|君が行き日長くなりぬ山尋ね迎へか行かむ待ちにか待たむ
                            磐姫皇后「万葉集 巻2-85」
|かくばかり恋ひつつあらずは高山の磐根しまきて死なましものを
                            磐姫皇后「万葉集 巻2-86」
|ありつつも君をば待たむうち靡く我が黒髪に霜の置くまでに
                            磐姫皇后「万葉集 巻2-87」
|秋の田の穂の上に霧らふ朝霞いつへの方に我が恋やまむ
                            磐姫皇后「万葉集 巻2-88」
|居明かして君をば待たむぬばたまの我が黒髪に霜は降るとも
                      磐姫皇后「万葉集 巻2-89」 古歌集より撰


 「(仁徳)天皇の行幸は日数が長くなりました。山を尋ねてお迎えに行きましょうか。それとも、ひたすらお待ちしていましょうか」
「こんなにも恋焦がれていないで、高い山の岩を枕にして死んでしまえば良かったのに」
「このままいつまでも君(仁徳天皇)をお待ちしましょう。豊かに靡くこの黒髪が白くなるまででも」
「秋の田の稲穂の上にかかっている朝霞が消えゆくように、わたしの恋はどの方角へ消えていくことであろう」
「このまま夜を明かしてあなたをお待ちしましょう。この黒髪に霜が降ろうとも」

 記紀に於いて皇后に関する記述というのは、得てしてやれ聡明だったの、美しかったの、と一般的に賛辞に始まって賛辞に終るのがごくごく一般的ですし、仮に後宮の女性に関連することがあっても、耐えたり、こちらを向いて欲しいと言葉や行動で訴えるものなのですが、この磐之媛。扱いが何とも直截で不憫です。

|其の大后石之日売命、甚多く嫉妬したまひき。故、天皇の使はせる妾は宮の中に得臨ま
|ず。言立てば、足もあかがに嫉みたまひき。
          「古事記 下巻 仁徳天皇 3 嫉み深き石之日売皇后と吉備の黒日売」


 はい、とにかく嫉妬深かった、と書かれてしまっているんですね。仁徳が後宮へ別の女性を上げようものなら地団駄を踏んで嫉んだ、と。古事記の内容を掻い摘んでみます。
 ある日、仁徳が吉備の国の黒日売の評判を聞き、宮中に召し上げるも磐之媛の気性を恐れて国へ戻ってしまい、船で難波まで戻ってきて(仁徳朝は難波に宮があった)海上に留まっていました。仁徳は

|沖方には 小舟連らく 黒ざやの まさづ我妹 国へ下らす
       仁徳天皇「古事記 53 下巻 仁徳天皇 3 嫉み深き石之日売と吉備の黒日売」


 こう彼女を偲ぶ歌を詠み、一方の石之日売(古事記での表記です。磐之媛は日本書紀の表記)がこれを聞いて、わざわざその船へ使いをやって黒日売を船から下ろさせ、陸路で吉備へ戻るよう、追い払ってしまったんですね。それでも仁徳は

|おしてるや 難波の咲
|出で立ちて 我が国見れば
|淡島 淤能碁呂島
|あぢまさ(*)の 島の見ゆ 佐気都島見ゆ
              * 正確には檳「木郎」の2文字であぢまさ、と表記します。
       仁徳天皇「古事記 54 下巻 仁徳天皇 3 嫉み深き石之日売と吉備の黒日売」


 というように黒日売を恋しがってこっそりと吉備まで追い駆け、束の間の蜜月を愉しんだ次第。

|山県に 蒔ける菘菜も 吉備人と 共にし探めば 楽しくもあるか
       仁徳天皇「古事記 55 下巻 仁徳天皇 3 嫉み深き石之日売と吉備の黒日売」
|倭方に 西風吹き上げて 雲離れ 退き居りとも 我忘れめや
        黒日売「古事記 56 下巻 仁徳天皇 3 嫉み深き石之日売と吉備の黒日売」
|倭方に 往くは誰が夫 隠水の 下よ延へつつ 往くは誰が夫
        黒日売「古事記 57 下巻 仁徳天皇 3 嫉み深き石之日売と吉備の黒日売」


 この一件ののち、今度は石之日売が政で難波を留守にしていたら、仁徳は異母妹の八田若郎女を召抱えてしまいます。そして、それを出先で聞いた石之日売はそのまま難波には戻らず、淀川をさらに上った山代の国へ。

|つぎねふや 山代河を
|河上り 我が上れば
|河の辺に 生ひ立てる
|鳥草樹を 鳥草樹の木
|其が下に 生ひ立てる
|葉広 ゆつ真椿
|其が花の 照り坐し
|其が葉の 広り坐すは
|大君ろかも
             石之日売「古事記 58 下巻 仁徳天皇 4 石之日売皇后の嫉深」
|つぎねふや 山代河を
|宮上り 我が上れば
|あをによし 奈良を過ぎ
|小楯 大和を過ぎ
|我が見が欲し国は
|葛城高宮 我家のあたり
             石之日売「古事記 59 下巻 仁徳天皇 4 石之日売皇后の嫉深」


 一向に帰ってこない石之日売に、流石の仁徳も迎えの使いを出したり、自ら迎えにも行きます。ここで何首か仁徳から磐之媛への歌がありますね。

|山代に い及け鳥山 い及けい及け 吾が愛し妻に い及き遇はむかも
             仁徳天皇「古事記 60 下巻 仁徳天皇 4 石之日売皇后の嫉深」
|御諸の その高城なる
|大猪子が原 大猪子が
|腹にある 肝向ふ
|心をだにか 相思はずあらむ
             仁徳天皇「古事記 61 下巻 仁徳天皇 4 石之日売皇后の嫉深」
|つぎねふ 山代女の
|木鍬持ち 打ちし大根
|根白の 白腕
|枕かずけばこそ 知らずとも言はめ
             仁徳天皇「古事記 62 下巻 仁徳天皇 4 石之日売皇后の嫉深」
|つぎねふ 山代女の
|木鍬持ち 打ちし大根
|さわさわに 汝が言へせこそ
|打ち渡す やがはえなす
|来入り参来れ
            仁徳天皇「古事記 64 下巻 仁徳天皇 5 筒木宮の石之日売皇后」


 ...が、古事記ではその後のことは書かれていませんが、日本書紀ではついぞ彼女は仁徳に会おうとせず、そのまま山代で病死したことになっています。
 さらには倉橋川に関して触れた女鳥王も、彼女の気性を恐れていたのは前述の通りです。

 上記引用歌の他に、日本書紀には八田若郎女を召抱えてもいいか、と仁徳が磐之媛に打診した際の押し問答も歌となって採られています。また、それに先立ち、やはり別の桑田玖賀媛を召抱えたくも磐之媛の気性を恐れて、臣下に下賜する件の歌もあります。こちらもご紹介しましょう。

|貴人の 立つる言立、 儲弦 絶え間継がむに、 並べてもがも
                 仁徳天皇「日本書紀 46 巻11 仁徳22年(334年)1月」
|衣こそ 二重も良き。 さ夜床を 並べむ君は、 畏きろかも。
                  磐之媛「日本書紀 47 巻11 仁徳22年(334年)1月」
|押照る 難波の崎の 並び浜 並べむとこそ その子は有りけめ。
                 仁徳天皇「日本書紀 48 巻11 仁徳22年(334年)1月」
|夏蚕の 蚕の衣 二重著て 囲み家足りは 豈良くもあらず。
                  磐之媛「日本書紀 49 巻11 仁徳22年(334年)1月」
|朝嬬の 避介の小坂を、 片泣きに 道行く者も 偶ひてぞ良き。
                 仁徳天皇「日本書紀 50 巻11 仁徳22年(334年)1月」
|水底ふ 臣の少女を 誰養はむ
                 仁徳天皇「日本書紀 44 巻11 仁徳16年(328年)7月」
|みかしほ 播磨速待、 岩下す 畏くとも 吾養はむ
                    待「日本書紀 45 巻11 仁徳16年(328年)7月」


 引用歌一括で。「隠水の」は下、「小楯」は大和、「肝向ふ」は心、「夏蚕の」は蚕、「水底ふ」は臣、「みかしほ」は播磨、をそれぞれ導く枕詞です。

 ...個人的には、実際の彼女が嫉妬深かったのであろうが、そうではなかったのであろうが、さほど気にはならないのですが、この磐之媛に纏わる記紀はもちろん、そののちの「万葉集」に於ける記述まで、の変遷に上代文学というものの暗部が垣間見える、と思っています。

 前作でも書きましたが、日本書紀はもちろんのこと、古事記とて天皇礼賛という大目的の為に編まれているものであるのは言うまでもありません。そこには天皇氏にとって後々余り好ましくない内容は歪曲され、時には宇智の大野で書いた4人の中皇命のように、歴史から静かに葬られた者もあれば、時にはこの磐之媛のようにまるで悪鬼のごとき扱いをされてしまったものもある、ということです。

 その一方で「万葉集」もまた、一部首肯しかねる部分はあります。というのも「万葉集」の巻1、巻2は勅撰説が濃厚ですから、磐之媛の万葉歌もまた、多少なりとも懐疑的には受け止めざるを得ません。
 つまりこの磐之媛の歌群と、同じく勅撰説が根強い巻1冒頭の雄略天皇の歌は、それぞれ記紀の時代の大王やその后の荒ぶる様を、万葉に於いて恣意的に和らげたもの、という見解があるんですね。すなわち、勅撰歌集であった(と仮定できる)「万葉集」の巻1、巻2の各冒頭には天皇と、皇后の魅力ある様が据えられていて、それこそが勅撰の勅撰たる証である、と。

 ...正直、これにはわたし自身も深く同意したいところです。要は古代豪族が群雄割拠していた時代と、律令が整備されて中央集権が成立し始めた時代では、人々が感じる偉大さも様変わりしたのではないか、と。
 荒々しくも力強いことが偉大であった時代と、慈悲深く寛容であることが偉大である時代と。もっと言ってしまえば、この概念の変容の裏側には儒教思想の影響の有無があるのではないか、とも個人的には思っています。

 ですが同時に、社会的概念という外枠こそ時代ごとに変容はしても、人間の感情自体はそうそう大きく変わるものではない、とも感じます。皇后とはいえ、女であれば夫が別の女性に執着しようものなら嫉妬もするでしょう。また、哀しんでは健気に待とうか、とも思い悩むでしょう。...当たり前のことですが、どちらか一方の感情だけ、などということはそもそもがなく、ただそのいずれの面を時代がより重く受け止めたり、強調したりしただけの違いではないのか、と。
 ゆえに、わたしはただ純粋に上代文学としての記紀だけを読むのではなく、古代史も多少は頭に入れておきたく思いますし、何よりも重視して読むのは、古事記や日本書紀の記述ではなく、歌なんですね。人間は一枚岩ではないですから、様々な思いの断片は、歌からこそ窺えるでしょう。
 ...もっともその歌とて、どこまで本人作なのかは殊、上代に於いては判断の難しい処であるのもまた現実ですけれども。

 そして、歌はもちろん古代史方面からの各説を色々と拝読していると、磐之媛に関する記述が文献によって散漫である最大の理由は、当時の政治的背景に対する隠蔽工作に感じられてならないんですね。
 詳細は延々となってしまいますので簡潔に書きますが、仁徳天皇の父親は応神天皇で、応神天皇には複数の妃がいました。当時、朝廷に影響力も色濃い大豪族と言えば、磐之媛の出身である葛城氏、そして再三登場している和珥氏です。

 応神天皇の皇后の子どもとして仁徳は生まれていますが、別の妃、それも和珥氏の娘であった宮主宅媛との間には、皇太子であった「菟道稚郎子/うじのわきいらつこ」と、件の八田若皇女、雌鳥皇女(古事記の表記は女鳥王)という兄妹が生まれています。
 改めて明記しますが応神天皇期、立太子していたのは皇后の皇子であり、年も上であった仁徳ではなく、菟道稚郎子です。さらには応神没後、仁徳の即位までは3年の空白期間があり、播磨風土記にはこの期間に「宇治天皇」なる人物の存在していたことが書かれています。

|上筥岡・下筥岡・魚戸津・朸田
|宇治の天皇のみ世、宇治連等が遠祖、兄太加奈志・弟太加奈志のの2人、大田の村の興富
|等の地を請ひて、田を墾り蒔かむと来る時、廝人、朸を以ちて、食の具等の物を荷ひき。
|ここに朸折れて荷落ちき。この所以に、奈閇落ちと処は、即ち魚戸津と号け、前の筥落
|ちし処は、即ち上筥岡と名づけ後の筥落ちと処は、即ち下筥岡といひ、荷の朸落ちと処
|は、即ち朸田といふ。
                             「播磨国風土記 揖保郡」


 ...はい。宇治とは菟道、恐らくは菟道稚郎子が順当に即位していたことが考えられるわけです。

 そもそも、この菟道稚郎子という人物。日本書紀によればとにかく様々な学問に長け、人柄としても申し分なく、それ故に皇后の皇子である仁徳も、応神の皇子では最も年長の大山守も、立太子できなかった、ということですね。

|阿直岐はまたよく経書を読んだ。それで太子菟道稚郎子の学問の師とされた。天皇は阿
|直岐に、
|「お前よりもすぐれた学者がいるかどうか」
| といわれた。
|「王仁というすぐれた人がいます」
| と答えた。上毛野君の先祖の荒田別・巫別を百済に遣わして、王仁を召された。阿直岐
|は阿直岐氏の先祖である。
| 十六年春二月、王仁がきた。太子菟道稚郎子はこれを師とされ、諸々の典籍を学ばれた。
                   「日本書紀 巻10 応神15〜16年(284〜285年)」
| 四十年春一月八日、天皇は大山守命と大鷦鷯命をよんで尋ねられるのに、
|「お前達自分の子供は可愛いか」
| と。
|「大変可愛いです」
| と答えられた。また尋ねて
|「大きくなったのと、小さいときではどっちが可愛いか」
| と。大山守命が答えて、
|「大きくなった方が良いです」
| と。天皇はよろこばれないご様子であった。大鷦鷯命は天皇のお心を察して申し上げ
|られるのに、
|「大きくなった方は、年を重ねて一人前となっているので、もう不安がありません。ただ
|若い方は可愛そうです」
| といわれた。このとき天皇は、常に太子菟道稚郎子を立てて、太子にしたいと思われ
|る心があった。それで2人の皇子の心を知りたいと思われた。ためにこの問いをされた
|のであった。それで大山守命のお答えを喜ばれなかった。二十四日に菟道稚郎子を立て
|後嗣とされた。その日大山守命を、山川林野を司る役目とされ、
大鷦鷯命を太子の補佐
|として国事を見させられた。
                       「日本書紀 巻10 応神40(309年)1月」


 が、やはり大山守はそれを面白く思わずに菟道稚郎子を討とうとして、逆に討たれ、播磨風土記の記述を信じるならば、菟道稚郎子は宇治天皇として即位、となったのでしょう。
 一方の記紀には、もちろん宇治天皇などという存在はなく、菟道稚郎子(古事記での表記は宇遅能和紀郎子)と仁徳の、あまりに美談とも思える皇位の譲り合いがあります。
 そして、菟道稚郎子は
「自分より人として優れ、年長の兄(仁徳)に皇位を譲るのは人の道として当然のことなのに、それが叶わないのなら...」
 と苦悩の末に自害。同母妹の八田若郎女を仁徳に委ねたい、との遺言(日本書紀のみ)を残しています。

 あくまでも個人的には、この辺の記述は正直、茶番めいていてどうにも頂けないと思ってしまいます。何せ皇位を譲り合う双方の理由が、時代背景と合致しない儒教思想に基づいた言い分で、それを主張し合っていますので。さらには、八田若郎女を妃にしてくれ、という遺言も相当、胡乱な印象です。
 学説は諸説紛紛ですが、わたしが同意したいのはやはり菟道稚郎子は宇治天皇として即位するも、恐らくは仁徳によって暗殺、もしくは自害に追いやられた、との見方ですし、記紀がこのことを隠蔽する為に、美談を捏造し記載しているのだろう、とも思っています。

 ただ、ここで厄介なのが菟道稚郎子、八田若皇女兄妹の母親が和珥氏出身である、という点でしょう。天皇として即位し、和珥氏と権勢を競っていた葛城氏出身の磐之媛を皇后とした仁徳と、和珥氏の間にはかなりの軋轢なり緊張状態があったであろうことは容易に想像できます。
 それ故に八田若皇女を召抱え、磐之媛没後は皇后にまでした仁徳の懐柔策の苦心もさることながら、緊迫した政治情勢の中、宮中を留守にはできない仁徳に代わって、和珥氏に睨みを利かせていたのが、他でもない磐之媛ではないか、と思われます。彼女が行ったまま帰ることのなかった山代の国、それは崇神天皇期以降、和珥氏が着々と勢力を広げていった版図(奈良東北部から近江まで)のまさに真ん中なのですから。

 余談になりますが、この9月にまた奈良へ万葉巡りに行っていたんですけれど、訪ねた先の1つに磐之媛陵があります。不思議だったんですね。何故、彼女の御陵は故郷の葛城でも、あの仁徳陵のある河内でもなく、よりによって佐紀、つまりは平城宮跡に程近い場所にあるのかが。
 ですが、これも判った気がしています。磐之媛陵のある佐紀は、和珥氏の本貫地にして、和珥氏の墓所でもあります。...死してなお、磐之媛は和珥氏への警戒を解くことがなかったのかも知れません。

 再三になりますが、記紀の大前提は天皇礼賛です。そして、だからこそ記紀が隠蔽しなければならなかったのは、仁徳による皇太子・菟道稚郎子殺害(あるいは自害へ追いやったこと)でしょう。また、それを隠蔽することは、すなわち仁徳と和珥氏の軋轢そのものを隠蔽しなければならなかったのだ、とも考えられます。
 その結果、対和珥氏の防波堤ともなっていた磐之媛の、政治的背景はすべて黙殺され、彼女がとっていた行動の根拠として、あまりにも安直に嫉妬だけがクローズアップされたのではないでしょうか。また同時に、「万葉集」に於いては渡来した儒教思想も相まって、その嫉妬深さを隠蔽するために殊更、健気さが強調されたのではないでしょうか。

 歴史。それはある種の大本営発表的な性質を孕んでいることは、この現代に於いてもさほど変わりはないでしょう。そして、そんな歴史の流れの中で何とも散漫な印象を放っている女性が1人。はてさて一体、何が真実で何が虚構なのか。
 ...答えなどもはや確かめようもないですし、そもそも存在もしていないのでしょう。また、答えを出す必要性も、ないのだと思います。


 いにしへに問はまくほしきことあらば
 問はざればこそうれしけれ
 問はゞ問ふゆゑ
 ことはりは離りゆくもの
 ほりすなら
 見むとせざるに
 見ゆるを見
 聞かむとせずに
 聞こゆるを
 聞こゆるまにまに
 聞かましや
 弥遠長きとき経れど
 みなひとひとであることの
 あに違へやも
 違ひゐることのあれやも
 ひと来る道の移ろふことあれど
 道ゆき来るは足なるを
 え違はじゆゑ
 問ひたきは
 なほし問はじて
 沁むるまにまに

 よろづよにまことなければもろごとのまことなるよしけふに日の出づ 遼川るか
 (於:高天彦神社、のち再詠)


 さて、磐之媛についてはこれくらいにして、その出身である葛城氏です。元々が武内宿禰の血筋にして、鴨氏を内部から崩壊に導くまでに、力を蓄えていた葛城氏は磐之媛の立后、さらにはその子どもである、履中・反正・允恭といった3代天皇の即位がなったことによって、朝廷での地位を不動のものにしていきました。仁徳期には、氏族の私有地として葛城部も認められています。
 また磐之媛のあとにも、葦田宿禰(葛城襲津彦の息子)の娘である黒媛が、履中天皇の妃となり、飯豊青皇女を生んでいます。そう、やはり記紀によって葬られたであろう中皇命の1人ですね。さらには黒媛の兄・蟻臣の娘・茅媛が、顕宗・仁賢両天皇の生母です。一方、同じく葛城襲津彦の息子(あるいは孫。日本書紀には両方の記述が存在)である玉田宿禰の孫に当たる韓媛が、雄略天皇の妃となって清寧天皇と伊勢斎宮・稚足姫皇女を生んでいます。

 氏族としての本流は葦田宿禰の流れではなく、玉田宿禰の系譜となります。つまり、葛城襲津彦の子どもに玉田宿禰と葦田宿禰、磐之媛がいて、玉田宿禰が嫡流となった、ということです。
 ただ、玉田宿禰の後を継いだ円大臣が、安康天皇を暗殺した眉輪王を匿ったことから雄略天皇に攻め込まれ、眉輪王の助命嘆願に葛城の宅七区と娘・韓媛を差し出すことを訴えましたが許されず、屋敷ごと焼き滅ぼされてしまいます(前述の通り韓媛は雄略帝の妃になっています)。

 事実上、葛城氏の本流はここで滅亡してしまうんですね。けれども、葦田宿禰の系譜は続き、今の大和高田市周辺を本拠地に存続し続けました。聖徳太子の父親・用明天皇の嬪(後宮の位のひとつで、皇后、妃、夫人に続くもの)に葛城直磐村の娘・広子がいますが、この人がやはり麻呂子皇子と酢香手姫皇女(用明・崇峻・推古朝の伊勢斎宮)を生んでいますね。
 これ以降も葛城を名乗った人物は複数、歴史の片隅に登場していますが、特段目立った動きは見られず、むしろ葛城氏の傍流である蘇我・巨勢・平群・紀その他氏族の栄枯盛衰にスポットライトが当たってゆきます。

 先にお話した鴨氏もそうでした。そして葛城氏もまた、同じく栄えてはやがて廃れ、物好きな現代人が時折、歴史を遡ってはその足跡に思いを馳せるのみです。古代史に於いて、葛城氏が残したものの1つである臣下の家の出身ながら皇后となる、という磐之媛の前例。これはやがて大和時代の末期、藤原氏の娘である光明子が聖武天皇の皇后となる際に、引かれました。

| 天皇のお言葉であると、親王たち、また汝ら諸王たち、臣下たちに語ってやれと仰ら
|れるには、天皇である朕が高御座に初めて就いてから、今年に至るまで年を経た。この
|間、天皇の位を継ぐべき順序の皇太子があった(神亀4年9月29日生まれ)。
| これによりその母である藤原夫人を皇后と定めた。〜(中略)〜あれこれと6年をかけ
|て試み使ってみてこの皇后の位を授けるのである。然しながら朕の時のみではなく、難
|波の高津宮にあって天下を統一された大鷦鷯天皇(仁徳)は、葛城の曽豆比古の娘、伊波
|乃比売命(磐之媛)を皇后とされ結婚され、この国の政をお治めになり執り行われた。そ
|れ故今さら新しい政ではなく、昔から行ってきた先例のあることぞ、と仰せられるお言
|葉を皆承れ申し告げる。
                     「続日本紀 巻11 天平元年(729年)8月24日」


 さらに時代を下った平安期に至っては、これはもはや当たり前のように踏襲されていきます。大宝律令は形骸化され、過去の遺物となり、捨て去られていったのです。
 ルール、つまりは決まりごとですが、それは所詮、人によって作られ、その当初の目的も関わる人によって都合よく整備されたものです。個人的に嫌いな言葉に正義、というものがありますが、当人にとってどれほどの正義でも、他者からみれば我田引水にしかず、というのが得てして人の世の習いというもの。正誤、善悪、正邪の境界は人に拠り、場所に拠り、時代に拠り、如何様にも、変化・変質して行くものです。人は自らルールを作り、また自らそれを犯し、そして自らそれを破棄する。その永遠なる繰り返しが歴史であり、人の営みなのかも知れません。絶対的な真理などなく、絶対的な正道もまたなく、では何に依拠して、何を信じて生きていけばいいのか。

 ...判らないですね。ただ、世の中には様々な人がいること。信頼している距離の近い複数の人たちの感情とて、この自らの感情が決して割り切れるものでないことと同様に、一枚岩ではなく様々に割り切れないものであること。何はさておき、こういった在るものを在るがままに認め、受け容れ、その上で自らがどうしたいのか。結局はそれしかないのものなのでしょう、きっと。

 在るを在ると知ることかたしまたやすし世にひとの子のなほしふさにて 遼川るか
 (於:高天神社、のち再詠)


 高天彦神社は恐らく、高皇産霊尊のほかにも娘の栲幡千々姫、その夫の天忍穂耳尊、そして孫の瓊瓊杵命(全て神社の由緒書のままの表記。日本書紀に倣っているようです)の4柱を祀っているのだと言われています。また、摂社では、神功皇后・応神天皇・仲哀天皇・武内宿禰・天児屋根命・武甕槌命・経津主神などなど、層々たるメンバーを祀っているようで、その中に面白い神様が居ます。葛城38皇神。
 よく判らないのですが、きっとこれは葛城王朝歴代の氏族の長のことのように思えます。というのも神武から開化までの9代のうち、神武以外は記紀に名前と妃の名、子どもの名があるだけで、実質的なことは何も書かれていないんですね。故にこの時代を欠史8代とも言うのですが、もしかするとこの辺を探る鍵に、葛城38皇神とやらが関わるのかも知れません。


 すっかり薄暗くなり始めた葛城の山の中、ごく近くの高天原伝承地へ移動します。







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