生駒山の麓に、ある人物のお墓があります。役行者については既に書いていますが、こちらもまたその法力によって様々な説話を残した人です。 高僧行基。まだ都が飛鳥にあった頃、元々は百済渡来人系の家に生まれた彼は15歳にて出家。当時仏教は、まだまだ国家の統制下におかれていて、僧とは寺で読経する存在、とされていた時代、都が平城京に移った頃から、行基は国に奉仕する仏教にあきたらずに、広く民衆を救うという仏教本来の姿を実現するべく活動を起こしました。記録に「和尚の来るを聞けば巷に居る人なく、争ひて来たりて礼拝す。器に随ひて誘導し、ことごとく善に趣かしむ」とあるようですが、実際に彼が行った社会事業や布教活動の数々を考えるとあながち大袈裟なものとも思えません。 だからでしょう。途中、藤原不比等が彼を恐れてかなりの弾圧を行っています。...けれどももはや、夥しいほどの民衆を巻き込んだ行基集団の勢いは留まらず、不比等亡き後は聖武が彼を優遇したんですね。そして、ついには東大寺建立に行基の力添えを、と聖武から乞われるまでになって。最終的には、我が国初の大僧正の地位に就いています。 また全国を広く行脚して畿内だけでも開いた寺院は49箇所。他にもやはり役行者同様、日本霊異記や今昔物語、十訓抄など、彼に纏わる複数の説話を採っている文献も多いです。 ...ありがちな仏教説話そのもの、というよりは昔話の雰囲気があるものを2つほど、あらすじだけご紹介しましょう。前者は日本霊異記の中巻 8、後者が日本霊異記の中巻 30です。 「置染臣鯛女/おきそめのおみたいめ」は仏道の徒。ある日、山菜採りに出かけると大蛇が蛙を呑み込んでいました。彼女は大蛇に自分が妻になるから、蛙を助けて欲しいと願い、7日後に蛇を迎える約束をします。約束の日、夜には現れるであろう蛇が恐ろしくなってしまった鯛女は行基に相談しました。すると 「お前は逃げられない。ただただ仏の戒めを守っていなさい」 との返事。翌日、彼女は道で大きな蟹を持っている老人に出会います。彼女は上着を譲るから蟹を助けて欲しい、と言うも断られたので裳も譲るから、と頼み蟹を救います。さて、その夜。やはり大蛇はやって来ましたが、何やらバタバタと物音だけが響きます。朝、明るくなって辺りを見ると、あの助けた蟹が蛇をズタズタに切り刻んでいました。 ...蟹を抱えていた老人をその後、探せどついに見つからず。恐らくはあの老人こそが、鯛女を救う為に現れた御仏だったのでしょう。 行基が難波の国で仏法を説いていると、子どもを連れた女が1人現れます。しかしその子どもは10歳になるのに歩けず、法会の最中も泣き喚き、乳を飲み、物を食べ続ける始末。行基は女に 「その子を淵に捨てなさい」 と言います。これには法会に来ていた人々も驚きを隠せず、女も我が子を捨てることなどできず...。翌日、また法会に女が子連れで来ます。子どもはまたもやひたすら物を食べ続け、泣き喚き、もはや説法が聞こえません。行基は言います。 「その子を淵に捨てなさい」 ついに我慢できなくなった女は子どもを淵に捨ててしまいます。すると子どもは手足をバタつかせながら 「残念だ。あと3年、お前から取り立て喰ってやろうと思っていたのに」 との言葉を残し沈みました。行基曰く、あの子どもは女が前世で借りた物を返さなかった貸主が子どもの姿を借りて現れたもので、女からずっと債権を取り立てる為に喰い続けていたのだ、と。 どうでしょうか。役行者があたかも魔法使いのような印象なのに対し、行基はまさしく宗教家。それも民衆にとても近い存在だった、というのが前述の役行者に纏わる説話との比較で何となく感じ取れると思います。 竹林寺。行基の墓所は生駒川のごく近く、竹藪の中に佇むこの寺にあります。足場の悪い、苔むした階段をゆっくりゆっくり登って行くと途中で一旦、階段が途切れます。左手は藪、右手はそれでも木々の間から民家も見えるのですが、この藪の傍に木製の小さな標識が立っていました。曰く「行基歌碑」との文字と藪の奥を指し示した矢印が書かれていたので、お墓参りより先に歌碑を見よう、と。 ...が、藪の奥へ奥へと入れどそれらしきは見つけられず。悔しかったので、それでも進み続けたのですが、やはり空振り。歌碑に関しては、墓参後ももう1回、とトライしたのですが、結局は片鱗すらも見つけられませんでした。 果たして、どの歌が選ばれて碑となっていたのでしょうね。 行基と言うと、やはり僧という印象で歌人としては、さほど知られていないかも知れませんが、勅撰和歌集(21代集)には7首ほど採られていますね。纏めてご紹介します。 |法華経を我が得しことは薪こり菜つみ水くみつかへてぞ得し 大僧正行基「拾遺和歌集 巻20 哀傷 1346」 |百くさに八十くさそへて賜ひてし乳房のむくい今日ぞ我がする 大僧正行基「拾遺和歌集 巻20 哀傷 1347」 |霊山の釈迦のみまへに契りてし真如くちせずあひみつるかな 大僧正行基「拾遺和歌集 巻20 哀傷 1348」 |あしそよぐしほ瀬の浪のいつ迄か浮世中にうかびわたらん 行基菩薩「新古今和歌集 巻20 釈教歌 1922」 |のりの月ひさしくもがなと思へどもさ夜更にけりひかりかくしつ 大僧正行基「新勅撰和歌集 巻10 釈教歌 576」 |かりそめの宿かる我ぞ今更に物なおもひそ仏とをなれ 大僧正行基「続後撰和歌集 巻10 釈教歌 584」 |山鳥のほろほろとなく声きけばちゝかとぞ思ふはゝかとぞ思ふ 行基菩薩「玉葉和歌集 巻19 釈教歌 2628」 ですが、個人的に行基というと、すぐに思い浮かぶのが地元・鎌倉での説話と、甲州葡萄の開祖である、という説話なんですね。 星月夜鎌倉にと 玉鉾のい辿る道の切り通し 名越・巨福呂・化粧坂・朝比奈・大仏・亀ヶ谷 極楽寺坂はいにしへのつはものどもが府の這入り 日経 背面 日緯は あしびきの山 影面はさねさしさがむの海なれば おのづ砦の里なりし いにしへ大路 鶴が岡いで南無八幡大菩薩 あな攻め難きものゝふの集ひし都 むさの国 なれどみづには恵まれず もひ湧きいづる井戸こそが崇めるべけれものゆゑに いつにいづれに呼ばるゝは 鎌倉十井 扇ノ井 棟立ノ井に 泉ノ井 底脱ノ井に伝はりしこの井は解脱授け給ふ験ありとふ古言や 鉄ノ井はそこひより観世音こそ出でにけれ 潮の引けば浮び来る和歌江ノ島にほど近き 六角ノ井に 甘露ノ井 瓶ノ井いまもゝひ湛へ 銚子ノ井にて数こゝの 終ひにあぐるは先に言ふ極楽寺坂の切り通し なほしその傍 残りゐる星月ノ井はあなをかし 昼なほ暗きそのかみにこの井覗けば天つ星みづに映りぬ 真昼とて さても鎌倉訪ね来し高僧行基訝しく思ひしゆゑに 星月ノ井をし試しに浚へばや 綺羅に耀ふ石ならがそこひにありき けだしこは御仏様の霊験と 得ては井の裏 小高くも繁る岡にし建てつるは 菩薩の御堂 さてさても井より出でつる石なこそ祀りつ祀れ 陸処にて鎌倉に来るもろひとは極楽寺坂過ぐるもの なれど旅路の辛ければ倒ふる者とて夥し いざ鎌倉をまへにしてさてものみとにみづまみづ しかと願はゞ救ひとも思し召しとも しづやかにもひの湧き湧く星月ノ井はありをりてあなかしこ なほし語らむ星月ノ井にはふたつの名もありて しが星月夜ノ井にならむ こは鎌倉の地の名こそ伝へて繋ぐことはりや 目合へる詞 枕なりけれ まことしなる産土さねさしさがむなるゆゑ 星月夜かまくらこそはさがむの秀なめ (於:竹林寺行基之墓/初出:第497回トビケリ歌句会お題「石」) * * * * 草枕ひむがし辿る旅行脚 とほきいにしへあをによし奈良の都を治めしは 鵜野讃良の皇子のまた皇女にして 名にし負ふ氷高皇女のちに言ふ元正天皇 その御世に法力秀づる僧ひとり いづれ賜はる大僧正その名は行基 日経ゆ霊峰不二に程近き甲斐は勝沼訪ひ寄りき 滾つ潺湲のぞみてはおほき巌のうへに座し 祈ぎて奉づる経文のなほし重ねて迎へしは 廿日とひと日にはしくに現はれ出でしは 金色に耀ふ薬師如来にて 弓手宝印 馬手葡萄 あなうれしきやかしこしや こは御仏の思し召し なればと槻の本木もて彫りつるものはまなうらに残る御姿 薬師如来彫りて上ぐればしが像を御座させかつも奉る 御堂えうよし建てつるはいまに柏尾大善寺呼ばれ給へる古りし寺 建てゝ上ぐればしが庭に 遥けきとほき唐の國より伝はりし 葡萄とふなりものゝ種植ゑつるに いづれ実れば薬種なむ さても実ればうましもの なほし実れば芳しきさゝのものへと変はりゆき 百歳千歳経しいまに甲州葡萄と名を馳する 美しえびかづらありをりぬ なべて衆生を慈しみ給ふ 御仏その験あらたかなるを宿しては 実、麗しき御仏と人らの縁取り合ひし 高僧行基 その奇なる実 海処も陸処も越えて来てはゆくものゆゑ乞ふは如来の加護と (於:竹林寺行基之墓) 「星月夜」は鎌倉を伴う枕詞。...こういう説話自体を判りやすく、面白おかしく、文法すらもかなり大胆に無視した狂歌として詠んでいるので、署名はしないでおこうと思います。 藪から戻り、再び少し階段を登るとお寺の境内になります。そして、境内右手のやや奥まった1画に行基の墓所はありました。かなり背の高い碑と石塔が立ち、行基に纏わる簡単な説明文の看板、という取り合わせでしたが逆にお寺に在るからなのか、例えば赤人のお墓のように献花があるわけでもなく、お線香もなくて、少しばかり寂しげな印象でもありましたが。 ...お寺さん自体も土曜日なのに静まり返っていて、自分以外に人気も無く、我が国最初の大僧正にしては随分とさりげなく眠っているのだな、と思わずにはいられませんでした。 けれども墓所である以上、これくらいが良いのかもしれないとも思え、というのも実はこの行基。銅像が人々のごった返す雑踏の中に建ってているんですね。はい、近鉄奈良駅前の広場の噴水の中です。ただ、果たして街ゆく人らのどれほどが、彼の業績やその名を知っているのかは甚だ疑問ではありますけれども。 空蝉のひとえ知らざるものふさなりて ことはりのほりさばなほしえざるを知るらむ 遼川るか (於:竹林寺、のち再詠) −・−・−・−・−・−・−・−・−・− 宿の出発からしてやや遅めになってしまったこの日、実は予定している移動距離も間違いなく、今回と前回の万葉巡りの日程の中で最長になることは判っていました。何せ、奈良盆地の南側半分をぐるり1周しようとしていたのですから。 なので、1箇所ずつの見学は比較的、短時間で済ませてあれこれ考え事などせず、歌が詠めれば即座に移動開始です。 前作で、井上内親王と同様にやはり藤原氏によって非業の最期を遂げた人物をご紹介しました。長屋王です。彼と彼の妻である吉備内親王の御陵が生駒山から少し南に開ける平群の地にあります。 長屋王に関しては前作で書いていますので改めて記述することは割愛させて戴き、前作ではご紹介できなかった文献の引用を幾つか。...長屋王事件を続日本紀で追います。 | 2月10日 左京の住人である従7位下の漆部造気足と、無位の中臣宮処連東人らが |「左大臣・正2位の長屋王は密かに左道を学び国家を倒そうとしています」 | と密告した。天皇はその夜、使いを遣わして3関を固く守らせた。またこのため式部 |卿・従3位の藤原朝臣宇合・衛門佐の従5位下の佐味朝臣虫麻呂・左衛士佐の外従5位下 |の津嶋朝臣家道・右衛士佐の外従5位下の紀朝臣佐比物らをつかして、6衛府の兵士を |引率して長屋王の邸を包囲させた。 | 2月11日 大宰大弐・正4位上の多治比真人県守、左大弁・正4位上の石川朝臣石足、弾 |正尹・従4位下の大伴宿禰道足の3人を権りに参議に任じた。巳の時に、1品の舎人親王 |と新田部親王、大納言従2位の多治比真人池守、中納言正3位の藤原朝臣武智麻呂、右 |中弁・正5位下の小野朝臣牛養、少納言・外従5位下の巨勢朝臣宿奈麻呂らを長屋王の |邸に遣わし、その罪を追求し訊問させた。 | 2月12日 長屋王を自殺させた。その妻で2品の吉備内親王、息子で従4位下膳夫王・ |無位の桑田王・葛木王・鉤取王らも同じく首をくくって死んだ。そこで邸内に残る人々 |を捕らえて、左右の衛士府や兵衛府などに監禁した。 | 2月13日 使いを遣わして長屋王と吉備内親王の遺骸を生駒山に葬った。 「続日本紀 巻10 天平元年(729年)」 この後は聖武による詔が続き、やれ吉備内親王(聖武の父・文武の妹、つまりは叔母)には罪がないから葬送は粗末であってはならないとか、長屋王も罪人ではあれど皇族なので葬り方が醜くあってはならないとか、さらには |左大臣・正2位の長屋王は、残忍邪悪な人であったが、ついに道を誤って悪事があらわ |れ、よこしまの果てに、にわかに法網にかかった。そこで悪事の仲間を除去し、絶滅さ |せよう。国司は人が集まって何事かたくらむのを見逃してはならぬ。 「続日本紀 巻10 天平元年(729年)2月15日」 という1種の戒厳令のようなものまで詔された、という流れですね。...が、この約10年後。同じく続日本紀にこうあります。 |7月10日 左兵庫少属・従8位下の大伴宿禰子虫が右兵庫頭・外従5位下の中臣宮処連東 |人を刀で以て斬り殺した。子虫ははじめ長屋王に仕えて頗る好遇を受けていた。たま |たまこの時、東人と隣り合わせの寮の役に任ぜられていた。政務の隙に一緒に囲碁を |していて、話が長屋王のことに及んだ時、子虫はひどく腹を立てて東人を罵り、遂に刀 |を抜いてこれを斬り殺してしまった。東人は長屋王のことを、事実を偽って告発した |人物である。 「続日本紀 巻13 天平10年(738年)7月10日」 はい、正史である続日本紀が、長屋王の無実を明記しているんですね。因みにこの前年である737年には、藤原4兄弟が揃って天然痘で他界しています。...無関係なのかも知れませんが。彼の最期については、日本霊異記にも書かれています。 |嫉妬みする人有りて、天皇に讒ぢて奏さく、 |「長屋、社稷を傾けむことを謀り、国位を奪らむとす」 | とまうす。爰の天心に瞋怒りたまひ、軍兵を遣はして陳ふ。親王自ら念へらく、 |「罪无くして囚執はる。此れ決定して死ぬならむ。他の為に刑ち殺されむよりは、自ら |死なむには如かじ」 | とおもへり。即ち、其の子孫に毒薬を服せしめ、絞り殺して畢りて後に、親王、薬を服 |して自害したまふ。 | 天皇、勅して彼の屍骸を城の外に捨てて、焼き末き、河に散らし、海に擲てつ。 「日本霊異記 中巻 第1 己が高徳を恃み、賤形の沙弥を刑して、 以て現に悪死を得し縁」 曰く、長屋王自ら家族全員に毒を盛った上で絞殺。さらには自身も服毒。...何とも壮絶ではありますが。実際の彼がどんな人物であったのかは、もはやよく判りません。また、皇統争いというだけではなく、確実に人から嫉まれても仕方のない立場であったことも、否定できないでしょう。 また殊、文学という側面に於いても後世の評価からすれば歌人や詩人というよりは、その政治家気質な姿勢を指摘しているものが多く、前作にも書きましたが我が国最初の文学サロンの生みの親であるという大きな功績も、ある意味に於いては実際に詩歌に対し求道的であったと言うよりは、そういった場を設けてきたプロデューサー的存在感が濃厚です。余談になりますが再三、勅撰説があると書いている「万葉集」の巻1と2。実はこの原形についても長屋王が関与している、とする説もあります。曰く、白鳳期の皇親政治を理想としていた彼が企画、彼のサロンに集っていた文人の佐為王や紀清人らが編集した、と。 長屋王の企画ならば勅撰とは言えなくなりますし、そういう原形をもってして後に下った詔に対し、それをある程度活かしたのであれば勅撰は勅撰である、とも考えれます。もちろん、そもそもが勅撰ではない可能性は敢えて言うまでもなし。 日本という国の歴史を鑑みるに、世情が安定してこそ文化は花開く、という傾向は否定できず、壬申の乱以降の動乱から脱却し、そして迎える天平末期の紆余曲折。その僅かな間隙を縫って輝いた天平文学をリードし仕掛けた、立役者の1人が長屋王であったことは、これを見ても明らかではないでしょうか。 前作ではご紹介しなかった、残る長屋王の万葉歌と、彼の娘である賀茂女王の歌もご紹介しましょう。 |宇治間山朝風寒し旅にして衣貸すべき妹もあらなくに 長屋王「万葉集 巻1-75」 |我が背子が古家の里の明日香には千鳥鳴くなり妻待ちかねて 長屋王「万葉集 巻3-268」 |秋の野を朝行く鹿の跡もなく思ひし君に逢へる今夜か 賀茂女王「万葉集 巻8-1613」 長屋王と吉備内親王の御陵は、これまでに見たどの御陵とも雰囲気が違っていて、というより厳密には御陵そのものが変わっているのではなく、変わっていたのは周囲の環境でした。本当に普通の街中、路地の向いには民家が建ち並び、自動販売機あり、車は次々通るわ、少し離れた場所に線路が走り踏み切りの音まで時折聞こえて来るわ、という立地にまるで公園のように綺麗に整備されていました。 ...一瞬、本当にこれが御陵なのか、と個人的には疑ってしまいたくなりましたが、宮内庁看板によれば間違いなく、コンクリート製の鳥居と門もありました。 長屋王。高市の息子にして天武の孫。崩壊へと向かい始めた天平時代をまるで時代に先駆けるかのように煌き、散った文学プロデューサーです。その彼が懐風藻に残した漢詩の中で、1番高く評価されているものもご紹介しておきます。 高旻開遠照 高旻 遠照を開き 遥嶺靄浮烟 遥嶺 浮烟に靄たり 有愛金蘭賞 金蘭の賞を愛するあり 無疲風月筵 風月の筵に疲るゝことなし 桂山餘景下 桂山 餘景の下 菊浦落霞鮮 菊浦 落霞鮮かなり 莫謂滄波隔 謂ふことなかれ滄波隔たると 長為壮思篇 長く為さむ 壮思の篇 ※書き下し/遼川るか 長屋王「懐風藻 68 宝宅において新羅の客を宴す」 「秋空は遠く澄み渡り、遥けき山の峰に靄が掛かっている。同志らと賞美の宴を開き、風月を眺めれば疲れは知らない。秋の山の残照も淡くなり、菊の花が咲く水辺は夕焼けが鮮やかである。言ってくれるな、海山遠く隔たると。長く思い合う心を詩に詠もう」 日経と日緯合ひて流れゆく小舟がごとし歌もひとをも 遼川るか (於:長屋王陵墓、のち再詠) |
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