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万葉や記紀より、さらに昔。石器時代や縄文時代を経て迎えた弥生時代、日本各地(厳密にはこの当時は日本という概念がありませんでしたが以下、便宜的にこう書きます)では、日本海を渡って来た大陸系の集団が、きっとそろそろ定住をし始めていたのでしょう。 学術的なことは寡聞にして知りませんが、そんな集団の1つが、葛城山を拠点としていたようで、考古学の見地ではそれを鴨氏、と考えていると言います。...鴨氏とは、飛鳥(大和)時代以前の畿内に多大な影響力を持っていた古代豪族です。 日本史の時代区分を思い出せば何となく判ると思うのですが、石器時代〜縄文時代〜弥生時代〜飛鳥(大和)時代、という流れ。この飛鳥(大和)時代というのは、奈良盆地の東側、三輪山周辺を拠点にして畿内を掌握した大和王朝の時代です。 但し、念の為に書き添えますが、ここで言う飛鳥時代とは第10代崇神天皇からの時代で、それ以前はあくまでも弥生時代。先に少し触れた葛城王朝(葛城山麓を出発点に、神武から始まる第9代天皇までの時代)は、飛鳥時代ではなくて弥生時代、となります。 そして当然ですけれど、万葉期はこの飛鳥(大和)時代後半1/4〜1/5くらいの期間となりますし、葛城王朝時代(弥生時代末期)とは、大和王朝が確固たる権勢を誇るようになるまでの過渡期と言いますか、それ以前から奈良盆地に存在していた古代豪族との、覇権抗争とか、吸収合併とかの時代。 そう考えていいと思います。 さらには少し交通整理をしますが、宇智の大野に関して少し触れた、葛城氏。こちらは鴨氏とはまた別の葛城山麓を拠点とした氏族で、少なくとも古事記などに於ける神代〜葛城王朝期には明確な記述が登場しません。存在していたらしきことと、恐らくは鴨氏と手を結んでいたこともほぼ間違いないのでしょうが、きちんと氏族の名前が記紀に登場するのは既に飛鳥時代に入ってから。多分に再興したのだと思われます。ですから、第9代天皇までの葛城王朝とは、切り離して考えた方が判り易いでしょうね。 そして、これからお話するのは葛城氏とは別物、葛城王朝期に深く関わった鴨氏について、です。 ...と、ここまではもちろん、ここからのお話も全てあくまでもわたしが考えているものに過ぎません。飛鳥時代以前の古代史は、学会などでも諸説紛紛でどれが正しく、どれが誤りで、という次元で語られるものではないと思います。 なので殊、今後書き綴っていく古事記や日本書紀に纏わる拙作での、自身の立場をきちんと書き表しておきますが、あくまでも和歌を含めた上代文学の範疇内に於いてわたしが考え、それ以外には古代史や考古学に関連して見聞した様々なものから、わたしなりにしっくり来るものを取捨選択した末の「私見」に過ぎません。 この点は、どうかご高覧戴ける全てのみなさまが、お含みおきくださるよう、お願い致します。 さて、先に結論から書いてしまいましょう。鴨氏は、吸収合併という形の末に、天皇氏への帰順をしています。先に少し触れた和珥氏や、そして一番肝心の天皇氏は、のちに奈良盆地の東側を拠点としていった、大和王朝サイドの氏族。奈良盆地、または畿内へ「後続」で進出してきたそれです。 一方の鴨氏は、奈良盆地の西側。天皇氏、もしくは天皇氏が興した大和王朝に吸収された、「先住氏族」ということなんですね。 そして、考古学的見地からの考察は、わたしにそんな知識も理解も心許ないのでさておき、上述している鴨氏が天皇氏に吸収されていった流れや、葛城王朝前後の歴史の流れは、ある種の神話や寓話に化けて、現代を生きるわたしたちにも何となく手繰れるようになっています。...はい。それが、それこそが、古事記ではないのか、と(日本書紀や先代旧事本紀ももちろん、含みます)。 大和王朝そのものの成立(飛鳥(大和)時代の成立ではなく)については、磐余の道に関連して書きましたが、上述の通り飛鳥時代は第10代崇神天皇からと考えますので、要は古事記その他に記された神代と、そして第1代神武天皇から第9代開化天皇までの期間は、畿内へ進出してきた天皇氏が大和王朝を興し、次第に奈良盆地を掌握していった末に畿内に君臨。飛鳥(大和)時代を迎えるまでの出来事が寓話化されたものではないだろうか、と。 ...わたしが来たかった葛城。それは、幼い頃よりジュニア版古事記物語を読んだり、亡母に寝物語で話してもらった、まさに英雄や神様が、苦難あり、恋あり、冒険あり、そして案外にも人間臭かったり、人情厚かったり。そういう子ども心にわくわくして触れた、まさに御伽噺のようなファンタジーの世界と、ある程度の年齢になってから知った、この国に受け継がれてきた実際にあった歴史、すなわちファクトとを、繋ぎ合わせる接点のようなものです。 だからでしょうね。それこそ昨夏の、4歳にして初めて接した「春過ぎて〜」の歌とそれに纏わる空想や憧れと、事実としての歴史とが藤原宮跡で一体化した不思議な感慨。きっと、あれと同じような感慨を求めていたのだと思います。 ただ、来たかった。ただただ来たくて、来たくて、うずうずしていた憧れの地が今、眼前に広がっています...。風の森神社を後にして10数分ほど車を走らせて辿り着いた、高鴨神社を目の前にして、わななくような軽い震えを覚えていました。 高鴨神社。一見しての印象は何と言いますか、余りに立派で近代的な雰囲気すら醸している朱色の鳥居に、先ず驚かされました。...事前に抱いていたイメージは、何せ古代史の、それも飛鳥(大和)時代より前。弥生時代に関連しているのですから、それなりに神さびているのだろう、と思っていたんですね。 が、どうもこざっぱりしていて面食らうことしきり。鳥居左手には葛城の道歴史文化館があるのですが、こちらは当日が閉館日だったので、閲覧は翌日に廻し早速、境内へ。先ず目に付いたのは大きな大きな池で、水鳥たちがのんびりしていました。 ...穏やかな春の午後。木漏れ日がさしている境内は、静かで、長閑で、1500年近い歴史の重みはさして感じ取れず、さりとてゆるやかに全身に纏わり付いてくる空気が、不思議と心地好くて何だか言葉にできない、よく判らない気持ちでした。1番近い言葉に敢えて置き換えるなら、安堵。 視覚的には少々違和感こそあれど、やはりその場を満たす空気は、わたしを裏切ることはありませんでした。変に神威や霊験があるのではなく、人間が本当に人間らしくあれた、大らかで、懐の深い古代から、確実に続いている、まるで大河のようなゆったりとした流れ。巧く言い表せないのですが、それが、優しくて、温かくて、懐かしくて。喩えるなら母親の胎内で安心しきって揺蕩うような安堵。 多分、そんなものだったのだと思います。 いまだしくも うらに残れるとほき日に あものうちにてうまいして 波に 潮に あゆきては漂ふごとく ありゐしをい辿るごとく い辿るをさせ賜ふ空 あきづしまやまとに坐ます 神奈備の杜にて こゝそあもならめ あもなるを あがゝはへの知れり 還り来ぬ 訪ひ初むる杜なれどあれは還れり、こにそ還れり 遼川るか (於:高鴨神社、のち再詠) 古代豪族・鴨氏。彼らが氏神としていたのがこの高鴨神社です。...古事記に於ける「カモ」の最初の登場は、こんな形になっています。 |故、此の大国主神、胸形の奥津宮に坐す神、多紀理毘売命に娶ひて生みませる子、阿遅 |鋤高日子根神(*)、次に妹高比売命、亦の名は下光比売命。此の阿遅鋤高日子根神は、今 |迦毛大御神と謂ふ者なり。 注:* 正確には阿遅「金且」高日子根神という表記です。 「古事記 上巻 大国主神の事績 6 大国主神の子孫」 速須佐之男命の6代子孫に当たる大国主神。わたしたちにとって馴染み深い部分では、大黒様であり、因幡の白兎を助けた例の神様ですが、そもそも高天原を追放された速須佐之男命は、出雲にて国を造ります。そして、これがどんどん大きくなっていって、大国主神の頃には高天原側もその力を無視できない、葦原中国となっているんですね。また、この6代の系譜から生まれた神々は、高天原側の天つ神に対して、国つ神と呼ばれるようになっています。 ものすごく簡略化して、大雑把に噛み砕きますが、要はこの状態を高天原サイド、特にその首魁である天照大御神は快く思っていなかった、ということです。本来は自分の子どもが統治する国であるのに、と。 そこで大国主神に高天原へ帰順するよう、使者を送ります。...が、最初の使者は大国主神に惚れ込んで役目を放棄。次の使者は大国主神の娘にして、「阿遅鋤高日子根神/あぢすきたかひこねのかみ」の妹でもある、「下光比売命/したてるひめのみこと」と結婚してしまって、こちらも役目放棄。 最終的には3番目の使者が半ば武力を以ってして威嚇した結果、ようやく大国主神に高天原サイドの意志が伝わり、されど大国主神はその回答を自らは出さず、息子・事代主神に委ねます。 少しお話がややこしくなりますが、事代主神は阿遅鋤高日子根神の異母弟。お話の流れからして、恐らくは嫡流は事代主神の方だったのかも知れません。だからでしょうか、鴨氏が祀った神様の中でも最も信仰厚く、重要視されたのが彼なんですね。 いずれにせよ、この事代主神の承諾があって(厳密にはこのあとに、もうひと悶着あるのですが)、葦原中国は高天原に帰順。これにて古事記に於ける神代のハイライトでもある、国譲りが成し遂げられた、ということになります。 ただ、繰り返しになりますが、古事記はあくまでも神話であり、人々が様々に誇張・脚色した末の寓話です。...古代に思い馳せるロマンも何もない言い方をしてしまえば、神様なぞは所詮、人の想像したものに過ぎません。なので、古事記の内容は、編纂された万葉期には既に伝説となっていた、万葉期から見た古代に、実際にあったであろう事柄が物語化されている、と捉えるのが普通です。 そして、もう1点注意が必要なのは、日本という国の概念が明確に出来上がり、ある程度の中央集権的律令国家ともなったのは万葉後半であった、という点です。つまり、万葉期後半ならば、畿内以外の各地についても、朝廷(王朝)内では情報が得られていましたが、それ以前の時代に於いては、掌握できる情報はそうそう広範囲に及ぶ筈もないわけです。...はい、ですから記紀共に語られる神代についは、記紀の記載上はどうであれ、実質的にはかつて畿内であったことをベースにしているのではないか、と。 ですから、上述の国譲りに関しても、例えば出雲という土地が出て来ていますが、これが本当に現・島根県の出雲の国であった事柄である、と考えている説は学術的にも案外少数です。...もちろん、出雲にも畿内とは別の地域国家なり、それよりも小規模の「クニ」が古代にあったことは間違いないのでしょうが、古事記の内容はやはりあくまでも畿内に纏わるもの。 こう前提するのが、まま一般的なんですね。 そういう視点で、古事記の国譲り神話を眺めると見えてくるもの。実際の古代史や考古学の聞きかじり知識と併せて推測するに、先住していた鴨氏に対し、後続の天皇氏が畿内の覇権を巡って繰り広げた和睦交渉や、何らかの武力衝突の歴史が、国譲り伝説ではないか、と。 つまり高天原サイド=天皇氏、葦原中国サイド=鴨氏、となりますし、天つ神vs.国つ神の図式も同じです。そして大国主神とは、大豪族となっていた鴨氏の大王で、その子どもたちは後継者であった。 そう考えることも、1つの可能性としてできるのではないでしょうか。 さて、件の国譲り伝説。この中で3つ着目しておきたい点があります。それは、高天原からの使者であった天若日子が、葦原中国の下光比売命、すなわち「大国主神の娘」と結婚していることで、平たく言ってしまえば天皇氏と鴨氏の間に姻戚関係が成立している、ということ。 もう1つが古事記曰く、阿遅鋤高日子根神が当時「迦毛大御神/かものおほみかみ」と呼ばれていた、ということです。...大御神。少なくとも古事記に於いて、この称号で呼ばれている神様は、天照大御神と彼だけなんですね。他には誰もそう呼ばれていない、まさに最高位とも言える称号です。その最も偉大な神様が高天原サイドに1人、葦原中国サイドに1人。 さらに最後の1つが、国譲りの決断を最初に下したのが事代主神である、ということ。実はこの事代主神、別名はわたしたちにも馴染み深い、あの恵比寿様なんですが同時に、後に彼の娘を娶ったのが神武と綏靖。以下、安寧は孫を、懿徳は玄孫をそれぞれ娶っています(日本書紀に拠ります)。 これらは一体、どういうことを表しているのでしょうか。 はい、すなわち後続の天皇氏と先住の鴨氏が、ある種の共存もしくは連合政権のような状態であった時期があり、それがそのまま葛城王朝の有り様ではなかったのではないか、ということです。そして、さらに言うならば今上までの125代に渡る皇統は遠祖に鴨氏がいる血筋でもある、ということなんですね。 ...前振りが長くなりました。その「阿遅鋤高日子根神/あじすきのたかひこねのかみ」。既に、大筋は書きましたが、改めてこの神様に纏わる古事記の記載の内容を書いてみます。 高天原からの2番目の使者であった天若日子が、下光比売命と愉しく結婚生活を送り、役目を一向に果たさないことを訝しがった高天原サイドが、様子を伺いに鳴女という雉を派遣します。ところが天若日子がこれを矢で射殺してしまったので、今度は高天原から矢を放ち、それに貫かれて彼は絶命。 その葬儀の席で、何でも容貌が天若日子にそっくりだった、という阿遅鋤高日子根神が、弔われている天若日子に間違えられたことに、激しく立腹してしまった、と。...何でもこの当時は伝承によると、葬儀の際は死者と同い年の者も、その日だけは年齢を偽った、といいます。それくらい死者と同じ、もしくは似ていることが忌み嫌われたのですから、本人に見間違われれば仕方ないのかも知れません。 その時、妹の下光比売命が詠んだ歌があります。 |天なるや 弟棚機の |項がせる 玉の御統 |御統に 穴玉はや |み谷 二渡らす |阿治志貴高日子根神そ 下光比売命「古事記 7 上巻 葦原中国へのことむけ 2 天若日子の派遣」 余談になりますが、この歌には注釈がついていて「此の歌は夷振なり/このうたはひなぶりなり」とあります。ひなぶり、つまりは田舎風の歌、という意味ですが、これは江戸期に隆盛した狂歌の祖である、とされていますし、実際に現在でも辞書を調べると狂歌の別称とされています。 また、「古今夷曲集」「後撰夷曲集」などといった歌集まであるんですね。 神さびてのちの絶ゆるをことはりに鴨の集ひし池をゆく鴨 遼川るか (於:高鴨神社、のち再詠) ...語呂合わせというか、民謡にありがちな諧謔っぽさを意識してみたのですが、果たしてちゃんと狂歌になっているでしょうか。 ...余談ついでに日本書紀の歌も併記しましょう。こちらにも「此の両首歌辞は、今、夷曲と号く」とあります。 |天なるや 弟織女の |頸がせる 玉の御統 |穴玉はや み谷 |ニ渡らす 味耜高彦根 下照媛「日本書紀 2 巻2 神代 下」 |天離る 夷つ女の、 |い渡らす迫門 石川片淵。 |片淵に 網張り渡し、 |目ろ寄しに 寄し寄り来ね。 |石川片淵。 下照媛「日本書紀 3 巻2 神代 下」 古事記はここからさらに天孫降臨、つまりは葦原中国の平定をもって、天照大御神の孫である「天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇々芸命/あめにぎしくににぎしあまつひこひこほのににぎのみこと」が、筑紫は日向の高千穂に天降りする、という流れになります。 天孫降臨以降については後述させて戴くとして、件の葬儀に関連していた3人の神様を祭神としている神社があります。それがこの高鴨神社で、全国津々浦々にある上賀茂神社、下鴨神社の総本家です。 こちらも当然ですが、万葉歌とは無関係です。上述の通り上代歌謡とは幾らか関わり合いがありますけれども。ただ記紀を、そしてこの日本という国の源流を語ろうとするならば、避けては通れない場所でしょうし、今回の記紀・万葉巡りに於けるどうしても外せないポイントの、1、2位を争う場所であった理由も、そういうことなんですね。 因みに、当日訪ねることはしませんでしたが、葛城山麓にある他の鴨系神社。下鴨神社(正式には、鴨都波神社)の祭神は事代主神。中鴨神社(正式には、葛木坐御歳神社)の祭神が、事代主神の妹・高照姫命。そして長柄神社には下照姫命(下光比売命)が祀られていて、この4社の位置関係は綺麗な平行四辺形。 多分に後世、意図的に配置されたのでしょうし、往時の鴨氏の権勢も推して知るべし、といった処ですね。 鴨氏。...とにかく諸説が入り乱れているうえに、肝心の古事記や日本書紀は寓話に過ぎず、果たしてこの後、鴨氏がどういう歴史を経ていったのかは、わたしの中で確固たる推測は、立てるのがまだまだ困難です。 ですので、知っている範囲での文献の記述を、時代順に列挙していきましょう。 先ずは日本書紀。件の国譲りより昔。「大己貴神/おおあなむちのみこと(大国主神の別名)」が国を造って、葦原中国を支配下に治めた際に、不思議な光が海を照らして現れます。光は、大己貴神に言いました。 「わたしがいなかったら、お前がこの国を平らげることなどできなかった。国を造る手柄を立てられたのは、わたしがいたからだ」 と。そこで、大己貴神はその光に正体を尋ねます。曰く光は、大己貴神の幸魂・奇魂である、と。...つまりは大己貴神の魂の中でも、人に幸いを与えることに特化した一部分と、霊験に特化した一部分である、ということで、もっと噛み砕いてしまうならば、大己貴神の「善」と「神々しさ」だけを抽出したもの、という感じでしょうか。 そして次に大己貴神は、その幸魂・奇魂に何処へ住みたいか、と尋たんですね。 |答えていわれる。「わたしは日本国の三諸山に住みたいと思う」と。そこで宮をその |所に造って、行き住まわせた。これが大三輪の神である。この神の御子は賀茂君 |たち・大三輪の君たち、また姫蹈鞴五十鈴姫命である。 「日本書紀 巻1 神代 上」 ...これは賀茂氏(鴨氏)が畿内へ進出し、葛城山麓を拠点に一大氏族となった経緯の寓話で、三輪山を司る大神神社宮司の家系と、葛城山の鴨氏は同祖であるということですね。個人的には、この二つが同祖であるからこそ、神坐す山が東の三輪と、西の葛城、と並び称される根拠だと思っています。 この件に関しては、古事記にも記載があるのですが、こちらは既に飛鳥時代に入った、第10代崇神天皇の時代のもので、崇神の夢枕に大国主神が現れ、神託を下すんですね。曰く 「今、この国に流行病が蔓延してしまっているのは、わたしの意志だ。なので、わたしの子孫である意富多々泥古/おほたたねこ、を探し出してわたしを祀るなら、神の祟りも起こらなくなって、国も以前のように平安になるであろう」 と。そして、崇神が意富多々泥古を探し出して、三輪山を祭らせた、と。因みに彼は前作でご紹介した、古事記に於ける三輪山伝説のヒロイン・活玉依毘売と大国主神の玄孫に当たります。 |此の意富多々泥古命は神君・鴨君の祖 「古事記 中巻 崇神天皇 3 三輪山伝説」 はい、こちらも鴨氏と大神神社宮司一族が同祖であることを、明記していますね。...ただ、古事記の記述は、前述の国譲り関連の記載と内容的に合致しません。この時期に鴨氏の祖が登場する、つまりは鴨氏が興るのでは、先に御紹介した |此の阿遅鋤高日子根神は、今迦毛大御神と謂ふ者なり。 「古事記 上巻 大国主神の事績 6 大国主神の子孫」 再引用 この件はどうなってしまうのか、と...。少々無理矢理な考察としては、上記再引用内に、「今迦毛大御神」とありますから、血筋はともかく鴨氏が「鴨氏」と名乗り始めたのが崇神天皇期とも、考えられるのでしょうが、相当厳しいか、と。 何冊かの古事記の注釈でも、件の記載に関しては多く、葛城の鴨氏が三輪山周辺に移住した意であろう、としていますので、この三輪山関連では、わたしは日本書紀の記載を優先的に採りたい処です。 |
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