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奈良と大阪の県境は、次々と連なる山なのですが、やはり地元民ではない人間には、中々判り辛いんですね。この日、最初に訪ねた暗峠は生駒山、そしてそれより南側には、信貴山、竜田山、大津縁の二上山、葛城山、金剛山、という順で和歌山方面へ続いています。 前述の通り、直越えは正確な位置が不詳のままで、ですが最も有力視されているのが暗峠。他にも詳しい場所は寡聞にして知りませんが日下直越えという道もあったみたいです。ただ、同じ奈良・大阪間を結ぶ道とは言え、こういった往時の主要な道は、同じ大阪でも難波の港に続いていたとか、何らかの要衝への道であったのだろうし、逆を言えば大阪のどの辺りへ行くのか、何で大阪に行くのか、ということなどによって別途、拓けた道もあったんですね。 何処へ行くのか、何で行くのか。得てして役人や何らかの政治色が絡まない場合、国境越えの大きな目的になり、目指すべき場所は、寺社仏閣。そう、詣とか参拝といったことに深く関係する傾向がとても強いと思います。 国道168号を平群界隈で右折。そのまま大阪側へ進むと生駒山と信貴山の丁度、中間くらいの尾根となります。そして、ここにもやはり大阪へ抜けるルートがあったようです。 ...現在では、とても主要な道路とも思えないのですけれど、それでもきちんと当時のままの名前が残っていました。地図にはこんな名前が書かれています。十三峠。 恐らく、いや。先ず間違いなく、文学的側面から考えるならば、奈良側から登るより大阪側から登るか、そうでなければ峠を越えて大阪側へ降らなければ、面白味は半分以下だろうと思います。...ですが今回はあくまでも、あきづしまやまとゆであって、おしてるやなにはゆではないのだから、と自分に言い聞かせました。敢えて、大阪側へは降りずに峠から眺めるだけにしよう、と。 十三峠が古典に登場するのは伊勢物語です。いや、正確には伊勢物語関連、と言うべきでしょう。他に伊勢物語を原典として関わってくるのが古今集と大和物語、そして謡曲・井筒となります。最初に大元の伊勢物語23段からご紹介します。 昔、井戸の側に住む幼馴染の男の子と女の子がいました。井戸の中の水面に互いの顔を映してはよく遊んでいたのですが、大人になるにつれ何となく恥ずかしがって会わなくなります。けれども2人は親が決めた相手とは結婚しようとせず、かつての幼馴染を思い続けていて。ある日、男は女へ歌を贈ります。 |つつゐつの井筒にかけしまろがたけ過ぎにけらしな妹見ざるまに 作者不詳「伊勢物語 23段」 「しばらくお逢いしない間にわたしもすっかり大人になりました。お逢いしたいと思います」 すると女から返歌が届きます。 |くらべこし振分髪も肩すぎぬ君ならずして誰があぐべき 作者不詳「伊勢物語 23段」 「あなただけがわたしの髪を上げることができる方です」 ここで言う髪を上げる、というのは結婚するという意味ですね。そして念願かなって2人は夫婦に。けれども、何年か経つと女の家が貧しくなり、2人の生活も逼迫し始めます。何せ妻問婚の時代ですから、家計というものは妻の実家に拠るものであって、このへんが現代とは大きく違う処。 そんなこんなで、男は次第に心変わりして、河内の里の別の女のもとへ通うようになってしまいます。けれども、河内へ行こうとする男を、いつもとても機嫌よく見送ってくれる妻に、彼は疑念を抱きます。もしかして、自分の留守に別の男と通じているのではないだろうか...、と。そして男はこっそり妻の様子を覗き見しました。すると、 |風吹けば沖つ白波たつた山夜半にや君がひとり越ゆらむ 作者不詳「伊勢物語 23段」 「今頃、あの人はたった一人で竜田山を越えているのかしら」 はい、妻はいつ男が帰って来ても恥ずかしくないように念入りに化粧しては、彼の身を案じる歌を詠んでいたんですね。その余りのいじらしさに男は、河内へ通うのを止めます。 一方の河内の女は、というと最初こそ奥ゆかしく振る舞っていたのに、今では気を許してしまって、男が来ると自分で直接に杓文字を手に御飯を器に盛りつけてしまうほど。それを見て、男はすっかり恋心が冷めてしまい...。以後、河内へ通うことをやめてしまいます。彼女は |君があたり見つゝを居らむ生駒山雲なかくしそ雨は降るとも 作者不詳「伊勢物語 23段」 |君來むといひし夜ごとに過ぎぬれば頼まぬ物の戀ひつゝぞふる 作者不詳「伊勢物語 23段」 など、歌を詠んでは男を待ちましが、遂に男が来ることはありませんでした。 これが原典である伊勢物語23段のあらすじです。少し注釈するとこの当時、高貴な暮らしをする者たちは、ご飯を自分でよそうなどということは考えられない行為なんですね。つまりは、とてもお行儀が悪いといいますか、はしたないといいますか。それこそ百年の恋も冷めてしまうようなことだった、と。 ただ、この原典に書かれている内容だけでは、十三峠も明確には登場しません。それ処か竜田山、と出て来るぐらいですから物語の舞台は、実は十三峠ではないのではないか、という疑問も湧いてしまいます。また、河内の女の身分についても書かれていないので、少しばかり河内の女が不憫に思えてしまいます。...といって、それは男に去られたことではなくて、手ずからご飯を平気でよそうような、お行儀の悪い女性だった、と誤解されてしまいそうで、という意味からなんですが。 そこで続けてご紹介したいのが、この十三峠を挟んだ向こう側。大阪府八尾市の郷土史に伝わる異伝、「神立茶屋辻」のお話。伊勢物語の舞台があくまでも奈良側が中心だったのに対し、こちらは逆に大阪側。つまりは河内の里界隈が中心舞台となっています。 曰く、現在の八尾市、当時の河内国高安郡に、神立という村がありました。場所は生駒山の大阪側の山腹に当たります。村には玉祖神社という古いお社があり、この神立村から奈良へと向かうと十三峠を越えることになります。さらには十三峠へ向かう道を十三峠道と言い、十三峠道は村の近くで分岐していたので、人々はその分岐を茶屋辻と呼んでいたそうです。...お茶屋さんが数件、軒を連ねていたのでしょう。この十三峠道と茶屋辻は、奈良からは玉祖神社へ、大阪側からは峠を越えて平群に至りそこから斑鳩へ、とそれぞれに参拝する人々でかなり賑わっていたんですね。 さて。ある時、奈良から十三峠を越えて在原業平が玉祖神社へ参拝に来ました。そして茶屋辻にて、福屋というお茶屋さんに立ち寄った処、そこにいたのが近所で評判の看板娘・梅野。業平はひと目で梅野を見初め以来、奈良から峠を越えては彼女の処へ通い続け始めます。 業平は福屋の近くまで来ると、梅野の部屋の近くに立つ松の木に登り、笛を吹いて来訪の合図をします。すると梅野が東の窓を開けて彼を迎え入れる。そんな風にして逢瀬を重ねていたのですが、ふとした遊び心から業平は笛を吹かずに松の木から梅野の様子を窓越しに覗いてみたんですね。...すると丁度、梅野はお櫃から自らお茶碗へご飯をよそっていて。これで興ざめしてしまった業平は笛を玉祖神社に奉納して去ってしまった、と。これに気づいた梅野は慌てて業平の後を追いましたが、見当たらず。そして悲しみの余り淵に身を投げてしまいます。以来、高安の里では東側に窓を造ることを嫌うようになったそうです。...せっかくの縁が遠くなるから、と。 はい、これでようやく十三峠が登場しましたし、少なくとも河内の女のお行儀が悪かったのではなくて、要は身分格差による生活習慣の違いに起因した悲恋だった、ということがお判り戴けると思います。業平は臣に下り在原姓を名乗っていましたが、元々は平城天皇の孫。皇孫という、あくまでも皇族の1人でしたから、食事はすべてお付きの者がよそってくれたものを食べるのが当たり前。一方の梅野はお茶屋さんの娘。つまりはごくごく普通の村娘ですし、お付きの者なんているわけがありませんので。 余談になりますが、業平が残した笛は一筋切の笛と呼ばれ今でも玉祖神社に残っているといいます。 ただ、個人的にどうにも納得がいかないのは、そもそも伊勢物語の主人公は業平である、という定説でして。といって何も全部が全部、この定説に疑問を抱いているのではなく、やはり伊勢物語の大部分は業平をモデルとしているであろうことは大前提です。...が、この井筒関連は地理的にかなり無茶なんですね。 当時、業平の居住とされていたのは現・奈良県は天理市石上界隈とされていて、現在も在原神社(古くは寺だったそうです)が残っています。ですが、石上界隈から高安まで通うというのは現実的には奈良盆地を横断してさらに峠越えをせねばならず、馬を駆ったとしても相当厳しい気がしてなりません。 もちろん、別の見方として考えられるのが、在原寺周辺に彼が居住していたのではなく、こちらも業平縁の不退寺(現・奈良市)界隈であるならば、まだ判らなくもないのですが。...それでもやはり遠い、ですね。 そして、この地理的ギャップを埋めてくれるのが、実は大和物語の149段。曰く |昔大和の國葛城の郡にすむ男女ありけり。 作者不詳「大和物語 149段」 そう、前述の井筒とほぼ同様の挿話は、舞台がいきなり葛城になってまして。しかも業平ではなくなっています。因みにこの段ではやはり |風吹けばおきつしらなみたつた山よはにや君がひとり越ゆらむ 作者不詳「大和物語 149段」 この伊勢物語とまったく同じ歌が採られていますね。...葛城山なのに、竜田山というのも難ですが。一方、あくまで井筒の物語が業平である、という前提で描かれているのが謡曲の井筒です。簡単にあらすじを追います。 旅の僧が初瀬へ詣でる途上で在原寺へと差しかかります。在原寺と言えば、業平と紀有常の娘が夫婦となって住んだ石の上の邸の跡、名高い歌枕です。僧は夫婦の供養をすることにしました。すると水桶を下げた若い女が現れ、井戸に映る月を愛でつつ水を汲んでは、辺りの塚へ手向けます。僧は思わず声をかけました。 女は答えます。業平のことはよくは知らないが、偉人であるから墓と思われるこの塚に回向している、と。訝しく思った僧は、女に業平と有常の息女の物語をしてくれるようにと頼んでみました。 女が語ったのは丁度、原典である伊勢物語の23段の内容、ほぼそのままです。違うのは、妻である有常の息女が、実は業平の裏切り、つまりは河内の女のもとへ通っていたことに気づいていた、という点。その上で彼女はなおも業平を気遣っていた、ということですね。 そして件の |筒井筒 井筒にかけし まろがたけ おいにけらしな 妹見ざる間に 謡曲「井筒」 |くらべ来し 振り分け髪も 肩過ぎぬ 君ならずして 誰かあぐべき 謡曲「井筒」 この名高い相聞から有常の娘は「井筒の女」と呼ばれていた、と。それでもなお訝しがる僧に、ついに女は |シテ「誠は我は恋衣。紀有常が娘とも。いさ白波の立田山夜半にまぎれて来りたり」 |地 「ふしぎやさては立田山。色にぞ出づるもみぢ葉の」 |シテ「紀有常が娘とも」 |地 「又は井筒の女とも」 |シテ「恥かしながら我なりと」 謡曲「井筒」 と名乗り、井戸の影へと消えて行きました。夜も更けて、僧は夢を見ます。夢には業平の装束を纏った井筒の女が現れます。そして井戸に映る自らの姿に、業平の面影を見、我ながら懐かしいと洩らして夜明けの鐘と共に消えていったのです。...これが謡曲・井筒です。 因みにこの謡曲中で謡われる和歌には他に古今集のものが2首ほどあります。 |あだなりと名にこそたてれ桜花としにまれなる人もまちけり 詠み人しらず「古今和歌集 巻1 春歌上 62」 |月やあらぬ春や昔の春ならぬ我身ひとつはもとのみにして 在原業平朝臣「古今和歌集 巻15 恋歌5 747」 ...どうも主題の十三峠から離れて、どんどんお話が業平のことになってしまってきていますが、もう少し続けます。 正直、個人的には、業平に対しては何だかとても遠い歌人という印象が強く、実はそれほど彼の歌にも執着と言うか、思い入れは希薄でして。ですが、わたし如きが改めて書くのもおこがましいですが、しみじみ巧いな、とは感じ入ってしまいます。 在原業平。36歌仙なのはもちろんですが、それよりさらに人数を絞った6歌仙の1人です。6歌仙とは、僧正遍照(小町の元へ100夜通った深草少将です)、業平、文屋康秀、喜撰法師、小町、大伴黒主のことで、やはり貫之による古今和歌集仮名序にて、こう書かれたことが所以となっている人々です。 | 近き世にその名聞えたる人は、すなはち、僧正遍照は、歌のさまは得たれども、まこ |とすくなし。たとへば、繪にかける女を見て、いたづらに心を動かすがごとし。 | (中略) | 在原業平は、その心餘りて、詞だらず。しぼめる花の色なくて匂ひ殘れるがごとし。 | (中略) | 文屋康秀は、詞はたくみにて、そのさま身におはず。いはば、商人のよき衣着たらむ |がごとし。 | (中略) | 宇治山の僧喜撰は、詞かすかにして、始め終りたしかならず。いはば、秋の月を見る |に暁の雲にあへるがごとし。 (中略) よめる歌多く聞えねば、かれこれをかよはし |て、よく知らず。 | 小野小町は、古の衣通姫の流なり。あはれなるやうにて、つよからず。いはば、よき |女のなやめるところあるに似たり。つよからぬは女の歌なればなるべし。 | (中略) | 大友黒主は、そのさまいやし。いはば、薪負へる山人の花の蔭に休めるがごとし。 「古今和歌集 仮名序」 一部再引用 折角なので、6歌仙のそれぞれ特に有名ではないかな、という歌も列挙します。 |わが庵は都のたつみ鹿ぞ住む世をうぢ山と人はいふなり 喜撰法師「古今和歌集 巻18 雑歌下 983」「小倉百人一首 8」 |花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせし間に 小野小町「古今和歌集 巻2 春歌下 113」「小倉百人一首 9」 |天つ風雲のかよひ路ふき閉ぢよをとめの姿しばしとどめむ 僧正遍照「古今和歌集 巻17 雑歌上 872」「小倉百人一首 12」 |千早ぶる神代も聞かず竜田川からくれなゐに水くくるとは 在原業平朝臣「古今和歌集 巻5 秋歌下 294」「小倉百人一首 17」 |吹くからに秋の草木のしをるればむべ山風をあらしといふらむ 文屋康秀「古今和歌集 巻5 秋歌下 249」「小倉百人一首 22」 |春さめのふるは涙かさくら花ちるををしまぬ人しなければ 大伴黒主「古今和歌集 巻2 春歌下 88」 お話が前後してしまいますけれど、引用部をご高覧戴ければ一目瞭然ですが、6歌仙については貫之自身がそれ、と規定はしていません。彼は仮名序の中であくまでも人麻呂と赤人のことを歌仙として書いているわけで、要は後世の人々が貫之に批評された6人を6歌仙、としたということですね。 余談になりますが、貫之が古今和歌集の編纂に際してこれらの歌人について語っている、ということはすなわち、少なくとも6歌仙たちは平安のごく初期の人物たち、ということ。前作でわたしは讃良についても、小倉百人一首の持統天皇は十二単を着た絵になっているが、実際の彼女が十二単など着たはずがない、と書きましたけれど、それは小町についても同じです。十二単というのは完全に我が国独自の衣服文化で、それ以前の人々は唐風の衣裳を着ていましたし、時代から計算すれば、小町もまた十二単は着ていなかった女流歌人となります。 ...ある意味に於いては最も十二単を象徴するように思われている女性の1人でしょうに、こういう小気味好い現実は、フィールドワークや時代考証を追い掛けているからこそ気づけるわけで、歌を字面だけではなく行間や、その背景もひっくるめて味わう醍醐味だと実感しています。 けれども同時に、そもそも古典文学に於ける記述を、現代の地理と付き合わせるということ自体には、相当な矛盾が含まれるでしょうし、そこにどれほどの整合性を求めるか、などという行為はきっと、無粋なことなんでしょうね。 印刷技術がなかった平安期では、人の手による写本で冊子は伝えられましたし、当然そこには誤記や写し手の勘違いなども加味され、少しずつ少しずつ変質もしていったのでしょう。だとするならば、やはりそもそもの原典である伊勢物語の内容を、考察のベースに据えたいですし、だからこそ今回は敢えてかつて茶屋辻と呼ばれた場所へは行かなくてもいい。そんな風にわたしには思えてしまいました。 暗峠と違い比較的、道幅もそこそこある舗装路をどんどん登っていきます。何度か大きく蛇行することもありましたが、恐らく標高という意味では暗峠よりは低いらしく、耳が抜けなくなるようなこともありませんでした。 やがて着いた県境。本来ならここから下山して、玉祖神社に参拝もしたかったですし後世、弘法大師が峠を行く人々の為に祈願したところ湧き出した、という霊水(「弘法の水」)や、そのごく近くに佇んでいるという水呑地蔵さまも見たかったのですが、それら全てはいずれ、おしてるやなにはゆというものも書きたくなった時の楽しみに取って置こう、と...。 ただ1箇所。最後まで後ろ髪引かれる思いがしていたのは、玉祖神社でした。 玉祖神社。読み方は、たまのおやじんじゃとなります。どんなお社かと言うと、まさしく字の如し。3種の神器の1つである八坂瓊をつくった神様・玉祖命を祀っているんですね。ただ、本来は山口県の防府市にある玉祖神社が本座であって、こちらは分社となるのだと思います。 玉祖命。はい、件の天孫降臨の際に随行した天児屋命・布刀玉命・天宇受売命・伊斯許理度売命・玉祖命、という5柱のうちの1柱です。そして天の岩戸で天照を呼び出すのに使用された、沢山の勾玉を貫いた長い玉の緒を作ったのがこの神様。 勾玉。...理由なんてないんですけれど、好きですね。携帯電話のストラップにも大神さんで買った緑と黄色の勾玉をつけていますし、手首にも春日大社で買った翡翠の勾玉をいつも着けています。...今回の万葉巡りでは高鴨神社で売られていた紅水晶と紫水晶の勾玉が欲しくて、欲しくて、でもそのあまりの高価さに手が出ませんでしたけれども。 古来より玉は洋の東西を問わず、美しく、尊く、そして平和のシンボルとされてもいますし、この国では遥か遠い古代。人々は祈りに必ず玉を用い、玉を紡ぐことに多くの思いを込めてきました。 願い事も、祈りも、細かなものまで数えれば、わたしが抱いているものはそれはもう、とんでもない数になってしまって分不相応と言うか、何とも欲の皮が突っ張った人間だな、と自嘲したくもなります。だからこそ、いつも思うのはそれら全てをシンプルなひと言で言い尽くせてしまえる 「自分に連なる全ての人々が幸せでありますように」 そう願い続けていられたなら、いつか必ず大阪と防府の玉祖神社にも出向きたく思いますし、機会にもいづれ恵まれることでしょう。 筒井筒 ふるればあゆくみづのおもてに影あれど あるゆゑけふに給はれるもの 遼川るか たなすゑのいまはまとはず 逆はぬものも宜はぬものもつかねて暮るゝまにまに 遼川るか (於:十三峠、のち再詠) |
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