レンタカーの屋根で響く雨音は、次第々々に強くなってきています。前日、休館日だったために通り過ぎただけになってしまった葛城の道歴史文化館。次のポイントへの移動途中ですから、覗いてみようと思ったんですね。
 場所は、高鴨神社の鳥居のすぐ横。運転していると確かに昨日、必死に周った葛城や金剛の山が右手に聳えています。南から北上した昨日、北から南下している今日。晴れていた昨日、雨の今日。
 たったひと晩を越えただけだというのに、目の前の世界はすっかり変わってしまっていて、旅というものの幸せと切なさと。...そんなことをぼんやりと。

 葛城の道歴史文化館は、葛城山地界隈で発掘された土器などを中心に展示してあって、この手の資料館としては、かなり小規模なもののようです。ですが、エントランスのロビーで配布・販売されている資料類はとても豊富で、お財布の中身と相談しながらどれを買おうか、しばし悩んでしまったほどです。
 あれこれ眺めた末に、「御所のむかしむかし」という子ども向け郷土の昔話の本を買いました。...いや、内容的にちょっとはっとさせられるものがあったんですね。

 「御所のむかしむかし」は御所おはなしの会の十五周年記念の出版物のようで若干、お値段は張りますけれど21もの寓話が収められています。しかも、中には前日わたしが歩いた土地に関連するものも複数ある、という...。
 倭建と白鳥陵にまつわる『ヤトマタケル』、恐らくは猿田彦伝説の影響があったからこそ成立したのではないか、と感じられる水越峠(葛城山の峠道)を舞台とした『天狗の面』、謡曲「葛城」とほぼ同じ内容の『葛城のおんな神』などなど、子ども向けとはいえどうして、どうして。何だか随分と必死にページを繰り続けてしまいました。


 そんな中でも特にわたしが驚いたのが一言主神社に纏わる『乳いちょうのはなし』です。...といってもあらすじ自体は昔話に多くあるもの。
 曰く、旅の男の子どもを身籠った娘が、出産と共に他界。残された乳飲み子は人からの貰い乳は一切飲まずに、どんどん衰弱してしまって。けれども、他界した娘が大切に育てていた銀杏の木から甘い汁が染み出し、衰弱した乳飲み子に試してみると、それを飲んでくれたので乳飲み子は元気を取り戻どせた、と。以来、その銀杏は乳銀杏と呼ばれて、母乳が出ないお母さんや、母親を亡くしてしまった子どもたちの助けとなりましたとさ、といった感じでしょうか。
 ただ、この昔話に登場する歌に、ページをめくる指がとまってしまったんですね。

|一言さんへ行くときは
|暗いうちから起きだして
|誰ともしゃべらず参ります
|たった一つの願いごと
|胸にたたんで参ります
    「御所のむかしむかし『乳いちょうの話』御所おはなしの会十五周年記念出版」


 恐らくは地元の童歌なのでしょうけれど、韻律が75757575...、と今様歌なんですね。先ずこれに息を呑んだのですが、その次。ふと思ってしまったのは、こういう最初は他愛のない御伽噺が人々の口にのぼり、やがて壮大な寓話へ。さらにはそんな寓話は、たまたま時の為政者であった者たちによって自らの氏族の出自や、正統性を表すものとして取り込まれていって。...ですが、最初はきっと子ども向けの昔話のように他愛のないものではなかったのか。あるいはワイドショーのような単なる噂として広まったものではなかったのか。...もちろん、記紀の神代のことです。
 歌だってそうです。この国に最初に発生した歌謡は、やはり他愛のないもので。わたしたちですら子ども時代は替え歌を作ったり、勝手に作った鼻歌をふんふん、とやったりしましたしね。
 ふと、そんな思いに駆られてしまって、何だか嬉しいやら、可笑しいやら、自分自身が莫迦々々しいやら。とにかくとてもとても愉快な気持ちになっていました。

 えゆかざるなら座らまし けふにゆくともゆかざるも
 あしたの昨夜も違はじて えゑまざるならいざゑまむ    遼川るか

 ひとは来し 
 いにしへの毛の柔ものゆ
 毛の麁ものゆ
 綿津見のいをで在りしゆはろはろに
 陸処に来てはこゑそ持ち
 鳴りて鳴り鳴る日のふれば
 こゑにそ宿る霊ありぬ
 鳴れば響みて遍きて
 うらの象ともなりゆけば
 交はし交はされ
 あそとあれ
 なねとあれとも
 沁み沁みて
 聞こゆるものはうらの象
 鳴らすものとてうらの象
 なれば宿れる霊なほし
 ゆけどかへるをことはりに
 言挙をせむ
 言挙ぐるものはひと言
 極まりて祈ひ祷むものゝそのかぎり
 いたくな祈ひそ
 いたくな祷みそ

 いにしへのむねと初めにこゑありて歌鳴り宿せし言霊もあり   遼川るか
 (於:葛城の道歴史文化館前、のち再詠)


           −・−・−・−・−・−・−・−・−・−

 大和盆地の西端を、朝からひたすら南下していました。けれども、そろそろそれもお終い。大和盆地の南端近くまで来ていますので、進路を東にかえます。...そう、もう盆地の南端、つまりは吉野の近くまで来ているのですから。
 昨夏、それも本当に夏の真っ盛りに訪ねた吉野は、眩しいほどの光と水が鮮烈な印象となって、いまでもわたしの中に残っています。ですが、今日はまだ夏には遠く、かといって吉野名物の桜を眺めるには生憎の雨。...それでも来たのは前回の宿題が、あるからなんですね。

|音に聞き目にはいまだ見ぬ吉野川六田の淀を今日見つるかも
                          作者未詳「万葉集 巻7-1105」
| 題詞 絹歌一首
|かわづ鳴く六田の川の川柳のねもころ見れど飽かぬ川かも
               作者未詳「万葉集 巻9-1723」柿本朝臣人麻呂歌集より撰


 「噂には聞いていたけれど、実際には見ていなかった吉野の川。その六田の淀を今日、見ているのだなあ」
「河鹿の鳴く六田の川の川柳じゃないけれど、ねんごろに見ても本当に飽きない川だ」

 吉野界隈で昨年、訪ねることができなくてちょっぴり後悔していた筆頭が、六田の淀です。前回は宮滝遺跡周辺を中心に探訪したので、すこし距離がある六田までは廻りきれなかったものですから。
 不思議に感じていました。前作でも書きましたが、吉野という地は、時代ごとに人々が求めたものが変わっていて、万葉期は川、平安中期までが雪、そして西行などの平安末期からは桜、と。

 ですが、当然ですけれど大和盆地の中にも川はたくさんあるんですね。前作と本作で既にふれたものだけでも飛鳥川、初瀬川、曽我川、倉橋(寺)川などなどで、なのに何故、吉野だけがこうも別格扱いなのか、と。
 前回訪ねた夢のわだもそうですし、上記引用している六田の淀の歌の両者も、そして他の吉野に纏わる万葉歌にも、とにかく多いのが
「噂には聞いていて、ずっとこの目で見たかった吉野川が〜」
 とか
「ずっとずっと見ていたい吉野川は〜」
 というもの。纏めてご紹介します。

|今しくは見めやと思ひしみ吉野の大川淀を今日見つるかも
                           作者不詳「万葉集 巻7-1103」
|馬並めてみ吉野川を見まく欲りうち越え来てぞ瀧に遊びつる
                           作者不詳「万葉集 巻7-1104」
|音に聞き目にはいまだ見ぬ吉野川六田の淀を今日見つるかも
                          作者不詳「万葉集 巻7-1105」
|夢のわだ言にしありけりうつつにも見て来るものを思ひし思へば
                           作者不詳「万葉集 巻7-1132」
|音に聞き目にはいまだ見ぬ吉野川六田の淀を今日見つるかも
                        作者未詳「万葉集 巻7-1105」再引用
| 題詞 元仁歌三首
|馬並めてうち群れ越え来今日見つる吉野の川をいつかへり見む
                作者不詳「万葉集 巻9-1720」柿本人麻呂歌集より撰
| 題詞 元仁歌三首
|苦しくも暮れゆく日かも吉野川清き川原を見れど飽かなくに
                作者不詳「万葉集 巻9-1721」柿本人麻呂歌集より撰
| 題詞 絹歌一首
|かわづ鳴く六田の川の川柳のねもころ見れど飽かぬ川かも
              作者未詳「万葉集 巻9-1723」柿本人麻呂歌集より撰再引用
| 題詞 鴨足歌一首
|見まく欲り来しくもしるく吉野川音のさやけさ見るにともしく
                 作者不詳「万葉集 巻9-1724」柿本人麻呂歌集より撰
| 題詞 麻呂歌一首
|いにしへの賢しき人の遊びけむ吉野の川原見れど飽かぬかも
                 作者不詳「万葉集 巻9-1725」柿本人麻呂歌集より撰


 また、これらとは別に、もっと儀式めいているといいますか宮廷歌謡の範疇にも、同様の感慨を謡ったものが複数あります。

| 題詞 吉野の宮に幸しし時、柿本朝臣人麻呂の作る歌
|やすみしし 我が大君の
|きこしめす 天の下に
|国はしも さはにあれども
|山川の 清き河内と
|御心を 吉野の国の
|花散らふ 秋津の野辺に
|宮柱 太敷きませば
|ももしきの 大宮人は
|舟並めて 朝川渡る
|舟競ひ 夕川渡る
|この川の 絶ゆることなく
|この山の いや高知らす
|水激る 瀧の宮処は
|見れど飽かぬかも
                         柿本人麻呂「万葉集 巻1-0036」
|見れど飽かぬ吉野の川の常滑の絶ゆることなくまたかへり見む
                         柿本人麻呂「万葉集 巻1-0037」
|神からか見が欲しからむみ吉野の滝の河内は見れど飽かぬかも
                           笠金村「万葉集 巻6-0910」
|み吉野の秋津の川の万代に絶ゆることなくまたかへり見む
                           笠金村「万葉集 巻6-0911」
|味凝り あやにともしく
|鳴る神の 音のみ聞きし
|み吉野の 真木立つ山ゆ
|見下ろせば 川の瀬ごとに
|明け来れば 朝霧立ち
|夕されば かはづ鳴くなへ
|紐解かぬ 旅にしあれば
|我のみして 清き川原を
|見らくし惜しも
                          車持千年「万葉集 巻6-0913」


 どうも個人的には、このへんが納得できなくて再度の吉野訪問となった次第。

 昨年、訪ねた地点よりは5kmくらい西側。川も下流にあたりますが、ともあれ六田の淀に来て見て少しびっくりしてしまいました。...川の表情が、宮滝界隈のそれとではかなり違うんです。
 どうも前回訪問の印象が強すぎたのか、わたしの中では吉野川=滾つ河内、というような図式が出来上がっていて、波立つ飛沫が舞うような流れの急な川、として刷り込まれてしまったのかも知れません。ですが六田の淀は川幅も広くゆったりと流れてゆきます。雨が降っているのですから、それなりに増水もしていますし、流れもいつもよりは急なはず。それなのに何ともゆったり、のんびり...。
 ですが、この流れを眺めていて疑問が1つするん、とほどけた気がしました。


 奈良盆地の川というのは、前述している曽我川にしても、飛鳥川にしても、初瀬川、佐保川、倉橋川など、みな合流し、そのまま大阪湾へ注いでいます。後述することになりますが、これらの川が合流するポイントも大和盆地内にもあります。
 ですが、この吉野川は、違います。吉野川は奈良から和歌山へと流れて、最終的には和歌山市から太平洋へ。...これがどういう意味なのか、お判りになるでしょうか。

 はい、単純なことです。つまり、
「吉野川は吉野に来なければ見られなかった」
 ということなのでしょう。他の川はすこしゆけば見られても、吉野川だけは...、と。しかもこの吉野には離宮がありましたし、何度も何度も行幸が行われていたわけで、当然ですけれどそれに従駕したものたちが現地で上奏した歌も、見聞したことも、噂となって藤原や平城に広まったことでしょう。...そう、歌枕です。

 現代人の感覚では、車で簡単に来られる距離です。事実、わたしは今日、斑鳩の宿から生駒方面へ北上したのちに南下。あっちで寄り道、こっちで寄り道をしてきたというのに、もう吉野に着いてしまっています。
 こんな現代人の距離感覚がどうしても抜けなくて、
「吉野への憧れ募る」
 という当時の人々の感慨が、何となく実感できていなかったんでしょうね。

 またその歌枕にしても面白いな、と感じるのが上記引用歌の人麻呂と笠金村です。時代的に言いますと、人麻呂は持統期、金村は元正期ということで、大凡にして30年強の隔たりがあるのですが、どうも金村は人麻呂に敬意を表明したかったのか、あるいは一種の座興だったのか、そうじゃなければもしかすると、宮廷歌謡というものがもう行き着くところまで行ってしまって、様式美の踏襲に終始するようになってしまっていたのか。
 いずれにせよ、本歌取りとまでは思いませんが、かなり準えているものが見えるように感じます。...恐らく、歌としては天武の時代を神代、として金村は敢えて詠んでいるようですから、宮廷歌謡が云々、というよりはやはり人麻呂への憧憬と、それゆえのオマージュ、なのでしょう。

 笠金村。続いて引用させて戴いている車持千年や山部赤人と並んで元正期・聖武期といった万葉3期を代表する宮廷歌人ですが、額田や人麻呂といった万葉1期、2期の“宮廷歌人らしさ”を1番受け継いでいたのは、万葉3期では彼のように感じますね。
 赤人や千年は、随分と端正な歌を残した印象がわたしには強くあります。

 お話を歌枕・吉野川へ戻します。...ともあれ、持統期に繰り返し行われた吉野行幸によって広がった吉野の噂は、都が藤原から平城へ移ってしまったことも含めて、人々の憧れをとてもとても掻き立てたのでしょう。
 大和盆地の中にいて、川はたくさん見られますけれど吉野川は見られない。しかも、他の川と比べると川幅も、水量も、吉野川は少し異なります。滾るようなうねりも、ゆったりと大らかに流れてゆく様も。...そういった
「川なのだけれど、ちょっと違う川」
 ...しかもそこは、神とも等しい大王の宮が畔に建てられたほどの川だったのですから、それはそれはきっと素晴らしい流れに違いない。
 恐らくはこんな風な印象が、広まっていたのではないか、と考えています。

 余談になりますが、上記引用歌中で題詞があるものを数首、引いています。これらが、お判りになりますでしょうか。
 つまり、題詞の
「○○歌一首」
 というようなものの○○、これらはすべて人名です。要するに絹さんの歌一首、元仁さんの歌三首、鴨足さんの歌一首、麻呂さんの歌一首、ということですね。そして同じく、柿本人麻呂歌集に収録されていたものでもあります。

 はい、前述しました人麻呂歌集というものについての考察と、その裏側に見え隠れする芸能集団・柿本氏のことを思い出していただけたら、と思います。もしかして、もしかしたならば、ここに名前が登場する絹さんたちは...。
 そんな想像もまた「万葉集」のひとつの愉しみ方なのだと思います。

 六田の淀。実際の現地は、この呼び名よりも柳の渡、という方が重視されているようで、建てられている看板や標識は、どれもそうなっていました。それらから得た知識によると、柳の渡は平安期に拓かれた渡し場だったらしく以来、熊野方面へ向かう修験者たちにとっては、とても大事な水垢離場とされたのだといいます。
 ...お山へ足を踏み入れる前に、俗世の穢れをここで禊いだのでしょう。


 なるほど、確かに滾つ河内のような急流では、渡し場としても、水垢離場としても、とてもじゃないですが厳しいですから、逆を言えばその当時からこの六田の淀は川幅も広く、ゆったりと流れていたのでしょう。

 「見れど飽かぬかも」
 そう多くの人に詠まれた吉野川は、たまたまの雨のお陰で、どうにも見ていて飽きない、とは言い難く...。いや、それ以上にわたしの目と心が、時代の水で汚れてしまっているだけなのかも知れません。
 そして何よりも、わたしが吉野川に求めているものが、彼らとでは大きく違うからとも言えるわけで、そういう意味では金村が人麻呂の歌をオマージュにしたかった気持ちが、今のわたしとでは1番近いのかもしれません。

 そう、やはり人麻呂です。穴師で、葛城で、彼の足跡を少しずつ追いましたし、ここ吉野でもまた、ニアミスしています。そのうえこの吉野では芸能集団・柿本氏かも知れない集団とも、ニアミスできているのですから俄然、頭の中は大和盆地東側の櫟本界隈と、大和盆地西側の葛城界隈と、そして大和盆地南側の吉野界隈と。
 これら各地という点と点を結ぶ、線がどうにか見えてこないだろうか、と吉野の流れを半ば睨むようにして見詰めていました。

 ...でも、まだまだわたしごときでは仮説すらも見えてきそうにありません。流石は韜晦の歌聖・柿本人麻呂です。いやはや、何とも。
 ただ1つだけ確実に言えるのは、虚実入り乱れる人麻呂伝説は、まだ終わっていない、ということです。この現代でも、彼という謎の歌聖について様々な考察がなされ続けています。それこそ大歌人や大学者はもとより、わたしも含めた市井の存在に至るまで、1300年を経てもなお、新たに紡がれ続ける人麻呂伝説たち。

 聖徳太子についても書きましたが、本当に神懸かった不世出の存在というのは、こうやって世界に育てられ、そして世界をも育ててゆくことができる人のことを言うのかもしれません。 
 謎は、謎だからこそ魅力あるもの。もしかしたら空の何処かで、そんなわたしたちを人麻呂は笑って見ているのかも知れませんね。いや、大真面目にそう思いたいところです。

 稲筵川はいづへを流るれど
 海処を懸くる
 うつそみに海処いくだにあらむとも
 綿津見ひとつかぎりゆゑ
 川のいづへに流るれど
 ゆくも来るもふたつなし
 ひとゆゑなほし
 遠白き歌ひといにしへ時の川
 いづへを流れ流れども
 初めも終ひも
 ふたつなどなし
 
 天つみづ滾つ河内も六田の淀もひとし
 けふゆくみづまたも天降るみづさへ    遼川るか
 (於:六田の淀、のち再詠)








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