紀の辻。かつて、そう呼ばれた場所があります。万葉の時代、つまりは大和王朝が栄えていた時代、現在の奈良盆地には幾つかの主要な街道が走っていました。南北を往くのは西側から下つ道、中つ道、上つ道、そして東の山裾に山の辺の道。上つ道と山の辺の道は、盆地を東西に丁度、藤原京辺りを走る横大路が南端。中つ道と下つ道は交差してさらに南へ。
 横大路は、東へ行くに従い名前が泊瀬道と変わり、上つ道や山の辺の道は地図上の名前でなら、横大路ではなくこの泊瀬道とぶつかっていたことになりますね。また、横大路より北側では、都祁の山道と竜田越えの道が一本に繋がっていて、現在の大和郡山市辺りで盆地を横断。上つ道と山の辺の道は、この街道との辻が終点で、中つ道と下つ道はこれを越え、さらに北へ。平城京まで続いていました。
 逆に、横大路より南側では、吉野川沿いを走っている南海道。これが紀伊と大和を、繋いでいたんですね。

 この計7本を大動脈に、大和−山城(京都)間を結ぶ峠道が、奈良坂越え(東側)と歌姫越え(西側)、大和−難波間を結ぶ峠道に直越え(北側)、竜田越え(南側)などが伸び、さらには前述している磐余の道(山田道)は泊瀬道と明日香を東から南へと、斜めに結んでいて、やがて下つ道や中つ道とも合流。この辺りで名前が高野道と変わるのですが、その高野道と、かなり南側を走る南海道とを結んでいた道。これが巨勢の道で、高野道と巨勢の道のぶつかる辻が、紀の辻。
 つまり紀の辻というのは、奈良盆地の大動脈であった、磐余・中つ・下つ各道と紀伊を繋ぐ巨勢の道との交差点ということで、万葉期に於ける交通の要衝中の要衝だったということです。
 紀の辻は現在の地名だと、高取町森。実際には見ていませんが、
「左かうやみち」
 という石仏道標もあると聞いています。つまりは巨勢の道、ということですね。


 巨勢。現在の地名では、古瀬と表記していますがとにかく歴史の古い土地です。歴史上、大和王朝の外戚や家臣として、多くの古代豪族が存在しますが、有名な蘇我一族の中に、巨勢氏という豪族もいました。当然ですけれど、巨勢はその巨勢氏の本拠地。ご存知の通り、万葉期というのは大和王朝の事実上、末期に該当する時代のことで、万葉期以前にも大和王朝はずっとあり、その大和王朝前半期、特に栄えていた土地のようです。
 だからなのか、古瀬の地は日本最大規模の古墳の密集地。それも多いのは、御陵ではなく石室です。実際、観て廻っているうちに、予想もしなかった石室に遭遇、なんてこともありました。

 そんな大和王朝前半期はさておき、大和王朝末期、つまりは万葉期。海のない倭の国だからだったのでしょうか。身分の高い貴族たちは、紀伊の海に憧れたようです。さらには温泉も当時から複数あったらしいですから、静養を兼ねて紀伊へ行幸した天皇は天智・天武の母親であった斉明天皇、讃良、文武、の3人。そして、天皇ではないですが、紀伊を語る際に忘れてはならない人物がいます。
 日本古代史に於いて、よく囁かれる言葉に「悲劇の皇子」というものがあります。1人は前作で書いた大津なのですが、もう1人。それが有間皇子です。

 有間。第33代・孝徳天皇の皇子です。孝徳天皇の前任者は皇極天皇で、2人は同母の姉弟。この皇極天皇と舒明天皇の間に生まれたのが、天智と天武ですから、有馬は天智・天武の
血縁上は従兄弟に当たります。
 舒明他界後、皇統を継いだのが后・皇極、その彼女が譲位したのが弟の孝徳でした。時系列で書くと、皇極在位時に起きた蘇我蝦夷・入鹿親子の暗殺事件では、事件直後に皇極が難波へ遷都して譲位。孝徳の即位の後に大化の改新の詔発布、となります。

 ...が、元々は皇極は息子・中大兄皇子への譲位を望んでいたのに対し、中大兄自身が辞退した、という経緯もあり、結局は孝徳の在位中に、中大兄皇子は、太政天皇(皇極)や孝徳の后・間人皇后(天智・天武の同母妹)、さらには立太子していた自身と弟の大海皇子まで、全員揃って飛鳥へ帰らせてしまったんですね。また難波からの飛鳥遷都に関しても、孝徳と中大兄皇子の間にひと悶着あったようです。そして孝徳は失意のまま他界。
 その後を継いで飛鳥にて皇極が、斉明天皇として重祚した為、孝徳の皇子であった有間は、歴史の表街道から外れてしまったわけなんですね。

 蔑ろにされた前天皇の皇子。この立場は当然ですが、ひとつ間違えると命の危険が伴います。有間は、その心中に恨みも辛みもあったのでしょうが、取り敢えずは我が身の安全を図ってか、乱心したフリをしました。そして、その静養として出向いた先が牟婁の湯。現在の南紀白浜の湯崎です。
 やがて有間は朝廷へ帰参し、中大兄に
「病は癒えた」
 と報告しました。その内容が日本書紀に記されています。

|9月、有間皇子は性さとく狂者をよそおったところがあったと、云々。紀国の牟婁の湯に
|行って、病気療養してきたように見せて、その国の様子をほめ、「ただその場所を見ただ
|けで、病気は自然と治ってしまいます」と云々。
                        「日本書紀 斉明天皇3年(657年)9月」


 斉明はこれを覚えていたのでしょう。翌年、彼女は孫の建王(天智と遠野娘の子ども。大田、讃良の同母弟)が僅か8歳にて夭折した傷心を癒す為に、中大兄と共に牟婁の湯へ。この時、斉明の詠んだ歌が、日本書紀にあります。

|山越えて 海渡るとも、おもしろき 今城のうちは忘らゆましじ
               斉明天皇「日本書紀 119 巻26 斉明4年(658年)10月15日」
|水門の 潮のくだり、 海くだり、 後も暗に置きて行かむ
               斉明天皇「日本書紀 120 巻26 斉明4年(658年)10月15日」
|愛しき 吾が若き子を 置きて行かむ
               斉明天皇「日本書紀 121 巻26 斉明4年(658年)10月15日」


 彼女の歌たちに漂う、純粋に孫を失った哀しみ。...ですが、そんな祖母の悲哀とは裏腹に、これが策謀の始まりでした。天皇と皇太子が都を留守にしている、という状況下、さらには世間の政治批判もちらほら聞こえ始めていた、というタイミングです。都の留守官だった蘇我赤兄が、有間に天皇批判を語ります。その諫言にのり、有間はついに謀反を仄めかしてしまい...。
 が、その2日後。赤兄邸にて謀反の決起集会のようなものが開かれるはずが、突然中止。そしてその直後に、有間は赤兄の命を受けた物部朴井連鮪に自宅を囲まれ逮捕。牟婁へ送られてしまいます。

 かつて通った紀の辻、巨勢の道、そして南海道を、容疑者として護送されながら有間は歌を詠みました。

|磐白の浜松が枝を引き結びま幸くあらばまた帰り見む
                            有間皇子「万葉集 巻2-141」
|家にあれば笥に盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る
                            有間皇子「万葉集 巻2-142」


 「磐白の浜の松の枝を結び、道の神に旅の無事を祈っていくが、幸いに何事もなければ、またこの地に立ち帰って来よう」
「家にいる時はちゃんと器に盛って神にご飯を手向けるのだが、旅の途中なので椎の葉に盛って捧げることだ」

 枝を結ぶ、というのは当時の風習的呪術で旅の安全を祈る行為ですね。同様の意味に草結び、もあります。もっとも、草結びには他にも物事を始めるとか、婚約する、などの意味もありますが。
 そもそも、何かを結ぶというのはその結び目に自らの魂も結び留める、ということで、後にまた結んだものに巡り会えると信じられていたんですね。

 やがて有間は斉明4年(658年)11月9日牟婁に到着。すぐさま始まった中大兄による、謀反についての尋問に対し、彼はこう答えました。
「天と赤兄と知るらむ。吾全ら解らず」
 お天道様と赤兄が知っているでしょう、わたしは何も知りません...、と。つまりは、赤兄を裏で動かしていた、あなた(中大兄)が全て知っているでしょう、そう彼は言いたかったのでしょう。有間の抗議がよくよく籠っているひと言だ、と感じます。
 尋問は済むも何の処分もないまま、有間は大和への帰路に就きます。そして迎えた11月11日。彼の後を追った丹比小沢連国襲により、藤白坂にて
「絞らしむ」、
 つまりは絞首。藤白坂は現在の海南市。熊野九十九王子の37番目、藤白神社の近くのようです。


 時に、有間はまだ、たったの19歳。一方の中大兄皇子は14歳年上の33歳。大津のように直接の皇位継承権が絡んでいたのならばまだしも、もはや皇統の主流から外れた幼い皇子を、陥れる必要性なんてあったのでしょうか。...有間の悲劇は、粛清とも違う、ある種の見せしめ的要素があるように、わたしには感じられてしまいます。
 そして同時に、大化の改新が達成していたとは言え、見せしめが必要なくらいまだまだ当時、世相は安定していなかった、ということなのかも知れませんね。

 やがて時は過ぎ、壬申の乱も経て、都は飛鳥から藤原へ。有間誅殺から43年後、大宝元年(701年)9月。時の天皇だった文武は祖母である太政天皇の讃良と一緒に紀伊へ行幸します。続日本紀によれば牟婁入りは10月9日とありますね。
 この時、従駕していた長忌寸意吉麻呂が有間を偲んで詠んだ歌です。

|磐代の岸の松が枝結びけむ人は帰りてまた見けむかも
                        長忌寸意吉麻呂「万葉集 巻2-143」
|磐代の野中に立てる結び松心も解けずいにしへ思ほゆ
                        長忌寸意吉麻呂「万葉集 巻2-144」


 「磐代の崖の松の枝を結び無事を祈った皇子は、再び帰り松の枝を見たのだろうか」
「磐代の野中に立っている結び松よ。わたしの心もその結び目のように解けぬまま、昔のことが思われるよ」

 既にこの頃には、事の真相が人々の口に語られ始めていたのでしょうね。この長忌寸意吉麻呂だけでなく、山上憶良も有間を偲んでいますし、人麻呂歌集出典歌にも、同様のものがあります。

|鳥翔成あり通ひつつ見らめども人こそ知らね松は知るらむ
                           山上憶良「万葉集 巻2-145」
|後見むと君が結べる磐代の小松がうれをまたも見むかも
                柿本人麻呂「万葉集 巻2-146 柿本人麻呂歌集より選」


 「有間皇子の御魂は空往く鳥のように、いつも行き来しながらこの地を眺めていて、人々はそれを知らなくても結び松はちゃんと知っているのだろう」
「後で見よう、と思い有間皇子が結ばれたこの松の枝を、皇子は再びご覧じられたのだろうか」
 余談ですが、人麻呂歌集よりの歌。「万葉集」に作者名は明記されていませんが人麻呂作、と断定してしまっていいでしょう。と言いますのもこの歌の題詞に

|大寶元年辛丑、紀伊國に幸しし時、結び松を見る歌一首
                         「万葉集 巻2-146」 題詞による


 とあり、天皇の行幸に従駕できたのは流石の柿本氏でも、人麻呂本人だけだったでしょうから。

 麻裳よし紀伊の浦々伝ひゆき
 懸けまくほしき玉の松
 ときじき色の移ろはず
 あを深ければ
 経る年のよろづちよろづ過ぎたれど
 若きまにまに在る影と
 違はざるゆゑみなひとの
 触れまくほしや
 またひたに見まくほしきをなほし思ひ
 綿津見のすゑ
 五百重なる波はろはろに越えゆかば
 あらましきとふ国を思ふ
 常世の国を思ふかぎり
 君が結びし磐代の松のこぬれの
 あな見まくほし
 
 結びてはなほし結べど常しくに在るものゝなし
 けふゆく道も君と違はず            遼川るか
 (於:巨勢へ向かうR309号途上、のち再詠)


 43年。...きっと、それに要する時間の長さは様々でも、真実というものはそれなりのタイムラグがなければ浸透も、理解もされないのでしょう。渦中では人は冷静な判断力を失ってしまいますし、飛び交う推測や流言の上に、それぞれが、それぞれの推測を併せ、重ね、積み上げ、そうして全く別の視界を形成してしまう。ままありがちなことです。
 同時にそれは、語る側にも言えることで、渦中に於いて語ったことは動揺のままに定まらず、傍目にはあまりに不安定なもの、と映るのでしょうね。

 「万葉集」を通読していると、こういうそれなりの時差を経た後に詠まれた歌、今だから語れる胸中を表した歌、リアルタイムゆえに匿名で詠んでいる歌などなど、やはり当時の人々にも公と私に対する時間的境界が存在していたのが、よく判ります。代表例なら、前作でご紹介した穂積が但馬を詠んだ「吉隠の〜」とか、長屋王の息子・膳夫王への作者不詳の悲傷歌「世間は空しきものと〜」、そして上述の有間関連の歌群などあたりでしょうか。

 流石に現代社会と違い、そもそも紙というものが希少価値だった時代です。公的文書でも余程のものでなければ、記録関連は全て木簡か竹簡に記されていましたし、万葉歌に関しても宮中に於いてきちんと上奏されたものならまだしも、ごく私的に詠まれた歌などは、「万葉集」に採られたから、「万葉集」があったからこそ現存していられるわけで、「万葉集」がなかったら、現代には存在していなかった歌たちばかりだったでしょう。
 ですから、当時の人々にとって謡うことの意味が、どこまで社会性を帯びていたのかは、推測の範疇をでられませんが、少なくとも現代社会など比べようもないくらい、誰もが歌を詠み、それが当たり前だったのですから、歌そのものに詠み手の公と私、という時間的境界が存在していても不思議はないと思います。

 文武の紀伊行幸。同行していた讃良はどんな気持ちで従駕のものたちの歌を聞いていたのでしょうか。大津に関してなら、中大兄が有間にしたのとほぼ同様のことを自らもしているわけで、有間を偲ぶ人々の歌が、彼女の胸にほんの少しでもいいから、自責の念のようなものを喚起していたのなら、わたし個人としてはほっと出来るのですけれどね...。

 有間については、本当はきちんと紀伊へ行ってから書こうと思っていました。ただ、それだと一体何年先になるのやら見当もつかなかったので、敢えて今書いてしまいます。巨勢、という地とは少しばかり離れていますけれどもね。
 ただ、この文武・持統太政天皇の行幸の際、紀伊ではなく通過点の巨勢にて従駕の坂門人足が有名な歌を詠んでいます。

|巨勢山のつらつら椿つらつらに見つつ偲はな巨勢の春野を
                            坂門人足「万葉集 巻1-54」


 「巨勢山のつらつら椿よ、つくづく愛でながら巨勢の春の野の眺めを、偲ぼうではないか」

 また、この歌の異伝として「万葉集」に採られているのが、こちら。

|川上のつらつら椿つらつらに見れども飽かず巨勢の春野は
                           春日蔵首老「万葉集 巻1-56」


 「川のほとりのつらつら椿よ、つくづく見ても飽きない。この巨勢の春の野の眺めは」

 つらつら椿の「つらつら」は、椿の木が連なっていることとも、椿の花や葉が連なり重なり合っている様を表しているとも、言われています。そして、この2首から判るように巨勢と言えば椿。そう椿の花の名所なんですね。
 訪問時はまさにその椿のシーズン。当然ですが期待していました。そして、実際にこの目で見た巨勢各地は、本当に椿、椿、椿。椿の花で赤いトンネルにすらなっていた場所もありました。


 巨勢で訪ねたのは、巨勢寺跡、正福寺、阿吽寺、天安川神社、そして水泥古墳。先ず、何はさておき巨勢寺跡へと急ぎました。







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