長屋王と吉備内親王の御陵は近鉄生駒線の平群駅近くにあります。そう、平群です。件の鴨氏から派生した豪族の1つ、平群氏の本拠地であり、同時に倭建命の望郷歌に「平群の山の〜」と詠まれた土地が、ちょうどこの辺り一帯なんですね。
 ...といって特段、何処を訪ねたというわけでもなく、ただこの後に訪ねた十三峠や竹内街道方面への移動中、ずっと右手に生駒から竜田へと続く山並みが見えていて、それらを眺めながら日本書紀にある、平群氏に因んだ挿話を思い出していました。

 平群氏というと歴史上真っ先に思い浮かべるのが平群真鳥で、武内宿禰の孫となります。雄略、清寧、顕宗、仁賢、武烈、5王朝の重臣で、特に最後の武烈の頃にはその専横も極まり、もはや国政は欲しいまま。自ら王になろうか、という勢いだったんですね。例えばまだ皇太子だった武烈の為に宮を建てたと思えば、自分がそこに住んでしまう、といった有り様。
 こんな状態は、もちろん長く続くはずなし。次第に募っていく武烈の不満がついにある出来事をきっかけに爆発。そして平群氏は没落してゆくことになるのですが、古代歌謡という側面からなら、その出来事がとても重要となります。

 前作でも海石榴市に関連して少し書きましたが、海石榴市を始めとする市などで定期的に行われていたものがあります。...はい、歌垣ですね。
 歌垣。要は歌の掛け合いによる歌言葉の呪的信仰に立つ男女の唱和のことで、原義は恐らく歌争いの意味だと考えられている、と言います。東国方言では「かがい」とも言うようですが、元々は広くアジア全般で同様の事象は行われていたようで、漢籍の文選には刊歌、と著されていますね。これが日本だと古事記が歌垣、日本書紀が歌場、となりますが。

 実際に行われていた方法も様々なようで、片歌の掛け合いで旋頭歌を成す、というものの他にも、一方が短歌の上の句を詠めば、もう一方が下の句を付ける、というまるで連歌や連句のようなものや、下の句まで付けたらこんどは下の句を詠んだ者がそのまま次の上の句を詠み、もう一方がその下の句を、というものもあるようです。さらにはただ純粋に即詠の相聞を繰り返す方法も、もちろんありました。
 大概に於いて春と秋、近隣にすむ老若男女が集っては飲食、歌舞を共にして、さらにはそのまま森や林の中へ移動して性の解放、という流れです。春は1年の豊作の予祝を、秋は収穫に対する感謝を、それぞれ言霊の力を借りながら行いつつ、という感じでしょうか。
 ...何処となく国見に通ずるものがあるのがお判り戴けると思います。

 だからなのでしょう。歌垣の実際の舞台となるのは山の高みが多く、他に様々な言霊が行き交う八十の巷、つまりは市。さらには野や水辺などとなりますが現在、日本3大歌垣とされているのは、常陸風土記に登場する常陸の国は筑波山、摂津風土記に登場する摂津歌垣山、そして肥前国風土記逸文に登場する肥前杵島岳、となります。
 また、市としての歌垣は前述の海石榴市や軽の市(現・奈良県橿原市)などが挙げられるでしょう。

 それぞれの歌垣に因んだ万葉歌や古代歌謡を列挙します。

|霰降り吉志美が岳をさがしみと草取りかなわ妹が手を取る
                            仙柘枝「万葉集 巻3-385」
|あられふる 杵島が岳を 峻しみと、 草採りかねて 妹が手を執る
                          作者不詳「肥前国風土記逸文」


 風土記の方の「あられふる」は杵島を伴う枕詞。余談ですが、「霰降る」は霰が降る音が姦しい、とのことから東国の鹿島を伴う枕詞でもあります。
 ここで詠まれている「吉志美が岳」が杵島岳のことですね。また風土記の歌には「是は杵島曲なり」という注釈もされていて、恐らくは公式の歌曲としてそれなりの所作を伴うものであったのであろう、とされています。
 続いて筑波山です。

| 題詞:筑波嶺に登りて歌會をする日に作る歌一首
|鷲の住む 筑波の山の
|裳羽服津の その津の上に
|率ひて 娘子壮士の
|行き集ひ かがふかがひに
|人妻に 我も交らむ
|我が妻に 人も言問へ
|この山を うしはく神の
|昔より 禁めぬわざぞ
|今日のみは めぐしもな見そ
|事もとがむな
               高橋蟲麻呂「万葉集 巻9-1759」 高橋蟲麻呂歌集より撰
| 題詞:筑波嶺に登りて歌會をする日に作る歌一首 反歌
|男神に雲立ち上りしぐれ降り濡れ通るとも我れ帰らめや
               高橋蟲麻呂「万葉集 巻9-1760」 高橋蟲麻呂歌集より撰


 余談になりますが、古語で「筑波道/つくばのみち」というと連歌のこと。その由来は十中八九、この歌垣によるものでしょう。
 一方、摂津の歌垣山には、万葉集や古代歌謡にそれらしき歌が残っていません。関連しているものとしては、知る限りでこの1首だけだと思います。

|くらかきの里に波よる秋の田はとしながひこの稲にぞありける
                     大江匠房「夫木和歌抄 巻31 雑13 14689」


 最後に、やや趣は変わってしまいますが軽の市に纏わるものとしては、こちら。

|天飛ぶや 軽の道は
|我妹子が 里にしあれば
|ねもころに 見まく欲しけど
|やまず行かば 人目を多み
|数多く行かば 人知りぬべみ
|さね葛 後も逢はむと
|大船の 思ひ頼みて
|玉かぎる 岩垣淵の
|隠りのみ 恋ひつつあるに
|渡る日の 暮れぬるがごと
|照る月の 雲隠るごと
|沖つ藻の 靡きし妹は
|黄葉の 過ぎて去にきと
|玉梓の 使の言へば
|梓弓 音に聞きて
|言はむすべ 為むすべ知らに
|音のみを 聞きてありえねば
|我が恋ふる 千重の一重も
|慰もる 心もありやと
|我妹子が やまず出で見し
|軽の市に 我が立ち聞けば
|玉たすき 畝傍の山に
|鳴く鳥の 声も聞こえず
|玉桙の 道行く人も
|ひとりだに 似てし行かねば
|すべをなみ 妹が名呼びて
|袖ぞ振りつる
                          柿本人麻呂「万葉集 巻2-207」


 「玉梓の」は使い、を伴う枕詞。

 歌垣そのものは、やがて農耕に関連する予祝や感謝、という側面からは離れていってしまい、行き着いたのは成年・未婚の男女の成年のしるし、つまりは成人式的要素であったり、求婚・約婚を主とするものへと変質していきました。なので、恋の鞘当も起こりますし、挙句それに付随して刃傷沙汰やそれ以上のことまで起こってしまった例もあるんですね。
 ...はい、そんな歌垣に纏わる血生臭い挿話が日本書紀に残っています。


 前述のようにまだ武烈が皇太子だった頃、平群氏は栄華を極め首魁の真鳥の専横ぶりたるや、目に余るほど。そんなタイミングで武烈が娶ろうとしたのが「物部麁鹿火大連/もののべあらかいのおおむらじ」の娘・影媛です。早速、武烈は使いを立てて影媛の家へ意向を伝えます。
 ...が、どうも反応が今ひとつ鈍く、父親の麁鹿火大連は返事して曰く
「海石榴市の辻にてお待ちします」
 とのこと。けれども武烈は大して意にも介さず、同じく使いを平群氏の元へ送り、出掛けるので官馬の用意を依頼。けれども真鳥は大柄な態度で応えます。
「官馬は誰のものでもありません。あなたさまのお好きなようにお使いください」
 と。そして一向に武烈へ馬を差し出そうとしません。流石の武烈も訝しくは思いつつ、それに耐えて約束の海石榴市へ。人混みの中、ようやく影媛を見つけたので、彼女の袖を掴み立ち止まったり、歩いたりしながら、それとなく彼女を誘い続けました。
 やがて、平群真鳥の息子である「鮪/しび」が現れて武烈と影媛の間に割って入ります。武烈はそこで影媛の袖を離し、鮪の正面に向き合って歌いました。

|潮瀬の 波折りを見れば、 遊び来る 鮪が鰭手に 妻立てり美ゆ。
          太子(のちの武烈天皇)「日本書紀 87 巻16 仁賢11年(498年)11月」


 「潮の流れ早瀬の波の折り重なりを見ると、泳いでくる鮪のそばにわたしの女が立っているのが見える」
 鮪が返します。

|臣の子の 八重や韓垣 ゆるせとや御子。
                 平群鮪「日本書紀 88 巻16 仁賢11年(498年)11月」


 「臣の子の幾重にも囲った立派な垣の中に、自由に入らせよと御子は仰言るのですか」
 武烈がなおも返します。

|大太刀を 垂れ佩き立ちて 抜かずとも、 末果たしても 会はむとぞ思ふ。
         皇太子(のちの武烈天皇)「日本書紀 89 巻16 仁賢11年(498年)11月」


 「わたしは大きな刀を腰に垂らして立っているが、何も今それを抜かなくともいずれ思い通り影媛と会おうと思う」
 再び鮪が唱和します。

|大君の 八重の組垣。 懸かめども 汝をあましじみ 懸かぬ組垣。
                  平群鮪「日本書紀 90 巻16 仁賢11年(498年)11月」


 「大君は立派な組垣を編み、媛を取られぬようにしたいのでしょうが、あなたは編めないだろうから、立派な組垣なぞはできはしないですよ」
 三度、武烈の歌です。

|臣の子の 八節の柴垣、 下動み 地が震り来ば、 破れむ芝垣。
         皇太子(のちの武烈天皇)「日本書紀 91 巻16 仁賢11年(498年)11月」


 「鮪臣の編目の多い立派な柴垣は、見かけは立派だけれど地下が鳴動して地震が襲えば、すぐに壊れるような柴垣に過ぎない」
 そして今度は影媛に向けても歌いました。

|琴頭に 来居る影媛。 玉ならば 吾が欲る玉の 鰒白珠。
         皇太子(のちの武烈天皇)「日本書紀 92 巻16 仁賢11年(498年)11月」


 「琴を弾けば、恋しい人の面影が琴の頭に影となって依りつくものと言われている。その名に相応しい影媛よ、もし玉に誓えるならば、あなたはわたしの最も欲しいと思うあわびの真珠のようだ」

 ここまでは、少なくとも武烈自身、普通の歌垣同様、単なる恋の鞘当としか思っていなかったんですね。...が、この武烈が影媛に詠んだ歌に対し、鮪が彼女に代わって返歌したので、ようやく事の全貌が判明します。

|大君の 御帯の倭文服 結び垂れ、 誰やし人も 相思はなく。
                 平群鮪「日本書紀 93 巻16 仁賢11年(498年)11月」


 「大君のおつけあそばす御帯の倭文織紋様の布は立派に垂れていらっしゃいますけれど、その“たれ”という言葉のように、わたしが“たれ”か別の人に思いをかけることはありません(即ち、鮪とすでに相思の仲です、という歌)」

 そうなんですね、実は影媛は以前に鮪に無理矢理関係を結ばされてしまっていて、以後すっかり深い仲になってしまっていた、と。けれども武烈は皇太子です。当然、父親である麁鹿火大連は皇太子からの声掛かりを断ることもできず、かといって真実を語ることもできず、仕方なしに海石榴市に武烈を呼び出した、ということです。
 はい、当然ですけれど武烈からしてみれば、こんな顛末はこれ以上ないほどの侮辱ですし、もとより無礼極まりない平群真鳥・鮪親子への怒りは頂点に達します。なのでその夜には早速、兵を挙げて鮪を奈良山にて殺害してしまいます。

 哀れなのは影媛で、どうしても鮪が心配で彼の後を追って奈良山へ。そして、彼が殺される一部始終を見た後、意識を失いつつも、悲しみの余り詠みました。

|石の上 布留を過ぎて、
|薦枕 高橋過ぎ、
|物多に 大宅過ぎ、
|春日 春日を過ぎ、
|妻隠る 小佐保を過ぎ、
|玉笥には 飯さへ盛り、
|玉もひ(*)に 水さへ盛り、
|泣き沾ち行くも。 影媛あはれ。
                  影媛「日本書紀 94 巻16 仁賢11年(498年)11月」
               * 正しくは「怨」という字の心が皿に替った表記です。


 「石上の布留を過ぎ、高橋を過ぎ、大宅を過ぎ、春日を過ぎ、小佐保を過ぎ、死者に供える美しい食器には飯まで盛り、美しい椀に水まで盛って、泣きぬれて行くよ、影媛は。ああ」

 そして鮪の埋葬も終り、家へ帰ろうとして
「何て辛いことなのでしょう。今日、夫を失ってしまいました」
 と呟いてはまた詠みました、

|あをによし 乃楽の谷に、
|鹿じもの 水漬く辺隠り、
|水灌く 鮪の若子を
|漁り出な。猪の子。
                  影媛「日本書紀 95 巻16 仁賢11年(498年)11月」


 引用歌一括で。「薦枕」は高橋、「物多に」は大宅、「春日」はかすが、「妻隠る」は佐保、「水灌く」は鮪、をそれぞれ伴う枕詞です。

 「奈良山の谷間は、さながら鹿が水浸しになるような酷い場所で、身をこの世から隠した鮪の遺骸を掘り返すようなことはしないでおくれ、猪よ(猪とは武烈の兵の暗喩)」

 そしてこの直後に武烈は真鳥を討つために挙兵。次々に部下が武烈側へと寝返る中、真鳥も国を我が物とする野望がもはや失敗したことを悟り、賊として斬られます。その際、真鳥は広い海の潮に呪いを掛けたのですが、敦賀の海だけは失念した、とのことで以来、武烈が食す塩はすべて敦賀のものとなったのだそうです。
 これらにより平群氏は事実上、没落の憂き目と相成りました。

 はてさて、この1件。個人的には何とも溜息の1つでも洩らしたくなるような挿話です。真鳥はともかくとしても、直接の当事者である鮪も武烈も影媛もそれぞれに被害者とも言えるわけで。個々の立場からすれば、それが他の者の望みと相容れることができない望みを抱いた時点で、少なくとも一旦は破綻しなければ越えられないこととてある、ということでしょうか。...ひとがたくさんいれば、誰かは泣かなければならない、というのも事実ではありますけれども。
 でも、だとしても鮪のように命を落としてしまえば、未来は同時に消滅してしまうわけで。逆を言えば生きてさえいれば、まだ拓けるものとてあるでしょうに、それが何とも...。

 在ることのむがしく
 なれど在ることはむなしきものと
 沁みつゝも
 来経ればけふもあれの在り
 絶えてえ帰らざるものも
 え変はらざるを
 沁みつゝも
 来経りてけふもあれはゆき
 哀しぶことも
 うれしぶも
 なほし繰り繰る糸のごと
 なにをかあなぐりゐるとふも
 あれいまだしく
 知らざれど 
 ゆかば知らるを頼みては
 風のまにまに
 みづまみづ波のまにまに
 草枕旅にて天つみ空にも
 言挙げしゝは
 ふたつなし
 けふ沁みゐるは
 在ることを在るとえ沁みず在るとふに
 弥遠に来し
 弥遠に来りてなほし
 弥遠にゆくらむとふを
 幸はひとせり

 大倭豊秋津嶋こに在りしひと知りをればあれも違はじ  遼川るか
 (於:本日さねさしさがむゆ)



             −・−・−・−・−・−・−・−・−・−

 この平群氏。実は「万葉集」には他にも戯れ歌というか、お互いがからかい合っている問答歌もありますね。

| 題詞:平群朝臣が嗤ふ歌一首
|童ども草はな刈りそ八穂蓼を穂積の朝臣が腋草を刈れ
                     平群朝臣(詳細不明)「万葉集 巻16-3842」
| 題詞:穂積朝臣が和する歌一首
|いづくにぞま朱掘る岡薦畳平群の朝臣が鼻の上を掘れ
                     穂積朝臣(詳細不明)「万葉集 巻16-3843」


 「八穂蓼を」は穂積、「薦畳」は平群、をそれぞれ伴う枕詞。

 「子どもらよ、そこの草を刈らないでくれ。その代わり、あの穂積朝臣の腋臭という草を刈るとよい」
「どうであろう、真朱を掘る丘は...。あの平群朝臣の赤鼻を掘るとよい」

 はっきり言って、歌意なんてないに等しいです。「万葉集」の巻16というのは所謂、雑歌が纏められたもので、特に後半になると宴席での伝誦歌や嗤笑歌、地方民謡などが多く登場します。そしてこの嗤笑歌のエッセンスが後世、俳諧歌へと繋がって行くんですね。
 極めて個人的な感想ですが、続く巻17からは家持歌日記が始まりますから、巻16というのは多少語弊はあるかも知れませんけれど、まさしく本来の「万葉集」の最後に、何処にも分類できなかった雑多な歌を纏めて盛り込んだ。そう言ってしまってもいいように思っています。


 長屋王とすぐ近くの吉備内親王の御陵を訪ねた後、少し南へ移動して丁度、平群町の真ん中辺りに着いた頃には、すでにお昼近くなっていました。朝は晴れていた空も次第に曇り始め、神奈川出発の時から現地の天気予報が伝えていた通り、この先はずうっとお天気には祟られてしまいまして。
 それでもまだ雨は降り出していなかったので、急いで十三峠へ向かいます。こちらは万葉でも、古代歌謡でもなく、いきなり伊勢物語になりますが。

 再び登り始めた山道を運転しながら思ったのは、それにつけても平群の地に因む歌には問答歌なり、歌垣のものなど、掛け合い的要素の強いものが多いのだな、ということで、改めて詩歌ではない、歌謡としての歌の存在の意味。それをとりとめもなく考えていました。
 和歌。この意味は読んで字の如く「和する歌/あはするうた」です。もちろん、唱和するものは何も相聞の相手だけとは限らないでしょう。天に、地に、人に。遠い遠いいにしえの時代に、自らが生きて暮らしているこの現代という時代に。心の感応を以って詠むこと。これがやはり和歌の本質なのでしょうね。

 相聞などをやっていると相手のお歌に感じて、ふとそれまでの自身ですら自覚していなかった考えや発想に至ることとてあります。今在る自身の価値観なり世界観なりも、すべてはこれまでに経てきた経験1つひとつによって築かれたものであり、関わった人たちが教えてくださったことであり。
 通り過ぎただけになってしまった平群の地ですが、それでもまた改めて和歌というものを考えさせてもらえたことが、とても嬉しく感じられた場所でした。

 薦畳平群まほろば 風吹けばのちの世にして閉す眼はも    遼川るか
 (於:平群町通過途上、のち再詠)







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