高天原。...伝承地とは言え、そこは一体どんな場所なのだろうか。そこから見る空はどんな色で、そこを満たす空気はどうな風に肌に纏わりついて。何と言いますか、とにかく高天彦神社から高天原伝承地へと向かう車の中では、こんな期待と不安と、半ば妄想にも近いあれやこれやが、脳裏に過ぎっては消え、消えては過ぎり、と高揚感も一入でどんどん神妙になっていく自身に気づいていました。

 だけに、辿り着いた高天原伝承地には正直、毒気を抜かれるというかしばし呆然、いや愕然とさせられたものです。高天原伝承地。そこは単なる少し開けた空き地。砂利敷きのまるで駐車場のような敷地と、その奥に公衆トイレの建物がポツンと建っているだけ。たったそれだけの場所だったからです。
 もちろん、敷地の周りには様々なものもあります。先ずは万葉歌碑。

|葛城の高間の草野早知りて標刺さましを今ぞ悔しき
                           作者不詳「万葉集 巻7-1337」



 「葛城の高天の草野。あの人を早く我がものにしてしるしの標を立てれば良かったものを遅れてしまい今となっては、悔しいものだ」

 地名が詠み込まれていますから、この地が舞台であったのは間違いないのでしょうが、それでも高天原とは凡そ無関係な、今は人のものになってしまった女性を偲ぶ歌です。
 それからもう1つ。高天原伝承地より少しだけ坂を下るとあるのが、高天寺橋本院。ここはかつて元正天皇(草壁の娘・氷高皇女。文武天皇の後を継いだ、彼の同母姉)の命で行基が開いた、とされる高天寺のいち子院だとか。橋本院そのものは、鴨氏出身の役行者が修行した道場でもあったようで、後世では南北朝にも縁がある、と聞いています。
 ...といって、わたしの興味はやはり高天原ですから、橋本院は敷地横の桜のトンネルを眺めただけで早々にまた坂を登り、改めて高天原伝承地の真ん中に立って見ました。古事記による天孫降臨伝説を簡潔に書いてみます。


 国譲りが成り、天照と高木神(高御産巣日神)は、天照の御子・「正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命/まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと」に天降るよう命じます。けれども彼は、天降る準備をしている間に子どもが生まれたので、その子を降らせたい、と進言。これが天照と高木神の孫に当たる邇々芸命で、この進言が叶います。そして

|是を以ちて白したまひし随に、日子番能邇々芸命に詔を科せて「此の豊葦原水穂国は、
|汝知らさむ国と言依さし賜ふ。故、命の随に天降りますべし」とのりたまひき。
           「古事記 上巻 天孫邇邇芸命 1 邇邇芸命の出生と降臨の神勅」


 との神勅が下されました。さて、いざ天降りしようとすると、天からの道が幾つにも分かれる辻に、上は高天原を、下は葦原中国を照らす異様な神がいることに一行は気づきます。そこで派遣されたのが、天宇受売神(日本書紀の表記は天細女命)で、その道を照らしていたのが、そう。国つ神・猿田毘古神(日本書紀では猿田彦命)ですね。この2柱がのちに夫婦となったことは既に書いていますが、ともあれこの猿田毘古の先導によって天降りの一行、つまりは邇々芸命とその従者として天児屋命・布刀玉命・天宇受売命・伊斯許理度売命・玉祖命の5柱、さらには天の岩戸から天照を招き出した際に使用された八咫鏡と八坂瓊、そして草薙剣という3種の神器、加えて常世思金神・手力男神・天石門別神という3柱までもを伴った一団は、降臨します。
 降臨した地で、邇々芸命はある娘と出会います。名は大山津見神の子どもにして、神阿多都比売、別名が「木花之佐久夜毘売/このはななのさくやひめ」。邇々芸命は彼女を娶り、これが古事記に言う処の聖婚です。
 そしてこの2柱の間に生まれたのが3柱の御子でうち2柱が、有名な海幸と山幸。特に弟の山幸はジュニア版古事記物語にも登場する苦難の中、出会った海神の娘・豊玉毘売と結ばれ、生まれた子どものそのまた子ども、つまりは孫(邇々芸命から見るとひ孫)のうちの1柱が、そう。神武です。
 因みに古事記も日本書紀もここまでで神代が終わり、神武以降は有史、すなわち人の歴史としています。

 これまでにも既に何度か書いていますが、わたし自身はこの天孫降臨についてもあくまでも畿内限定の事柄である、という考え方ですので天皇氏が畿内へ進出し、さらには奈良盆地へと山を下り始める際の事柄の寓話化であろう、と。
 が、他にも有力説にはこの高天原から九州へ一旦移住した一団があり、神武東征の寓話に化けてその子孫が再び畿内へ戻ってきた、としているものや、そもそもの高天原自体が九州の高千穂であり、そこから移住を開始した一団が、石見・吉備・出雲・熊野などを経て神武東征の名のもと畿内へ進出、というものもあります。

 余談になりますが、では何故、九州説が未だ根強く支持されているのか、という根拠の1つに邪馬台国の所在なり卑弥呼の存在があります。けれども、こちらについてもいち素人の大胆すぎる身勝手な考えでは、天照=卑弥呼、故に高天原伝承地=邪馬台国と思いたく、だからこそ前回に訪ねた箸墓古墳=卑弥呼の墓所という見方も成立するのではないか。卑弥呼の墓所が葛城山麓ではなく、敢えて三輪山のごく近くに造られたのも、天照を祀ること=日本という国の政を執ることでもあることから、天皇氏がのちに伊勢神宮にて正式に天照を鎮座させつつ、墓所は三輪山の隣に造成。こんな風に空想している次第です。

 また、狩猟生活をしていた南方系縄文人に対し、稲作や青銅器の鋳造技術、といった日本のまさに古代に於いて先進的とも思える技術は、その殆どが大陸渡来のものです。大元は黄河文明に始まった中国の文明が広がり、それが朝鮮半島へも伝播。その朝鮮半島から日本海を渡った人々は当然ですけれど九州や、隠岐を経由して山陰・山陽へ最初に到達したのは疑い様もないわけで、そこから瀬戸内海を通過して太平洋側へ出て紀伊から畿内へ。もしくは難波から河川伝いに内陸部の畿内へ。
 このいずれにしても構わないですが、高天原神話の高天原が此処・葛城の伝承地にあったのであろうが、高千穂にあったのであろうが、大和民族が辿ってきた歴史の源近くに、九州という土地が関与していることは否定できようはずもなく、偶々記述として現代に暮らすわたしたちが知ることのできる高天原が、畿内のものであるとしても、もはや記述にすら現れない遠い遠いある時期に、九州から移動してきた一団なり、一旦九州に立ち寄りつつも畿内へやって来た一団なりはきっと存在していたことでしょう。

 そう、所詮は高天原とて悠久の歴史の途中に存在しているに過ぎない、ということです。あくまでも源は大陸であり、明文化されているものの最古が偶々、高天原に過ぎない、と。
 高天原以前の歴史は、当然ですけれどちゃんと。確実に。もはや手繰ることも難しい歴史の闇の中に在ったのですから。

 わたしが何故、記紀の記述は畿内で起こったことが寓話化したもの、と前提付けているのか、と言えばもちろん様々な学説の請け売りもありますけれど、そういった学術的側面はさておき、あくまでも個人感覚でしっくりすることができるのが、この明文化という点なんですね。
 記紀はもちろん、先代旧事本紀にしても各風土記、延喜式、新撰姓氏録、日本霊異記。そのどれをとっても、編纂されたのは万葉期以降です。そして、その中でも最古は言うまでもなく記紀ですし、記紀そのものが天皇氏や藤原氏にとって都合よく捏造も歪曲もされた末のものであることは言わずもがな。
 既に律令国家として藤原宮、そして平城宮へと移動していった時の朝廷がわざわざ明文化するに当たり、そこには作為的かつ意図的にして、あまつさえ恣意的な記述の増幅はない、と考える方が困難でしょう。

 では、当時の朝廷の状況はといえば、百済などの渡来人を多く迎え入れ、半島との力関係にも十二分に留意していましたし、同時に中央集権をより強固にする為、北海道と沖縄を除く各地にもまた目を光らせていました。
 なので天皇氏の足跡を、さも当時の国土全般に渡るよう記述したい意図があったであろうことは疑うべくもなく、それを以ってして自らが掌握する体制の正当化を図りたかったのであろう、とも考えられます。

 けれども、同時に各地に口伝として囁かれていた寓話は、そんな朝廷の意図と必ずしも合致するはずもなく、そこで取捨選択、もしくは恣意的な創作による補完がなされなければ、そもそもが天皇勅命による編纂、という大目標が崩壊してしまいます。だからこそ、より朝廷の威光が早くから浸透していた畿内に伝わる寓話の方が大目標にも添い易く、そもそもの情報ソースとしても絶対量が九州や山陰・山陽のそれとでは桁が違っていたように思います。
 そして、そんな中からより大目標に添い易いものを束ね、敢えてそれを各地のものと置換し明文化した...。

 学説ではありません。あくまでもわたし個人の感覚論です。しかも言うなら上代文学は好きですが、イデオロギー面では基本的に皇国史観にも、藤原氏にもあまり好意的にはなれない人間の、へそ曲がりな見解に過ぎないのですけれどね。ですけれども、わたしの中の記紀、そして上代文学の、それも散文については、あくまでも寓話として愉しむ一方で、こういう懐疑的な視線も併せて、読み解いて行くことが少なくとも今現在のわたしにとっては、1番肌に馴染む方法論に思えます。

 そして、だからこそやっぱりわたしが帰ってしまう先は、歌。詠み手の差し替えは多分に存在していようとも、捏造も歪曲もない、1000年以上も昔の誰かが詠んだ歌は、政治色を帯びていようともやはりそこにある魂の昂ぶりだけは、決して嘘ではない。...そんな風に改めて思ってしまったものです。
 実際、自身に照らし合わせてもそうですからね。高天原だ、伊邪那岐・伊邪那美だ、伊勢神宮だ、などと詠んでいながらもその一方では、皇国史観に懐疑的であったり、天児屋命が云々と詠みつつも彼が始祖である中臣氏、つまりは藤原氏に軽い拒絶反応を抱いていたり...。
 でも、半ばトランス状態で詠んでいる時のわたしの心の昂ぶりに嘘は皆無。それはもう、後付けのイデオロギーとかそういうものが及ぶことの出来ない、やはり血。大和民族の血としか言いようがないでしょう。
 ...と書きつつ同時に国粋主義はいやだな、と感じるわたしもまた居るのですから、何とも始末に負えませんね。

 高知るや天磐座
 脱離ち
 ゆく皇孫は排分くる
 天八重雲のすゑ
 稜威の道別に
 玉鉾の道も別きては天降る
 秀なる
 真秀なる高き峯に
 豊秋津島
 大八洲
 豊葦原中国
 生れぬ
 生れぬる
 ちよろづの
 よろづの月と日の出て
 なほし沈みて
 弥日異に
 もろひと生りて隠れたる
 国の生れたる地は真秀
 国生し賜ひし高天原
 こゝそみをなれ
 産土はこに違はじて
 やつかれはこゆ参り来ぬ
 こに帰るらむ

 やつかれを成し賜ひたるものゝこの地この空にこの風このみづ
 さても空蝉                        遼川るか
 (於:高天原伝承地、のち再詠)


            −・−・−・−・−・−・−・−・−・−

 何もない、本当に何もなく、それこそまだ草でも生い茂っていてくれればそれなりに違う感慨もあったのでしょうが、そこそこ広い空き地には、高天原伝承地の石碑が1つ。
 ...いや、何せ神の国なのですから却って何もない方が自然なのかも知れませんね。ここに俗世の何やかやがあれば、それは人の国である何よりもの証になってしまいます。きっと人の目には見えないたくさんのものが、この空き地には犇いているのでしょう。

 何となく考え始めていたのが、天孫降臨の際の天宇受売神と猿田毘古神のことでした。既に少し書いていますが、個人的に好きなんですね、天宇受売神が。...どうも古事記その他では天の岩戸の前で陰も露に踊った、という件がある所為か、何かとそういう代名詞として登場することが多いですし、実際に未だ浅草あたりのストリップ劇場には彼女を祀る神棚がある、などと実しやかに囁かれているお話も聞き及んでいます。ですが、大筋では芸能全般の神様で、その所以は前述の通り。弁天様はインド渡来のサラスバティが大元ですから、天宇受売神は日本独自の芸能神でしょう。
 ただ、わたし個人としては同じもろ肌も露に、という点でも天の岩戸より、猿田毘古神との関わりの説話が好きでして。日本書紀から引きます。

| すぐに降ろうとされるころに、先払いの神が帰っていわれるのに、
|「1人の神が天の街に居り、その鼻の長さ7握、背の高さ7尺あまり、正に7尋というべきで
|しょう。また口の端が明るく光っています。目は八咫鏡のようで、照り輝いていること
|は赤酸漿に似ています」
| と。そこでお供の神を遣わして問わせられた。ときに80万の神たちがおられ、皆眼光
|鋭く、尋ねることもできなかった。そこで天細女に特に勅していわれるのに、
|「お前は眼力が人に勝れた者である。行って尋ねなさい」
| と。天細女はそこで、自分の胸を露にむき出して、腰ひもを臍の下まで押しさげ、あざ
|笑って向かい立った。このとき街の神が問われていうのに、
|「天細女よ、あなたがこんな風にされるのは何故ですか」
| と。答えていわれるのに、
|「天照大神の御子がおいでになる道に、このようにいるのは一体誰なのか、あえて問う」
| と。街の神が答えていう。
|「天照大神の御子が、今降っておいでになると聞いています。それでお迎えしてお待ち
|しているのです。わたしの名は猿田彦大神です」
| と。そこで天細女がまた尋ねて
|「お前がわたしより先に立って行くか、わたしがお前より先に立って行こうか」
| と。答えて、
|「わたしが先に立って道を開いて行きましょう」
| という。天細女がまた問うて
|「お前はどこへ行こうとするのか、皇孫はどこへおいでになるのか」
| と。答えていうのに、
|「天神の御子は、筑紫の日向の高千穂のくしふるたけ(*)においでになるでしょう。わた
|しは伊勢の狭長田の五十鈴川の川上に行くでしょう」
| と。そして、
|「わたしの出所をあらわにしたのはあなただから、あなたはわたしを送って行って下さ
|い」
| といった。天細女は天に帰って報告した。皇孫はそこで天磐座を離れ、天の八重雲を
|押しわけて降り、勢いよく道をふみわけて進み天降られた。そして先の約束のように、
|皇孫を筑紫の日向の高千穂のくしふるだけにお届けした。猿田彦神は、伊勢の狭長田の
|五十鈴川の川上に着いた。天細女は猿田彦神の要望に従って、最後まで送って行った。
|時に皇孫は天細女命に勅して、
|「お前があらわにした神の名を、お前の姓氏にしよう」
| といわれ、猿女君の名を賜った。
            * 正確には「木患」触峯の3文字で、くしふるたけと読みます。
                            「日本書紀 巻2 神代 下」


 この件、要は天孫が通る道を下調べに行った使いが待ち受けている猿田毘古神の風貌に恐れ慄き、代わって天宇受売神が使わされた、ということですね。彼女は眼力がある、つまりは女だてらに男と睨み合いになっても引けをとらないから、と。
 ...それはそれでいいのですが、肝心なのはいざ猿田毘古神と対峙した時に、彼女がほぼ全裸に近い状態で臨んだ、という点。これはもはや、世界3大挨拶に通ずる精神なのでしょうね。世界3大挨拶、つまりは会釈する、握手する、相手を拝む、の3つです。

 この3つに共通することは、有名な話ですけれども
「わたしはあなたに敵意はないですよ、攻撃しませんよ」
 という行為の慣例化してものだとされていますね。会釈は相手に首を差し出し、握手は利き手に武器を持っていないことを証し、拝礼もまた両手に武器は持っておらず加えて首を差し出す、というものだ、と。

 天宇受売神が全裸で猿田毘古神に対峙したのも、武器は持っていない、攻撃しようにも攻撃などできない。そういうことの証し立てであることは、ほぼ一般的な解釈になっています。...人に名を尋ねるのなら、先ず自分が名乗る。人に何かして欲しいなら、先ず自分が相手にそれをする。極めて当たり前のことです。
 そして、そういう天宇受売神の心意気に通じたからこそ、猿田毘古神もまた、自らの出所を明らかにした。そういうことなのでしょう。

 人との距離を縮めたければ、先ずは自身が歩み寄らねばならないし、必要に応じて防壁は解除しなければなりません。自らを装い、隠し、偽ったままでは一向に相手との距離は縮まらず、自身を守ったままでは相手も防壁を解除などしてくれようもないのでしょう。
 我が身は守りつつ、されども距離は縮めたいというのでは、相手がいずれ堪えられなくなります。人との関わりは1人称単数ではない、あくまでも1人称複数なのですから。

 一方の猿田毘古神。先ず有名なのが、道案内をしたことから妻の天宇受売神と併せて道祖神とされていることが挙げられるでしょう。道祖神、それは賽の神とも言われ、要は境界の守護神ですね。古くは各村の1番外れにあって、外部から村に悪霊が入り込むのを防いでいた、とのことですがそもそも道祖神が夫婦一対の男女神であるのは、仲良くしている側を誰かが通り抜けようとすると
「邪魔するな」
 と突き飛ばされる、という言い伝えからとか。故に道祖神は伊邪那岐神・伊邪那美神である、という説も聞いています。

 賽の神=岐神なので、そういう観点で記紀を眺めていると、猿田毘古神かもしれないように思える神様が、あちこちに登場します。特に日本書紀では伊邪那岐神の黄泉行きや、国譲、山幸の海宮行きにも、岐神は現れているので、恐らくは道祖神信仰も元々は別個にあったものでそこに後世、猿田毘古神が同一視された、と考えるべきなのだと思います。
 そして最後にはご存知、猿田毘古神は天狗、天宇受売神はお多福、とされるようになりました。

 この国に伝承されている八百万の神。ですが、個人的な好みとしては天宇受売神を筆頭に、天児屋命、思金神、などなど案外に多くいるのですが、どういうわけか天照や月読、伊邪那岐神・伊邪那美神などの有名処はピンと来ないのが、本音のお話。そういう意味でも猿女氏の始祖たる2人は、珍しく親しみのあるビッグネームなんですね、極めて個人的なことで恐縮ですが。

 玉鉾の道をし統べて
 こまでこゆ
 きはみ生し生し賜はせる
 賽の神
 また国つ神
 天つをとめに沁みたれば
 先だちてまた啓きゆき
 おのづ発顕し賜ひたり
 発顕させるか
 発顕すか
 いましがゆゑか
 やつかれのゆゑかは知らで
 侍送り
 侍ゆきたれば
 侍かよふものもあるらむ
 こまでこゆ
 ゆつかれいまし
 うつそみに違ひ合ふもの
 遇ひかつも触るれば生りぬ
 あらたしき世に
 あらたしきもの
 なほしあらたしきひと
 違ひ合ふを
 結び賜へる
 賽の神
 いでやつかれのゆくをし祝かむ

 葛城の高天ゆ望む国のまほろば
 いで空を照らさまくほし岐の神よ

 言霊の八十の巷にこのうつそみの宿ればや
 まで開けうらを違がふことなし          遼川るか
 (於:高天原伝承地、のち再詠)


 今回の万葉巡りでは、何をおいても絶対に外せない、いや。多分ここまでも、この先、出向く予定の場所は全ておまけで、この高天原伝承地に来たかったが為に、半年間も我慢し、会社を休んで、予定を練って...。


 結果として、視覚的に余りにも呆気なかったことは否めませんが、それでもわたしの中の何かが、ざわざわと湧き立ったこともまた事実。そしてこの後、思っても見なかった偶然。いや、もしかしたら奇跡なのかも知れませんが、ともあれより一層、全身が震えるような出来事が、わたしを待っていました。







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