|
|||
前作で書いた雲梯の杜は、曽我川の流域にありました。曽我川は最終的には大和川に合流して、大阪湾へと注ぐのですが、源流は何処か、と言えば実はこの巨勢のごく近くです。 巨勢の道は、古瀬の地で吉野方面へ行く今木峠越えと、紀伊方面へ行く重阪峠・真土峠越えのルートに分岐していて、その紀伊方面へ少し進んだ重阪の内谷、という土地を源に奈良盆地を北へと流れているんですね。なので、曽我川は古瀬界隈では重阪川、と呼ばれることもあり、同時に能都瀬川や、巨勢川といった別称もあるようです。 余談になりますが、同じように大和川と合流する手前辺りでは、その土地の名前から曽我川は百済川とも呼ばれることがあるらしく、この合流地点は4日目に訪ねています。 さて、能登瀬川。実はこの名前もまた、「万葉集」には登場しているんですね。 |さざれ波礒越道なる能登瀬川音のさやけさたぎつ瀬ごとに 波多朝臣小足「万葉集 巻3-314」 |高湍なる能登瀬の川の後も逢はむ妹には我れは今にあらずとも 作者不詳「万葉集 巻12-3018」 ...これもまた「万葉集」に数多ある謎のひとつだと思いますが、先ず前者。こちらの「越道」が前述している巨勢=越し、という地名の由来から、能登瀬川はこの曽我川のことであろう。そう解釈されていた時期がかなり長かったんですね。 が、大元の万葉仮名が違っていて、一方は「巨勢道」、もう一方が「越道」ということで、この越道は北陸、つまりは越の国へと続く、琵琶湖の湖西を通る道である、と解釈されるように至り、実際の川は現在の滋賀県近江町を流れる天野川のことだ、と言われています。 同様に、後者に関しても「高湍」を仮にコセと読んだとしても万葉仮名が「巨勢」と「高湍」で異なることから、曽我川ではなく、かといって近江の天野川としていいのかは未だ不詳。そう言われています。 余談になりますが、この天野川。さらなる別名に息長川というものもあって、こちらでも万葉歌に詠まれていますね。 |にほ鳥の息長川は絶えぬとも君に語らむ言尽きめやも 馬史國人「万葉集 巻20-4458」 さて、万葉仮名です。面白いので、「巨勢」「越」「高湍」が詠み込まれている歌の原文、万葉仮名での表記もご紹介してみましょう。 |小浪 礒越道有 能登湍河 音之清左 多藝通瀬毎尓 ~~ 波多朝臣小足「万葉集 巻3-314」 原文 |高湍尓有 能登瀬乃川之 後将合 妹者吾者 今尓不有十万 ~~~~ 作者不詳「万葉集 巻12-3018」 原文 |直不来 自此巨勢道柄 石椅跡 名積序吾来 戀天窮見 ~~~~ 作者不詳「万葉集 巻13-3257」 原文 万葉仮名。わたしたちが現在、普通に読んだり眺めたりしている「万葉集」は所謂、訓読万葉というもので、本来の「万葉集」の表記は漢字だけ。これを万葉仮名、といいます。先にも少し触れましたが、古事記や日本書紀も細かな漢字の当て方は異なりますけれど、基本的には万葉仮名で表記されているんですね。そしてこの万葉仮名こそが今現在、わたしたちが使っている平仮名・片仮名の祖となります。 では、表記ではなく万葉期と現代の日本語の響きの差異は、というと拗音・促音が当時はなかったこと、そしてハ行が当時はファ・フィ・フゥ・フェ・フォだった、という2点が挙げられると思います。 拗音・促音は完全なる中国渡来の漢語の影響で、平安期から浸透・普及していったようですね。つまり元々この日本には存在していなかった、輸入文化ということです。...はい、ピンと来られましたでしょうか。拗音に関しては例えば「きょう」を「けふ」と、現代文語でも表記しますし、同じく促音に関しても「立って」は「立ちて」と表記。促音そのものは、むしろ時代を経るに従って一般的になっていった、口語としての音便変化による部分が和語に関しては大きい(外来語は別)ので、とてもよく判るお話だと思います。 一方のハ行。こちらはファがハと定着し始めたのは室町時代あたりから、といわれていますね。...光源氏は「フィカルゲンジ」だった、と。 21世紀の現代、それでもまだ解読されていない万葉仮名は残っていますが、それも全ては、万葉仮名そのものが複雑な体系をしているからです。 澤瀉久孝氏の分類によると、万葉仮名は先ず漢語由来のものと、和語由来のもの、そして戯書、つまりはおふざけでそう表記されたらしきものとの、3系統に分かれるといいます。 また、和語由来のものは、1語を1字で表したもの(例:君・暖/はる、など)と、1語を2文字以上で現したもの(例:年魚/あゆ・丸雪/あられ、など)、1字で書けるものを2字以上で表したもの(例:悲哀/かなし・古昔/むかし、など)に分類でき、漢語由来のものは、漢字をそのまま用いたもの、漢字の音だけ用いたもの、漢字の訓だけ用いたもの、に分けられるそうです。つまり計7系統ということですね。 いずれにせよ、現代国語にもある漢語と和語の併存は、すでに万葉期から始まっていた、ということで世界でも有数の複雑怪奇にして語彙が夥しい、という特徴をもつ日本語の源流が垣間見られますね。...と、巨勢や曽我川はおろか、能登瀬川からさえ、お話がえらく離れてしまいましたが。 曽我川を詠んだ万葉歌です。 |ま菅よし宗我の川原に鳴く千鳥間なし我が背子我が恋ふらくは 作者不詳「万葉集 巻12-3087」 「ま菅よし」は宗我を導く枕詞です。 重阪。巨勢から紀伊へと向かう道筋にある、最初の峠道ですが、ここを源流に流れ始めた曽我川は現在の地名だと、国道309号・奉膳の交差点近くで、別の川と合流します。今木川です。 面白いのが、この今木川を川上へ辿ろうとすると、そのまま吉野、さらには遠く伊勢方面への街道沿いになるんですね。つまり、曽我川の源流部は紀伊への紀州街道沿い、今木川は吉野街道沿い。その2つの川の流れが合流するポイントである奉膳は、そのまま巨勢の追分と呼ばれ、2つの街道の分岐点。前述している南海道は、この吉野街道と紀州街道の総称です。巨勢の追分で巨勢道と南海道がぶつかり、右折すれば紀伊方面、左折すれば吉野・伊勢方面。 当日、実際には見られなかったのですが、この巨勢の追分には橋が架かっていて、袂に今でも 「右かうや、左大峰」 と書かれた道標があるそうです。そして、現在の橋の名前は出会い橋。川と、道と、人とが出会う橋、とでもいう意味でしょうか。 また、この南海道周辺には少しいわくつきの歌枕も存在しています。先に引用させて戴いた、 |紀の国の 浜に寄るとふ 鰒玉 拾はむと言ひて |妹の山 背の山越えて 行きし君 〜 作者不詳「万葉集 巻13-3318」 再引用につき抜粋 の妹の山と背の山です。 少々お話が散漫になってしまいますが、余談ついでに書いておきます。この妹の山や、背の山、妹背の山などの語を詠み込んでいる歌は「万葉集」に15首。幾つかご紹介します。 |これやこの大和にしては我が恋ふる紀路にありとふ名に負ふ背の山 阿閇皇女「万葉集 巻1-35」 |よろしなへ我が背の君が負ひ来にしこの背の山を妹とは呼ばじ 春日蔵首老「万葉集 巻3-286」 |背の山に直に向へる妹の山事許せやも打橋渡す 作者不詳「万葉集 巻7-1193」 |麻衣着ればなつかし紀の国の妹背の山に麻蒔く我妹 作者不詳「万葉集 巻7-1195」 |人ならば母が愛子ぞあさもよし紀の川の辺の妹と背の山 作者不詳「万葉集 巻7-1209」 |我妹子に我が恋ひ行けば羨しくも並び居るかも妹と背の山 作者不詳「万葉集 巻7-1210」 上記引用歌に見られるように、実際の場所はすでに大和ではなく、紀伊。現・かつらぎ町はJR和歌山線の西笠田駅近くで、紀ノ川を挟んだ両岸にあります。 元々は両岸が迫っていることから「狭の山」と呼ばれていたものが、「背の山」と転じ、背がいる以上も妹もいないと、と対岸の山が「妹の山」と呼ばれるようになっていったみたいですね。件の大化の改新の詔では、この背の山が畿内の南限、と定められています。 |およそ畿内とは、東は名墾の横河よりこちら、南は紀伊の背山よりこちら、西は |明石の櫛淵よりこちら、北は近江の楽浪の逢坂山よりこちらを指す。 「日本書紀 巻25 大化2年(646年)1月1日」 ただ、これが古今和歌集になると |ながれては妹背の山のなかに落つる吉野の川のよしや世の中 讀人しらず「古今和歌集 巻15 恋5 828」 と何故か、吉野川沿いの別の山のことになってしまっていて、こちらの方が古典和歌では一般的な歌枕・妹背の山、となります。「八雲御抄」でも妹背山を大和国の歌枕として挙げていて、万葉だけが違うんですね。 こちら吉野の妹背の山は、吉野川を挟んで背山が現住所だと吉野町飯貝、妹山が吉野町河原屋。近くには妹背大橋も、架かっています。 21代集に登場する妹背の山の歌群は12首あるのですが、その中から歌集ごとに1首ずつ。 |君とわれいもせの山も秋くればいろかはりぬる物にぞ有ける 讀人しらず「後撰和歌集 巻7 秋歌下 380」 |むつましきいもせの山としらねばやはつ秋ぎりの立へたつらん 讀人しらず「拾遺和歌集 巻17 雑秋 1095」 |あはてふる涙の末やまさるらんいもせの山の中の滝つ瀬 土御門院「続後撰和歌集 巻12 恋歌2 767」 |我なみだ吉野の河のよしざらばいもせの山の中になかれよ 慈鎮大僧正「続古今和歌集 巻11 恋歌1 1030」 |なかにゆく吉野の川はあせなゝんいもせの山をこえてみるべく 参議篁「玉葉和歌集 巻9 恋歌1 1278」 |我なみだよしや吉野の河となれいもせの山のかげやうつると 津守国平「続千載和歌集 巻12 恋歌2 1259」 |ながれてもうきせなみせぞ吉野なるいもせの山の中河の水 従二位行家「続後拾遺和歌集 巻12 恋歌2 796」 |よそになる人の心のうき雲や妹背の山のへだて成らん 按察使資明「新続古今和歌集 巻15 恋歌5 1465」 また、上記「ながれては妹背の山のなかに落つる〜」の本歌取りとして |春といへばやがて霞のなかにおつる妹背の川も氷とくらし 二條良基「新後拾遺和歌集 巻1 春上 4」 というものまでありますね。因みにこの妹背の川、吉野川のことです。ものはついでですから、さらに書き添えますと「平中物語」の29段。物語中にはもちろん、劇中歌にも2首登場する、という正に平安以降の吉野の妹山・背山は、中々に重要な歌枕だった、というわけです。...万葉ファンとしては、少々複雑なんですが。 |くづれすな妹背の山の山菅の根絶へばかゝる草ともぞなる 「平中物語 第29段」 |山菅は思ひやまずのみ茂げれどもなにか妹背の山はくずれむ 「平中物語 第29段」 万葉に詠まれた妹の山と背の山は、当然ですけれどまだ実際には見ていません。吉野のものは、3日目に車の中から眺めましたけれども。 象ばかり欲りして伝ふとふことのひとなればこに妹と背の山 遼川るか 背の山に直向く妹の山 月と日は天つ空いづへに出づるや 遼川るか (於:天安川神社、のち再詠) −・−・−・−・−・−・−・−・−・− 小高い位置にある、天安川神社の山門前。巨勢の地から続く各地のことをぼんやり考えていたのですが、ごく近くの剥き出しになった崖に何やら空洞がぽっかり。石室、古墳です。全く予定もしていなかったのですが、改めてここが日本最大の古墳密集地であったことを思い出しました。 石室は権現堂古墳というらしく、葬られているのは巨勢ひだ(正しくは「木威」田の2文字でひだ、と読みます)の荒人。何でも川水を田に引いて、その技術を称えられ、皇極天皇の時代にひだ氏という氏族名を賜ったようです。 ...といって、わたし自身はひだ氏についはもちろん、石室などについてはさっぱりだったので眺めている程度でしたが。ただ前作でご紹介した |ぬばたまの斐太の大黒見るごとに巨勢の小黒し思ほゆるかも 土師水通「万葉集 巻16-3844」 |駒造る土師の志婢麻呂白くあればうべ欲しからむその黒色を 巨勢豊人「万葉集 巻16-3845」 |右の歌は、伝へて曰く、 |「大舎人、土師宿禰水通といふものあり。字は、志婢麻呂いふ。時に、大舎人、巨勢朝臣豊 |人、字は正月麻呂といふものと、巨勢斐太朝臣と二人、ともに、こもこも顔黒き色なり。 |ここに、土師宿禰水通、この歌を作りて嗤咲へれば、巨勢朝臣豊人、これを聞き、すなわ |ち和ふる歌を作りて、酬へ咲ふ」 | といふ。 「万葉集 巻16-3845」左注による に登場する巨勢斐太朝臣、と恐らくは何らかの関連はあると思います。そしてこの斐太。往時の地名らしく、斐太の細江と言えばすなわち曽我川であるとも聞いています。...こんな歌もあります。 |白真弓斐太の細江の菅鳥の妹に恋ふれか寐を寝かねつる 作者不詳「万葉集 巻12-3092」 「白真弓」は斐太を導く枕詞。 「斐太の細江の菅鳥(恐らくはツツガドリのこと)のように妻に恋焦がれているからか、眠れないことだ」 道、辻、分岐。八十の街と呼ばれた海石榴市。まだ訪ねてはいない紀の辻。そして巨勢の追分。道と道が交わり、そこを行く人々が交わり、またそれぞれが進む方角へ。 川。それぞれが異なる源より流れ、次第々々に合流し。けれども合流したのちはひとつの川として、分かたれることなく海へ。...何となく、昨夏に訪ねた吉野の夢のわだのことを思い出していました。 会ふがゆゑ分かるゝものか 分かるゆゑ会はるゝものか みづは川 地は道にてゆくかぎり ゆくすゑなるは綿津見か 深き谷かもいさ知らず ゆかば分かるゝものばかり なれどまた会ふものばかり 背面、影面 重ね繰り 日経、日緯 繰り重ね とほきいにしへ神集ふ 天の安河みをとせば 弥日異に降り積もる時 弥遠長き流れとて 弥頻く頻くに夜の明く されば分かれむ さればまた会はむ 会はまくほしを違へじ え会はざるひとふさなりてなほしゆかまくほしければ いめに吹き来る風は陸ゆ 遼川るか (於:天安川神社、のち再詠) −・−・−・−・−・−・−・−・−・− 前述していますが、巨勢を本拠地とした巨勢氏は、蘇我氏と縁続きでした。だからなのでしょう。実は古代史に名を残す大物の墓、と目されている古墳があります。水泥古墳、地元では今木の双墓と呼ばれている南北2つの古墳です。この古墳は珍しいことに、片方が西尾さんという民家の敷地内にあるんですね。やや大きめな水泥塚穴古墳(大陵)が。もう一方の水泥古墳(小陵)も、西尾さんの私有地の中なのだとか。 万葉巡りをしていて、個人宅をお訪ねするというのも不思議な気分でしたが、見学をお願いし、案内してくださる若奥様の後についてお宅の裏手へ。すると、崖状になっている丘の岸壁に、確かに横穴式の石室がぽっかり口を開けていて。 ...大陵です。中に入らせて戴くと、ひんやりした空気と案外広いことに少し驚きました。石棺はなく、ただ周囲の壁がきちんと岩を組み合わせたものだったので、それなりに権力のある人物のお墓だったのだろうな、とは思いましたが。...やはり有力説の通りなのかも知れません。石室を出て、出土した副葬品を展示しているお部屋も見学させて戴きましたが、展示品の中の1つに、金の耳飾があってその大きさにこれまた驚きました。 若奥様にお礼を言って、敷地から60mほど離れた小陵へ。こちらは中へは入れませんでしたが、柵越しに覗き込むと石棺が安置されていて、しかもその石棺には六弁の蓮華紋が彫られていました。...詳しくは知りませんが、かなり珍しいもののようです。 日本書紀にこんな記述があります。 |また国中の百八十にあまる部曲を召使って、双墓を生前に、今木に造った。一つを大 |陵といい、蝦夷の墓。一つを小陵といい、入鹿の墓とした。 「日本書紀 巻24 皇極元年(642年)」 はい、この水泥古墳に葬られたであろう、とされている歴史的大物とは、蘇我蝦夷・入鹿親子のことです。もちろん別説もありますが、明治に書かれた「大和志料」という文献にも2人が葬られた、と記載されていますね。 不思議なもので、昨年の奈良は飛鳥で訪ねた石舞台や、入鹿の首塚ではどうもピンと来なかったのが、蘇我氏が実在していた感触でした。巧くはいえないのですが、何となく映画などの画面の中のものにも近い、奇妙な距離感があったんです。恐らくは体温のようなものが、わたしには受信できていなかったのでしょう。 ですが、ここ水泥古墳を観てようやく蘇我氏かつての実存が身近になった気がしています。 |大和の 忍の広瀬を 渡らむと、足結手作り、腰作らふも 蘇我蝦夷「日本書紀 巻24 皇極元年(642年) 106」 陵を造ったのと同じ年に詠まれた、蝦夷の歌です。わたしが唯一知る彼の歌ですが。この中に詠まれている忍の広瀬もまた、曽我川のことなのだそうです。蘇我と曽我。何かが底流しているのかもしれませんね。 もろひとは蓮のうてなに寝ぬらゆるを違はずに乞ふ 生くるはかなし 遼川るか (於:水泥古墳、のち再詠) |
|||
BEFORE BACK NEXT |