巨勢寺。創立は確かな時期が定かではありませんが、日本書紀にこうあります。

|この日、皇太子・大津皇子・高市皇子に、それぞれ食封400戸を、川嶋皇子・忍壁皇子にそ
|れぞれ100戸を加えられた。15日、芝基皇子・磯城皇子にそれぞれ200戸を加えられた。21
|日、桧隈寺・軽寺・大窪寺に食封それぞれ100戸を、30年を限り賜わった。23日、巨勢寺に
|200戸を賜った。
                 「日本書紀 巻19 天武天皇 下 朱鳥元年(686年)8月」


 「食封/へひと」を与えたのは天武で、彼はこの翌9月9日に他界していますから、まさに最後の務めだったのでしょう。
 それはさておき、この記述によって判るのは、巨勢寺の当時の寺運。かなりの名刹としての扱いではないでしょうか。有力説では、聖徳太子が創立したとなっていますし、敷地内から出土した古瓦は推古様式のものが多いようです。時代的には白鳳・飛鳥の頃とされています。
 跡、というくらいですからお寺そのものは現存していません。現在のJR和歌山線と近鉄吉野線が交差する吉野口駅。その周辺一体に構えていた大伽藍だったらしく、発掘調査では寺域は南北に50m、東西に100m。前述の巨勢氏の氏寺でした。巨勢氏は蘇我氏の縁筋ですから、やはり仏教だったのでしょう、恐らくは。
 今でも当時の痕跡としてあるのは、近鉄とJRの2本の線路に挟まれた塔跡。ここが大伽藍の中心だったようですが、往事の面影はほぼ皆無で、塔心柱の礎石と、小さな大日堂がぽつんとあるだけ。そう事前の下調べで知っていました。

 巨勢に着いて適当な所に車を駐め、一帯を歩いて廻ります。曽我川がゆったり流れ、たまに通過していく列車。線路脇は昔懐かしい感じのさほど堅牢ではない柵が続いていて。春のお昼前、あまりに長閑で鼻息荒くこの地へ乗り込んだことも忘れ、ぽっくらぽっくら地図を片手に...。何度か車が通り過ぎましたが、ぽけっとしていたからでしょう。2回ほどぶつかりそうにまでなる始末。
 近鉄の高架をくぐり、曽我川を渡り、恐らくは地元の自治体が立てているであろう道案内に従って進んでいくと、ゆるやかな坂道になります。塔跡は土壇状になっていたからなのでしょうね。野原の中を少しだけ登り、その右手に見えたのが「巨勢寺塔跡」の石碑と椿の木々、でした。

 実際に訪ねた塔跡は何というのか、わたしが子どもの頃によくあった近所の空き地のような雰囲気で、塔心柱の礎石を真ん中に草が少し生えている地面が広がり、その周囲をまるで生垣のように囲んでいたのが椿。奥には鄙びた大日堂。しかもすぐ隣はJRの線路が柵も何もないまま走っていて。線路の埃で焼けた茶色の砂利が、一層子どもの頃の記憶を彷彿とさせ、初めて来たというのにとにかく、ただただ懐かしくて...。

 余談になりますけれど、初めて来たのに懐かしい。この感覚は、前回の万葉巡りからしてもそうなのですが、わたしの中で2種類に分かれました。1つは子どもの頃の記憶を彷彿とさせる、1種の原風景と言いますか、そういう懐かしさ。巨勢の風景はこちらに分類できますね。ではもう1つは、と言うとデジャヴ、既視感めいて記憶にはないはずなのに、
「ああ、還って来たんだ...」
 と理由なく感じてしまった懐かしさ、です。こちらは前回は1ヶ所だけ。藤原宮跡で感じました。...今回の万葉巡り、巨勢までに訪ねた各地では、未だそういう感慨は得ていませんでしたが。

 お話を戻しまして、お目当てだった椿。様々な書籍の写真やWeb.を事前に眺めていた限り、白い花を咲かせる株もそれなりにあるようでしたが、わたしが見た殆どはごく普通のあの鮮やかな赤ばかり。丁度、塔心柱の跡に椿の花が1つ添えられていて、恐らくは前の訪問者が、写真を撮るために置いたのでしょう。...万葉関連の風景写真では、とかく多い構図ですから。そして、わたし自身もご多分に漏れず、前訪問者が配置してくれたらしきままを、ちゃっかり数枚撮らせて戴いた次第。


 丁度、気持ちのいい木陰だったので、適当な石に腰掛けて歌をぶつぶつ。今回は前回のようにテレコへ録音はしなかったので...、というのも昨秋くらいから自身の古文法の怪しさをしみじみ痛感していたので、下手に詠唱、まして録音などしてしまうと、テープを起こす頃にはしっかり、歌が怪しいまま自身に刷り込まれてしまうんですね。そうなると後から直すのが、どうにも違和感があって。なので、ただひたすらにメモ書きしていました。

 いにしへは弥離りゆき
 天に屋根
 土に柱も見えざれば
 弥継ぎ継ぎに
 弥年に
 弥増す増すにゑみ来る
 花を寄せさせまくほしき
 石の面の涼しきに
 とほき高野に
 あさもよしきいに寄る波つなぎたる
 玉鉾のみち照らすごと
 つらつら椿つらつらに
 時を照らしぬ
 いにしへも
 けふもまた来る春に春に
 いでゑまむかな
 いで散らむ
 いまに在らざる太敷きし柱を偲び
 つらつらにゑめ

 影なくば鄙の浅茅生 世も人も遠く来たりてえいかへらざる   遼川るか
 (於:巨勢寺塔跡、のち再詠)

 讃良も、文武も、中大兄も、有間も。憶良や人麻呂だって、巨勢の椿を眺めたのでしょう。紀伊へと続く長い道程。飛鳥からは、それでもまだそう遠くはないですが、ここから先は重阪峠、真土峠を越えて、高野山方面と熊野古道を経由し、最後は紀伊の海岸線を進む、というルートが恐らくは一般的だったと思います。まさに山あり、谷あり、海あり。そんな道行きです。
 また紀伊だけではなく、巨勢を経由して今木峠を越える、という吉野へのルートも一般的だったようですから、それこそ讃良に至っては30回にも及ぶ吉野行幸の度にこの地を通り、春ならば椿を、夏ならば涼しげな曽我川のせせらぎを、秋ならば巨勢山の紅葉を、冬ならば降る雪を...。きっと記憶の中に刻んでいったのでしょう。
 そして今、巨勢の椿はしっかりとわたしの胸と瞼に刻み込まれています。

 椿は、その光沢のある濃い緑の葉が、それこそ真冬の雪の中でも色を失わないことから、古代の人々はとても神聖視していた、といいます。生命力や霊力、といったあたりでしょうか。ただ面白いのは万葉集では、ちゃんと花を愛でている歌が多いのに対し、21代集になると逆に雪との取り合わせが多くなってきます。花ではなく、葉なんですね。椿という表記も、古事記では「都婆岐」、日本書記なら「海石榴」、万葉になって初めて「椿」となります。
 覚えていらっしゃるでしょうか。前作で触れた海石榴市。かつて歌垣だったあの地で詠まれた歌も椿が関連していましたね。

|紫は灰さすものぞ海石榴市の八十の街に逢へる子や誰れ
                          作者不詳「万葉集 巻12-3101」


 巨勢という土地が何故、椿の名所になったのか。その由来は寡聞にして知りませんが万葉期はもちろん、新勅撰集(1232年成立)にも

|玉椿みどりの色も見えぬまで巨勢の冬野は雪降りにけり
                     刑部卿範兼「新勅撰和歌集 巻6 冬歌 416」


 こんな歌が採られていますから、きっとこの地はずうっと椿に彩られ続けてきたのでしょう、きっと。...いずれ巨勢を訪ねる万葉ファンの方々もこの光景が見られるように、いつまでも、いつまでも椿の木が倒れないことを、祈らずにはいられませんでした。

 こゝといふ条理つらつら椿映ゆ   遼川るか
 (於:巨勢寺塔跡、のち再吟)


             −・−・−・−・−・−・−・−・−・−

 往時の巨勢寺には、寺内坊が2つあったと言います。そして、巨勢寺そのものは現存していなくとも、寺内坊は双方とも健在。正福寺と阿吽寺です。但し、阿吽寺に関しては途中、何度も興亡を繰り返したようで、現在の敷地も巨勢寺の敷地であったであろう範囲から、部分的にずれているみたいですね。
 一方の正福寺は、元々は巨勢寺内の北の坊・勝福寺と言われていたようですが、途中で寺号を改め現在に至っているとか。

 巨勢寺塔跡もそうですが、かつての大伽藍などを支えていた礎石は巨勢、現在の住所表記では古瀬の地のあちこちに現存・点在しています。ごく普通の民家のお庭の、それこそ敷石になっていたり、植え込みに紛れていたり。なので、阿吽寺と正福寺にも複数の礎石が見られ、前者には10個、後者に至っては29個もある、とのこと。先に出向いた正福寺では、専らこの礎石を探して、さほど広くはない境内を結構真剣に見渡してしまいました。


 判り易いものはすぐに見つけられたのですが、庭木の奥や建物の影になってしまっているものは中々見つけられず、何度数えても27個。何だか悔しくも、釈然としないままでいると、お寺へ戻って来られた尼僧さんが声を掛けてくださいました。
「巨勢の資料を差し上げましょうか」
 と。もちろん是非に、とお願いしてさらには29個の礎石の位置も、教えて戴きまして。礎石は、正福寺の敷地全体に点在しているのではなく、お寺の門の周辺に密集しているようでした。

 ...しかし、そもそもの巨勢寺を支えていた柱が、礎石の上に立っていたのでしょうから、それと先に訪ねた巨勢寺塔跡との距離を考えると、かつての名刹がどれほどの規模を誇っていたのかが、自ずから判ります。何でも巨勢寺は、法隆寺形式の建物だったそうです。丁度、泊まっている宿が法隆寺の目の前にあり、今朝出発前にも眺めて来ていましたから、その縮小版のようなイメージを頭に思い描きつつ、礎石と礎石を繋いで頭の中で像を結ぶと、改めて唸ってしまったものです。

 影なくばなほしゆかまくほしざるになにしか石のこゑのなきはも  遼川るか

 木綿花の栄ゆるものゝつねならず 風も真砂もみづも流るゝ   遼川るか
 (於:正福寺、のち再詠)


 「木綿花の」は栄え、を導く枕詞です。

            −・−・−・−・−・−・−・−・−・−

 正福寺を後にして再びぽっくら、ぽっくら。太陽も随分高くまで昇っていて、引っ掛けていた長袖のシャツを脱ぎ、半袖のサマーセーター姿で阿吽寺へ。JR和歌山線の線路を渡る辺りでふと、何だか子どもの頃、夏休みに何度か訪ねたことのある遠縁の家のことを思い出していました。
 似ていたんですね、道路脇のブロック塀や電柱にかかっている看板とか、何気ない民家の軒先とか、そういった些細なものの雰囲気が。...多分、今回廻った各地の中で、歌詠みや万葉ファンとしてではなく、いち個人として1番気持ちが和んだ場所だったと思います。巨勢周辺は。
 横断歩道ではない場所を、通り過ぎ行く車を待ってから渡った国道309号。それに面して見えたのは細い石段でした。阿吽寺です。


 石段を登り本堂へ向かうべく分かれ道を左へ。...そこは、表現するならまさに「赤いトンネル」でした。一体、何本の椿がトンネルを形成していたのか...。ただ、あの目にも鮮やかで、でも深紅よりは僅かに淡い、紅一色の視界。しかも散った椿たちが足元も染め上げていて。
 息を呑みました。気おされてしまって、前に進むのを一瞬、躊躇しそうになりました。お寺というものは得てして南向きに建てられていますから、北側はお寺の敷地で木陰になっていて、南側は国道。陽射しが椿の梢越しに降り注ぎ、椿の花の色を一層際立たせていました。
 恐らくわたし個人としては、あれほど原色に近い色の氾濫を人造物以外で見たことはない、と思います。色彩だけで語るなら、まさに勝手にイメージしている神仙界とも言える光景。今でもそう思っています。
 余談ですが、個人的には椿という花には、これまで特段感慨を抱いていたわけでもなく、花色も紫ではないので特別好きだとも思っていませんでした。でも、流石に艶やかだな、こんなに美々しい花だったかしら、としみじみ思ったものです。

 落ちてしまっている椿を踏まないように避け、張り出した枝に触れて花を落とさないように避け...。距離にしてほんの10数mしかなかったのでしょうけれど、それでも妙に緊張していた所為か、お寺の庭に着いた時は、自然と安堵の溜息が洩れました。聞いた話では、阿吽寺の敷地内には50種400本もの椿が、植樹されているそうです。
 阿吽寺では、お話上手という住職さんに巨勢の歴史など、色々お伺いしたいかな、と期待していたのですがどうも法事か何かの準備中で、お寺の中は慌しいご様子。事前に連絡もしていなかったので、仕方ありません。なので、件の「巨勢山のつらつら〜」の歌碑を観て、軽く境内を廻って再びあのトンネルへ。


 くれなゐに
 深く染みにし風あれば
 またくれなゐに
 深く染み道なす地のあるなれば
 空蝉の世に
 光あり
 かつも暗あり
 夏あれば
 冬またも来ることはりと
 あに違はむや
 違へるを思はむものや
 みなひとも
 移ろふ時も
 世とて波
 いにしへに生り
 けふ寄する幾重の波が
 ひとを生し
 国をも生して
 天地を生せば遍く時なほし波となるらむ
 さればみな
 ゆきて還れよ
 還りてはゆけよ
 廻れよ
 廻れ廻れ
 またえ逢はざることはりなれば
 
 白雪のあはに降る夜もなほし灯るゝその奇
 賜らまくほしとは願はじて

 紫を継ぎて留むるとふも奇や
 海石榴、海石榴、暗きに色を添へむ、世のむた   遼川るか
 (於:阿吽寺・椿のトンネル、再詠)


            −・−・−・−・−・−・−・−・−・−

 巨勢という地名は元々、巨勢山を越える、つまりは山越しの「こし」が転じたものだと言われています。そして、その由来を踏まえているのかな、と感じられる万葉歌が数首。

|我が背子をこち巨勢山と人は言へど君も来まさず山の名にあらし
                           作者不詳「万葉集 巻7-1097」
|直に来ずこゆ巨勢道から岩せ踏みなづみぞ我が来し恋ひてすべなみ
                           作者不詳「万葉集 巻13-3257」
|直に行かずこゆ巨勢道から石瀬踏み求めぞ我が来し恋ひてすべなみ
                           作者不詳「万葉集 巻13-3320」


 これら3首の「我が背子をこち」と「こゆ」は巨勢を導く序詞なんですね。こゆ。つまりは「此処より」という意味ですが、多分に「越ゆ」も懸けてあるように思えます。
「わたしの夫をこらちに来させてくれる巨勢山と人は言うけれど、あなたは来てくださらない。巨勢山とは名ばかり」
「真っ直ぐに行かず(来ず)、此処から来るという巨勢道を通って飛び石を踏み、苦労してわたしは来ました。恋しくてたまらなくなったので/後2者はほぼ同じ歌意」

 前述している交通の要衝としての巨勢。その雰囲気がよく伝わってきますね。その巨勢山は、標高は296m。巨勢富士と呼ばれるくらいに美しい山容を誇るらしく、麓を流れる曽我川と併せて巨勢の谷、つまりは巨勢の里が一望にできるポイント、として推奨されているのが天安川神社です。きっと遠く紀伊や吉野へと行き来した当時の人々の巨勢越えの思いにも似たものを少しは覚えられるのではないか。そんな風にかなりな期待をしていたんですけどね...。
 残念ながら巨勢山は、赤土の斜面が剥き出しの禿山になってしまっていて。流石に落胆は隠せなかったです。


 上記引用の後2者は、実はある長歌への答歌、とされています。

|紀の国の 浜に寄るとふ
|鰒玉 拾はむと言ひて
|妹の山 背の山越えて
|行きし君 いつ来まさむと
|玉桙の 道に出で立ち
|夕占を 我が問ひしかば
|夕占の 我れに告らく
|我妹子や 汝が待つ君は
|沖つ波 来寄る白玉
|辺つ波の 寄する白玉
|求むとぞ 君が来まさぬ
|拾ふとぞ 君は来まさぬ
|久ならば いま七日ばかり
|早くあらば いま二日ばかり
|あらむとぞ 君は聞こしし
|な恋ひそ我妹
                           作者不詳「万葉集 巻13-3318」
|杖つきもつかずも我れは行かめども君が来まさむ道の知らなく
                           作者不詳「万葉集 巻13-3319」


 「紀伊の国の浜に寄る真珠を拾おうと言って、妹の山、背の山を越えていったあの方はいつ帰ってくるのか、と道に立ち夕占をしたら、お告げでは
『お前が待ってる人は沖の波に寄せ来る真珠、岸の波に寄せ来る真珠、それを取ろうとして、拾おうとしてまだ帰ってこないのだ。長ければもう7日、早ければもう2日必要だろう。そう恋しがりなさんな』
 とのことだった」
「杖をついても、つかなくても、わたしは(紀伊に)行きたいのに、道が判らないことだ」

 お判りになりますでしょうか。長歌と反歌は詠み手が女性。「直に来ず〜」は双方とも詠み手が男性。ゆえに反歌ではなく、答歌ということになるんですね。ここでも紀伊の海への憧れと、巨勢道の存在が浮き彫りになって来ます。
 追々書きますが、今回の万葉巡りは記紀から万葉、というテーマとは別に偶然、訪問先に多くなってしまったのが「倭への、倭からの道」でした。難波と紀伊です。
 あさもよしきい。残念ながら熊野灘へ上陸し、八咫烏の先導で倭入りした神武は巨勢道を通ってはいないようですが、紀伊の海を、吉野の川を、人々は求めてこの地に訪れ、そして発っていきました。
 今となっては禿山になり果ててしまった巨勢山。それでも、道は1300年を経た現代でもなお、続いています。

 こに来てはこゆ発ちゆかむ巨勢道ゆ豊秋津島
 直に来ずとも 直に行かずも             遼川るか
 (於:天安川神社、のち再詠)








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