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前述している紀州街道と吉野街道。つまりは総称すると南海道なのですが、この道は同時に幾つかある伊勢街道の1つでもあります。伊勢南街道です。現在の国道24号が凡そは当時の道をなぞっている(宇智界隈に限定して)、と考えて戴ければいいと思います。 紀州や高野方面から徒歩で伊勢を目指した場合、真土峠を越えて次の重阪峠へと続くこの宇智の一帯。旅人たちの1つの目安というか、道中の目印なり目標地点の1つに、浮田の杜はなっていたのでしょう。 現在でこそ、往時の面影は見るべくもありませんが、荒木神社が延喜式内社であることから考えても、かつてはかなり名を馳せた大社だったのでしょうし、浮田の杜を詠んでいる歌群に数多く標、が登場することからしても、もしかすると禁足地であったとか、それなりに神威畏れられていた地、と考えるのが自然だと思います。 大荒木の浮田の杜。勅撰に採られているものだけでも、やはり幾つか列挙しておきましょう。 |おほあらきのもりのした草おひぬれはこまもすさめずかる人もなし 讀み人知らず「古今和歌集 巻17 雑歌上 892」 |おほあらきの森の草とや成にけむかりにたにきてとふ人のなき 壬生忠岑「後撰和歌集 巻16 雑歌2 1179」 |いたづらに老ぬへらなりおほあらきのもりのしたなる草葉ならねど 躬恒「拾遺和歌集 巻16 雑春 1081」 |下草は葉末ばかりになりにけりうき田の杜の五月雨の比 皇太后宮大夫俊成「続後撰和歌集 巻4 夏歌 211」 |かくしつゝさてやゝみなんおほあらきの浮田の杜のしめならなくに 讀み人知らず「続古今和歌集 巻11 恋歌1 1058」 |春くればうき田の森に引しめやなはしろ水のたよりなるらん 従二位家隆「続拾遺和歌集 巻2 春歌下 133」 |行雲のうき田の杜のむら時雨過ぬとみれば紅葉してけり 源兼氏朝臣「新後撰和歌集 巻5 秋歌下 424」 |日にそへて思ひぞしける大荒木の浮田の杜や我身なるらん 八条院高倉「新千載和歌集 巻13 恋歌3 1308」 前作でも書いていますが、古来より聖なるものは、身近で最も禁忌多きものに喩えられます。...恋です。大神神社や石上神宮の神杉然り、そして恐らくはこの浮田の杜も、同じように考えられていたのではないでしょうか。だからこその標、だからこその恋歌群ではないか、と。 余談になりますが日頃、わたしが使っている古語辞典は4冊です。もうボロボロで表紙もなくなってしまっているし、ページの隅が綿のようにモワモワしてしまっているけれど、使い易くて手離せない、10年近く愛用している中辞典と、大きくてしかも重い大辞典の普及版。この2冊はどれだけ荷物が重くとも、絶対に常に持ち歩いていますし、当然ですけれど万葉巡りはもとより、熊野なり何処なりへも一緒に行きました。毎日の会社へも、何故か持っていっていますね。お財布と免許証、保険証、年金手帳、ハンカチ、化粧品、その次くらいに確実にバッグに詰めるものです。 残る2冊は、特に用例が豊富に紹介されている大辞典と、上代に時代特化している大辞典、となります。さらに、辞典ではないですが、受験生用の古文法参考書が3冊。古典の読解用と、実際の詠草の補助用に。これら計7冊で古典を読み、上代語の歌謡的和歌を詠んでいる、ということになります。 さて、件の大荒木。上記のうち大辞典には記載されていました。語意は「大きな木がまばらに立ち並んでいる所」というものなのですが、同時にこの奈良県五條市の荒木神社を指す、ともされていましたね。つまりは、それくらいに上古から中古、中世にかけては人々の口に上っていた土地だった、ということでしょう。 その1つの証明が、こちら。 |森は、大荒木の森。忍の森。こごひの森。木枯の森。信太の森。生田の森。うつきの森。き |くだの森。いはせの森。立聞の森。常磐の森。くるべきの森。神南備の森。假寐の森。浮田 |の森。うへ木の森。石田の森。かうたての森といふが耳とどまるこそあやしけれ。森な |どいふべくもあらず、ただ一木あるを、何につけたるぞ。こひの森。木幡の森 清少納言「枕草子 第112段“森は”」 再び余談になりますが、万葉はもちろん、様々な古典的推測をする時に、何て有り難い「資料」なんだろう、と常々思っている文献が枕草子ですね。いやはや、あらゆることについて、言及してくれているので本当に助かります。 そして、上記引用文中に登場する大荒木の森は、この荒木神社界隈のことなのですが、別途記述されている浮田の森。わざわざ別に書いているのだから、他の浮田の森なのかなと思いきや、こちらも同じことを繰り返し言っているんですね。 万葉からは離れてしまいますが、清女が残した枕草子。実際に彼女の感性で「をかし」とか「わろし」と語られている事象も沢山ありますが、殊この森のような景勝地に関するものは、彼女が現地を訪ねた上で語っているものもあれば、そうではないもの。つまり平安期に於ける和歌詠草の最重要テキストであった「古今和歌六帖」に歌枕として所収されている地も、彼女は書き綴ってしまっている、と言われています。だから、実際は1ヶ所なのに、まるで別の場所のように重複して記載されてもしまう、と。 ...これが古典の言葉遊びの1つ「尽くしもの/関連するものの名前を沢山挙げる形式」の祖が、枕草子であるとされる所以、でもあるわけなのですけれども。なので個人的には、きっと清女自身がここ浮田の杜を訪ねたことはなかったのだな、と推測していますね。少なくとも枕草子を書いた時点では。 もちろん、これは清女に限られたことではなくて、和歌の世界でも時代が下るほど多く見られるようになってゆきます。そう、それこそが歌枕です。 ともあれ、前述している浮田の杜で35首、大荒木の浮田の杜で11首、という勅撰・非勅撰に関わらず代表的な歌集に対する一括検索の結果は、恐らくその根底に古今和歌六帖の影響があることは否めない、そんな風に思っています。 妹背の山で少し触れた八雲御抄もそうですが、歌枕をアンソライズした文献というのは、結構古くから複数あるんですね。これは万葉期は別として、少なくとも平安末期以降は、歌枕というものが、現代で言う処の国土省資料的役割を果たしていたからでもあって自然、集めて編まれる、となっていたわけです。つまり都より遠く離れた地に関し、様々に詠まれた歌を集めて 「どこそことは、これこれしかじかな土地なのであろう」 と役人たちが認識するのに重用された、といいますか。なので逆を言えば、ある一定の固定的イメージ以外の要素が、中々詠まれなくなってしまうという傾向もまた、色濃いです。 そして、そんな歌枕の一覧的文献(和歌集)中でも鎌倉末期に纏められた歌枕名寄は相当詳細で、ほぼ全国を網羅していますし、この歌枕名寄にも大荒木の森、浮田の森、といった歌は24首採られています。 さらに万葉から遠ざかってしまいますが、清女について触れたのでもう1人。日本文学史上屈指のエッセイストのお歌も引用しておきます。徒然草の作者・吉田兼好です。 |世の中の浮田の森に鳴く蝉も我がことよそに行く方やなき 吉田兼好「兼好法師集 213」 歌枕、それは幻想空間。そうわたしは前作で書きました。あくまでも幻想である、と。それ自体は今でも変わらず思っています。が、純粋に人々が口から口へと伝え広まっていった噂や評判。そういったものから惹起された末の幻想である万葉期の歌枕と、ある程度の方向性なり概念までもが纏わりついてしまった上での平安期以降の歌枕とでは、詠み手の思い入れや、憧憬、高揚感。そういった熱いものに明らかな格差があると感じますし、はっきり言ってしまえば希薄になっている、と個人的にはしみじみ思っています。 例えば枕詞についても同じことが言えるんですね。枕詞そのものは、最初に詠んだ人間が、この言葉はあの言葉とワンセットに今後するように、などと定義づけたわけではないですし、宣言もしていません。たまたま、その修辞を別の者が真似、さらに別の者が真似る。こういった経緯の末に、後の世で固定化してしまった、ということで、逆を言えば形骸化してしまった中世以降の枕詞は、本当にただの記号に過ぎません。もちろん、中世に詠まれた歌を祖とする枕詞もありますし、それらも、当初は記号ではありませんでしたが。 けれども、万葉や上代歌謡は違うんですね。そういう記号ではない、詠み手の瞬間的な発想や、志向や、感覚が込められていますし、垣間見えるものもしっかりと潜んでいます。 わたしが特に枕詞に拘るのは、そういう1300年も昔の人々が何に、何を感じたのか、を手繰りたいからで、それは序詞にしても、寄物陳思歌にしても同様です。 お話がすっかり離れてしまいました。再び古語ですが、わたしたち現代人が日常何気なく使っている言葉と表記も、響きも同じ。なれど、語意が違う。こういう古語は沢山あります。なので見た目で知っている言葉だから、と何も引っ掛からずに現代語の意味で読み進んでしまうと、ところがどっこい全体の歌意が大きく食い違ってしまう、ということもまま起こるわけです。 例えば「養生する」という意味で「躊躇ふ」としたり、「心」を「空」としたり。「他界する」を「隠れる」としたり。最も代表的な例なら「妻」を「妹」としたり。同様なのが「森または杜」。もちろん現代語の「森」としての意味もありますが殊、万葉期に於ける重要な意味が「神社のある所」という意味です。 はい、前作で書いた雲梯の杜も、神奈備も、そしてこの浮田の杜も。全てはこちらの語意によるものですし、ここまでのお話もこの前提を踏まえていたか、否かによって呑み込み方がかなり違ったのではないか、と思いますが。 今回の万葉巡りでは、他にも磐瀬の杜や、風の森も訪ねています。 おふしもと山なす木立 そのこぬれふさなればこそ 日ありて暗きも奇 神坐す斎つきの杜になりぬれど いにしへは種 いで生れよ いで出で出でよ いで増されよ 天つみ空も世もとほく 神は隠りぬ 隠りてはなほし隠りて みなひとのなにをか見るや みなひとのなにをか聞くや 大荒木浮田の杜に 真鳥棲む雲梯の杜に 大倭豊秋津島 大八嶋国にそ鎮む神奈備に 坐し賜へる千早振神命の息嘯なら 風と思ほゆ 幸魂 奇魂とも 和魂 国生み賜ひ 国造り さても隠れる遠白き神のみこゑは 杜にそ響む 山すそは天あり地あり神奈備ありて 空蝉の人ならふのみ時のまにまに 生くればやおのづ咎とて生りくるものと ひと言を言痛み、言痛ませるをなゝしそ 遼川るか (初出:第494回トビケリ歌句会お題「森」、のち再詠) −・−・−・−・−・−・−・−・−・− 浮田の杜を後にして、いざ葛城へ。そう思ったのですが、ここまでの行程が思っていた以上に時間的ロスも少なく、進めて来られていることから、もう少し南へ足を伸ばしてみようか、とふと思い立ちました。 宇智界隈は現在の住所で言うと、五條市となります。そして、五條市と言えば、前作で書かせて戴きはしたものの、実際には訪ねていない宿題の場所があったんですね。 はい、井上内親王です。前回は既に奈良市内に戻ってしまっていた為に、彼女を祀っている御霊神社を遠目に眺めただけで終えてしまいましたが、彼女と彼女の息子・他戸王の御陵が五條市にはあります。慌てて地図で確認しましたが、移動距離も大したことはなさそうです。ならば...。 ハンドルをきって、進行方向変更。和歌山との県境近くまで行き、さらには吉野川(紀ノ川)も渡りました。 予定外。そう、予定外のことだったので関連する資料も大半は宿に残してきてしまっていましたし、住所すらも殆ど判ってはいなくて、ただ漠然とこの辺と地図にかつて書き込んだ印だけを頼りに徐行しつつ、キョロキョロ。 この一帯は、紀ノ川用水というらしいのですが、とにかく道の脇に涼しげな用水路があちこちに流れているんですね。広々とした田圃、見渡すとぽつんぽつんと点在するこんもりした茂み。初夏の眩し過ぎる陽射しの中、目に映る光景の全てが鮮やかで、そして聞こえるものは風の音と水音だけ。 車を適当に停めて、あちこちと探しに廻るも、それらしきものは見つからず、少々無謀だったかなと半ば諦め、最後に丘を1つ越えた反対側を探し、駄目だったら葛城へ移動。そう決めて再び車にて移動します。 が、やはり御陵などなく、これにて完全に空振り。またいつかきちんと調べてから来よう、そんな風に考えていた矢先、どうも御陵っぽい茂みが見えてきて。そのまま進んでいくと、御陵特有の宮内庁看板と門。看板にも明記されていました。 「光仁天皇皇后 宇智陵」 ...どうにか最後の最後で、見つけられました。 井上については、前作でかなり詳しく書いているので、敢えて解説をする気はありませんが、続日本紀にある肝心な部分の記載だけ引用します。 |3月2日、皇后の井上内親王は呪詛の罪(光仁天皇の姉・難波内親王を呪い殺した |とされた)に連座して、皇后の地位を廃された。 「続日本紀 巻32 宝亀3年3月2日」 |4月27日、井上内親王と他戸王がともに卒された。 「続日本紀 巻32 宝亀6年4月27日」 夫である光仁天皇に対する呪詛の他に、天皇の姉への呪詛の罪まで井上母子が被せられててしまっていたことが良く判りますね。何でもこの裏側には、天皇呪詛が発覚しても、井上が後宮に居座った為、藤原百川が更に罪を着せた、というお話を聞いたことがあります。 そして、廃后・廃太子の後に2人が幽閉されたのが、ここ五條の地です。当時、この地はもはや秘境とも言える場所だった、とされていたようですが、実際に彼女たちが暮らしたことになっているのは三在町西山の御霊谷、という所。そして面白いのが、今でもこのあたりに侵入したり、木を伐採しようとしたりすると祟りがあると言われているそうで。 ...流石に現地までは行きませんでしたが。 さらにはもう1つ、少しほろりとさせられてしまうのが、母子の幽閉後。周囲に住む五條の人々は、井上が光仁天皇のことを思い出さないように、と天皇の即位前の名前・白壁王から、白い壁を建てることを慎んだ、という説話。実際、見た限りでは大方が白壁の家で、当時のようなことは決してないのですけれども、それでも旧家なのかな、という風情のお宅は数軒、黒壁でしたね。 そんな地元の人々が現在も信仰しているのが御霊神社で、祭神はもちろん井上と他戸、さらにはこれも信じられない話なのですが、五條に幽閉されてから井上が産んだ、とされている火雷神。...この火雷神ですが、要は幽閉された時には既に井上が、光仁天皇の子どもを身篭っていた、ということなのでしょうけれど、当時彼女は60歳近くて、真偽は不明です。 五條市内には、御霊神社がかなりの数あるようですが、これは奈良時代末期から平安時代初期にかけて盛んだった御霊信仰に関連があるんですね。 御霊信仰。御霊とは、非業の死を遂げた怨霊に対する尊称だと言われています。怨念を抱いて死んてしまった者は死霊となって祟るとされ、怨霊を避けるためにも祈祷を行い、さらにはそれでも祟りが収まらない際は怨霊を慰撫し、祀って守護霊へと転換するように図る。これが御霊信仰なのだそうです。 特に皇位争いや政府高官位の争奪に敗れ、非業の最期を遂げた権力者は強力な怨霊となって朝廷や社会全体にも、あらゆる災厄を及ぼすと考えられていたようで、皇室の変事や疫病の流行・雷・地震・大火・大雨・洪水などの自然災害さえも、怨霊の祟りと見なされました。 これらの背景には、当時の朝廷の枠組みの中に呪禁師や陰陽師が、既に登用され始めていたことが挙げられ、天皇や高官などの他界、自然災害の原因が怨霊にある、として占っていたからだと言いますし、怨霊の魔から逃れる方法とされたのが、怨霊を祀り、鎮める御霊信仰。そういうことですね。 奈良時代の本当に末期、確実に足元から崩壊し始めていた社会のひずみの中で無実の罪を着せられ、非業の最期を遂げた多くの人々がいます。その中でもとりわけ悲劇的、と現代でもされている井上は、されど今では見通しのいい小高い丘、太陽の光を真っ直ぐに浴びることのできる場所に、静かに眠っていました。罪人としてではなく、皇后として、です。 記紀から万葉、というテーマとは全く無関係の宿題、エクストラで立ち寄った御陵でしたが、比較的大きめな井上の御陵と、少し離れた畑の中にある息子・他戸のやや小さめの御陵が、長閑な風景の中に溶け込んでいて何だか、とても嬉しかったです。 余談ですが、この井上の御陵もまた志貴の御陵同様、形が珍しいようで、聞いた話によれば杵を横から見たように中央部が凹んでいる、とのこと。...といって現地でわたしがそう気づけていたわけではないのですが。 正史である続日本紀は、当然ですけれど藤原氏の思惑が色濃いですから、井上に関することは極めて事務的な記載しか残っていません。恐らくわたしが知る限りでは、かなり直截で冤罪である、としているのは鎌倉時代、僧・慈円が綴った愚管抄だけだと思います。 「是は百川のはかる処也」 と。 ふと、水泥古墳で即詠した拙歌を思い出していました。 「もろひとは蓮のうてなに寝ぬらゆるを違はずに乞ふ 生くるはかなし」 どんな罪人であろうと、儚い人生だった人であろうと、それこそ天皇であろうとも。人は他界してしまえばみな、等しく葬られるべきものなのだろうし、葬られたいだろう、と。...手前味噌になってしまいますが、この思いを再び噛み締めてしました。 まことゝふものゝなにしか暗きなる 過ぐればひと言さへしづまらむ 遼川るか (於:光仁天皇皇后宇智御陵、のち再詠) |
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