引用歌でも判る通り、彼女はそれでも越中へ何度か出向いていますが、どうも家持に逢えたようには読み取れません。これは当時の通信技術の所為であるのが一番であり、その裏側にはやはり家持が暮らす住まいへ堂々と訪ねられない何らかの事情が笠女郎になり、2人の関係になりあった、ということでしょう。

 また、その彼女へ家持が返した歌。「万葉集」には、たったの2首しか採られていないのは前述しています。ですが、これを歌数だけで冷淡、笠女郎の片恋、と断定してしまうのは、個人的にはこれっぽちも納得できません。
 彼女の多くの歌は「万葉集」の巻4にきちんと纏められ、「万葉集」全般を通しても、恋歌の圧巻と位置付けられています。そして、そうなるような編纂は、家持本人が、自らの歌を最低限度にまで削り、控えたからこそ、成り立っているとも言えますし、その裏側には正妻・大嬢に対してあくまで側室...、という言葉も適当かは不明ですが、ともあれ笠女郎と中途半端な関係だけしか結べなかった、彼の悔悟と贖罪が見え隠れしているように、私は思っています。
 余談が長くなりましたが、2人の数少ない相聞歌です。

|近くあれば見ねどもあるをいや遠く君がいまさば有りかつましじ
                          笠女郎「万葉集 巻4-610」
|なかなかに黙もあらましを何すとか相見そめけむ遂げざらまくに
                          大伴家持「万葉集 巻4-612」


 「近くに暮らしていたから、逢えなくても我慢できました。でも、あなたが一層遠くなってしまったので、もう耐えられそうにありません」
「こんな中途半端なことになるのなら、声を掛けなければ良かった。自分は一体、どういうつもりで逢い始めてしまったんだろう。想いを遂げることなど出来よう筈もないことは判っていたのに」

 これは、全てが終わった後、笠女郎が恐らくは傷心のうちに帰った故郷である吉備から家持へ贈り、そして彼が返した歌であろう、と思われます。家持が女性へ贈った歌は数多ありますが、私が知る範囲で恋の苦しみを詠んだものはあれど、そもそもの関係に対する後悔をここまで切々と詠んだものは、他に覚えがありません。
 ...そういう意味からも、笠女郎が「隠れ妻」だった、という説はあながち当たらずとも遠からず、なのかも知れませんね。

 独りなば 為出づるなどは
 あらざらむ なれどもこにて
 おのらとふ こも/゙\ならば
 こそ叶へ 色もあはれも
 こと/\は 遂げらゆるをも
 遂げ得ぬも 時のまに/\
 統べらゆるを 見初め見初めて
 おこりゆく 恋草といふ
 言の葉の 意するは心
 潰えゆくも たゞ岩崩の
 悔ゆとても 忍ぶあはひは
 うつしのみ 恋の端より
 世付きては なまごゝろこそ
 至らゆれ 片恋ひ焦がれ
 語らひて こゝろ寄せては
 惑はゆるも いづれ恋止み
 絶え間来ぬ 流れ流れて
 思ひ川 さても残りし
 宜ひも 冥加さへをも
 あり/\て なべて容れむや
 偽らず 齢幾つに
 なりゐるも 宿し孕みて
 清かなる まことし映す
 恋渡る胸

 息の緒に幾十許とて折り返しては
 織衣の寶ともなる覚悟が数珠な    遼川るか
 (於:本日さねさしさがむゆ)


 「万葉集 巻4」。所謂、相聞歌の巻とされていて、特に家持に贈られた様々な女性の歌が収められています。前述以外にも山口女王、大神郎女、中臣郎女、粟田女娘子、河内百枝娘子などなど。1人の男性を軸に、様々な女性たちが訴えた心のカタチは、まるで実際版の「源氏物語」ようです。余談になりますが、個人的には光源氏のモデルは在原業平より、中臣宅守より、家持のイメージが強い私です。
 「万葉集」は巻ごとに、それぞれの特徴ある編集がされてきました。ここで少し纏めてみます。

巻01: 主に雜歌。各天皇の時代毎に整理されている。額田、人麻呂などの歌多し。
巻02: 同じく天皇の時代毎、時代順に纏められている。雜歌の他に人麻呂の挽歌
   も多く収められている。
巻03: 雜歌、挽歌、譬喩歌のみ。
巻04: 相聞歌のみ。家持と女性たちのやり取りが主。
巻05: 雜歌のみ。家持の父・旅人や山上憶良など筑紫歌壇に関連する歌多し。
巻06: 雑歌のみ。吉野やその他への行幸に纏わる歌が多く、笠金村や山部赤人が
   主たる歌人。
巻07: 「人麻呂歌集」からの歌多し。作者不詳が主。雜歌、挽歌、譬喩歌のみ。
巻08: 後の21代集と一部同様に、四季ごとに歌を分類。但し、21代集は四季とは
   別枠で恋哥や雜哥があるのに対し、こちらは雜歌も相聞歌も四季で区分。
巻09: ほぼ年代順に、雜歌、挽歌、相聞歌を編纂。
巻10: 巻8同様に、雜歌、相聞歌を四季で区分。七夕に纏わる歌が132首あり。
巻11: 「人麻呂歌集」から採られた歌多し。旋頭歌、寄物陳思、問答歌、正述心緒、
   譬喩歌などから成る。殆どが作者不詳歌。巻12と姉妹篇。
巻12: 巻11との姉妹篇。殆どが作者不詳歌。巻11の旋頭歌と譬喩歌の代りに羈
   旅発思と悲別歌が加えられている。
巻13: 「人麻呂歌集」から採られた歌あり。長歌と反歌という組み合わせ多し。
巻14: 東歌の巻。陸奥、下総、常陸、上総、武蔵、相模、伊豆、駿河、遠江、信濃、など
   の国に纏わる歌のみ。
巻15: 新羅へ派遣された人々の歌と、狭野茅上娘子と中臣宅守の1大贈答歌、と
   いう2本柱で成立。あまり、きちんとは整理されていない。
巻16: 何らかの謂われがある歌のみ。諸国の民謡や芸謡に纏わる伝説歌や、古
   代の男女の係恋歌、同じく男女の戯笑歌などで成立。
巻17: 巻20までの「家持歌日記」が始まる巻。年代順。
巻18: 家持の越中時代の歌が主。細かな分類はされていない。
巻19: 2/3は家持御製歌。孝謙天皇時代の歌が中心。
巻20: 防人の歌多し。家持の歌にて締め括られている。


 どうしても「万葉集」というと、一般に額田や人麻呂、憶良の印象が強かったり、国語の教科書の影響からか、白鳳時代の歴史との相乗効果的な読まれ方も多くあるようですが、純粋な歌集としてみた場合、個人的には巻4、11、12、15、16あたりは、積極的にお奨めしたいです。


           −・−・−・−・−・−・−・−・−

 お話を家持へ戻しまして、彼の越中時代です。当時の越中は国防や経済の要衝と言っても過言ではなかったと思います。大仏発願とそれに付随する東大寺建造に不可欠な財源ともなる新田開拓と、日本海を挟んで向かい合う大陸各国、さらには、奈良期の律令国家体制下に完全には組み込まれていなかった陸奥や出羽という隣国との関係。
 それらを一手に引き受ける越中守という官職は、当時20代も終わりに差し掛かっていた家持にとっては、まさに栄転でした。天平18年(746年)七夕の日、左大臣・橘諸兄の新任を受け、彼は平城を後にしています。

 歌としての側面では、この越中時代最大の特徴が「越中歌巻」。これは、家持の父親・旅人が山上憶良などと織り上げた筑紫歌壇の「大宰府歌巻」と相対するかのように、彼より先に越中へ赴任していた大伴池主との歌の贈答や書簡のやり取りを通じて、互いに競い合うかのごとく個々の文芸を磨いていった軌跡です。
 ただ、大宰府のそれと大きく異なるのは、ベースになっているのが大宰府歌巻は中国思想で、漢詩の影響も色濃いのに対し、越中歌巻はあくまでも倭思想を主としている点でしょう。
 また、それらの歌によって、今なお歌枕として残る土地も多くあります。布勢水海、奈呉、渋谿、二上山(奈良・大阪県境のものとは別です)。

|もののふの 八十伴の男の
|思ふどち 心遣らむと
|馬並めて うちくちぶりの
|白波の 荒礒に寄する
|渋谿の 崎た廻り
|松田江の 長浜過ぎて
|宇奈比川 清き瀬ごとに
|鵜川立ち か行きかく行き
|見つれども そこも飽かにと
|布勢の海に 舟浮け据ゑて
|沖辺漕ぎ 辺に漕ぎ見れば
|渚には あぢ群騒き
|島廻には 木末花咲き
|ここばくも 見のさやけきか
|玉櫛笥 二上山に
|延ふ蔦の 行きは別れず
|あり通ひ いや年のはに
|思ふどち かくし遊ばむ
|今も見るごと
                         大伴家持「万葉集 巻17-3991」
|布勢の海の沖つ白波あり通ひいや年のはに見つつ偲はむ
                         大伴家持「万葉集 巻17-3992」
|藤波は 咲きて散りにき
|卯の花は 今ぞ盛りと
|あしひきの 山にも野にも
|霍公鳥 鳴きし響めば
|うち靡く 心もしのに
|そこをしも うら恋しみと
|思ふどち 馬打ち群れて
|携はり 出で立ち見れば
|射水川 港の渚鳥
|朝なぎに 潟にあさりし
|潮満てば 夫呼び交す
|羨しきに 見つつ過ぎ行き
|渋谿の 荒礒の崎に
|沖つ波 寄せ来る玉藻
|片縒りに 蘰に作り
|妹がため 手に巻き持ちて
|うらぐはし 布勢の水海に
|海人船に ま楫掻い貫き
|白栲の 袖振り返し
|あどもひて 我が漕ぎ行けば
|乎布の崎 花散りまがひ
|渚には 葦鴨騒き
|さざれ波 立ちても居ても
|漕ぎ廻り 見れども飽かず
|秋さらば 黄葉の時に
|春さらば 花の盛りに
|かもかくも 君がまにまと
|かくしこそ 見も明らめめ
|絶ゆる日あらめや
                         大伴池主「万葉集 巻17-3993」
|白波の寄せ来る玉藻世の間も継ぎて見に来む清き浜びを
                        大伴池主「万葉集 巻17-3994」



 けれども翌天平19年(747年)には、池主が越前へ転任。続く天平20年には、聖武の後見役であった元正太上天皇(草壁の娘・氷高皇女)が他界し、家持も創作意欲が萎えてしまったのかも知れません。歌日記はしばしの沈黙を守ります。
 やがて、再び溢れ出した彼の創作衝動は、それまでの叙情的側面とはやや異なり、大伴と言う武門に生まれた男子として、天皇である聖武への赤心を謳い上げたものも多く、既に30代に突入していた彼が、官人として位を登り詰めていく様とも、何処か呼応している気がします。
 というのも、家持が沈黙から醒めるきっかけとなったのが、大仏造営への財源として陸奥国で金鉱脈が発見され、それに関する詔の中で聖武が大伴氏や、佐伯氏の忠節を称賛したことによるからです。

|葦原の 瑞穂の国を
|天下り 知らしめしける
|すめろきの 神の命の
|御代重ね 天の日継と
|知らし来る 君の御代御代
|敷きませる 四方の国には
|山川を 広み厚みと
|奉る 御調宝は
|数へえず 尽くしもかねつ
|しかれども 我が大君の
|諸人を 誘ひたまひ
|よきことを 始めたまひて
|金かも たしけくあらむと
|思ほして 下悩ますに
|鶏が鳴く 東の国の
|陸奥の 小田なる山に
|黄金ありと 申したまへれ
|御心を 明らめたまひ
|天地の 神相うづなひ
|すめろきの 御霊助けて
|遠き代に かかりしことを
|我が御代に 顕はしてあれば
|食す国は 栄えむものと
|神ながら 思ほしめして
|もののふの 八十伴の緒を
|まつろへの 向けのまにまに
|老人も 女童も
|しが願ふ 心足らひに
|撫でたまひ 治めたまへば
|ここをしも あやに貴み
|嬉しけく いよよ思ひて
|大伴の 遠つ神祖の
|その名をば 大久米主と
|負ひ持ちて 仕へし官
|海行かば 水漬く屍
|山行かば 草生す屍
|大君の 辺にこそ死なめ
|かへり見は せじと言立て
|大夫の 清きその名を
|いにしへよ 今のをつづに
|流さへる 祖の子どもぞ
|大伴と 佐伯の氏は
|人の祖の 立つる言立て
|人の子は 祖の名絶たず
|大君に まつろふものと
|言ひ継げる 言の官ぞ
|梓弓 手に取り持ちて
|剣大刀 腰に取り佩き
|朝守り 夕の守りに
|大君の 御門の守り
|我れをおきて 人はあらじと
|いや立て 思ひし増さる
|大君の 御言のさきの
|聞けば貴み
                        大伴家持「万葉集 巻18-4094」


 ...が、同年(748年)7月。その聖武が病に倒れ、遂に阿倍内親王へ譲位。いよいよ藤原仲麻呂が跋扈した孝謙朝が開かれます。仲麻呂の権勢は、もはや左大臣・橘諸兄を凌駕するほどで、家持自身も心中穏やかならぬ状態だったのではないか、と思われますが...。

 越中で6年ほど過ごした天平勝宝3年(751)7月。家持は少納言に遷任され、平城へ戻ります。少納言という役職は太政官に属すものと侍従の役も兼ねていて、時には朝廷の機密にも関わる要職でした。けれども、この当時の政治的実権は、光明皇太后と仲麻呂の手中にあり、同時に天皇である孝謙本人が平城を留守にしていたことが多かった点からするに、少納言・家持が何処まで実際の政治に携われたのかは、甚だ疑問です。予てよりの大仏造営の実権も、仲麻呂が執り仕切っていました。

 そして迎えた歴史的な1日。天平勝宝4年(752年)4月9日、遂に大仏開眼供養会が挙行。けれどもこの式典に出席していた筈の家持の歌日記は、何故か沈黙しています。さらには、これを境に続くきな臭い政変や、家持本人が心を寄せていた聖武、諸兄らの他界、などにより彼本人も不遇の時代を甘受するようになっていきます。

 歴史的な流れから少し外れますが、翌天平勝宝5年(753年)。この年は赤染衛門が記し、平安・藤原道長を軸にした歴史書「栄花物語」の月宴の巻に

|昔高野の女帝の御代天平勝宝五年には、左大臣橘卿諸卿大夫等集りて、
|万葉集を撰ばせ給ふ
                        赤染衛門「栄花物語 月宴の巻」


 とあります。ちょうど「万葉集」の巻19がこの時期に相当し、つまりはもし「万葉集」が巻19で終わっていたならば、この赤染衛門の記述が、何よりもの立証となって、「万葉集」編纂の中心人物は橘諸兄、と後世で信じられるようになっていたのかも知れません。
 ...が「万葉集」には、この年以降に詠まれた歌も、ちゃんと収められています。なので少なくとも
「橘卿が撰の家持卿の継ぎて撰りしならむ」
 とまでは言えてしまうでしょう。また、同様に「古今和歌集」の仮名序には

|これよりさきの歌を集めてなむ、万葉集と名づけられたりける。
| (中略)
|かの御時よりこの方、年は百年あまり、世は十継になむ、なりにける。
                             「古今和歌集 仮名序」


 ともあります。が、これですと「万葉集」が編纂されたのは古今より100年、天皇の時代だと10代前、と明記されていて、それでは平城天皇(第51代、聖武・孝謙・淳仁・称徳・桓武の次。平安期2人目の天皇です)の時代となってしまう為に事実上、「古今和歌集 仮名序」の説は信憑性がかなり希薄な気が個人的にはしてしまっています。

 萬なる 言の葉編みて
 萬なる 謎残したる
 歌草紙 いづくゆいつゆ
 たれをかゆ なにを期しては
 集はせり さても映えては
 咲き競ふ おのがむき/\
 をりふしの 心際とふ
 玉鬘 玉纏、玉衣
 玉簾 玉琴、玉敷き
 玉釧 玉水 玉裳
 玉主が 魂振るごとく
 魂結び 招き依らせる
 言霊に 魂を預ける
 たまゆらへ 降りたる調べ
 五七なる 八雲彌栄
 なほ紐解かむ

 萬なる言葉の花は萬なる思ひがゆゑにこそ魅せらゆれ   遼川るか
 (於:本日さねさしさがむゆ)


 因みに件の巻19。その末尾を飾る歌が有名な家持の春愁3首。もしかしたら、「万葉集」そのものの掉尾を飾っていたのかも知れず、けれども同時に、虚無とも言える家持の胸中を深く深く映している連作です。

|春の野に霞たなびきうら悲しこの夕影に鴬鳴くも
                         大伴家持「万葉集 巻19-4290」
|我が宿のい笹群竹吹く風の音のかそけきこの夕かも
                         大伴家持「万葉集 巻19-4291」
|うらうらに照れる春日にひばり上がり心悲しも独し思へば
                         大伴家持「万葉集 巻19-4292」


            −・−・−・−・−・−・−・−・−

 天平勝宝6年(754年)、家持は少納言から兵部少輔に転任。読んで字の如く兵事に関わる役職です。実際、翌年には東国防人の検校の仕事で、彼は難波に赴いています。当時、東国より徴集された防人は、難波から筑紫へと派遣されていたんですね。
 そして同時に、そこで出会った数多の詠み手の歌に、何かを感じたのでしょう。そういう歌を収集。「万葉集」巻20にある100首にも及ぶ、防人歌です。また、彼自身も防人の心になりきる1種の代作として長歌や短歌を詠んでいます。

 同じく天平勝宝8年(756年)、予てより病状が悪化していた聖武がついに他界します。これに前後して、孝謙朝に於ける皇太子問題が取り沙汰され、これこそが続く政局不安のきっかけとなり、同時に最大の焦点ともなっていきます。
 翌天平宝字元年(757年)、まるで聖武の後を追うように橘諸兄が他界します。元々、彼は皇族でした。天武と大江皇女との間に生まれた子供に弓削皇子と長皇子がいますが、この長皇子の子供・栗栖王から見て孫、栗栖王の子供・美努王の息子です。また母親はのちに藤原不比等の妻となった橘三千代で、臣籍に降りる前の名は葛城王。藤原4兄弟が天然痘で次々と倒れていく中、その空白を埋めるように政権の座につきました。家持を取り上げたのも諸兄です。
 彼自身は、すでに書いた通り、恭仁京遷都や大仏造営などの陣頭指揮をとっていたものの、後ろ盾だった元正上皇や、聖武の譲位により致仕、という形で政治の表舞台から降りざるを得ませんでした。
 そんな諸兄の子供が奈良麻呂で、この奈良麻呂が、件の皇太子問題に関連して遂に動き出すのです。


 聖武も諸兄も亡き後、目の上の瘤とも言えた2人が居なくなったことからか、藤原仲麻呂は、孝謙天皇の寵愛をもってして、皇太子問題もそれまでの道祖王を廃太子するようしむけました。そして、大炊王(後の淳仁天皇)の立太子決定。
 この頃から奈良麻呂は、予てより画策していた謀反計画の決行の為に、同志との会合を重ねるなど活発に行動しています。仲麻呂を亡き者とし、大炊王を廃太子。さらには孝謙天皇をも廃す計画でした。余談ですが、この同志の1人には家持の親友であった大伴池主も含まれていました。
 ...が、謀反は結局、密告により失敗。天平宝字元年(757年)のことです。そして奈良麻呂や池主らは獄死します。後に言う「橘奈良麻呂の変」です。けれども、連座していても奇怪しくなかった家持は、謀反には加わりませんでした。仲麻呂の専横に苦悩しつつも自制と自重を重ねていたのでしょう。そんな彼の心情が表れている、と思われる歌があります。

|咲く花は移ろふ時ありあしひきの山菅の根し長くはありけり
                         大伴家持「万葉集 巻20-4484」


 「咲いた花は必ず散る時がある。でも山菅の根は変わらずに長くあることだ」

 時代の寵児となっていた仲麻呂に対する、彼なりの本音なのかも知れません。何故なら、この歌に続いて「万葉集」に収められているのは、謀反を制圧した仲麻呂一派の歓喜の歌だからです。







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