡は 「そんなに鳴かないでくださいな」 と呼子鳥の声を直接聞いているわけで、その場所こそが磐瀬の杜、ということですね。余談ですが、呼子鳥とはカッコウやヒヨドリなどの説があるようですが、こちらも詳細は不明です。 一方の志貴はこう詠んでいます。 「いつになったら来て鳴いてくれるのだろうか」 つまり、霍公鳥はいまだ磐瀬の杜にいて、毛無の岡では鳴いていない、ということになります。 大前提として、鳥の声で想起されたり、逆に鳥の声を想起できる距離は、それほど遠くはないと感じます。現代の感覚ならば、駅1つ分くらいがせいぜいではないでしょうか。 逆を言えば、この距離が広がれば広がるほど、歌枕といいますか虚構になってくるわけですね。そう考えるならば磐瀬の杜は、この斑鳩とさほど離れていない場所でなければなりません。 その点は、前述の通り全く問題はなさそうですし、さらに距離の近い別説に、磐瀬の杜は現在の斑鳩町稲葉車瀬界隈、というものまでありますから、歌枕の可能性は完全に落としてしまっていいかな、と。 であるならば、肝心の毛無の岡は何処なのでしょうか。 「多少なりとも標高がありそうだから」 たったそれだけの理由で、とりあえず法隆寺を迂回して斑鳩神社方面へ車を進めます。ゴルフ場の近くを通り越して車でゆけるところギリギリまで...。 ですが道幅が狭く、雨も土砂降り。マイカーならば多少擦っても仕方ないですが、何分レンタカーです。厄介なことになるのはどうかな、と考えてしまいまして。途中で引き返すことにしました。...ちょっと恐くなってしまったんです。 とりあえず道端に並んでいた小さな仏塔などの写真を撮ってから、車の中でしばし考えてしまいました。 「神奈備の磐瀬の杜のヒヨドリよ、どうかお願いだからそんなに鳴かないで。だってわたしの思いもどんどん、昂ってしまうのですから」 鏡はこう詠んだ恋。しかし志貴は、そんな鏡の歌を踏まえた上で 「神奈備の磐瀬の杜のホトトギスよ、この毛無の岡にもいつになったら来て鳴いてくれるのだろうか」 と詠んだのですが、はて...。 一般的に、好きになりすぎて苦しいから、という鏡の気持ちは判りやすいと思います。が、志貴の言う 「いつになったら...」 というのは、例えばなかなか踏ん切りがつかなくて煮え切らない自分が、少々恨めしい、というような感覚といったところですか。どうも恋歌としては、今ひとつピンと来ない、と思ってしまうのはわたしの性格とのギャップなのでしょうか。 いや、1つの可能性として本歌取りである以上、ある種のパスティッシュなのかな、とも考えたんですね。つまり模倣といいますか、多少のパロディのようなお遊び的要素、といいますか。 ただ、それも違うかなと感じるのは、登場する鳥が鏡は呼子鳥なのに対し、志貴はホトトギスになっている点でしょうか。...他の万葉歌で、それぞれが詠まれている歌を少し引いて見ます。 |世の常に聞けば苦しき呼子鳥声なつかしき時にはなりぬ 大伴坂上郎女「万葉集 巻8-1447」 |我が背子を莫越の山の呼子鳥君呼び返せ夜の更けぬとに 作者不詳「万葉集 巻10-1822」 |答へぬにな呼び響めそ呼子鳥佐保の山辺を上り下りに 作者不詳「万葉集 巻10-1828」 |いにしへに恋ふらむ鳥は霍公鳥けだしや鳴きし我が念へるごと 額田王「万葉集 巻2-0112」 |橘の花散る里の霍公鳥片恋しつつ鳴く日しぞ多き 大伴旅人「万葉集 巻8-1473」 |今もかも大城の山に霍公鳥鳴き響むらむ我れなけれども 大伴坂上郎女「万葉集 巻8-1474」 いずれも、真摯に相手を思う心情が寄せられていると思うのですが、個人的には呼子鳥の方が若干、切羽詰っているような印象もありますね。余談になりますけれど、わたしにはカッコウよりもヒヨドリのあの鋭い鳴き声のほうが相応しいのではないか、と感じます。 一方のホトトギス。...ここまで来るとわたしの思い込みや、先入観のようなものが、そう思わせているだけ、という可能性も充分にあるのですが、それでもホトトギスには、呼子鳥ほどの切迫感は感じられなくて、むしろ 「会えない、あるいは逢えない、距離の受容」 のようなものが漂っているのではないか、と。 会えない距離。もちろん、物理的な理由も色々あることでしょうね。ましてや交通手段も、通信手段も皆無に近かったこの時代ならば、それは頻繁に起こっていたことでしょう。ですが、だからといって切羽詰るのではなくて、その事実を軽く受け入れてしまっている、微妙な心の機微。 そして思い出してしまったのが、同じく斑鳩に因むこちらです。 |斑鳩の因可の池のよろしくも君を言はねば思ひぞ我がする 作者不詳「万葉集 巻12-3020」 「斑鳩の因可の池ではないけれど、人があなたのことをよく言わないので、思い悩むところだ」 ...どうも斑鳩の地には踏ん切りのつかない恋が、迷い込むようですね。ともあれ毛無の岡探訪を見送りましたから、因可の池を訪ねてみましょう。...といってこちらもまた、詳細は不明で、わたしは斑鳩神社の傍の溜池の周囲をぐるり、と一周してみましたけれども。 寄るなへに離るゝものゆゑ天地のことはり宿すみづのしづくよ 遼川るか 夜に火の見ゆれどもまたえ見えざるゆゑ火でありて 日に増されど、いつに増さるも 遼川るか (於:斑鳩神社界隈、のち再詠) 磐余の池もそうでしたけれど、石碑なり、何なり、とにかく 「ここが○○だよ」 という固着を外界からしてもらわないと、自身が探している場所も固定できないことが、古典探訪の哀しみであり、同時に荒唐無稽な側面です。...いや違いますね。荒唐無稽なのは、むしろそうまでして照合、ないしは答え合わせしなければならない、という思い込みの方なのかも知れません。 もちろん、あくまでも学術領域ではない素人の、戯言ですけれどもね。 |
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