恐らく、万葉関連で奈良県内の各地について記述している書籍ならば、確実に挙げる代表的な地名には、奈良(市内)、吉野、明日香、泊瀬、山の辺の道、石上布留、などがあるでしょう。そして、それらと並び挙げられるのが、巨勢と葛城。
 そう、前回の万葉巡りで完全に落としてしまった、空白のままで残してしまった巨勢と葛城は、とにもかくにも今回の万葉巡りのメイン中のメイン。ここを観て廻らずして、一体全体他に何処へ行けというのか。...と自身でも鼻息が少々荒くなっていることも承知の上で、奈良入りしたのが正直なお話。昨秋から、行きたくて、行きたくて、ウズウズしていた憧れの地への訪問が、ようやく叶うからなのでしょう。自然、早朝から目が覚めてしまった2日目は、お天気も気持ちよく晴れ渡り、否が応でも気分が高揚していました。
 
 巨勢や葛城は、奈良盆地のほぼ南西端。斑鳩の宿からでは結構な移動距離になるので、7時前には出発。ひたすら南を目指します。詳しくはそれぞれの見学地にて書きますが、万葉そのものを語るのならともかく、記紀から万葉へという流れを追いかけるのなら、紀伊から大和へと続く道筋に位置する葛城と巨勢こそが、何よりも優先されるべき最重要地点となるでしょう。
 そんな葛城・巨勢へ出向く前に、最初に立ち寄ったのは御所市富田。「万葉集」とは無関係になってしまいますが、国見山麓にある倭建白鳥陵です。

 倭建命。本当の名前は古事記に曰く「小碓命/おうすのみこと」といい第12代景行天皇の息子です。...といって一般的に、知名度に於いては父親の比ではなく、速須佐之男命・大国主命・倭建命といったら、ジュニア版の「古事記物語」にすら確実に登場する古事記3大スターですから、古典に興味のない方でも、それなりにご存知の存在と思います。...余談ですが次点は山幸、こと「火遠理命/ほおりのみこと」あたりでしょうか。
 簡単に、倭建命関連の古事記の内容を纏めてみます。

 景行天皇の皇子であった彼はある時、父親に言われます。
「お前の兄(大碓命/おほうすのみこと)はどうして朝夕の食事に出て来ないのか。出て来るように伝えなさい」
 けれども何日経っても大碓命は出て来ない。再び父は彼に訊きます。
「ちゃんと伝えたのか。一体、どんな風に伝えたのか」
 すると彼はこう答えました。
「伝えましたよ。兄が手洗いに入っていたので出て来るのを待ち受けて、掴み潰して手足をバラバラにして捨ててしまいました」
 と。...これを聞いた父は大層、彼の荒い性格を恐れ、朝廷に服従しない西方の熊曾平定に彼を向かわせました。

 時に倭建命は15、6歳。まだまだ幼さの残る容貌で、熊曾では女装によって本懐達成。さらには各地の山や川の神まで服従させて帰参。
 ならば、と父・景行は続いて東方の平定を彼に命じます。東国への道すがら、叔母で伊勢の斎宮だった倭比売命に草薙の剣と御嚢を賜り、敵地潜入。相模国では火攻めに遭いながらも、御嚢の力にて切り抜け、走水の海(現・神奈川−千葉間の浦賀水道)を渡る際は、海峡の神に阻まれるも后・「弟橘比売命/おとたちばなひめのみこと」が入水することで難を逃れ上総上陸。そこから常陸国、つまりは現在の筑波山の方まで平定して、再び相模国を通過。足柄峠では峠の神に食べていたニンニクをぶつけて撃退し、続いて甲斐国へ。ここで詠んだ歌の掛け合いが、前作で引用させて戴いた

|新治 筑波を過ぎて幾夜か寝つる  
               倭建命「古事記 中巻 26 景行天皇5 倭建命の東国征伐」
|日日並べて夜は九夜 日には十日を 
              御火焼翁「古事記 中巻 27 景行天皇5 倭建命の東国征伐」


 です。さらに信濃、尾張と進み、尾張では「美夜受比売/みやずひめ」を娶り、携えていた草薙の剣を彼女に預けて、伊吹山の神を討ちに出かけました。

 伊吹山麓で白い大きな猪に出会った倭建命は
「この猪は山の神の遣いだろう。帰りに討てばいい」
 そう言って山を登り始めると、山の神は激しい氷雨を降らせ、彼を惑わせました。猪は神の遣いではなく、神そのものであったからです。仕方なく山を降りた彼は重い病になり途中、何度も身体を休めつつ伊勢−大和の境である能煩野に到着。ここで歌を詠みました。

|倭は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭し美し
                   倭建命「古事記 中巻 31 景行天皇7 望郷の歌」
|命の 全けむ人は 畳薦 平群の山の
|熊白檮が葉を 髻華に挿せ その子
                   倭建命「古事記 中巻 32 景行天皇7 望郷の歌」
|愛しけやし 吾家の方よ 雲居立ち来も
                   倭建命「古事記 中巻 33 景行天皇7 望郷の歌」
|嬢子の 床の辺に 我が置きし つるぎの大刀 その大刀はや
                   倭建命「古事記 中巻 34 景行天皇7 望郷の歌」


 「畳薦」は平群、を導く枕詞。

 そして絶命。倭にいた后や皇子たちが、能煩野へ駆けつけ、その地に陵を造りました。すると彼の魂は大きな白鳥となり、伊勢から河内の国へ。追いかけた后たちはその地へもまた、陵を造ります。すると、白鳥は再び空高く舞い上がり、何処か遠くへ飛び去ってゆきました。
 ...かなり大雑把で恐縮ですが、これが古事記の要約になります。

 一方の日本書紀では内容も幾つかの点で食い違っていますね。詳細は割愛させて戴きますが、敢えて書き添えたいのは2点。先ずは件の絶歌ですが、日本書紀では詠み手は彼ではなく、父親の景行になっています。

|愛しきよし、我家の方ゆ、雲居立ち来も。
                       「日本書紀 巻7 景行17年(87年)3月」
|倭は 国のまほらま。畳なづく 青垣、山籠れる 倭し麗し。
                       「日本書紀 巻7 景行17年(87年)3月」
|命の 全けむ人は、畳薦 平群の山の
|白橿が枝を 髻華に挿せ。此の子。
                       「日本書紀 巻7 景行17年(87年)3月」


 詠んだ場所も「子湯県/こゆのあがた(現・宮崎県児湯郡)」となっています。

 続いてもう1点。それは日本武尊(日本書紀では、倭建命は左記の表記となります)が能煩野にて絶命後、先ずはその伊勢国能煩野に陵が造られる、という処までは同じなのですが、

|伊勢国の能煩野の陵に葬られた。そのとき日本武尊は白鳥となって、陵から出
|て倭国をさして飛んでいかれた。家来たちがその棺を開いてみると、衣だけが
|空しく残って屍はなかった。そこで使いを遣わして、白鳥を追い求めた。倭の琴
|弾原(奈良県御所市富田)にとどまった。それでそこに陵を造った。白鳥はまた
|飛んで河内に行き、古市邑(大阪府羽曳野市軽里)にとどまった。またそこに陵
|を造った。時の人はこの三つの陵を名づけて、白鳥陵といった。それからついに
|高く飛んで天に上った。それでただ衣冠だけを葬った。
                         「日本書紀 巻7 景行43年(113年)」


 はい、古事記では2ヶ所しか記載されていない倭建命の陵が、日本書紀では3ヶ所となり、その日本書紀にしかない倭国琴弾原の陵こそが、万葉巡り2日目の最初の訪問地、となります。


 南へ、南へ。斑鳩からひたすら走り続けている間中、右手には生駒、ニ上、葛城、金剛といった山並みが連なっていました。あれら山の向こうは、おしてるやなには。進行方向には巨勢と吉野の峰々が広がりその先は、あさもよしきい。
 この日は、前日のように肌寒くもなく、以降のように雨にも祟られることなく、正に初夏の陽気で車窓から飛び込んでくる次第に濃くなる緑の色と、眩しいくらいの陽射しが、何となく昨夏の吉野へ向かう途中を彷彿とさせていました。
 国道309号、富田の交差点から畑の中の道へ入り、少し周囲を廻っているうちに見つけた日本武尊白鳥陵、の立て札。丁度、畑を1つ取り囲むような形に道があって、その畑の奥にこんもりした茂みがありました。あの茂みがそうなのでしょう。
 ただ、道案内の立て札はあれど、御陵特有の宮内庁看板もなければ、門もなし。正直、何処から見学していいかも判らず、取り敢えず畑を突っ切って茂みの反対側へ行ってみると...、ありました。看板と門、そして「日本武尊琴弾原白鳥陵」の石碑も。

 志貴の存在は知らなくとも。天武・持統夫妻の名前は覚えていなくとも。それでも倭建命、という名前ならばそうそう知らない人もいないだろうに、彼の御陵は狭い立地に無理矢理造った、というような印象が漂うほど見つけ辛く、そして地味でした。事前の情報収集でも、地元の人にでも訊かないと見つけられない、とは知っていたのですが、まさにそのもので、傾斜もきつめな獣道の途中に、まるで世間から隠れるように古代史の英雄の墓所はありました。
 もっとも倭建命に関しては、三つの白鳥陵の他に、尾張熱田にも御陵がありますし、少なくとも能煩野と羽曳野の御陵はかなり大きいようですから、1ヶ所くらいささやかであってもいいように、わたしは思ってしまっています。

 というのも、どうも倭建命という人は古事記を読む限り、速須佐之男命や大国主命と違って粗野な印象だけが強く、わたし個人としてはそれほど偉大な人物像には感じられないんですね。幼少期に読んだジュニア版・古事記物語から入ってしまった所為か、何だかとても素晴らしい、自分とは凡そ違う遠い人、という先入観のままジュニア版ではない、一般的な古事記を初めて通読した時の違和感は、中々に衝撃的でした。曰く
「つい有頂天になって慢心した末に神様の怒りを買ってしまった、もの凄く人間臭い人なんじゃ...。本当は、お父さんに愛されたくて仕方なかった、寂しがり屋だったんじゃないかしら...」
 と。だからなのか、個人的には倭建命という人には、何とも親しみというか、共感させられてしまうんですね。といってそれは、神話に名を残す英雄としてではなく、つい勇み足をしてしまったちょっぴり愚かな人として、なのですが。
 古事記の要約では端折りましたが、彼にはこういう説話もあるんですね。熊曾を討っての凱旋。なれど父・景行は間を置かずに東方平定を命じました。それを受けたものの彼は胸中複雑で。なので伊勢の叔母・倭比売命にこんなことを洩らしています。

|〜「天皇既に吾死ねと思ほす所以か、何とかも西の方の悪しき人等を撃ちに遣
|はし、返り参上り来し間、未だ幾時も経ぬに、軍衆をも賜はずて、今更に東の方
|十ニ道の悪しき人等を平らげに遣はすらむ。此れに因りて思惟へば、猶吾既に
|死ねと思ほし看すなり」とまをしたまひて、患へ泣きて罷りたまふ時、〜
                倭建命「古事記 中巻 景行天皇5 倭建命の東国征伐」


 「〜『天皇はわたしなんて死んでしまえばいい、と思っているからでしょうか。そうでなければ西方平定にわたしを遣わせ、帰参してまだ幾らも経っていないのに、兵士も下さらないで今、東方の平定に遣わせるのでしょうか。それを考えるとやはり、天皇はわたしなんて全く死ねばいい、とお思いになっているようです』
 と申された。嘆き悲しみ、そこから退出しようとした時に〜」

 この少しいじけているとも、とれなくない彼の素顔があるからこそ、件の絶歌が一層際立ってきます。

「倭国は国々の中でも最もよい国だ。重なり合った青い垣根の山に籠っている倭は美しい国だ」
「命が無事な人は平群の山の大きな樫の木の葉を簪として挿しなさい、お前たち」
「ああ懐かしい、我が家のほうから雲が湧き起こってくるよ」
「乙女の床の辺りにわたしが置いて来た太刀よ、ああその太刀よ」
                    注:古事記収録の歌を現代語訳しています。

 誇ろへば空、産土も離れゆけり
 世の果て見しも
 知らざるはうらのかぎりと覚ゆれば
 咎めらるゝて知りたるも
 うらのかぎりと覚ゆるに
 とほき産土なほし恋ひ
 土に倒れて臥したれば
 祈ひ祷むごとを謡ひしも
 ますらたけをは堕ちて絶ゆ
 神あなづりて霊をもて祓へとしたるか
 白妙に鳥は飛びゆく
 渡らむと
 渡らまくほし
 見まくほし
 なほし願へる子らが手を遠き纏向
 うちひさす日代宮も
 かぞをこそ
 世人言ひたるますらをゆ
 懐かしけれや
 懐かしく
 なほも懐かし
 けだしくも知れる御霊に欲りたきは
 神にあらざり
 ますらをにあれどあらざる
 ひとの子を愛づる世の空
 あをき空のみ

 空蝉のひとの子なべて手弱くもありをこなりて
 そを愛でざらばなにをか愛でむ         遼川るか
 (於:大和武尊琴弾原白鳥陵、のち再詠)


 本当は早く倭に帰りたかったのでしょう。そもそも東方平定になど行きたくはなかったのでしょう。でも父親の命ならば、それが父親の望みならば、と出征。出来得る限りのことをして国に、王朝に、そして天皇である父親に貢献したかったのでしょう。続く苦難の中、本懐を達成すれば誰とてつい、気も緩んでしまうでしょうし、婚礼の後なら有頂天にだってなるでしょう。

 だから犯してしまった慢心...。白鳥となった彼の魂が何故、懐かしいかつて暮らしていた巻向の日代宮へは行かずに、琴弾原や軽里に立ち寄り、そして天に帰っていったのか。そこに微かな逡巡を見ようとするのは、薄甘いセンチメンタリズムに過ぎない、とは判っているのですけれどもね...。

            −・−・−・−・−・−・−・−・−・− 

 お話は変わって上代歌謡、という言葉があります。一般にこの範疇とされるのは日本書紀収録の128首、古事記収録の112首、風土記収録の25首、続日本紀収録の8首、仏足石歌碑に刻まれている21首、日本霊異記収録の9首などなど、そしてもちろん万葉歌。つまりは奈良時代末までの文献に収録されている歌の総称、ということですね。

 また、上代歌謡の種類も様々ありまして、祝祭儀礼歌、集団歌舞歌、作業歌、遊行漂泊芸謡、宮廷化芸謡...、と種類はもちろん、分類の仕方に至るまで様々です。
 さらには歌体も、短歌なり、長歌なり、旋頭歌なり、の定型のものもあれば、破調のものあり。要は大元が集団生活に於ける1つの役割を担った、詠み手も聞き手も集団全体、というあくまでも民謡なり、芸謡なりの「歌謡」であった時代は、歌にはさほど韻律に既定はなかった、ということになります。
 それが時代を経るに従って、各個人が自らの胸中を文字化し、謡い表す、創作的立場を主体とした叙情詩である「詩歌」へと変質。その中で自然と定型が浸透・慣例化していったのでしょう。

 同時に、この民間に伝承され続けていた集団的歌謡が、個人による叙情的詩歌へと変わっていった1つのキーワードに、宮廷歌人の存在があることは疑うべくもない、と感じます。前作で書きました通り、恐らく我が国最初の専門宮廷歌人は、それと明らかな存在ならば、額田が挙げられるのでしょうが、それ以前にも宮中に於いて個人詠された歌は数多あります。
 また、人麻呂に関して柿本氏や猿女氏の、氏族としての職についても書きました。つまり、集団生活に於ける車座の中で、それぞれが掛け合って作り上げられた歌は、けれども例えば農耕の作業歌のようにちゃんと役割というか、効能のようなものがあったわけで、それが王朝という国家体制が確立・安定・巨大化していく中、大元の掛け合い的要素が薄れ、効能のみが重用されて。
 結果、それを職とする氏族も現れれば、巧みな詠み手はそれ専用の個人職も与えられた、と考えるのは決して無理筋ではないと思われます。

 やがて歌はその効能すらも薄れていき、最終的に残ったものが、創作的「詩歌」というレゾン・デートル。あくまで私見ですが、この流れには当然、中国渡来の漢詩の創作性や定型要素の影響もあるように感じられますし、ゆえに歌は貴族の嗜み、言い換えれば1つの文芸もしくは文学として、発展していったのではないしょうか。
 ...ウタというものが「謡」から「歌」へと移り変わった背景には中央集権・専制君主という国家体制の影響もとても色濃い。そんな風に個人的には思えます。
 ゆえに、その歌謡ではない、詩歌としての歌をも併せて最初に編んだものが「万葉集」となりますし、その「万葉集」にですら既に採っていない、もしくはごく僅かな首数しか採られていない歌体は、早くも万葉期には衰退し始めていたか、詩歌としてではなく、歌謡としてあり続けた、ということになるでしょう。
 前作でも少し触れましたが、「万葉集」に採られている歌体は、短歌、長歌、旋頭歌が主で、仏足石歌はそう明言できるのは1首だけです。...結句の異伝があると記述されている数首は、それが異伝ではなくて仏足石歌の結句(575777の6句目)ではないか、とも考えられてはいますが。
 そして、上代歌謡でありながら、「万葉集」にはついぞ採られなかった歌体があります。それが片歌、577という19文字の歌体です。
 片歌は記紀に複数採られていますが、中でも
「片歌である」
 と注釈されているものまで古事記には登場します。つまり、もう当時からこの歌体は片歌という名前で周知されていたわけですね。

|汝が御子や 終に知らむと 雁は卵生らし
                建内宿禰命「古事記 下巻 74 仁徳天皇 7 雁の卵」


 こちらで、本文中に「此は本岐の片歌なり」と明記されています。また倭建命御製の3首目、「愛しけやし〜」も古事記本文中に「此は片歌なり」とありますね。

 片歌の掛け合いが旋頭歌、というのは前作でも書いていますが、片歌同士ではなくとも、上記2首の片歌は、必ず前か後ろに別の歌が存在し、前の歌の続き、もしくは後の歌へと続く、という性質を持っているようです。
 件の望郷歌数首も日本書紀収録のそれと比べれば、続きものというのも納得がいきますね。つまり、「倭は〜」と「命の〜」が古事記では「国思歌/くにしのびうた」とされていて、「愛しけやし〜」はそれに続いて詠んだ歌、されているのに対し、日本書紀では「愛しけやし〜」が冒頭に来て、続く2首も含めて3首で国思歌、とされていますから。

 連句、と言いますかその原形の俳諧之連歌の祖、とされているのが前述の倭建命と御火焼翁の掛け合い(歌体は片歌の掛け合い)とされているのも、何となく判るお話です。
 少し余談なりますが、この連歌。「万葉集」にも1首だけ採られていますので、ご紹介しておきます。

| 題詞:尼、頭句を作り、大伴家持、尼に誂へられて末句を続きて和する歌一首
|佐保川の水を堰き上げて植ゑし田を(尼作る)
|刈れる初飯はひとりなるべし(家持続ぐ)
                              「万葉集 巻8-1635」


 歌謡から詩歌へと変容していった和歌の流れ。では歌謡は廃れてしまったのか、と言えばそんなことはなく、歌謡は歌謡のままで民間で、主に口伝という形で受け継がれていきました。
 口伝なのですから文献は殆どなく、神楽や風俗歌として歌われていたのでしょうが、きちんと編まれ、文字化されたもの、となると平安末期の梁塵秘抄まで皆無ではないでしょうか。...といってその梁塵秘抄も、大部分は散逸しているままなのですが。

 梁塵秘抄。平安末期から流行し始めた今様歌、というものがあります。歌体は57575757の48文字か、47474747の44文字、さらには58585858の52文字などなど。ですが、梁塵秘抄の「口伝集 巻10」にて「只の今様」とか「常の今様」と呼んでいるらしき基本形は、57575757の48文字となります。
 白拍子などの女芸人たちが実際に唄い広め、流行した今様歌は彼女たちが貴族社会へも頻繁に出入りしていた為に、そちらにも流布。そして今様歌をこの上なく好んだのが後白河院で、彼自らも幼少期より白拍子たちを召しては、今様の習得に精励し、最終的には自身が今様界の第1人者となったほど。梁塵秘抄はそんな彼のある種、自叙伝めいていると言っても支障ないと思います。

 ...と、何だか万葉から一気に時代が下ってしまいましたが。ともあれ、そういう歌謡的要素の強い歌は「万葉集」にも歌体は別としてちゃんと採られています。実は、前述した乞食者の歌も、それに該当するんですね。先にご紹介しなかった、残るもう1首の乞食者の歌も引用しておきます。

|いとこ 汝背の君
|居り居りて 物にい行くとは
|韓国の 虎といふ神を
|生け捕りに 八つ捕り持ち来
|その皮を 畳に刺し
|八重畳 平群の山に
|四月と 五月との間に
|薬猟 仕ふる時に
|あしひきの この片山に
|二つ立つ 櫟が本に
|梓弓 八つ手挟み
|ひめ鏑 八つ手挟み
|獣待つと 我が居る時に
|さを鹿の 来立ち嘆かく
|たちまちに 我れは死ぬべし
|大君に 我れは仕へむ
|我が角は み笠のはやし
|我が耳は み墨の坩
|我が目らは ますみの鏡
|我が爪は み弓の弓弭
|我が毛らは み筆はやし
|我が皮は み箱の皮に
|我が肉は み膾はやし
|我が肝も み膾はやし
|我がみげは み塩のはやし
|老いたる奴 我が身一つに
|七重花咲く 八重花咲くと
|申しはやさね 申しはやさね
                           乞食者「万葉集 巻16-3885」


 「万葉集」をつくづく凄い。そう感じてしまうのは、まさにこういう処です。続く21代集はどうしても貴族社会に片寄ったものになってしまっていますが、それはやはりまだまだ、和歌というものの黎明期。混沌から流動、そして固定化する過渡期に編まれたものだからこそ、仏足石歌もあり、歌謡として受け継がれていった歌垣の歌あり、今様歌への魁とも言える遊行漂泊芸謡あり、連歌もあり...。けれども大筋では詩歌としての和歌を確立したものでもあり。

 全ての「謡」も「歌」もそのルーツを手繰っていけば必ず、行き当たるもの。それが「万葉集」なのだ、と倭建命琴弾原白鳥陵でぼんやり考えていました。足元の草はまだまだ朝露に濡れていて、あちらこちらに著莪など様々な花が、静かに咲いていました。
 東、太陽の方向を眺めると、国見山と思しき丘陵がぽつんと見え...。もしかしたら、いち素人歌詠みとして、いち万葉・古典ファンとして、自分はとんでもなく贅沢な時間を味わっているのではないだろうか。
 そんなことも考えていました。

 国見山ひむがし匂ふあまつひのもと         遼川るか

 かまけくもかくもさきはふ時あるなりか       遼川るか

 俳優ならば奏づるを 琴弾きならば弾き遊び
 笛吹きならば鳴し鳴せど 歌詠みなるにいざ詠まむ   遼川るか

 いにしへなれば象もなく たをやめぶりは片去りぬ
 よひと謡ひし字なければ ますらをぶりはなべてあり  遼川るか
 (於:大和武尊琴弾原白鳥陵)


             −・−・−・−・−・−・−・−・−・−

 さて、実際にした万葉巡りの行程とは少し離れてしまうのですが、ちょっとした閑話と言いますか、奈良より戻ってからの後日談をひとつ。

 実は今回の万葉巡りでは、神奈川帰還後に発覚した痛恨のミス、というものがありました。そもそもこの2日目の行程、最初に組んだ計画では、白鳥陵のあとにある神社へと出向く予定だったんです。
 波多甕井神社(延喜式神名帳では甕は、「瓦長」という字になってるようです)。ですが、特段思い入れがあるわけでもない万葉歌に登場する、旗野という地名に縁があるらしいから、というだけで候補に入れていたんですね。偶々、巨勢・葛城方面の万葉散策の本に載っていましたから、どうせ近くまで行くのなら、寄ろうかな...、と。

|霰降りいたく風吹き寒き夜や旗野に今夜我が独り寝む
                          作者不詳「万葉集 巻10-2338」


 なので、この日は予定も目白押しでしたし、続く巨勢方面への道筋から外れていたこともあって、つい見送ってしまいまして。...と言いますか出発前から、省略するならここ、と決めてさえいた次第。これがどっこい、個人的にはとんでもなかったんです。

 さて、この旗野。別説では明日香の「畑」という地名のことである、ともされていてごく近くには波多神社というお社もあります。行ったことがないので、聞きかじりになりますが、何でも明日香では最も標高の高い場所のようですね。
 ともあれ、どちらが上記引用の「霰降る〜」に詠まれた旗野なのか、ということは今後しっかりフィールドワークをした上で、自分なりの推論は必ず、立てて見たいと思っています。いや、絶対にそうしたいです。

 正直、この歌を読むと何かが少し、引っ掛かってはいたんですね。...お恥ずかしながら、万葉ファンとは言え、万葉関連の歌を。少なくとも有名な歌や前作で引用させて戴いた歌を、わたしがあれもこれもを完全に頭に叩き込んでいるか、といったそんなことは全然でして...。うろ覚えで
「確かあんな歌あったよな」
 とか、上2句のみ覚えていて後半は思い出せないとか、逆に下2句だけで前半が飛んでいる、などなど。特にパソコンでデータベースに頼り、書籍のページを捲る頻度が落ちてからは加速度的に、忘れかけていく歌が増えていますね、実際。

 そんな胸のもやもやが晴れたのは、前作を加筆訂正している時でした。十市皇女に関しての拙文を読んでいて、気づいてしまったんです。そう、額田王と天武の娘にして、天智の皇子・大友の妻。同時に、実は天武の皇子である高市と恋仲で、壬申の乱の際には夫と愛人の狭間で苦しみ、乱の平定後には30歳という若さで他界。恐らくは自殺であったであろう、とされている薄幸の皇女です。
 さらには、母・額田と比べて地味で歌の才も何と言いますか、かなり厳しいものがあることから、偉大な親のもとに生まれてしまった人並みの子ども同士として、個人的にはとても、とても親近感のある人です。

 その彼女の歌、として唯一見知っていたのが、こちら。

|霰降りいたも風吹き寒き夜や旗野に今夜わがひとり寝む
                            十市皇女 神波多神社伝承


 はい、紛れもなく件の旗野に纏わるものと同じ歌です。「万葉集」は底本によっても表記や、助詞が微妙に違えど同じ歌、という例は数え切れないほどありますから、同じ歌と断定してしまって問題ないでしょう。

 このことに気づいた時は、そりゃあもう悔しかったの、悔しくなかったのと言ったら、我がことながら流石に失笑してしまいましたね。
「やっぱり訪ねておけば良かった。いや、訪ねていながら気づいていなかった方が、もっと何倍も悔しかったに違いない。でも、やっぱり...」
 と半日くらい独りで悶々としていのですから、わたしの万葉熱も相当なものがあるようです。

 十市。少なくとも「万葉集」に詠み手としての彼女は名前はありませんし、採られている、という話は聞いたこともありません。...が、もしかしたら実際には彼女が詠んだ歌が、「万葉集」に採られているのかも知れず。
 もちろん、その逆も考えられます。つまりは神波多神社の伝承が、実は十市ではない詠み手の歌を、それとしているということですね。ですが、詠み手として名前が登場しているのは十市だけなわけで、彼女の作である可能性はかなり濃厚なのではないか...。

 そう独りで、勝手に熱くなってしまっているのですけれども、思い入れ深い十市の名誉に関わる問題ですから、同じく出来損ない娘仲間のわたしが、何とかひと肌脱ぎたく、この2つの歌に関連する神社3ヶ所(波多甕井神社、波多神社、神波多神社)はいつか必ず、訪ねてみようと思っています。
 因みに、波多甕井神社は高取町、波多神社は明日香村、神波多神社は山添村にあり、それぞれ延喜式内社のようです。

 十市の歌としての伝承では伊勢からの帰り道に、神波多神社はあるようですから、地理的には明日香よりずっと北にある山添村の神波多神社より、波多甕井神社や波多神社の方が理に適っているようにも思えますが。


 もちろん、上記3ヶ所全てが空振りで、実は全く別の神波多神社であることも充分に考えられます。件の伊勢行きに関して「万葉集」にある記述は

| 題詞:十市皇女の伊勢神宮に参赴りし時、波多の横山の巌を見て吹黄刀自の作る歌
||川の上のゆつ岩群に草生さず常にもがもな常処女にて
                             吹黄刀自「万葉集 巻1-22」

                ※ 正確には吹黄刀自の「黄」は草冠に欠という字です。

 となり、この波多の横山は三重県一志郡、という説もありますから。

 いずれにせよ、神奈川であれこれ詮もない推測をしていた処で、埒などあくはずもなく、実際に行ってみる以外に手はないでしょう。...そして、こうやって宿題は雪達磨式に溜まっていくわけで、嬉しいやら、少々頭が痛いやら。
 まあ、ゆっくり、のんびりやっていくことにしましょう。別に奈良という土地が、万葉の舞台たちが、今日明日に消えてしまうのではないですから。

 かまけくもゆゝしけれども
 言はまくもあやにかしこし常処女
 まにまにいまし懐かしく
 覚え覚えて来れども
 まさきくなるはいと難き
 息の緒あはれ、
 歌あはれ
 汲みにゆかむや、道知らなくも

 あまつひを宿すがごとく匂ひゑみゑむ山吹よ 
 なほし匂はむ、影らはざらむ         遼川るか
 (於:本日さねさしさがむゆ)


 さて、閑話はお終い。いよいよ巨勢へ出向きます。







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