万葉期、宮廷行事のひとつに遊猟がありました。遊猟、つまりは狩りなんですが狩り、と一口に言っても、わたしたちが直ぐに思い浮かべるようなそれと、趣は少し違うかも知れません。薬狩りのことなんですね。
 薬狩り。これは毎年5月5日に催されていたもので、男性たちは鹿狩りをしては、若い牡鹿の袋角を採取。何でも、若返りの妙薬とされていたみたいですね、当時は。また一方の女性たちは、野で薬草摘みを。...とは言え、実際は宮廷上げての遠足みたいなものだったらしいですが。
 この薬狩り(の後の宴席)で詠まれた有名な歌が、額田と大海皇子の相聞です。

| 題詞:天皇の蒲生野に遊猟したまふ時、額田王の作る歌
|あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る
                             額田王「万葉集 巻1-20」
| 題詞:皇太子の答へませる御歌
|紫のにほへる妹を憎くあらば人妻故に我れ恋ひめやも
                           大海人皇子「万葉集 巻1-21」


 また、薬狩りとは別に、違う季節に普通に狩りへ行くこともあったようで、こちらで詠まれた有名な歌、といえば

|やすみしし 我が大君
|高照らす 日の皇子
|神ながら 神さびせすと
|太敷かす 都を置きて
|隠口の 初瀬の山は
|真木立つ 荒き山道を
|岩が根 禁樹押しなべ
|坂鳥の 朝越えまして
|玉限る 夕去り来れば
|み雪降る 安騎の大野に
|旗すすき 小竹を押しなべ
|草枕 旅宿りせす
|いにしへ思ひて
                            柿本人麻呂「万葉集 巻1-45」
|安騎の野に宿る旅人うち靡き寐も寝らめやもいにしへ思ふに
                            柿本人麻呂「万葉集 巻1-46」
|ま草刈る荒野にはあれど黄葉の過ぎにし君が形見とぞ来し
                            柿本人麻呂「万葉集 巻1-47」
|東の野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ
                            柿本人麻呂「万葉集 巻1-48」
|日並の皇子の命の馬並めてみ狩り立たしし時は来向ふ
                            柿本人麻呂「万葉集 巻1-49」


 こちらでしょう。いずれも前作でご紹介していますので、解説は割愛させて戴きますが、要は当時「狩り」というものは、支配者としての天皇、もしくは皇太子の大切な儀礼であって、その権勢を誇示する意図があった、ということ。さらにはその為のお狩場が各地に点在していた、という点です。

 すっかり気に入ってしまった巨勢の里。ですが、後の行程を考えるとそうそうのんびり構えてもいられず、後ろ髪引かれる思いで向かった次なる訪問地は、そんなお狩場。宇智です。
 宇智の大野。万葉期の代表的なお狩場であった、とされている地は現在のJR和歌山線・北宇智駅の南西一帯に広がっていた山野のこと。宇智は古事記や日本書紀、日本霊異記にも登場している地名ですが、そもそもの意味は河川に囲まれた、地形のことを差しているようですね。

 奉膳の交差点近くから、県道120号・五條高取線をさらに南へ。JR和歌山線々路沿いをしばらく走り、やがて北宇智駅手前で国道24号に。今度は西へと進みます。
 宇智での見学希望地はたった1ヶ所で、万葉歌碑があるらしい、と聞いていた荒坂峠です。ただ、正確な歌碑の位置は全く判っていなかった為、
「峠付近にはゴルフ場があって、そのごく近く」
 という情報だけを頼りに、地図と睨めっこをしたのは神奈川出発前のこと。きっと奈良カントリークラブ五條コースの周辺であろう、という半ば当てずっぽうのまま、見つけられなかったら、それも已む無し。そんな風に考えていました。

 国道24号を五條警察署の前で右折して、田圃と畑が広がる道をやや徐行しつつ、地図と周囲を変わりばんこにキョロキョロしつつ...。途中、車窓を流れていった看板が気にはなったのですが、それはさておき歌碑のある峠です。もはやルートマップにも載っていない道を右へ、左へ。
 そんなこんなでようやく辿り着いた峠は、ゴルフ場ともう1つの目印である荒坂池はあれど歌碑はなく。近年開通予定なのか、建設中の京奈和自動車道もあるのですが、やはり歌碑はありません。流石にこれは空振りかなと諦め、先に気になっていた神社へ行こう、と峠を降り始めた時、思わず声に出てしまいました。
「ああ、あった...」
 荒坂池の傍、道路脇の草むらの中に、歌碑がぽつんと立っていました。

| 題詞:天皇の内の野に遊猟したまふ時、中皇命、間人連老をして献らしめたまふ歌
|やすみしし 我が大君の
|朝には 取り撫でたまひ
|夕には い寄り立たしし
|み執らしの 梓の弓の
|中弭の 音すなり
|朝猟に 今立たすらし
|夕猟に 今立たすらし
|み執らしの 梓の弓の
|中弭の 音すなり
                             中皇命「万葉集 巻1-3」
|たまきはる宇智の大野に馬並めて朝踏ますらむその草深野
                             中皇命「万葉集 巻1-4」


 「たまきはる」はうち、を導く枕詞です。

 「わが天皇が朝には手にとって撫で、夕には側に寄り立った、愛用の梓弓の弦打ちの音が聞こえることだ。今、朝の狩りにお発ちになるらしい。今、夕の狩りにお発ちになるらしい。愛用の梓弓の弦打ちの音が聞こえることだ」
「宇智の広々とした野に、馬を並べて朝の野を踏んでいらっしゃるのだろう。あの草深い野を」

 これらは、薬狩りで詠まれた、とされています。そして、ここで登場する天皇、とは天智・天武の父親だった舒明天皇のことですね。

 さて、この歌碑(彫られているのは反歌のみです)。もう1つの見所と言いますか、珍しいなと思っていたのが、武者小路実篤氏の筆による、という点。恐らく1番多く目にしているのは、故・犬養孝先生の御筆だと思いますが、力強い印象の犬養先生のものとはまた違う、端正で涼しげな印象でした。
 万葉歌碑は、前回も今回も、さらには奈良以外の地でもかなりの数を見ていますが、個人的には武者小路氏の御筆のものは初めてだったように記憶しています。


 さて、上記引用の長歌と反歌。実は詠み手に関しては幾つかの説があります。長歌の方の題詞に曰く、
「中皇命が間人連老に代作してもらったものを天皇に上奏した」
 ということになるのですが、この中皇命。万葉1期の代表的歌人ではあるものの、実際は誰なのかという点が判明していないんですね。

 有力説には舒明天皇の娘・間人皇女(のちに孝徳天皇の皇后)、つまり天智・天武の妹である、というもの。または舒明の后で後の皇極天皇が件の遊猟の歌を(実際は代作で、本人作ではない)、そして別の中皇命の歌は天智の皇后・倭姫が、それぞれ詠んでいるとするものです。...中皇命の別の歌です。

|君が代も我が代も知るや岩代の岡の草根をいざ結びてな
                             中皇命「万葉集 巻1-10」
|我が背子は仮廬作らす草なくは小松が下の草を刈らさね
                             中皇命「万葉集 巻1-11」
|我が欲りし野島は見せつ底深き阿胡根の浦の玉ぞ拾はぬ
                             中皇命「万葉集 巻1-12」


 はい、こちらに倭姫の詠み手説がある、ということですね。ただ、ややこしいことにこの3首もまた、代作説がありまして。

|右、山上憶良の類聚歌林を検ふるに曰はく、天皇御製歌云々
                        「万葉集 巻1-10〜12」 左注による


 ここで言う天皇とは、重祚した皇極。つまり斉明天皇のことになります。...しかし何故、こんなにややこしいのか、にはちゃんと理由があるんですね。
 そもそも、中皇命という「言葉」は名前ではありません。当時の一般名詞です。
「天つ神と天皇との仲立ちをするスメラミコト(天皇)」
 という意味になりますが、要は前天皇の譲位もしくは他界と、後天皇の即位までのごく短い期間に存在した中継の女帝、ということです。戦前・戦中派の方は、恐らく子どもの頃に
「神武・綏靖・安寧・懿徳・孝昭・孝安・孝霊・孝元・開化・崇神・垂仁・景行...」
 と暗記させられたご経験もあるのではないか、と思いますがこの平成の世で、第125代の天皇とされている皇統。ベースにある数え方は、その時々にものされた文献に拠ります。そして当然ですけれど、古代に於いては日本書紀と古事記に拠っている、ということですね。
 けれども、記紀では歴代の天皇としていなくとも、恐らくは臨時なり、暫定なりで、皇位を継いだであろう、と目される女帝が古代史に4人ほど存在します。

 1) 第22代清寧天皇と第23代顕宗天皇の中継ぎとして、飯豊皇女。
 2) 第28代宣化天皇と第29代欽名天皇の中継ぎとして、春日山田皇后。
 3) 第37代斉明天皇と第38代天智天皇の中継ぎとして、間人皇女。
 4) 第39代弘文天皇(天智の息子・大友)は大友でなく別人として、倭姫皇后

 それぞれに纏わる論拠や解説など、書き始めるとんでもないことになりますので流石に割愛させて戴きますし、実際がどうであったか、という推測もここでは擱きます。古代史ではなくて、あくまで万葉、あくまで倭歌ですから。
 いずれにせよ、そういう曖昧模糊とした背景があって、中皇命が詠んだとされる万葉歌は、どうも実作者が誰なのか判り辛い次第。...ただ、わたし個人としては上記引用のうち、前2首は宝皇女(皇極・斉明天皇の本当の名前です)、後3首は倭姫のものではないかな、と思っていますが。
 舒明の遊猟時、倭姫は多分生まれいませんし、間人皇女もまだごく子どもだったはず。確かに間人連老の代作ということで可能性はありそうですけれど、やや弱いかと。また後3者が倭姫作としたい論拠は

| 題詞:中皇命、紀の温泉に往しし時の御歌
                          「万葉集 巻1-10」 題詞による


 とあることです。仮に斉明の作なら、そもそも天皇御製歌でいいですし、逆を言えば、本当に天皇の歌なら「往く」は「幸」と、「御歌」ではなく「御製」と書くはずです。
 加えて3首に登場する「君」と「我が背子」は皇太子・中大兄のこと。斉明は中大兄の実母にして当時の天皇ですからね...。道理からすれば倭姫かな、と。もっとも、彼女が、この時の中皇命であった、とするのはかなり厳しいとも、個人的には考えてられるのですけれども。

 さて、「万葉集」を読んでいるとほとほと悩まされるのが、こういう詠み手の表記です。古代史がある程度、頭に入っていないと、だれそれ大后だ、なになに夫人だ、と特に女性作者については嫁いだり、夫が他界したりする度に、表記が変わってしまいますから。...もちろん、男性でも特に皇統に関わる人物は、何度も表記が変わっていますね。
 ただ1つだけ確たるものは、歌。代作でも、実作でも、作者の表記が何度何遍変わろうとも、詠まれた歌だけは、何も変わることなく存在し続けます。

 たれ詠めるものかは知らで
 こにそある
 うらの象とも思ほゆる
 言は誰とて違はざる
 うらの象ゆゑ
 千歳過ぎ
 やその夜またやその日
 経ても経たれど
 違ひなくあるは奇とひとの知る
 あれのあれなす世まされば
 おのづ世のなすあれまさり
 あれは世にあることを知り
 世のまにまにゝあれ生れて
 ゐるを
 ゐらるを
 ゐられ給ふことなるとふを
 沁むるこそ
 玉鉾の道
 敷島の八雲なる道あるがまにまに
 
 名告藻名こそ違へどえ違はざるは歌であれ
 歌はえ違はざる霊の色を  遼川るか
 (於:荒坂峠、のち再詠)


 「名告藻」は名、を伴う枕詞です。

 宇智を詠みこんだ別の歌もご紹介しておきます。先に引用させて戴いている、「紀の国の 浜に寄るとふ 鰒玉〜」に連なる歌群の1首です。

|門に居る我が背は宇智に至るともいたくし恋ひば今帰り来む
                           作者不詳「万葉集 巻13-3322」


 「門口にいらっしゃるあの方は、譬え宇智まで行ったとしても、わたしが恋焦がれたなら、すぐに帰って来るだろう」

 これは、宇智が巨勢から紀伊へと続く重阪峠を越え、次の真土峠へ向かう途中の地だからこそ、の歌ですね。

 少し余談になりますが、宇智の地には宇智神社というお社があり、祭神は宇智大神なのだそうです。...訪ねてはいないんですけどね。ただ、この宇智大神。一体どんな神様なのか、と言えば一説に「内臣の祖神」であるとされ、この内臣とは武内宿禰のことだ、というのが有力説。その根拠がこちら。

|たまきはる 内の朝臣
|汝こそは 世の長人、
|そらみつ 倭の国に
|雁卵生と聞くや
                  仁徳天皇「古事記 72 下巻 仁徳天皇 7 雁の卵」
|たまきはる 内の朝臣。
|汝こそは 世の遠人。
|汝こそは 国の長人。
|秋津島 倭の国に、
|雁産むと 汝は聞かずや
            仁徳天皇「日本書紀 62 巻11 仁徳50年(紀元前611年)3月5日」


 両者とも歌の前に、ちゃんと武内宿禰の名前が登場しているんですね。...この「内」が地名なのか、官位なのかは知る範囲では、判断できません。ただ、宿禰の子どもに「葛城襲津彦命/かづらぎのそつたのみこと」がいて、彼は和珥氏と並ぶ勢力を誇った古代豪族・葛城氏の始祖。金剛山麓の宇智と葛城山麓の葛城は、言わば隣の里です。
 宇智大神が内臣の祖神を祀っている以上、この祖神とは武内宿禰の祖父である第8代孝元天皇か、さらに源流の天照大神のことなのか。いずれにしても、宇智という地と、武内宿禰は何らかの関連があるのでしょうし、その子どもの葛城襲津彦命は隣里・葛城の古代氏族の祖。そして、倉橋に関連して少し触れた磐之媛の父親でもあります。そう、仁徳天皇の后にして履中、反正、允恭各天皇の生母です。
 巨勢・宇智・葛城。この奈良盆地の南西部を占める地域が、万葉期以前。つまり、記紀から万葉へ、さらには伝説上では神代とされる時代から人の世の時代へ、という流れを追いかけるには、語らずには通れない理由が、このへんにあるわけです。

 既に時刻は11時を廻っていたと思います。もう少し、この宇智界隈を観て廻ったあと、本日の最終的な目的地の、葛城。金剛から連なる、北側の葛城山をふと目を凝らして見詰めてしまっていました、...ただ何となく。

 春柳かづらぎの山ちかき日は光のまなか 参れるものはも 遼川るか
 (於:荒坂峠、のち再詠)


 「春柳」は葛城、を伴う枕詞です。

         −・−・−・−・−・−・−・−・−・−

 峠を降りてまた国道24号を走る前に、途中で見かけた看板のあった場所へ戻りました。そして見えた文字は「浮田の杜 荒木神社」。持っていた資料を慌てて捲ると、あったんですね。関連する万葉歌が。なので、すぐさま寄り道決定です。

|かくしてやなほや老いなむみ雪降る大荒木野の小竹にあらなくに
                           作者不詳「万葉集 巻7-1349」
|かくしてやなほやまもらむ大荒木の浮田の社の標にあらなくに
                          作者不詳「万葉集 巻11-2839」



 ノーマークだったので、全くと言っていいほど土地に対する事前知識はありませんでしたが、これら類似歌は恐らく、遂げられなかった恋を悔やんでいるものでしょう。作者は、恐らく共に女性だろうと思います。

 「こうしてやはり年老いていくのだろうか。雪降る大荒木野の篠ではないことなのに...」
「こうしてやはり年老いていくのだろうか。わたしはあの大荒木野の浮田の杜の標でもないことなのに...」

 前者は題詞も左注もなく、後者にのみ、こうあります。

|右の一首は標に寄せて思いを喩ふ。
                         「万葉集 巻11-2839」 左注による


 標。今でも注連縄がいい例ですが、標というのは道標という意味の他に、神域との境界、という意味があります。...これが平安期になると境界に懸けて、男女の仲が絶えた状態、もしくは逢うのを拒むこと、という意味まで派生するんですが。
 歌意についての細かな考察はさておき、この浮田の杜。確かに神域なのかも知れません。凡そ雑多な音も聞こえない、民家は近くまであるのに通り過ぎる人も見かけない、エアポケットのような空間だったんですね。
 朱塗りの鳥居を潜り、石段を登るもお社自体は入れないように、板が打ち付けられていて。...'98年の台風7号で境内が相当な被害を負った、と断り書きが山門にありました。

 浮田という語源は、足が地につかないほどの浮き土がある地、ということで紀ノ川が近いこの地は、きっとかつてそうだったのでしょう。同様に、京都の伏見淀本町にも浮田の杜、という場所があるといいます。「淀」と「浮」はほぼ同義なのかも知れません。
 実は現地で、微かに引っ掛かっていたことがあります。鎌倉第3代将軍・源実朝の金槐和歌集で「大荒木の浮田の杜の〜」というような歌があったような、なかったような...。神奈川帰還後、確認したらやはりありましたね。

|大荒木の浮田の森にひく注連のうちはへてのみ戀ひやわたらむ
                            源実朝「金塊和歌集 巻6-496」


 といって、実朝自身は万葉調を殊のほか好んでいましたし、万葉故地を詠むことはさほど意外とも思わず。...が、気になって検索を掛けてみて唖然としました。浮田の杜で35首、大荒木の浮田の杜で11首。流石に、1首々々を洗い出す気力ありませんでしたが、勅撰にも採られているようで、歌枕だったんですね。

 たまさかに大荒木野の浮田の杜の標のなか
 空たゞはしく糸みえずとも         遼川るか

 経ぬれどもなほし果てざる雨に風 祈ひ祷みて知る神また遠し   遼川るか
 (於:浮田の杜 荒木神社、のち再詠)


 車へ戻る途中、菫があちこちに咲いていて斑猫、道教えが跳ねていました。とんだ遭遇だった浮田の杜。いずれゆっくり、関連する歌についても調べたいな、とも思っていますが、今は何をおいても1日も早く、荒木神社がかつての状態に戻れることを、祈らずにはいられません。







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